2008年10月6日(月曜日)
今日は月初めの月曜日、作協の理事会の日だ。理事会は14時からなのだが、理事会の前にシナリオ会館委員会が開かれるので13時にシナリオ会館に行く。
出席者はシナリオ会館委員の白鳥あかねさん、西田直子さん、総務委員会の丸内敏治さん。事務局の担当である中村さんの手際良い進行で議題の審議を時間内で終える。
14時から理事会。賑やかな論客たちが欠席で、個人的には少し寂しい感があった。
理事会終了後、合同常務総務委員会。
事務局の久松さんに、この日記の執筆者紹介で使用する写真を、先週の土曜日(10/4)から公開が始まった映画「三本木農業高校、馬術部」のポスター写真にして欲しいとお願いする。この映画には「協力プロデューサー」として撮影途中から仕上げまでの現場だけを担当させて頂いた。実在の農業高校を舞台に青森の四季を丁寧に撮影した佐々部清監督らしい映画です。ぜひ観て下さい。
すべてが終わった時には17時を回っていた。空腹に耐えられずに近くのソバ屋で遅い昼食。19時半から飲み会の予定があるから、軽くソバでもと思って入ったが、気がついたらカツ丼を頼んでいた。出来上がるまでの間に携帯でPCのメールのチェック。ふと思い出して、作協のブログのページを開き、荒井晴彦さんの最終回を読む。終りの文章、これは荒井さん流のアジテーションで、あの原作にまつわることを書けってことかと邪推する。
荒井さん、実は今日の日記、回想で始めようかと思って、一度は書いたんですけど、やっぱり消しました。逃がした魚はデカいけど、その顛末はまたの機会にしましょうよ。昔、「イメージフォーラム」でやった「幻の企画」みたいな特集を「映画芸術」で組んだ時にでも。でも、本当に残念でした。力不足でごめんなさい。でも、どんなに口惜しくても「鳥立ち」のカウンターで泣くことはないけど。荒井さんのホンを瀧本がどう撮るか、見たかったなあ
嫌なことを思い出した。いくら赤坂でもカツ丼が1250円はないだろうと値段に八つ当たり。
19時半から渋谷「T」にて飲み会。湯布院映画祭のYさんが上京しているのでYさんを囲む会だ。
湯布院映画祭には「光の雨」「ヴァイブレータ」「樹の海」の三本の映画で参加した。日本映画が大好きな連中が集まり、33年もの長きに渡って続けているのはすごいことだ。「光の雨」の時だった。湯布院に出品すると、東京国際映画祭の100万円貰える小さな賞(「ニッポンシネマナウ」という枠で上映する日本映画を対象とする賞だったが今はない。何という賞名だったかも忘れた)の対象から外れると言われた。世界で最初に東京国際のスクリーンで上映されることが条件だというのだ。相手は大分の映画ファンたちがボランティアでやっている映画祭なのに、なぜ、そんな下らないメンツに拘るのか?呆れて腹が立った。だから東京国際の100万円なんかいらないからと湯布院に出品した。
湯布院ではいつもYさんたち実行委員のメンバーに温かいもてなしを受ける、だから上京した時にはお返しをと思っている。二日前に上京したYさんがすでに荒井さんや白鳥さんたちには会ったと聞いていたので、この二日間にYさんが会っていない人たちに声をかけた。だが、急な誘いだけになかなかメンバーが集まらない。過去に映画祭に参加した知人で出席を確約してくれていたのはたったの三人。先輩プロデューサーのMさん、ビデオメーカーのNプロデューサー、編集者のKさん。いささか寂しい陣容でスタート。20時頃、先輩ライターのKさんが来てくれて嬉しい誤算。主賓のYさんも東京在住の実行委員のY君を伴い登場。21時過ぎ、またまた嬉しい誤算。評論家のNさんに続き、監督協会の広報委員会帰りのOさん、Yさん、Tさんの監督たちが駆け付けてくれた。
