シナリオ講座      一般社団法人シナリオ作家協会


     
    笠原邦暁 (シナリオ作家)

  愛知大学卒。システム・エンジニアを経て、脚本家に。
  「ケロロ軍曹」などの人気アニメ作品を手掛ける。 

  ■TV
  「ケロロ軍曹」「デルトラクエスト」「REIDEEN」
  「みらくる!ばんぞう」「カスミン」「デ・ジ・キャラットにょ」
  「うしろの百太郎」「世にも奇妙な物語」「パラソルへんべい」他


                            


2008年8月18日(月曜日)

で、まあ、いきなりマエフリも無しに始めちゃいますが。

本日の目玉はなんといっても北京オリンピックサッカー女子日本代表(なでしこジャパン)の準決勝対アメリカ戦でありましょう。
満を持してテレビ(実際はパソコン)の前に座り込みドキドキワクワクでその時を待った。
出足は悪くなかった。
先制点が入ったときは思わず声が出ちゃいましたが、しかし、それと同時に嫌な予感がしたのでもあった。
タイミングとしては早すぎる。この1点を守りきりさえすれば勝てるわけだが、それを易々と許すような相手ではないのだ。
案の定、それ以後はアメリカに押されっぱなしとなり、「このまま前半を終わってくれ〜」と思う間に同点弾を食らい。
「いや、まあ、これで振り出しに戻っただけだから……」と気を取り直そうとしている間に逆転弾を食らって前半を終わってしまった。
そして、後半は「1点差ならまだ何とか……」と対ニュージーランド戦のイメージにすがっている間にあっけなく3点目を食らい。
「さすがに万事窮したか。だが、しかし……」と、なでしこジャパンの驚異的な粘りに対して蜘蛛の糸的に一縷の望みを託したが、ミスキック(だと思う)がアンラッキーにもゴールに吸い込まれてしまい4点目。
もう、さすがに言葉を無くし「これが地力の違いというものか……!」と諦めるしかないと思っていたところで、なでしこジャパンは「根性の2点目」を叩き込んでくれた!
負けはしたけど、天晴れ! であった。
やっぱり連戦の疲れが出たのか……とか、先制点のタイミングがもっと遅ければ……とか、右サイドの安藤と近賀を入れ替えなければ……とか、GK福元にもっとタッパがあれば……とか、FW荒川を先発で使えたら……とか未練たらたらのタラレバが次々と浮かぶ。
負けて当然の相手ではあるんだけど、何かやりようがあったんではないかと考えてしまうのがミーハーの性というものか。
次の3位決定戦のドイツもやはり同じく格上(W杯チャンピオン)だが、最後の「根性の2点目」に、きっと奇跡を見せてもらえるんじゃなかろうかという淡い希望を抱いてしまう。
「あ〜あ」とため息を一つついて寝た。

おしまい。



2008年8月19日(火曜日)

家中の掃除をした(我が家では私が担当することになんとなくなってしまった)。
本来は日曜日にするのだが、この間の日曜日は終日出かけていたので手つかずのままである。つまり、汚れている。それを見て、やっぱりやっておかないとなあ……と考えたわけだ。
掃除機を掛けて、雑巾がけするくらいのことは2時間もあればできてしまうはずなので午前中には終わって、その後はアレもやりコレもやり……と本日のプランを漠然と考えた。
それが朝の9時過ぎ頃だった。
ところが、実際に掃除を終えたのは17時頃なのであった。
なぜならば、掃除を始めたのが14時過ぎとなってしまったからだ。
9時から14時までの間、私は何をしていたのか?
実を言うと、わからない。
自分の感覚では「あっという間に時間が過ぎていってしまった」なのである。
記憶がどうこうという問題ではない。
その間自分が何をしているかという自覚もないままに何かをしているのだ。

私は、血液型占いなんてナンセンスだと考えている。
しかし、人間という生命体が化学反応の連続により維持されている以上、血液によりもたらされる脳内の化学反応にも血液型の違いによる差異があっても不思議ではないとも考えている。血液型がいったい何の違いによる分類なのか知りもしないくせに。
つまり、具体的なことはさっぱりわからないが血液の成分が微妙であるにしても違っているなら、それにより引き起こされる化学反応も微妙に違ってくるはずであり、それが性格の傾向となって現れてもおかしくはないと思うのだ。
もちろん、これは専門家に否定されれば、即座且つ素直にシュミマシェンと引っ込める用意はいつでもあるということは書き添えておこう。

