シナリオ講座      一般社団法人シナリオ作家協会


     
    小林弘利 (シナリオ作家)

  学生時代から8ミリ映画を作り始め、25歳の時に
  「星空のむこうの国」で小説家としてデビュー。
  同時に同作品の映画化作品で脚本家デビュー。

  脚本参加作品
  「アイコ16歳」(脚本協力としてクレジット)
  「グリーン・レクイエム」「二人が喋ってる。」「Looking For」
  「FirstLove 雨鱒の川」「死に花」「L change the WorLd」
  「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」
  「Sweet Rain 死神の精度」「赤んぼ少女」「春琴抄」
  「ブタがいた教室」「花婿は18歳」など

  (アニメ作品)
  「ミラクル・ガールズ」「ASTROBOY 鉄腕アトム」「ブラックジャック」
  「火の鳥・未来編」「アタゴオルは猫の森」「Drピノコの森の冒険」



                            


2009年6月29日(月曜日)

こんばんは。
リレーのバトンを渡された小林弘利です。

リレーのバトンというと思い出すのが宮崎駿監督が押井守監督とのコラボ作品を企画したときの『アンカー』という物語です。
ある日突然、男が走ってきて、ひとりの青年へとバトンを手渡す。
「頼むぞ。君がアンカーだ!」と青年は言われ、何が何だかわからないままに走り出す。
これが物語の導入部(だと勝手に記憶している。すっごい勘違いかもしれない)。この導入部、けっこう好きで、いきなり物語が全力疾走を始めそうで、わくわくしたものです。

と。いきなり思いついたことを書いていたら、まったく書こうとも思ってもいなかったことから書き出してしまいました。

まあ、かなり行き当たりばったりです。

このblogはシナリオライターがどんな日常を送っているのかを伝えればいいのだと事務局の方から聞かされているので、ごく普通の日記を書けばいいんですよね?

というわけで、ワタクシが今日一日何をしていたのかを書かせていただきます。

今日は朝から昼まではとある制作プロダクションさまから「原作権を取得した」と言って送られてきた小説を読んでおりました。
この小説、さすがに人気作家の手による物だけあって、かなり面白い。面白いけれど、映画のシナリオにしようとすると、これはかなり難儀しそうな物語でもある。
こういう小説を手渡されると、ワタクシはニコニコします。どうやって映画にしようかと考えるのがとても楽しい。

で、ニコニコしながら昼からは、去年の秋にシナリオを書いて、冬に撮影され、今年の8月に単館レイトで小規模公開される映画の試写を見させていただきました。
脚本を書いたときと違うタイトルの試写状が送られてきたので「?」となりましたが、映画を見たら、そのスクリーンには脚本の時と同じタイトルが映されておりました。
ということは営業の方が別タイトルを宣伝用に付けたんでしょうね。
まあ、それで映画館に足を運ぼうとする人が増えるのならそれでもいいですけど、タイトル変えますよ、ぐらいは事前に教えてくれてもいいんじゃないかな、と思います。別に怒りはしないけど。
映画の内容は現場で監督がかなりシナリオを直しておりましたが、それで面白くなっているわけではないところが残念でした。(面白くなってたら、シナリオ通りだ、って他人には言いたくなりますけど、シナリオと違う物が写っている場合は、ああ、こういうふうに書いたと思われちゃうんだなあ、と溜め息をつきます。画面に名前が出る以上はそれは仕方がないことですけどね。ぼくだって映画を見ていて「?」な展開があったら脚本家が悪いって思っちゃいますもん)
てなわけで、
その試写の後、プロデューサー様から「どうでした?」と問われたので、監督やら主演女優さんやらがいらっしゃる目の前で「まあまあですかね」とか言ってしまうのでした。
こういう時にウソでもおべんちゃらでも言えればいいんだけど、こと映画の感想だけは思ったことしか言えない。このへんの自分の社会性のない不器用さにまた溜め息をつくのでした。


