・13:00 特別講義@ 森脇京子「脚本を書くということ」
・14:45 特別講義A 金子修介「私の映画脚本について」
・16:30 特別講義B 秦建日子「私のシナリオ作法」


執筆 及沢七木 (夏の公開講座受講生)

特別講義の第一回は、脚本家の森脇京子先生でした。

森脇先生が書かれた、NHK連続テレビ小説『だんだん』は、1週間でトータル90分となり、1回の放送時間は15分です。そのため、森脇先生は15分毎にちょっとした山場を作っていたそうです。

過密スケジュールで、2日間で睡眠が3時間しか取れないことも、ときにはあったそうです。

しかし、そんな中でも、お子さんのお弁当は欠かさず作っていらした森脇先生曰く、「夕食の買い物をしている時、きゅうりやレタスを選びながら、アイディアがふと浮かぶこともある」のだそうです。

 

『だんだん』で三倉茉奈さんが演じるめぐみの大好物だった“シジミカレー”。この設定も、実は、森脇先生の提案によるものでした。

「松江の物産店に行った時、シジミカレーっていうのがあったから……」

しかし、いくら調べても、舞台となる島根県松江は勿論、現実にはシジミカレーという料理は存在しなかったのです。松江へロケハンに行ったスタッフが、シジミ漁の漁師さんに尋ねてみても返ってきた言葉は、「そんなもの作らない」でした。

それでも森脇先生は諦めませんでした。再度、シナロケも兼ねて、松江を訪れ、件の物産店を訪ねました。と、、遂に真相が明らかになりました。実は、“サザエカレー”を“シジミカレー”だと思い込んでいたのです。

でも、めぐみの父親はシジミ漁師です。その設定を活かすため、シジミに関する料理→シジミカレーを創作することになりました。そうしてスタッフが、料理研究家の方とも相談して、念願のシジミカレーを完成させます。出演者の吉田栄作さんにも好評で、撮影の時は美味しくて完食されていたそうです。

さらにめぐみの弟・健太郎の大好物も“シジミコロッケ”となります。もちろん、シジミコロッケも同様に番組発の創作料理です。

それにより、めぐみの母親は独創的な料理を作る人という設定になったそうです。

そうして『だんだん』の効果により、松江で“シジミカレー”と“シジミコロッケ”が商品化され、大ヒットとなりました。

 

森脇先生のお話が一段落ついたところで、質疑応答の時間となりました。

 

 Q.どうしたら朝ドラを書けるようになれるでしょうか?

大学生のとき、ある関西の劇団に所属した森脇先生は、役者をしながら脚本を書き、その勢いで戯曲賞に応募されました。

「私の想いを忠実に書きました」というその作品は見事入賞。表彰式では、審査員の別役実さん、佐藤信さん、秋浜悟史さんから「作家の書きたいものが、一番強く出ていた」と評されたそうです。

熊谷真実さん主演の昼帯ドラマ『あしたは晴れる』(1997年、MBS)や、『離婚計画〜いつか愛したあなたへ』(2000年、MBS)を執筆され、次々と活動の場を広げていく中で

月曜ドラマシリーズ『生存』(2002年、NHK)が一つの契機となり、その後内藤剛志さん・南果歩さん出演の『はんなり菊太郎』(2002年、NHK)が動き出したそうです。

『新・はんなり菊太郎』の最終回には、先生の特別な想いが込められています。

 

菊太郎(内藤剛志)は、恋人・お凛(星野真理)を助け出すため、剣の達人・三嶋源内 (福本清三)と一騎打ちを繰り広げます。この源内、悪人に加担しつつも武士の魂を持ち続ける男です。

やがて、お凛は救出されますが、菊太郎と源内は竹林を颯爽と走って対決します。そして対決の中、菊太郎は、突然、「やめた」と刀を捨ててしまいます。このまま戦ったら、互角でどちらかが死んでしまうと。どっちが死んでも命が勿体ない、と。