私自身はB型である。
そして、「その間自分が何をしているかという自覚もないままに何かをしている」ということこそB型の持つ最も典型的な傾向だと考えている。
問題は、事例が自分自身の一例しか確認されてないということである。
どうですか? B型の血液をお持ちの皆さん。
我が家には5歳の息子がいるのだが、その息子もどうやら「その間自分が何をしているかという自覚もないままに何かをしている」ということが四六時中あるらしい。
着替えをしているはずがなぜか素っ裸のままソフビの怪獣同士を戦わせていたり、金魚に餌をやっているはずが折り紙を切り刻んでいたり、歯を磨いているはずが粘土細工をしていたりする。
その都度本来やっているべきことを指摘すると「あ、そうだった」と我に返るのであった。
この息子の血液型は未だ不明である。 
つまり、息子の血液型がB型であれば、私の持論はめでたく証明されることになるわけだ。
え? 違うのか?

実は、本日一番やりたかったことがあったんだけど、上記の事情により断念する他なかった。返す返すも残念である。

おしまい。



2008年8月20日(水曜日)

昨日やろうとして出来なかったことをする。
ジョギングであります。
Nike+iPodスポーツキットを使っているのだが、これで目標とする走行時間や走行距離を設定し、半分まで行ったところで戻ればいい。これのお陰で走ることがさらに楽しくなった。
本当なら2時間走りたかったのだが、ここんところ寝不足なので無理はしないで10キロとした。時間にすると1時間と十数分といったところ。以前だったら10キロに1時間も掛からなかったのだが……。

この季節、夜の方が当然過ごしやすいわけだが、夜は景色を眺められないから面白くない。クソ暑かろうが日中に走る方が楽しい。
我が家は日野市の八王子市寄りにある。甲州街道に出て高尾方面に向かった。
ジョギングする場合、近くに川があるようなら河川敷のコースを利用する人が多いだろうが、この季節はあきません。河川敷には遮蔽物が無いからだ。
街中の方が日陰があるし、場合によっちゃ開いたドアからエアコンの冷気を一瞬でも浴びられるのだ。真夏に走るなら街中に限る。
そんなわけで、八王子市の中心街を走ると「シャッター商店街」と化していることがよくわかる。
丁度5キロの折り返し地点にある写真館もシャッターが下ろされたままだ。
その名も『日之出写真館』。
商店街の一角にいかにも昔からあるといった雰囲気の写真館だ。
この日之出写真館で、息子の一歳の誕生日に家族で写真を撮った。
息子をあやすため写真館のご夫婦が(たぶん私と同世代だと思う)一生懸命にあれこれしてくれたことが印象的だったので、もうずっとこの写真館を利用するつもりでいた。
二歳の誕生日の際の写真は「出来が良かったので店頭に飾りたい」ということになり、店頭に自分たち家族の写真が飾られることとなった。
しかし、それから半年ほど経って「店を閉めるので店頭に飾っていた写真を差し上げたい」という連絡が入った。
詳しい事情はわからないが、日之出写真館は永遠にシャッターを降ろすことになったということだ。
このコースを走る時、いつも折り返しのところで何とも言えない気持ちになる。
今、その写真は家の玄関に飾ってある。
 
おしまい。



2008年8月21日(木曜日)


息子とその母親が立川の昭和記念公園内にあるプールから帰ってきた。
我が家では息子をプールへ連れて行くのは今のところ母親の役目である。
なぜなら、私は泳ぐのが嫌いだからだ。
20年以上はプールに入ってない。海水浴に至ってはたぶん40年近く行っていない(先週内房へ行って記録は止まった)。
しかし、泳ぐのが嫌いなだけであって、泳げないわけではない。
ボーイスカウトの水泳章(設定された課題をクリアすることで得られる技能章の一つ)だって持っているのだ。

夏休みに友達と市営プールへ行って遊んだりはしていた。犬かきやバタ足(愛知県西三河地方の我々は『面かぶり』と呼んだ)ではとても「泳ぐ」といえるレベルではない。スイミングスクールなんて当時はまだ一般的ではなかったのでみんなそんな感じだった。
4年生だったか5年生の時に学校にプールが出来た。本格的な水泳の授業が始まったわけである。
クロールを覚えさせられ、25メートル泳ぎ切ることが出来るかどうかが我々のテーマとなった。
このクロールが嫌だった。
全く息継ぎが出来ないのだ。
息を吐き出しきってしまえば顔を上げるだけで肺に空気が自然と入ってくるといったアドバイスも受けたが、全然うまくいかない。
それでもなんとか25メートルをクロールで泳ぎ切れるようにはなった。
しかし、泳げたって苦しいことに変わりはない。
なんで、こんなに苦しいことをわざわざしなきゃならないの?ちっとも楽しくないじゃんか!