夕方からはアメリカ製のアニメ映画『モンスターVSエイリアン』の試写を見せていただきました。
最近のこの手の映画は「テーマパークのアトラクションにするからね!」という魂胆が見え見えの展開なので、そのぶん物語が軽やかに弾まないのでした。
字幕版の予定だったのに、上映されたのは吹き替え版で、リース・ウイザースプーンの声が聞きたかったのに、ベッキーの声が聞こえてきたので「まいったなー」と思いながら見ていたら、「アメリカ国防省の秘密兵器であるモンスターが外敵をやっつけて地球の平和を守る」というとてもタカ派な映画だったのでした。
ついこの間の『トランスフォーマー・リベンジ』でもアメリカ軍とアメリカの大型自動車が世界を救う、という「国策映画か?」と思っちゃう作品を見たばかりだったので、ドリーム・ワークスという会社は資金繰りに困ってるらしいから、超タカ派グループからの資金で映画を作るようになったのかしら、と勘ぐってしまいます。

というわけで、先ほど帰宅。
帰宅途中に朝から読み始めていた原作小説も「ああ、いい小説だった」と読み終わり、どうシナリオに構成しようかと考え始めている「いま」なのでした。

★    ★     ★    ★    ★

という感じでいいのかな。
駄目と言われても、困りますけど。

それでは、本日からの一週間、行き当たりばったりで書き続けてみたいと思います。
よろしくお願いします。



2009年6月30日(火曜日)

「昨日の日記を読み返してみたんだけどね」

「ああ、うん。何か言いたいことがあるんだね?」

「自分のシナリオが映画になるだけでも幸せなのに、お前さん、まあまあですかね、とはずいぶんと生意気じゃないか」

「ああ、そうなんだよね。自分で読み返しても言葉足らずだなあって思った。だから、ちょこっと言葉、足してもいい?」

「どうぞ」

「あのね。基本的に自分のシナリオが映画化されたのを見るとね、悪いところ、うまく行ってないところしか目につかないの。頭の中にあった映画と現実の映画とのギャップが埋められない。だから一回目の時は《ぜんぜん駄目じゃん。何がってシナリオが》って思っちゃう。二回目にその作品を見ると《ほら、やっぱり。ここが駄目であそこも駄目だ》って、一回目に感じたことの再確認で終わっちゃう。で、三回目に見ると、悪いところはもうわかってるから気にならなくなって、ようやくうまく行ってるところ、頑張って演出されてるところに目が行くの。で、そんなに悪くないかもって思えるようになる。ーーだから、ぼくに《どうでした?》って聞くのは三回見た後にして欲しい」

「監督がシナリオを直しちゃうことについては?」

「それも言葉が足りてないね。あのね、そもそも最初から直したくても直せないほどの完璧なシナリオを書いてないって事が問題なの。『アメリカン・ビューティー』の脚本を読んだスピルバーグは《ひと文字も直さずに撮影するように》ってスタッフに指示したらしいし『グラントリノ』の時のイーストウッドも《どこも直す必要はない》って言ったらしい。プロデューサーや監督にそう言わせるだけのシナリオを書いてない自分が猛省すべきなのよ」

「まだまだ修行が足らん、と」

「うん。ぜんぜん足りてない。毎回、いまのぼくの精一杯の物をって気持で書いてるんだけどねえ」

「で。昨日の日記を読むとだね」

「まだ何かありますか」

「本を読んで映画見てるだけじゃないか」

「そう! そうなのよ、嬉しいことに」

「嬉しいんだ」

「だってそうでしょう。大好きな読書と大好きな映画鑑賞で一日が終わるんだよ。サイコーでしょ」

「本を読むのも仕事の一部だし、映画を見るのも仕事の一部か」

「つまり一日仕事のしっぱなし! なんて働き者なんだろーって、自分で思う」

「よくもまあ、ぬけぬけと」

「でも、それがシナリオライターでしょ」

「苦労してますとか、必死ですって言った方が尊敬されるぞ」

「かもね。でも山登りが好きな人は苦労して山頂目指すのが楽しいんだろうし、必死に岩にしがみついたりするスリルが楽しいんだよね? だから物語作りに苦労したり、〆切に必死に間に合わせたりすることも、やっぱり楽しい、としか言えない。好きな仕事をしている以上、楽しまなきゃ逆に失礼だって気もする。それに、じっさい、今日は何も書く物がないって時のほうがストレスかかるし」