何とか格好がついた!みなさん、どうもありがとう!にわか幹事の面目が立ちました。
以後はひたすら映画の話、まるで湯布院の亀の井別荘のスタッフ部屋のように夜は更けた。
2008年10月7日(火曜日)
アマゾンから注文していた本が届く。
『Pictures from the Surface of the
Earth』と『群集のまち』、二冊とも写真集だ。
前者は洋書で映画監督のヴィム・ヴェンダースがロケハンの合間に撮影した風景写真をまとめたものだ。後者は太田順一さんという写真家が大阪24区を隈なく歩き撮影した写真集で、日中なのに人影が全く写っていない、だが人の気配が濃密に感じられる風景を写し取っている。
写真は見るのも撮るのも好きだ。「月刊シナリオ」を全部読むことはないけれど、毎月購入する「アサヒカメラ」と「日本カメラ」は隅から隅まで読む。この二冊の写真集も「アサヒカメラ」の「旅と写真」という特集ページで紹介されていて買ったのだ。
良い写真は見ていて飽きることがない。
十年以上前に渋谷のパルコギャラリーで『かつてOnce
Time』という題のヴェンダースの写真展があった。荒野に放置されたドライブインシアターのスクリーンや廃車の屋根に乗ったコヨーテなど、ヴェンダースが撮りためたスナップ写真が展示されている中に、一枚の人物スナップがあった。木立に囲まれた水辺に二人の男が写っている。ひとりは髭面眼鏡の大男で水の中に首まで浸かっている。もうひとりは背広姿の東洋人で岸辺に置いたディレクターズチェアに座り大男を見ている――髭面眼鏡の男はフランシス・F・コッポラで、東洋人は黒澤明だった。コッポラのさまは『地獄の黙示録』のカーツ大佐そのもので、サングラスを掛けた黒澤は「俺が世界のクロサワだ」という威厳に満ちていた。勿論、ヴェンダースが演出して撮った写真だろうが、写し出されている二人のオーラに眼が釘付けになった。この写真展の写真は『かつてOnce
Time』という同名の写真集として出版された。だが、どういう訳か、この黒澤とコッポラの写真は掲載されていない(肖像権の問題だろうか?)。機会があったらもう一度、見たいと願っている。映画監督のヴェンタースよりも写真家としてのヴェンダースの方が好きかもしれない。
趣味の写真から企画が産まれたことが一度だけあった。高橋伴明監督の『愛の新世界』だ。その頃、写真に夢中のあまり荒木経惟さんと仕事をしたいとミーハー的に思っていた。そしてたまたま書店で見かけた本が『愛の新世界』という題の本だった。風俗ライターの島本慶さんが取材した風俗嬢たちのインタビューにアラーキーが撮り下ろした写真がついた本だった。写真も良かったが、インタビューが面白かった。このインタビューをドラマ仕立てにして、アラーキーの撮った主役の女優のヌード写真を劇中にインサートする≠サんな構想が浮かんで、これは映画になると思った。付き合いのあった製作会社の社長に企画を提案した。「青島君、売りは何?」「はい、日本で最初のヘアヌード映画です!」勢いでそう答えていた。その当時、フランス映画の『美しき争い女』に映っていたヘアに、映倫が芸術映画だからとボカシを入れなかったことが話題になっていた。「大丈夫かね?」「フランスの映画は芸術だから認めて、日本映画は認めないって、そんなのはアンフェアですよ」「認めなかったら、それはそれで宣伝になるな」そんな風に企画はトントン拍子に進んだ。だが、あることがあって、僕はスタッフから外れた。映画は知り合いの先輩プロデューサーが作り、劇中の劇団にまだ無名の大人計画を起用し、オーディションで発掘した鈴木砂羽さんはその年の新人賞を総なめにした。映画は東映の試写室で観た。