そんなある日、市営プールで遊んでいると、仰向けに水に浮かんでいる女の子を見つけた。お兄さんにコーチされているといった雰囲気。
「いったい何をしているんだ?」と見ていると、それはどうやら「背泳ぎ」の練習であることがわかった。
「これだ!」と思った。
これなら顔を水につけて苦しむ必要は無い。
早速真似をした。
まずは、ただ仰向けに水に浮くこと。水の上に寝てしまうことから始めた。
あれこれトライしている内にコツが掴めた。そうなればあとは手と足の動作を加えるだけである。
何日か掛かったが、こうして背泳ぎが出来るようになっていった。
クロールなんかより遙かに楽である。呼吸が苦しくない!

背泳ぎを習得する前後だと思うが、父親が勤務する会社(愛知県西三河地方の某自動車メーカー系である)にプールが完成した。
連れて行ってくれた父親がプールに入ると、水面から顔を出したまま平泳ぎのようでそうではない泳ぎを始めた。
それが「横泳ぎ」だった。
これは日本の古式泳法ということになるらしいが、「これだ!」と思ったのは言うまでもない。
既に背泳ぎの練習で水に浮く感覚は身に付けている。後は体を横向きにするだけだった。だから、割と感単に横泳ぎを習得した。
会社のプールは自転車で10分程度のところにあり、昼間に行けば当たり前だけど誰もいない。
市営プールよりも近く、学校のプールは学年により入れる日が決まっていたので、足繁く通って貸し切り状態で背泳ぎと横泳ぎの練習をした。
6年生の夏が終わる頃には、背泳ぎと横泳ぎに限って体力が続く限りいくらでも泳げるという自信が付いた。
中学にはプールが無いので、泳ぎにまつわる悩みはこれにて一件落着とあいなった。
ところが、中学に入学したのと同時にプールが完成しやがったのである!
また地獄の苦しみを味わわなければならないのか……とがっかりした。
夏が来てプール開きが行われ、最初の授業で25メートルのタイム計測が行われた。
泳ぎ方は自由。とにかく25メートルのタイムを測るというのである。
もちろん、私は背泳ぎでタイムの計測をした。自分にとってはそれだけのことでしかなかった。

そして、夏休み。
終業式の日に担任はこう言ったのである。
「君は水泳部に行きなさい」
プールが完成して新たに設立される水泳部に参加しろというのだ。
学校は、先日の25メートルのタイム計測で記録が上位だった者をとりあえず集めたのである。
背泳ぎなんかで計測する者は他にいないから、記録上は「学年トップ」になっちゃったのだ。
私は絵画部に所属していたというのに、それは既に決定事項であって、こっちの意志の確認すらされなかった。当時の愛知県の学校には人権意識などというものは無かったのである。
泳ぎが嫌いだったから背泳ぎをマスターしたというのに、その背泳ぎのせいでひと夏を水泳部員として過ごさねばならなくなってしまったというわけだ。
「裏目に出る」ということがどういうことか身をも持って学んだ中学1年の夏であった。

おしまい。



2008年8月22日(金曜日)

昨夜のなでしこジャパンは残念でした。
録画がうまく行って無くて(設定以降に放送予定が変わった)、前半の前半しか見てないのだが十分可能性はあったと思う。立派な4位でありました。
やっちゃってくれたのがソフトボール女子である。
文字通りの『悲願達成』に感動した。
実は私自身も今日の女子ソフトボールの活躍に微力ながら力添えをしていたので、実に感慨もひとしおである。まあ、本当に「微力」でしかないんだけど。