「じゃあ、今日も好きなことだけして、楽しい一日だったのか?」

「と言うわけで、本日の日記になるわけだけど、そうだよ、今日も楽しかったよ」

「午前中は何してた?」

「深夜テレビドラマのためにストーリーアイデアを作って、キーボード叩いてた」

「午後は?」

「夕方からそのドラマの打ち合わせがあったんで、早めに家を出て小説を読んでた」

「昨日読んでた原作本?」

「いや。ぜんぜん関係ないジョナサン・キャロルのミステリー」

「関係ない本読んでるのも仕事だとは言わんだろうね」

「ところが、こういう関係ない、楽しみのためだけに小説を読んでる時に、パッとひらめくのよ。あ。あの原作をどう再構成すればいいのかわかったぞ! って感じで。じっさい、今日もピンッとひらめいたし」

「関係ない小説読んでるのも仕事の一環なのか」

「働き者でしょー」

「本当に働き詰めの人達が背中から蹴ってくるぞ、そんなこと言ってると」

「で、夕方からそのドラマの打ち合わせ。でも今日はこれからのゲスト出演者を決めるって内容の会議になったんで、あの人がいいとか、この人が好き、とかそんなことばっかり話してた」

「それも仕事か。いい加減にしろ、と私がお前さんの背中を蹴りたくなってきたな」



2009年7月1日(水曜日)

本日の日記は短いですよ。
何でって、ずっと家にいて例の原作本相手に「物語の分解作業」をしてたから。
分解すんの?
分析する、の間違いじゃないの?
と、思われるかもしれませんが、いいえ、ワタクシは分解します。
解体と言ってもいいかもしれません。
何しろ「原作と同じように始まり、同じように展開して行く」、そういう映画はあり得ない、と勝手に思ってるから。
(とはいえ、そういう映画って、特に日本映画には意外に多いんだけどね)
だって「読むもの」である小説と「観るもの」である映画が、同じ物語を語る場合、それがまったく同じ語り口になるなんておかしいと思うんだもん。

ひとつの物語を語る方法論が一つしかないはずはない。

そう思うわけです。

で、ぼくはいつも「原作に挑戦する」という態度で臨みます。

相手が手塚治虫だったりするとかなりビビりますが、それでも挑戦します。
『火の鳥』のアニメ化の時は「原作にはない現代編を書かせて欲しい」などと恐れ多いことを言った挙げ句に『火の鳥・不知火編』なんて物語を作ったりしてた。
これは結局、放送局側から「やはり視聴者が知ってる話で」と言われて、
「なら未来編が書きたいです」
と言ったのでした。
そして、その手塚先生がお書きになった「未来編」を改めて読み込んでみたら、これが何と、そのまま「現代編」としても成り立っているお話で、
ぼくは仰天して、
やはり神には叶わぬ、
と空を見上げたのでした。

……なんて無駄話してるから、また日記が長くなってる!