僕がやっていたら、こんな面白い映画にならなかった≠ニ素直に脱帽した。そして悔しかった。つまらない意地を張り、スタッフから外れたことを心底悔やんだ。
それから一年ほどして、伴明監督から新聞記事のファックスが届いた。東京新聞の『映画監督・自作を歩く』というリレー連載の中で伴明さんは『愛の新世界』の企画の成り立ちに触れていた。「青島が持ってきたトンデモない企画」という表現で軽妙に企画の発案が僕であったことを書いてくれていた。出来上がった映画のどこにも僕の名前はないけれど、記事の中に書き残してくれた伴明さんの配慮が嬉しかった。ちなみに『愛の新世界』の『新世界』は大阪の『新世界』を指しているそうです。大阪の『新世界』の町のように『愛』が『ゴッタ煮』状態にあるって意味だと、原作者が言っていました。
このブログはシナリオライター志望の人たちのために連載されている。自分の思い出話を勝手に書いておいて、こじつけのようだけど、どんなモノからも映画やドラマの企画は産まれます。自分が好きなこと、得意なこと、よく知っている世界のこと、そんなことの中にきっと企画(題材といってもいい)のネタは転がっています。
と強引にまとめたところで今日の分は終わります。
実は月曜日の日記を書くのにずいぶん手間が掛ったので、あっという間に夕方でした。
夜、大きなニュースが三つあったことを知る。
訃報と引退と受賞――。
お悔やみと労いとお祝いを申し上げます。
2008年10月8日(水曜日)
電車の中で西村賢太さんの『二度はゆけぬ町の地図』を読む。短編四本の作品集。目的地に着くまでに読み終わらず、そのまま続きを読みたくて駅付近の喫茶店に入って読了。今時、この種のグズグズでダメで暗くて矮小で卑屈な私小説を書く作家はいない。だから気になる作家のひとりだ。救いようのない卑屈な主人公を読む、そしてわが身の中にも存在する卑屈さとダメさを思う。
「今時、おらんやろ。こんなの書く奴」、そう言って、西村賢太さんのデビュー作『どうで死ぬ身の一踊り』を薦めてくれたのは師匠と仰ぐ脚本家のNさんだ。
14時にシナリオ会館。今日は組織強化委員会で協会の新しいホームページについての検討会だ。出席したのは、真辺克彦さん、亜古さん、瀬尾みつるさん。事務局できちんとプランを作ってくれていたので、それに沿って意見を交換。シナリオ作家協会らしいホームページって何だろう?やっぱり会員の書くコラムやエッセイだろうとなる。協会員のみなさん、いずれ原稿依頼が行くかと思いますが、宜しくお願いします。
協会帰りに寄った本屋で、西村さんの『小銭をかぞえる』を見つけて買う。
先月末にこっちが先に出ていたのだ。二週間の間に続けて刊行、この印税も酒と女に消えて、またその顛末が小説になるのだろうか?私小説家って、怖ろしいなあ。
もう一冊は遠藤ユウキさんの『ビジュアル図解 東京の「痕跡」』。東京に残る様々な痕跡をガイドした本だ。暇な時にこういう本をパラパラと見るのが好きだ。
西武新宿線が新宿駅に乗り入れる計画があって、その「新宿本駅」はマイシティの2Fにホームが出来る予定で、いまでもその痕跡が残っているって知っていました?
18時。セリーグの優勝を掛けた大一番を前に、大阪の友人からメール。
「悪い予感がする……もしも、もしも負けても、僕らはタイガースを愛している」
その一途な思いにちょっと胸が熱くなる。
21時半。試合終了。結果は書かない……。
そういえばNさんも熱狂的な虎キチだ。Nさん、あと三試合です。ここまで来たら、『どうで死ぬ身の一踊り』!