斬られた竹から、竹のいい匂いが香ってきます。生きているからこそ、こんな匂いが嗅げるのです。俺はまだまだ酒も飲みたい、女も抱きたい、酒のあてに、京の湯葉、わさび醤油で食べたことあるか、うまいで・・と、話す菊太郎を前に、ついに源内も刀を捨てるのです。この台詞を書かれたのは、森脇先生のご尊父が逝去された一週間後だったそうです。

 

先生は、泣きながら脚本を書き、こう感じたそうです。

「自分の想いを、ドラマに書き込み、それを大勢の人が共感してくれる。勿論、共感ばかりではなく、批判もあるだろうけれど・・脚本を書くとはこういうことなのかと、その時、初めて、ストンッと胸に落ちた気がしました」

 

先生のそうしたお仕事が繋がっていき、連続テレビ小説『だんだん』(2008年、NHK)への縁(=えにし)になりました。

 

Q.『だんだん』のヒロイン、それぞれの設定は、どうやって生まれたのでしょうか?

森脇先生曰く、主演の三倉茉奈さん、三倉佳奈さんといえば、『ふたりっ子』(1996年、NHK)のイメージが強かったそうです。そのイメージを払拭するため、思い切って1人を祇園の舞妓さんにして、もう1人を普通の暮らしをしている人にしたそうです。

「祇園は凄い世界です」

ちなみに番組作りが縁で、祇園では『だんだん』の視聴率が100%となったそうです。

 

『だんだん』で描かれている祇園の世界、音楽の世界、医療の世界、介護の世界は森脇先生にとって知らない世界ばかりでした。そうした世界を知るには、スタッフに祇園担当、医療担当とそれぞれの担当者が付いたそうです。

「私一人の力じゃ及ばなくて、質問すると、彼らが聞いてきてくれました」

また、先生ご自身の眼で祇園の世界を見に行くこともありました。

「舞妓さんの着付けは、器械体操のように物凄い勢いで、5分くらいで完成するんです。

舞妓さんはみんな、置屋さんに一緒に住んでいて、部屋にある2段ベッドのそこだけが彼女たちのプライバシー空間なんです。枕元に、CDやちょっとしたコミックが置いてあって、15、6歳の女の子なんだなあと思いました」

そうしたことが、ディティールとして先生の中に残っていったとのことです。

 

Q.シナリオの勉強をする上で、大切にしていることは何でしょうか?

 

先生曰く、人を描くこと、人を見ることが大事だそうです。

「私も今、皆さんを見ています」

そして、バス停で待っている時も歩いている人を見たり、電車に乗っている時も、向かいに座っている人の履歴書を想像したりすると面白いそうです。

 

Q.シナリオコンクールへ応募しています。何かアドバイスをお願いします。

 

「自分の持っているものに、合うコンクールってあると思います。例えば、主婦層がターゲットのコンクールもあります。その世界を具体的に描きつつ、自分なりの斬り口で斬ることが大事。所謂、テーマですが、それは、常々、考えていることが大事だと思います」

 

ここで特別講義終了時間となりました。場内から、溢れるような拍手が沸き上がります。先生はにっこりと頭を下げ、教室を後にしていきました。

受講生の間から感想が漏れてきます。『だんだん』のファンばかり。森脇先生が素敵な方で良かった、そんな声も聴こえてきました。

 

ここで15分間の休憩となり、シナリオ講座事務局の方が「何でもご不明な点があれば、スタッフまでよろしくお願いします」とアナウンスをされました。

教室の外からは、花火の打ち上がる音が響いてきます。本日は年に1度の調布市花火大会、その日なのです。今、白昼の空に、空砲の如く予告編的な花火が上がっています。調布の夜空を彩る花火は、ここ、日活撮影所からよく見えるそうです。

 

次は、金子修介監督の特別講義です。講義のテーマは、“私の映画の脚本について”です。

 