というわけで。
本日は朝からずっと駅前のカフェに行ったり、家にいったん戻ったり、またファミレスに行ったり、家に戻ってきたりしながら、原作の分解作業にいそしんでおりました。
(何で、いちいち家に戻るのかというと、昼時や夕飯時はお店が混むし、なのにドリンクだけで粘ってる客は迷惑だろうと思うから)

で。
これからまた別のファミレスに行きます。この時間なら、そろそろお店がすいてくる頃だから。

それにしても、
いつの日か ↓ のような格好いいことが言えるシナリオライターになりたいものです。

伊丹万作(以下、伊)「原作物に手をつけるためには、どんな心構えが必要と思うかね」

橋本忍(以下、橋)「……牛が一頭いるんです」

伊「牛…?」

橋「柵のしてある牧場みたいな所だから逃げだせないんです。私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日もあちこちと場所を変え牛を見るんです。それで急所がわかると柵を開けて中へ入り鈍器のようなもので、一撃で殺してしまうんです」

伊「……」

橋「もし殺しそこねると牛が暴れだして手がつけられなくなる。一撃で殺さないといけないんです。そして鋭利な刃物で頸動脈を切り、流れ出す血をバケツに受け、それを持って帰り仕事をするんです。原作の姿や形はどうでもいい。ほしいのは血だけなんです」

↑ なんて格好いいんだ!



2009年7月2日(木曜日) ※7月3日に投稿


すみません。

日付、変わってます。

本日は(正確には昨日だけど)、シナリオ講座の講義(合評だけど)があり、その後のお茶会に参加してたので、帰ってきたら0時を回ってしまいました。(言い訳終了)


というわけで、本日は(昨日だけど)何をしていたのかというと、午前中は昨日から続くとある原作本の解体作業。

それをやってる間に、別件の映画でプロデュースをしている方から電話があり「いただいたシナリオを原作者に読んで貰ったところ、原作者がこれを書いた奴に会わせろと言っている」と言われる。

ひえー。

ぼくってば怒られちゃうのかしら〜。貴様は原作の心が何もわかっとらん! わかっとらんのに勝手にいじくり回しおってけしくりからん! と怒鳴られちゃうのかしら〜。

と瞬間にしてくらーい、ふかーい、穴の中へ落ちてしまいそうになる。

その気配を察したのかプロデューサー氏はすぐにこう続けるのでした。

「あ。シナリオはとても気に入ってくれたみたいです。何でも細かい部分で話しておきたいことがあるみたいなんです」

ふえー。

脅かさないでよーん。

と涙声で言ってしまうワタクシなのでした。

意外と気が小さいのよ。(お腹は大きいけど)

で。

とにかく原作者さまとお会いするのはやぶさかではありません、とお伝えして電話を切り(怒られるわけじゃないらしいとわかると、途端に大きな態度になる・お腹と同 じように)、改めて意気揚々と原作解体を続け、で、午後からはその原作についての打ち合わせというか意見交換を原作権を取得した制作会社様で行いました。

その席で正式にシナリオ化に向けての作業を依頼される。(どうやら昨日から、依頼されてもいない作業をぼくはやっていたらしい。まあ、それもOK。何たって物事は先取りが大事。その方向に自分が動けば、その方向に道が出来て行くのだと信じているので無問題。未来は自分が顔を向けている方向にあるのだ)

で。

打ち合わせを終えてシナリオ会館に伺い、シナリオ講座、基礎科夜間部の授業に参加。

本来はもうひとりの専任講師であられる岡先生の担当日なんだけど、生徒さんの書かれた物に他の生徒さんがどういうコメントをするのかに関心があるので押しかけ参加でありました。


シナリオというのは教壇に立つ人の話を聞いていても書けるようにならないんですよ。自分の手で実際に書いてみないと書けるようにならないし、自分の書いた物に具体的な赤を入れて貰わないことには、どう書けば書こうとした思いが読む人に伝わるのかわかるようにはならない。

なので、合評という形になってからが本当の授業なのだとぼくは思います。

なのに、合評に入ったら生徒さんの出席人数が減りましたね。

人の作品に意見言ってる暇があるなら自分の作品を書き進めたい、と思う方が多いのかな。

まあ、その気持ちもわかりますけどね。

でも。

やっぱり、ここは《他人のふり見て我がふり直せ》ですよ〜。

というわけで、本日の日記を終わります。(昨日の、だけど)