またまたノーベル賞。明日、村上春樹が文学賞でも獲ったら、笑っちゃうなと思いながら眠りにつく。
2008年10月9日(木曜日)
株安と円高。この二、三日とんでもないことになっている。これはちょっと総選挙どころではない、小沢さん、また戦略外れちゃったかも。前から小沢一郎さんが好きだ。あの大批判を浴びたブチ切れ代表辞任会見でますます好きになった。ああいう不遜な大人がいなくなった。
セコイ経済の話で恐縮だけど、何を『勿体ない』と考えるか?僕が『勿体ない』と思うのは、レンタルビデオの延滞金と見ないで返却することだ。今日返却予定のDVDが三本。そのうちの二本をまだ見ていない。だから午前中からDVDを見る。二本とも公開時に見逃していた日本映画だ。
一本は三木聡さん脚本監督の『転々』。「日曜の最終バスの絶妙な淋しさ」ってところが良かった。
もう一本はベストセラー小説の映画化作品。題名は秘す。原作になかった若い女が出て来て、主人公の男とのラブストーリーが加えられていた。
多分、プロデューサーが要望した興行的な配慮って奴だろう。元々テンコ盛りの話に余計なモノを加えたから群像劇が停滞して弾まない。でもヒットしたんだから、配慮は正解なんだろう……。
休憩を挟んで二本見たら、もう夕方だ。仕事場の窓を何だか空しい夕陽が染める。そういえば『転々』に出てきた夕陽も淋しかった。
19時からサッカー日本代表戦。贔屓のチーム、清水エスパルスの岡崎慎二が代表初選出初先発だ。
清水の隣町の静岡市に生まれ育った。平成の大合併でいまでは清水も静岡市清水区になってしまった。清水市という地名がなくなって寂しい。清水は本当にいい町だ。
人口24万の小さな港町。市民の誰もがサッカーを愛している。
Jリーグの黎明期までは日本代表の半分は清水出身者だった。町のスーパーで「今日の代表の試合、あんたっちの子、出るだか?」「判んねえだけん、望月さんちの下の子も選ばれただよ」という静岡弁の会話が普通に飛び交っていた。
大袈裟ではなく清水市民の誰もが親戚縁者か知人の子供に日本代表がいたのだ。なぜ清水がサッカーの町になったか?たまに聞かれることがある。理由のひとつに挙げられるのが、夜間照明灯である。昭和40年代に藤枝市を超えるサッカーの町を作ろうと考えた人たちが市内のすべての小中学校に夜間照明灯をつけた。
そして夜でも自由にグランドを使ってサッカーをしようと呼び掛けた。
仕事帰りのお父さんたちは職場のサッカーチームで、お母さんたちはバレーの代わりにママさんサッカーチームで、子供たちは通っている学校のチームで、みんながサッカーを始めたのだ。映画『フィールドオブドリームス』のコーン畑の野球場のように、『作れば、それはやってくる』となった。
興梠、香川ら若手躍動。大久保と岡崎に代えて巻と佐藤の投入、ワクワクしない選手交代をする岡田監督がよく判らない。もし岡田さんが映画監督だったら一緒に仕事をしたいと思わない。
『作れば、それはやってくる』
確かに最近の一部の日本映画は興行的な数字の上では元気だ。でも、やってきているのは一体何だろう?コーン畑を食い尽すイナゴを呼んではいないか?
――と自戒を込めて思う。
22時、渋谷のツタヤのポストにDVDを返却。長いエスカレーターを降りながら、今日は誰とも口をきいていないことに気づいた。
2008年10月10日(金曜日)
昔は体育の日。
バナナダイエットの影響でバナナ高騰。日本映画を観ると痩せる≠ニ誰かがテレビで言ったらすべての日本映画は満員御礼になるだろうか?とバカなことを考えながら、下書きしておいた日記を直して事務局に送信。
13時、某製作会社。今年の三月まで八か月掛けてシナリオを書いた映画の打合せ。議題はシナリオではなくキャスティングのこと。来年撮影出来るように、シナリオだけではなく、微力ながらプロデューサーとしても手伝えることはするつもりだ。
帰路、同席したUプロデューサーと別件のホンの話。こちらは『準備稿』で現在出資営業中。
こういう映画にしたい≠サの思いは統一出来ているから心配はない。敏腕プロデューサーのUさんに期待。こちらも手伝えることがあったら、プロデューサーとしても汗をかくつもりだ。
3月末で契約していたプロダクションを離れてから、久しぶりにフリーになった。
ライターやプロデューサーとして、自分に出来る形で関わっていこうと思う。