金子監督が人生で初めて書いた脚本は、高校1年の時、文化祭用に作った8mm映画の脚本だそうです。『斜面』というタイトルで、約20分の作品でした。

1971年、今から38年前です。当時、そうした映画を作るのは、ビデオではなく8mmフィルムでした。

監督が8mm映画に興味を持ったのは、生徒会の集まりで聞いたある一言からでした。“去年、クラスで8mm映画を作ったら、物凄く盛り上がった”

「その当時、僕にとって雷に打たれたように興奮を呼んで、自分も映画を作りたいという想いが生まれました」

夏休みに金子修介監督・脚本の映画作りがクラスで始まり、秋の文化祭で公開となりました。

「この夏休みは、その時の人生までで最高の思い出です。出来上がった『斜面』を観た時、自分でも感動しました」

この映画を一緒に作った人たちとは、今でもたまに会ってお酒を呑む仲なのだそうです。

その後、プロになり「どんな映画を観て、映画監督になろうと考えたのですか?」

とインタビューされると、金子監督は必ずこう答えているそうです。「自分の作った映画を観て、映画監督になろうと思いました」

 

そんな金子監督は小学校時代、劇作家・野田秀樹さんと同級生で、一緒に「鉄腕アトムクラブ」に入会したそうです。この「鉄腕アトムクラブ」とは、手塚治虫さん創設の虫プロ、その友の会が運営していたものです。

ところが、金子監督が入会した月に、「クラブ」は潰れてしまいます。その「鉄腕アトムクラブ」に代わって、漫画雑誌「COM」が創刊されます。当時、手塚治虫さんは「COM」で漫画家を育成するのを目指していたと云われています。「COM」には漫画の投稿欄があり、中学2年の金子監督も投稿しています。

「1度、漫画がどれくらい評価されるのかと思って応募しましたが、全くダメでした」

 

また、その頃TVで観た『サンセット77』(1958年〜1964年、アメリカ・ABC)に、金子監督は魅了されていきます。

「出演していたセシルBデミル監督が、えらいカッコイイと思って、密かに映画監督に憧れました」

 

ここから金子監督の助監督時代の話題となります。

監督は、大学卒業後に日活の助監督試験に合格しました。そして26歳の時、助監督をしながら社内から脚本のオファーをもらいます。

「前の年、城戸賞に応募して最終選考へ残りました。こういうのは、人生にとって重要なことなんです。賞は獲れなかったけど、“あいつはシナリオが書ける”と周りに思わせることになりました」

さらにその頃、TVアニメの脚本オファーも受けます。そのオファーを出したのは、大学時代の映画研究部の先輩・押井守さんです。

押井さんは、『うる星やつら』(1981年〜1986年、フジテレビ)で初めてチーフ・ディレクターへ昇格し、この作品が金子監督のTV脚本第1号となります。

金子監督には、高校時代からの“映画製作したい”という気持ちがあります。大学に入って、早速、映画研究部へ入ろうと部室の前へ行きます。ところが、部室は鍵が掛かったままです。次の日に行っても、毎日行っても、鍵が掛かっていました。

そんなある日、自治会の委員長に会い「押井守という人が鍵を持っている。明日いらっしゃい」と言われます。

翌日、押井さんが現れて「お茶でも飲もう」と喫茶店へ向います。喫茶店ではもう

1人の部員も加わって、会話が始まっていきます。その部員が「押井、ブニュエル観た?」と、2人で『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』(1972年、ルイス・ブルジョアジー監督)の話題を始めました。

金子監督は、この「ブニュエル観た?」という一言に、雷に打たれたようなショックを受けたと言います。映研とは、そういう言葉を使う所なのか……と。

その日から毎日のように、押井さんと話をするようになり、もう1人と併せて部員3人は、濃密な付き合いとなったそうです。

 

そうした押井さんとの伏線が、『うる星やつら』の脚本オファーへ繋がっていきます。「でも、いくらお友達といっても、城戸賞の最終選考に残ったというのがあって、初めてオファーされるんだと思います」