2009年7月3日(金曜日) ※7月4日に投稿

すみません。また日付が変わってしまいました。

毎日日記を書くって、けっこう大変なんですね。

今日は(昨日だけど)朝、起きてご飯食べてからメールをチェックしてたら今月クランクインする映画のプロデューサー様からのメールが来てました。

読んでみると、「シナリオ、最後のひと仕上げをすべく、
夕方からミーティングできますか」という内容。

二週間後にはクランクイン、
という作品でこういうことを言われたら「いやです」とは言えませんよね。

それで午前中はまた別件のシナリオのプリントアウトに赤を入れる作業をして、午後からその今月中旬インの作品のシナリオに、プリントアウトではなくパソコン上で直接データに赤を入れたり削除シーンに取消線を書き加えました。

何でプリントアウトしないのかというと、データに直接赤を入れれば、終わり次第そのままメールで送れちゃうから。

で、ミーティングに間に合うぎりぎりまでその作業をして、赤を入れ終えたメールを送信。同時にワタクシ自身もミーティングが行われる制作会社様のオフィスへ出発。

こういう時、原稿を先に送っていると万一遅れても、他の出席者には原稿を読んでて貰えばいいので安心です。

で、午後から夜まで頭の1シーンから修正の意図を話したり、さらにカットできそうなシーンを探したりしておりまして

「じゃあ、明日の朝一で今いま話し合ったことを踏まえた修正版、送ってください」

と言われてしまったのでした。

何しろインが迫っている映画というのは
ダッシュで原稿書かないと他のスタッフさんが迷惑しますもんね。

で、

帰宅してからさっきまでその作業に没頭し、いまようやくこの日記を書く時間がとれました。


この作業の途中で、さらにまた別件の、
今年の五月くらいに書いていた作品に関してメールが来ていて

「この夏インの方向で考えてましたが、諸事情があって、キャストを調整直してから10月インの方向で話を詰めてます」

とのこと。

制作がちょっと延期になったのは残念だけど、でも制作が始まってからでも製作中止になる作品もたくさんあるので、それよりはずっとましです。


えーっと
今日はこういう話ではなく、別のことを書こうと思ってたんだけどな。

まあ、行き当たりばったりだから、その話はまた明日にでも書きます。(もう眠たいし。人間は夜は寝るように出来ている生き物だし)


では最後に、何となく幸せな気分になってくる動画をご紹介します。

(4分くらいです)

ぼくはひとの笑顔を見てると、この世のすべてを許していいって気持になります。




2009年7月4日(土曜日)


今日も(昨日だけど)午前0時前にアップすることが出来ませんでした。

すみません。

といっても、今日は(昨日ね)お仕事をしていて日記の執筆が遅くなったわけじゃないです。
お仕事は午前中に終わらせ、午後からは妻さんと一緒に友人宅で催されたホームパーティーに参加しておりました。

このホームパーティー、かれこれ20年近く毎月一回ずつ参加者の自宅を巡るようにして続けられています。

映画ライター、役者兼劇作家、映画のカメラマン、漫画家、大手洋画配給会社の人、それに映画ファンの女性たちとその旦那さん、それぞれのお子たち、というのが参加メンバーです。

もともとはみんなただの映画ファンで、それが縁で集まった仲間ですが、20年の時が流れ、それぞれに「この人生でやりたいこと」を職業として生きるようになったんですね。

それって、実はすごいことで、やりたいことはあっても、その道で生きていくことの出来る人、というのは少ないんじゃないかな、と今日ぼくは、そう思いました。


本当はこういう事がしたかった。そんな思いを胸の奥に抱えながら、いまは別の仕事を頑張っている、という人のほうが圧倒的に多いように思うから。

もちろん、それぞれの人がそれぞれの縁やタイミングに導かれてその職に就いたはずなので、それが本来その人にとっての「この人生で選んだ生き方」の現れなんだとは思います。