愛知県は西三河にある我が校(県立高校です)は自前のグランドを持っていなかった(今はあります)。
学校のすぐ隣にトヨタ系企業のグランドがあって、体育やクラブ活動はそちらを間借りしていた。
私は高校時代はラグビー部に所属していたのだが、このラグビー部の練習エリアがこの企業のソフトボールチームと被っていたのだ。
我々が練習をしていると「おーい! どけよう!」という女性のだみ声が聞こえてくる。
本来のグランドの持ち主であるソフトボールチームのお姉様達のお出ましだ。
我々は「ほ〜い」とかあいまいに返事をして練習を中断し、やおらトンボを拾い上げてグランドの整地に取りかかるのだ。
ラグビーでありますから、スクラムなどで地面を掘ってしまう。
「こらぁ! ここ掘れてるでぇ! ちゃんとせえや!」とお声が掛かると「はいはい」とそこへ向かう。
整地作業に関してだけではあるが、この時は我々は奴隷状態となるのであった。
トンボをズリズリ引きずって、一番遠い折り返し地点で「ドブスがエラソーによ」とか「どこの田舎から来たんだよ」とか聞こえないように悪態をつくのが精一杯の抵抗であった。
その作業が終わると、我々はグランドの隅っこへ移動し、場所を取らないスクラムの練習かなんかをちまちまと再開するのであった。

ずっと後になってオリンピックの代表選手の所属チームを見て驚いた。
その中の一つにそのソフトボールチームがあったからだ。
あのお姉さん達は日本でもトップクラスの人たちだったんですねえ。
ちっとも知りませんでした。
これはソフトボールがアトランタオリンピック(1996年)で正式種目となる以前の話である。
それでも、直接的ではないにせよこの金メダルには我々の「トンボ、ズリズリ」が微力ながらも関わっていたのだと胸を張りたい。

おしまい。



2008年8月23日(土曜日)


朝、5歳の息子が大声を上げた。
カブトムシを飼っているケースの中に幼虫がいるというのだ。
ケースの中には雄のカブトムシしかいない。
最初は”つがい”で捕まえたのだが、どういうわけか雄が雌を邪険にする。
相性がよろしくないのかと思って、改めて二号さん(息子にはそうは言ってないが)を捕まえてきた。しかし、この雄は相当性格が悪いのか自分用の餌場があるのにわざわざ雌を雌の餌場から追い出すようなことをした。
そんなことをしている内に一号さんがお亡くなりになり、すぐに二号さんもお亡くなりになった。
雄だけじゃ「結婚」は出来ないから、幼虫はあきらめるしかないねと息子に言い聞かせて息子も納得した。だから、その驚きもひとしおで、大声を上げることになるわけだ。
う〜む。それにしてもあの状況でどうして幼虫が生まれるんだろう?
なぜか『離婚後300日問題』という言葉が浮かび、男女の仲はままならぬものよなあ……などと勝手に大人の感慨にふけっていた。
しかし、ちょっと調べてみると何のことはない。野生で捕まえてきた雌はその段階で交尾を終えている状態であるはずなので、高い確率で雌だけでも卵を産むのだそうだ。
さらには、雄と雌をずっと一緒にしていると交尾疲れから寿命を縮めることになるらしい(雌が特に)。
つまり、雄と仲が良かろうが悪かろうが卵は産んだし、「邪険にしている」と見えたものが実際には「交尾」だったのかもしれないということである。
カブトムシの雄と雌を人間に例えて見てしまうのは間違いだったということだ。まあ、当たり前と言えば当たり前だが、どうしても我が身に置き換えてしまうのが大人の浅はかさというやつなんだろう。

それにしても私自身、カブトムシを飼うなんて生まれて初めてのことだし、それ以前に私にとってはカブトムシを捕まえに行くということが初体験だった。
自分が子供の頃カブトムシで騒いでいた奴を知らないし(まあ、知らないからと言って存在しないということにはならないが)、私自身全く興味がありませんでした。
考えてみると、西三河の私の実家周辺にはカブトムシが出現しそうなところって無かったなあ。実家は駅前商店街の裏手でその向こう側には田んぼと工場ばかりが広がっていた(今は、駐車場と工場)。
それに夜の8時頃に出歩くなんてことは考えもつかなかった。寝る時間なんだから。
ウチの子供をはじめ幼稚園のお友達がみんなカブトムシ捕りに熱狂するというのは実はあんまり良いことじゃなかったりするんじゃなかろうか? と思ったりもする。