金子監督は助監督をやりながら、『うる星やつら』、『銀河旋風ブライガー』(1981年〜1982年、テレビ東京)、『おちゃめ神物語 コロコロポロン』(1982年〜1983年、フジテレビ)、『魔法の天使クリィミーマミー』(1983年〜1984年、日本テレビ)とアニメの脚本を手掛けていきます。

「そういうことが、日活に知れ渡っていきました。わざと言いふらしたんですけど(笑) “最近、金子は金儲けに走ったらしい”“金子はホンを書いている”と会社に思わせたかったんです」

 

金子監督が、ロマンポルノで監督デビューした頃のことです。

「(当時)大映の桝井省志さんから連絡があって、大映らしい青春映画を作りませんかと誘われました。ちなみに桝井さんは、その後に大映を離れて、アルタミラピクチャーズを設立しています。

でも、その青春映画は実現しないで、大映が『敦煌』(1988年、佐藤純彌監督)を製作している頃、今度は『大魔神』を作りたいという話が持ち上ってきました。面白いと思ったけど、大魔神やるんならガメラの方がいいんじゃないの?と言いました」

金子監督のこの発言は、やがて監督自身も忘れていきます。ところが、この一言が後々『ガメラ』を監督する伏線となっていくのです。

 

「僕が監督デビューした1984年は、ゴジラが復活した年です。押井さんと一緒に観に行って、自分が『ゴジラ』を撮ったら、どうやろうかなと考えていました」

それでも当時の金子監督は、『ゴジラ』を撮ることは現実的ではないと考えていたそうです。

ところが、その考えを覆す出来事が起こります。自分の齢と3,4歳しか違わない大森一樹氏が『ゴジラvsビオランテ』(1989年)を監督したのです。

「自分ももしかしたら、『ゴジラ』を撮れるんじゃないかと思いました」

そして次作『ゴジラvsキングギドラ』(1991年、大森一樹監督)の上映後に、衝撃的な予告が流れます。その予告では、来年は『ゴジラvsモスラ』を公開すると報せています。しかも、監督の名前はまだ表示されていません。

「また雷に打たれたようなショックでした」

金子監督は、東宝の富山省吾プロデューサー(当時)に年賀状を送ります。 “『ゴジラvsモスラ』の監督が決まっていなかったら、僕に監督をさせてください”と書いて。

すると富山プロデューサーから、丁寧な返事が届きます。 “素敵な年賀状を頂き

ました。実は『vsモスラ』の監督は大河原孝夫さんに決まりました”

 

それから時が経ち、桝井さんが大映を離れ、今度は企画部の砂本量さんが『ガメラ』のオファーをしてきます。このオファーこそ、金子監督が『ガメラ』をやりたいと言った、その一言が伏線になっているのです。

オファーの時、砂本さんは金子監督の『vsモスラ』の件を踏まえて、こう言ったそうです。

「ゴジラの仇をガメラで取りましょう」

 

金子監督は、『ガメラ』の脚本を『うる星やつら』の文芸担当だった伊藤和典さんに依頼します。

「僕の時代的にいうと『毎日が夏休み』(1994年)を撮った直後でした。伊藤さんが書いた『ガメラ』の第1稿が上がって、読み終わった瞬間、雷に打たれたようなショックを受けました。凄く興奮して、これを1年後に撮らなきゃいけないのか、準備が足りないぞと、焦りました」

そうして1995年、『ガメラ 大怪獣空中決戦』が完成します。

 

さて、話題は大きく飛んで『デスノート』(2006年)のお話です。

「『デスノート』の監督依頼が日活からあったのが、2005年12月です。2006年6月に公開というのが決まっていて、その年の年末年始に僕は『ウルトラマンマックス』(2005年〜2006年、CBC)を2本監督することになっていました」

タイトなスケジュールの中、大石哲也さんが1週間で脚本を仕上げます。 

『デスノート』の原作者は、“原作をどう書き換えてもいい”ととても好意的です。ただし1つだけ条件があり、デスノートのルールは変えてはならない約束になりました。そこで、映画に説得力を持たせるため、デスノートの様々な理屈をグラフにして、シナリオ作りを進めていったそうです。