けれど、シナリオ講座に参加している方たちでも「いまは別の仕事をしているけれど、本当は脚本を書きたいんです」という方が多いです。

では、どういう人がその「本当はこれがやりたい」ことを仕事に出来るのか、というと、このホームパーティーのメンバーの生き方を見てもそうなのだけど、みんな「やりたいことをお金にならなくてもいいからやり続けた人」なんですね。


ぼく自身、最初は書くだけ書かせられてお金は支払ってもらえないことが何度もありましたし、自主映画時代にはそれこそ「ただでいいからとにかく書かせて」と周りの友人たちに言って回ってました。

そして「書くことが出来るだけ」で嬉しかったし、「また書いてよ」と言われることが至上の喜びでした。

この「ヨロコビ」があるから、書くことをずっと続けてこれたし、いつしか(周りの方たちの好意に支えられて)脚本家になっていて、いまこういうリレー日記に参加までさせていただけることになったんですね。


シナリオ講座の授業でも言ったことですが「プロになれる人は書き続けた人で、書かない人は絶対にプロにはなれない」のです。

これは「いまのあなたの体は、骨も血も肉も爪も髪の毛も脳細胞も、すべてが口とへその緒から入った物だけで出来上がっている」
というのと同じ、誰にも否定できないこの世の真理です。

この世にシナリオを書かずに脚本家になった人はいませんし、書き続けることなくプロとして仕事をしてる人もいません。


「あなたはいまも詩人ですか?」

「本当に詩人になった。一行も書かないから」


というのは名台詞のオンパレードである『舞踏会の手帖』の中のセリフですね。

詩人なら一行も書かなくてもいいのかもしれませんが、脚本家は書き続けることを人生とすることを選ばなければなりません。


そうやって、書き続けることの出来る場所を与えて貰っている、ということはだからとても幸せなことです。

だからぼくは「いそがしい」という言葉は使いません。ちょっと前までは「忙しいですか」と聞かれると「ええと、ちょっと立て込んでますかね」なんて言ってましたが、いまは言いません。

どうしても「いそがしい」と言わなければならないときは

「今週はB・Gかな」

なんて言います。

B・G と言えば、それは「ビジー」ってだけじゃなくて「ByGod」って意味にもなるでしょ。

「ええ、天だか神だか宇宙だかのおかげで繁盛させてもらってます」

って感じ。(直接お金になる仕事かどうかは関係なく、とにかく忙しいという代わりに、大繁盛と言っておく、ということも大事です。なにごとも言霊ですから。なんだこいつ、言霊なんか信じてるのかよ、と思われるかもしれませんが、物書きが言霊を信じないで何を信じるのだ、とぼくは思います)

B・G は「Be Good」って意味にもなる。

「ええ、いまいい状態ですよ」

って感じ?

これなら「いそがしい」という言葉につきまとうなんだか余裕のない、せわしい感じとは違った景色が見えるような気がします。

(あくまでぼくの勝手なイメージですが、映画に携わる者がイメージを大事にしないでどうするって事です)


というわけで、今週は原稿書きと原作との格闘と打ち合わせ、という(それがシナリオ作家の基本的な日常)作業が折良く重なり、それに自作の試写まで加わってくれたので、これはやっぱり「いそがしい」のではなく「BGな一週間だったな」という感じです。


さて、明日の(今日の、だけど)日記でリレーのバトンを受け取った責任は果たせそうなのでホッとしています。

明日は(今日は、だけど)どんな日になるのかな。


明日も(今日もだけど)、きっとBe Goodな一日になる!(言霊)



2009年7月5日(日曜日)

というわけで、お約束の7DAYSを終えることが出来ました。

行き当たりばったりに、けれどどうせなら少しでも面白く読める物を、と考えたりもしながら書いてみました。

下書きしないで直接キーボードを叩く、ということは通常はメールを打つとき以外はしないので、ただでさえ駄文しか書けないのに、輪をかけて悪文になってしまい、申し訳ありません。