16時、仕事場にしている某所に戻る。まだシナリオを発注された訳ではないが、友人のT監督から打診されている原作のことを考える。大変難しい原作。こんな風にぼんやりとあれこれ考えている時が一番楽しい。だが、勿論、お金にはならない。
20時、六本木。古くからの友人のKプロデューサーと会う。Kさんとはもう20年を越える付き合いだ。同じ歳で同じ静岡県出身、同じ映画学校を出て、同じように製作進行から現場を始めてプロデューサーになった。このところの彼が手掛ける作品は素晴らしい。製作中の作品も次回作も期待大だ。
同業者としてではなく友人として、深夜まで話は尽きない。
六本木の交差点でKさんと別れる。30代の8年間、六本木にある製作会社に勤めていた。助手の時代から映画の仕事ばかりしていた僕は、その会社でテレビドラマとは何かをみっちりと叩き込まれた。
六本木のネオンもずいぶんと変わった。もう知っているバーなんか一軒もない。
2008年10月11日(土曜日)
深酒した翌日。
何もする気が起きない。何とか金曜日の日記を書いて送信。
Mさんが自殺したとの速報。どんな心情の変化があったのだろう……ぼんやりとした頭で思う。
本当に何もなかった一日。
2008年10月12日(日曜日)
昨日何もしなかった罪悪感もあって、週末にUプロデューサーから感想を聞かせて欲しいと預かった小説をひたすら読む。
途中、読書に飽きてDVDを観る。
べルナルド・ベルドリッチ監督の『ラストエンペラー(ディレクターズカット版)』。
20年前の公開時に観たが、6月に219分のディレクターズカット版がDVDで出た。5月から書いている日中合作ドラマの参考に再見しようと買っておいたのだが、書いている最中は忙しくて観る機会がなかった。中国の清王朝を舞台にしたベストセラー小説のドラマ化で、全25話の前半を先輩のNさんが書き、16話以降を僕が担当している。現在は中国側からの意見の調整中で待機状態だ。
まあ、合作モノにはよくあることだ
書いているのはラストエンペラー溥儀の前皇帝までの物語だから、作品自体はあまり参考にはならない。強いて言えば、前半の溥儀の幼少時代、宮中生活の雰囲気が少し参考になる。本物の紫禁城でロケした画作りが素晴らしい。
DVD化にあたり、デジタルリマスターした原版だから綺麗だ。だが、ラストの壷から生きていた蟋蟀が出て来る有名なカットの後で「?!」となる。時代が飛び、観光地になった太和殿内にガイドに案内された観光客が入ってくるのだが、カメラが移動しているカットで、画面上部にネガ傷のような光が走ったように見えたのだ。
観終わった後でDVDのコマを停めて確認した。4コマだけ横筋のような光。
反射した光の筋のようだ、でも手前の柱と奥の壁の上に立体的ではなく平面状に一直線に走っているようにも見える。普通、撮影部はこういう不用意な光の反射に神経質で執拗に嫌う。でも、傷ならばデジタルリマスター版で修正しない訳がない。やっぱり、制御仕切れなかった光の反射だろう。
なぜ、この傷のような光が気になったのか?僕には一瞬、雷光が走ったように見えたのだ。この不用意な光の反射を、ベルドリッチもラッシュで見たはずだ。
編集試写を繰り返すたびに見た光の反射に彼は何かを思っただろうか?
アクシデントと悔やんだのか、それとも――。
傷≠フことをぼんやりと考えていたら、あるヒントが浮かんだ。再開したら試してみよう。でも、きっと、絶対に、やっぱり、どう考えたって、愚案だろう……でも参考試写した甲斐はあった。
これで僕の日記は終ります。一週間、どうもありがとうございました。
明日からは黒沢久子さんが担当します。この人選は事務局がしています。
だから、荒井晴彦さんが僕を指名した訳でもなく、僕が黒沢さんを指名した訳でもありません。
先日、新宿でバッタリと黒沢さんにお会いしました。
「次の人を紹介する文章書きたくないンだけど」
「?」
「リレーのバトン渡しますって、あれ、タモリさんのお昼の番組みたいで嫌なンだよ」
「その気分は判ります。でも、ちゃんと紹介は書いて下さいよ!」
「……判りました」
黒沢久子さんとは、加藤正人さんとの三人で講座の49期の基礎科と研修科を担当しました。いまでも黒沢さんと二人で49期生の残党を集めて勉強会をやっています。講評会でも飲み会でも、講座生相手に暴言を吐く僕のフォローをして下さいます。感謝です。でも、あの荒井晴彦門下です。発言も書くモノも一本筋が通っています。黒沢さん、バトンなんて渡しませんから、勝手に走り始めちゃってください。