 

この映画では、松山ケンイチさんがL役を演じています。当時、監督がLを演じる役

者さんを探している時、スタッフから松山さんを推薦されました。

「佐藤純彌監督の『男たちの大和/YAMATO』(2005年)に出ていると聞いて観に行きました。坊主頭の松山君の、素朴な芝居が良かったです。でも、全然Lとは違うと思いました。ところが実際に会って話していると、何かのインスピレーションで、松山君のLで映画にしたら面白いと感じて、キャスティング出来ました」

 

そして、映画はクランクイン。

「正月に『ウルトラマンマックス』を撮って日活に来ると、スタッフ全員が待機してこっちを見ていました。シナリオの打ち合わせをして、リュークが出るCGのシーンは、ざっと読んでこのシーンに2カット、3カットという作業をしていきました」

 

映画『デスノート』は、前篇『デスノート』(2006年6月公開)で始まり、後編『デスノート the Last name』(2006年11月公開)で完結します。

「僕としても、前編を撮っている時、後編のことを考えない状態でやっていました。繋いでみた時、これは後編を観たいと思いました。スタッフの誰も、後編がどうなるか考えていないで作っていましたから」

 

そして、監督曰く物凄く苦労したという、後編のシナリオ作りが始まります。

ちなみに、後編のシナリオの打ち合わせは、夏の公開講座2009の会場である、日活芸術学院で行われました。

「頭がウニになるほど苦しみました。月(ライト)とLの対決は、天才2人の対立と云われているけど、作りながら思ったのはどこが天才なんだよと。それぞれが、非常に哀れな子どもなんだと思いました。それで、親の立場で物語を作っています。鹿賀丈史さんが演じた月の父親は、僕にとっては自分の分身です」

 

今年1月公開の金子監督作品の映画『プライド』については、

「人間の嫉妬のエネルギーに焦点を当てて作っています。嫉妬のエネルギーって否定すべきものじゃない、すごくいいものなんだという風に描きました」

 

ここから質疑応答の時間です。

Q.金子監督の映画に対するお気持ちを聞かせてください。

「映画は自分を如何に表現するものであるか、と捉えています。でも、ちょっと最近、自分のことに拘り過ぎていたので、もっと謙虚にやっていこうと思い始めている時期です」

 

Q.シナリオで人物の葛藤をテンポよく表現するのに、気を付けていることは何でしょうか?

「『ガメラ』の例で云うと、テンポを出していくのに、本質的な人間の配置を考えて、葛藤の原因の背景にあるものを追及しました。そういうことを書き込んであるシナリオが、現場としてはほしいと思います。矛盾しているかもしれないけど、そこから切って切ってエッセンスを1行のセリフに凝縮します。それで監督が背景を読み取って 初めて成立していくものだと考えています」

 

さて、この特別講義で、金子監督はとても印象的な話をされています。

「振り返ってみて、父、母、小学校の時の先生、映画界に入ってからの先輩・那須博之さんたちがいたからこそ、今自分がこういうことをしているのだと思います。今後は、この影響を与えてくれた人たちのことを考えながら、何をすべきか、どういう映画を作っていくべきか、真面目に向き合っていこうと思います」

 

惜しまれつつ、金子監督の講義は終了しました。

金子監督の講義後、場内は金子監督の話題で持ち切りとなりました。監督のお話は肩の凝らない面白さで、映画への情熱で溢れていました。

 

本日ラストを飾る特別講義です。秦建日子先生が壇上に上がり、“私のシナリオ作法”の講義をされました。

「僕が、どのようにして作家として食べていけるようになったか、少し長めの自己紹介から始めたいと思います。今日は皆さんから、沢山の質問カードを頂いています。僕もこういう形で皆さんにお話する経験があまりないのですが、この時間を意味のあるものにしていけたらと思います。