お付き合いくださった方がいらっしゃるなら、その広いお心に感謝します。

               ★
と、本当なら文末に書くべき事を文頭に書いているな、といま気づいたので(構成という物をまるで考えてないね、こいつ)、本日の日記をいまから書くことにします。


今日は深夜に放送中のドラマの脚本を書いてました。

30分物で、とてもくだらない、どこかシュールでとんがっている、そういうドラマを書こうという企画で始まったこのドラマですが、完成品を見るとただユルいだけ、という回が多く、自分としては「どうしてこうなっちゃうのかな」と首をかしげます。

マルクス兄弟みたいな、くだらないのに頭がいいコメディーが理想なのにな。エミー賞のコメディー部門の常連、『マイ・ネーム・イズ・アール』だって、信じられないくらいくだらないのに、しっかりとエッジの効いたお話を語っていて、決してユルくはないのにね。

なのに日本で作ると、ただユルいだけ、になってしまう。

まあ、『ーーアール』なんかはケーブルだからこそ出来ることで、日本の地上波であの過激なギャグをやれ、というのも無理な話ですけど。(この間見てたら幼い子どもに向かって銃を撃ったりしてたしね)

ユルい物になって出来上がってしまう、というのはいま現在の日本のバラエティーが「子どもの悪ふざけ」みたいだったり赤ちゃんをいないいないばあで笑わせようとしてるのと同じように変な顔をしてみせるだけ、みたいな番組を作り続けているのと根っこは一緒なんだろうな。常識のない大人を「おばか」と言ってスターにしてしまう、というのも、なんだか末期症状って気がしますしね。

で。

末期症状というのは実は次の「何か」が生まれるきっかけでもあるはずなので、テレビというメディアに関してはこれから面白い時代がやってくるはず、とワクワクもしています。


アメリカでもいまの日本と同じようにテレビなんて誰も見ない、という状態になったことがあります。けれど、その後、映画以上のクオリティーを持ったドラマシリーズを作り始めて息を吹き返しました。

次の展開を見なきゃ気が済まない、みたいなクリフハンガー・ドラマたちと、テンポアップさせたシチュエーション・コメディー。

『24』やら『ER』やらがあり『フレンズ』は10年も続き(途中からはもう、友達、じゃなくなってたし)、新しいところでは『LOST』やら『ダメージ』やらが一回見逃したらもう話について行けないジグソーパズルみたいな展開が面白いですし。

(同じ回を何度もリピート放送するからこそ、平気でこういう話が作れるんだけど)


日本にも地デジとかで多チャンネル時代がやってくるのだし、何十と増えるチャンネルをTVショッピングと昔のドラマやアニメの再放送だけで埋めるわけにも行かないでしょうから、新しいドラマ枠、というのはこれから増えて行くはずだし(携帯で見るドラマも本格的に予算をかけた物を作り始めるだろうし)、洋画より邦画を見に行く人はこれからもっと増えるとも思う。


世の中はあちこちで20世紀型のシステムが壊れて行ってますから、その変動期はいろいろな負の要素も浮き彫りになってくるでしょう。

それは避けられないことだけど、さっきも書いたように、「ひとつの終わり」は「新しい何かのはじまり」です。

そして、どんな世の中になろうとも、物語が必要とされなくなった時代、というのは過去に一度もありません。

だから「物語の語り部」たる脚本家の未来に不安はないのです。
(だから、言霊ですってば)


厚い雲の向こうには青空があることになっているし、頭上を覆う雲はいつか薄れて消えて行くのだし、みなさま、どうぞ「新しく始まるもの」を一緒にワクワクと見つけて、育てて、一緒にワクワクとひろげて行きましょう。

だって

まだ世界がおしまいになったわけじゃないんだし、

映画の世界で「2010年」といえば、それは「SOMETHINGWONDERFUL」《何か素晴らしいことが起こる》ということになっているのですから。


あ、しまった。書いてるうちにまた今日が昨日になってしまった!


では、大慌てで、バトンをお渡しします。


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