さて、生まれるはずがないのに生まれた幼虫について、息子は「雄にいじめられていたのに卵を産んでいたんだ!」と周囲の人に説明している。
どうやら彼にとってこれは「美談」ということになるらしい。
15年後くらいにこれが変な風に作用しなければいいのだけれど……。

おしまい。



2008年8月24日(日曜日)

西荻のレストランで夕食。
このレストランに来るのは実に6、7年ぶりになる。ご夫婦二人だけでやっている小さなレストランだ。
実はその昔、この店で女子マラソンのパイオニアにして今は解説でおなじみのMさんに遭遇したことがある。
しかも私自身は初めてのフルマラソン出場を翌日に控えているというタイミングであった。
なもんだから、不躾にもお声を掛けて握手なんかしてもらっちゃったりした。
こういう場合は、見て見ぬふりをするタイプなんだが、タイミングがタイミングなものだから舞い上がってしまったわけだ。
「とにかくスタート後はゆっくり走ること」というアドバイスも頂戴した。
気分としては「ヒデキ、カンゲキ!!」なのであった。

で、翌日のフルマラソン。
スタートから夕べのことがあったせいなのか足取りも軽く、クイクイと進んでいく。
気分としては「俺は風になった!」といったところだ(バカです)。
そのマラソンは、公園の周遊路を周回するコースで42.195キロの2.195キロ部分を最初に公園内をうねうね走ることで消化し、あとは1周4キロの周遊路を10周するというものであった。
天気は良いし、体は軽いし、これはきっと良いタイムが出るに違いないと思われた。
とりあえずの目標は「5時間」であったが、それは「素人が初マラソンで5時間を切れば大したもの」という一応の世間の目安があったからで、自分の普段の走行スピードから考えれば4時間を切ることは楽勝と考えていた。絶好の走り出しによって、それは確信へと変わった。
ところが、その「うねうね」の2.195キロ部分が終わろうとする辺りでガクッと体が重くなり、スピードが急激に落ちた。文字通りの電池切れ状態に陥った。
「夕べのMさんのアドバイスはこのことだったのか!」
と気づいても後の祭りである。前途にはまだ10周40キロが控えている。
こうなると後はただただ完走を目指すしかない。タイムどころではないのだ。リタイアだけはしたくない。
残りの10周を、最初はちんたらジョギングし……やがて、足を引きずるように歩き、給水所では立ち止まって水を飲み、気力を振り絞って再スタートし……を何度か繰り返し、それでもなんとか「完走」というか「完歩」した。
タイムはかろうじて5時間を切った。目標としてはOKといえばOKなのだが、しかし、内容は「歩き」である。完全な敗北であった。
おまけにゴール後は全身痙攣でこのまま死ぬんじゃないかという苦しみに襲われて地面でのたうち回った。同行者はいなかったので、一人で耐え抜かなければならなかった。さんざんな結果となったわけである。
適切なアドバイスを無視するとこういうことになるという見本であった。
いや、無視しているつもりはないのだが一度痛い目に遭わないと学ばないという体質なのである。これは本当にどうにかならないだろうか? どうにもならないんだろうなあ……。

その後、フルマラソンは2回チャレンジした。2回目は見事に4時間を切ってリベンジを果たしたが、3回目は足の故障で30キロくらいでリタイア。
その後は太ったり練習不足だったりでレースにはチャレンジしていない。その期間はこのレストランとご無沙汰していた時期に重なるのであった。
もう一度、フルマラソンを走ってみたいなあと思っているのだが(もう7キロくらい減量が必要?)、チャレンジする体になるのはいつになることやら?

ということで、私担当はこれにておしまい。拙いお話ばかりで失礼しました。

前任者の吉田玲子さんにはお世話にというか迷惑掛けっぱなしで頭が上がらない。いつもニコニコしていて、ご本人が書いてらっしゃるような電車の乗り間違いで遅刻をしたりしても、誰もイラだったりしないでゆったり待とうという気分になるのはその人徳がなせる技でありましょう。
そして、来週から引き継いでくれるのは竹内利光さんであります。
今時のベタな紹介の仕方をすると『サッポロ王子』であります。要するに、札幌出身の好青年。
いつも斬新なアイデアで周囲をうならせるそのセンスは正直うらやましい。ちょっと分けて欲しいくらいであります。

てなわけで、「絶対の自信」のアンダーハンドパスでバトンをお渡しします。


リレー日記TOP