私は大学を出てから、28歳までサラリーマンをしていました。シナリオとは関係のない金融業界です。ドラマの世界に行こうとしたのが28歳の時で、随分遅いスタートだと思ったりしましたが、実際やってみて、年齢はあまり関係ない世界だと判りました。ドラマの世界へ入ったきっかけは、金融サラリーマン時代に営業マンをしていて、所謂飛び込み営業でたまたま新宿のマンションを片っ端から、こういうクレジットカードは如何でしょうかと回っていました。

その時に偶然入ったマンションの1室がつかこうへい事務所で、つかさん本人がいて、中へ入れて頂きました。

そこから、つかさんと1時間くらい雑談したのが、すべてのきっかけです(笑)

 

つかさんが、“お前は毎日毎日いろんな所を回っているのか”と聞いてくるので、“仕事なので回っています”と答えました。すると、つかさんは急に“深夜のTVドラマの脚本を頼まれているんだけど、誰か面白いのを書ける奴いないか”と言い出したんです。

びっくりしましたけど、営業マンだから話を弾ませようとして“書くのっていいですよね、憧れますよね”と相槌を打ちました(笑)

そうしたら、つかさんが“書きたいのか?”と言ってきて、“憧れますね”とまた話を合わせました。

これ、脚色なしの会話です(笑)

 

つかさんは、眼の前に会った電話を急に掛け始めて“この前のドラマな”とか話しを始めているんです。それで僕の方を見て“お前、名前 何て云うんだ”と聞いてくるので、“秦と申します”と答えたんです。つかさんは、電話の相手に“秦って云う奴が書くことになったから”と言って、電話を切ってしまいました。

 

それで、深夜ドラマの脚本を3日で書くハメになりました。

つかさんはカリスマ性のある方で、言い返すとか、“出来ません”とか言えない雰囲気があるんです(笑)

 

その足で新宿の本屋さんへ行って、月刊「ドラマ」を買いました。巻頭特集に“シナリオの書き方”が載っていて、見よう見まねで3日で30分のドラマを書いて持っていきました。

後から判ったんですが、つかさんが当時やっていたイタズラで、来る人来る人30人くらいに声かけて、真に受けて10人くらいがシナリオを書いてきたみたいです。僕もその1人です。

“書いてきました”ってシナリオを渡すと、つかさんは1文字も読みもしないで、それをそのまま関西テレビのプロデューサーに渡されてしまい、そしてしばらくすると、そのプロデューサーから電話が掛かってきて、“秦君のを採用しよう”と言われました。

登場人物が2人の深夜ドラマで、他の人がみんな男と女で書いてきた中で、僕のだけ男と男で書いていたのが良かったらしく“君のでいくよ”となりました。

 

それがきっかけで、つかさんの所の小間使いというか雑用係を会社員やりながらするようになりました。平日だろうが朝だろうが電話が掛かってきて、つかさんが“あれしろ”“これしろ”と言うと“ハイ!”と飛んでいくような生活を2年くらいしました。

 

ある時、つかさんから急に、“お前、舞台の演出するか?”って言われたんです。 それまで演出なぞ一度もしたことはありませんでしたが、つかさんは“出来ません”とは言わせない雰囲気を持っていて、“ハイ、やります”と返事してしまいました。

つかさんに“お前は返事が早くていいな”と褒められました。つかさんに褒めらたのは、後にも先にもこの時1回だけです(笑)」

 

秦先生は舞台の初演出が契機で、会社を退職します。

「いざ会社を辞めたら、いろんな人が心配してくれたんです。知り合いの映像製作会社のプロデューサーが、企画書を書く仕事をお小遣い稼ぎにやってみませんか? と声を掛けてくれて、食うために一にも二もなく飛んでいきました」

そうした縁から、秦先生はホリプロで企画書作りを始めます。ホリプロは、タレントさんのマネージメント以外にも、数多くのドラマを自社製作しています。

「1年で50本くらいのドラマの企画書や、番宣番組の構成台本を書かせてもらいました」

当時、TV界で殆ど実績のなかった秦先生は、ここで2つの作戦を実行します。シナリオの仕事に繋がったその実行は、実に驚くべきものです。

 

【実行その1】

“製作会社の隣に引っ越す”

秦先生は、すぐにホリプロの近所へ引っ越します。その時のアピールの言葉はこうです。

「僕くらい、電話をもらってすぐに来れる人間はいません。電話をもらって10分後にはホリプロの会議室にいられます」

プロデューサーは「君はチャレンジャーだな」と驚いたそうです。ベテランの脚本家さんが急遽降板した時など、このフットワークの軽さが喜ばれたみたいです。秦先生曰く、実績のない新人がチャンスをもらう一番多いパターンは、他の人のピンチヒッターだそうです。

 

【実行その2】

“24時間、ケータイが繋がるようにする”

当時のケータイは、地下鉄に乗ると電波の送受信が困難になっていました。そこで先生は、1年間何があっても地下鉄に乗らないことにしました。移動は地上の電車を利用し、地下のお店にも一切入らないよう徹底します。

「そんなことを1年間やりました」

そして、1年後。

ホリプロの紹介で、『火曜サスペンス劇場』(1981年〜2005年、日本テレビ)へ参加することになります。秦先生は企画書を何本も提出し、遂には脚本家としてホンを発注されました。

片平なぎさ・船越英一郎主演『小京都ミステリー』シリーズ(1989年〜2001年)です。

人気シリーズに新しい脚本家が登板するのは、新風を吹かせたいというプロデューサーの意向です。しかし当初、プロデューサーは別の脚本家へ依頼しようとしていました。

まず、プロデューサーは売れっ子脚本家・ Aさんに電話をします。ところが運悪く、Aさんのケータイには繋がりませんでした。

そこで今度は、ベテラン脚本家・Bさんに電話を掛けます。当時のBさんはケータイを持っていません。Bさんのご自宅に掛けると、あいにく外出中で連絡が取れませんでした。

プロデューサーは、仕方なく3人目に掛けます。

「3人目、僕の所に掛かってきて、繋がっちゃった……みたいな感じで、今から日テレ来れない? と言われました」

そこから秦先生は、良ければ採用の“脚本チャレンジ”としてプロットを提出します。そして社内の会議でプロットが通り、シナリオ執筆の座を勝ち取るのです。

「1年間、地下に入らなかったことが、無駄ではなかったという感じで、シナリオライターになりました」

以後1、2年間、秦先生は『火曜サスペンス劇場』専用ライターとして活動していきます。

そんなある日、ドラマの出演者の1人が「作家のマネージメントもしている事務所に、所属してみたら?」と持ち掛けてきます。秦先生は考えます。事務所へ入れば、仕事の幅が広がるかもしれないと。

そうして、シナリオライターとしてその事務所に所属することになりました。小さな事務所だったそうで、やがて役員も兼ねるようになります。

事務所は大勢の連ドラ・ライターを輩出しました。そして、十年目の今年、秦先生は独立して新たに作家事務所を立ち上げました。

「OFFICEBLUEという事務所です。OFFICEBLUEにオファーすれば、必ず高いクオリティのものを提出してくる―――そう関係者の皆さんから言って貰えるような事務所を目指して、今、頑張っています」

さて、『火曜サスペンス劇場』を執筆していた秦先生は、事務所に入ってプロデューサー回りを始めます。そこで知り合ったプロデューサーの1人が、『世にも奇妙な物語』(1990年〜、フジテレビ)を手掛けていました。その縁で秦先生は、『世にも奇妙な物語』で『マニュアル警察』(1999年『秋の特別編』にて放送)の脚本を書きます。

さらに、当時は『世にも〜』を手掛けたライターは『金曜エンタテイメント』(1993年〜2006年、フジテレビ)にチャレンジ出来る不文律があったそうです。

そうしてこの枠で、『お気らく主婦の大冒険3』(2000年、フジテレビ)などを執筆していきます。

そして前述のプロデューサーの依頼により、『ショカツ』(2000年、関西テレビ)

に参加します。戸田山雅司さん、高山直也さんに次いで3番手のライターです。

当時はセカンドライターとして登板することも多く、フジテレビだけでも『二千年の恋』『編集王』『HERO』『救命病棟24時 (第2シリーズ)』と殆どのクールに携わっていきます。

「やっている内に業界に認知され、仕事が出来るようになりました。自分は食べていくのに必死でした」

 

ここからは質疑応答です。秦先生は、1つ1つの質問に丁寧に回答してくれました。

 

Q.2時間モノを1本書くのに、どのくらいの時間が掛かるのでしょうか?

「時間は、沢山あればあるほど有難いです。撮影スケジュールが迫っていて、超特急でと言われれば、2日で書きます。キャリアがない内は、ある程度の速さが求められると思います。2、3日で書くスピードが、TVでやっていくには必要かもしれません。僕の知っている若手ライターは、1時間ドラマを1日で書いたそうです。

『天体観測』(2002年、フジテレビ)の脚本の打ち合わせは、20時間掛かりました。朝8時に終わって、締め切りがその日の夕方4時です。最終回近くになると、楽屋みたいな所でプロデューサーと打ち合わせしていて、気を失いそうになると、洗面台に水を張って頭を突っ込んで意識を戻していました。必要とされているスピードは、そんな感じでしょうか」

 

Q.企画書を書く時、気を付けていたことはありますか?

「まあまあと言われても、仕事には結び付かないと思います。面白かったと言われても、まだ仕事には結び付かないことがあります。すっごく面白いと言われて、はじめて仕事に結び付いたりします。ポジティブに考えてみると、最初の内は失うものがないんです。勝ちが引き分けしかない。負けはないです。元々仕事がないですから。他の人と同じような無難な企画書を書いても、勝率は上がらないと思います。10人中9人が“君は変わっているね”と、これは秦のだって判ればいいやって、開き直りました。思いっきり振り切ったものを、書いた方がいいかもしれません」

 

Q・TVドラマのシナリオの書式を教えてください。

「1行が30字で、34行です。

A4の紙1ページ34行で、平均的ドラマで2分の長さになります。

シナリオの場合、その書式で書くと、

30枚で1時間モノ

60枚で2時間モノ

の目安です。

キャラクターがよく喋る作品だったり、反対に「……」が多い脚本だと枚数が変わってきます。

僕の場合、

1時間モノは32、3枚前後

2時間モノは64、5枚前後で出しています」

 

ここで惜しくも、特別講義の終了時間となります。最後に秦先生は、私たちに「がんばってください!」と力強い声援をくれました。皆一様に自然と両掌を叩き出し、会場の隅々まで拍手の音が響き渡りました。

秦先生がお帰りになった後、場内は先生脚本のドラマの話題で盛り上がりました。そして、ドラマ以上に秦先生ご自身のファンになった人も目立っていました。

 

これで本日の講義はすべて終了です。

 

夏の公開講座2009は、明日へ続きます。ミッドポイントとなる第2日目は、こんな考え方があったのか! と秘伝の骨法を伝授されました。この日「以前」と「以後」とで、私たちのシナリオ観に変化が生まれています!

 

 

及沢七木(受講生)プロフィール

夏の公開講座、毎年受講しています! 東京都在住。大学卒業後は会社勤務と併行して、シナリオの勉強に励んでいます。

第7回函館港イルミナシオン映画祭短編シナリオ部門で最終選考。

月刊「シナリオ」誌08年2月号、5月号、10月号にて“シナリオ倶楽部新聞”執筆。

ソニーマガジンズ『ベッキー・1stフォトエッセイ べき冷蔵庫』制作スタッフ。

今までに感銘を受けた映画は『マリア・ブラウンの結婚』『カイロの紫のバラ』『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』などなど。感銘を受けたTVドラマは『きらきらひかる』『白い巨塔』などなど。