「冬の十姉妹」  米村正二 登場人物  佐伯美奈子(21)主人公  片倉由紀(28)美奈子の姉  片倉晃(32)由紀の夫  佐伯実(52)美奈子の父  絹田幸子(40)実の愛人  カウンセラー(38)美奈子のカウンセラー  田中(50)美奈子が働く工場の社員  政江(49)同じ工場のアパート  社員A(30)ディスカウント店の社員  男A(45)総合通販社員  浮浪者(65) ○ ビルとビルの間(夕刻)   美奈子(21)はビルとビルの間に出来た、   たった1メートルの隙間にじっと座って   いる。   美奈子の目は前方を凝視したまま動かな   い。   髪は乱れ、服も汚れ、段ボールの上に座   り込んだ外見はまるで乞食のそれである。   まばたきをした時、美奈子がまだ死んで   いないことが分かる。   美奈子の目に映るのは、まるで縦無限大、   横1メートルのスクリーンの様な細い空   間だけである。   通りを歩く人達の姿が、その瞬間から、   一瞬、一瞬、フラッシュの様に見える。   美奈子はゆっくりと空を見上げる。   ビルの間から雲にかすんだ夕日が見える。   空は星空へのオーバーラップする。 ○ 星の輝く夜空   カメラはその中をどんどん進んでいく。 カウンセラーの声「あなたが思っているほど  誰もがあなたに注目しているわけではない  のよ」 ○ 星を見る美奈子の顔 ○ カウンセリングルーム   部屋の天井に夜光塗料を使って作られた   星空。   薄暗い部屋のリクライニングの椅子に座   って、その星を見ている美奈子。   その横に座っている中年の女性カウンセ   ラー。 カウンセラー「何が怖いの?」 美奈子「……」 カウンセラー「私に会っても平気になったじ  ゃない」 美奈子「先生は優しいし…無闇に人を疑った  りしないし」 カウンセラー「誰だって優しいし、無闇に人  を疑ったりしないわ」 美奈子「それは何度も会ってるから」 カウンセラー「じゃあ初対面の何が怖いの?」 美奈子「……」 カウンセラー「思いつく最悪の事を考えてみ  て」 美奈子「……ぶつかもしれない、いきなり」 カウンセラー「もしぶたれたら、どうかしら?」 美奈子「……」 カウンセラー「それはそんなに大問題かな?」 美奈子「……」 カウンセラー「最悪の事態でも、せいぜいぶ  たれるぐらいなのに、それが怖くて人と接  することが出来ないというのは損なんじゃ  ないかしら」 美奈子「……」 カウンセラー「そう思わない?」 美奈子「思っても…思ってるけど」 カウンセラー「そりゃいきなりは無理だけど、  少しずつでいいから、自分を変えていかな  いと」 美奈子「…同じこと言うんですね」 カウンセラー「何が?」 美奈子「変えろ…自分を変えろって…みんな  そう言う」 カウンセラー「それはでも…焦らずじっくり  でいいんだから」 美奈子「(起き上がり)もういいです(行く)」 カウンセラー「ちょっと、佐伯さん」 美奈子「(お辞儀し)ありがとうございまし  た」 ○ 八王子の街を自転車で走る美奈子   風景は街並から住宅街、そして、田んぼ   などのある田舎の風景に変っていく。   その絵に重なり、   メインタイトル   『冬の十姉妹』 ○ 大型ディスカウントショップ   東京都八王寺市のはずれ、倉庫の様なデ   ィスカウントショップ。 ○ 同・店内   店のエプロンをした美奈子が段ボール箱   から商品をだして並べている。   冷たい印象を与えるその無表情な顔。   美奈子、誰かの視線を感じ、横をむくと   ファミコンソフト売場の二人組の中学生   と目が合う。   中学生二人は美奈子から隠れるように棚   の陰に入る。   美奈子は壁にある万引き防止の鏡を見る。   鏡には中学生が自分達のナップザックに   ファミコンソフトをつっこんでいるのが   写っている。   美奈子は体が硬直した様に動けないでい   る。   美奈子の背後にいつのまにか立っていた   社員の男A(35)が中学生達の方へ歩い   ていく。   その拍子に美奈子とぶつかり、美奈子、   よろける。   鏡に逃げようとする中学生達を捕まえる   社員Aの姿が写る。   体を硬直させたままそれを見ている美奈   子。 ○ 同・搬入口付近   苦い表情で煙草を吸う社員Aと俯いたま   まの美奈子が立っている。   奥の社員休憩室からはヤクザの様な口調   で怒鳴る男の声と、大袈裟な泣き声で許   しを請う中学生達の声が聞こえる。 社員A「奴ら、嘘泣きまでして、許してくだ  さいの一点張りだ」 美奈子「……」 社員A「そういうズーズーしさ、ちょっと見  習ったらどうだ?」 美奈子「……」 社員A「万引き見つけたら注意するとか、誰  かに言いに行くとか、それぐらい出来るだ  ろ?」 美奈子「……」 社員A「まただんまりか?」 美奈子「……」 社員A「黙ってたら……(諦めて)もういい  よ」 美奈子「……」 社員A「暗いよな、他のバイト見てご覧よ、  みんな元気よく返事するだろ」 美奈子「……(さらに俯く)」 社員A「(舌打ちし)どうしょうもねえなあ」 美奈子「……」 ○ 佐伯家(夜)   まだ田んぼの残った一角いある平均的な   二階建ての家。 ○ 同・食卓(夜)   美奈子が座っている。   姉の由紀(28)が料理をしている。 由紀「それぐらいのことで諦めちゃ駄目じゃ  ない」 美奈子「……もういいよ」 由紀「なに言ってるの、明日、あたしが一緒  に行ってあげるから、バイト先」   父の実が(52)が帰ってくる。 実 「ただいま」   とボソリと言うと通り過ぎようとする。 由紀「お父さん、美奈子がまたバイト先辞め  るって」 実 「美奈子の事はおまえに任せてる」 由紀「でも、たまにはお父さんからも」 実 「じゃ言うが、もう働きになんか出るな」 美奈子「……」 由紀「何言ってるのよ」 実 「仕事先で何があったか知らんが、働き  に出る度に傷つくんじゃ、逆効果じゃない  のか」 美奈子「……」 実 「社会に対応できるようになってから働  けばいいんだ、聞いてるか? 美奈子」 美奈子「……」 実 「……それが一番いいと思う、お父さん  は(行く)」 由紀「……(実を追いかける)」 美奈子「……」 ○ 同・実の寝室   母、淳子の仏壇がある。   実を追うように入ってきた由紀。 由紀「家にずっといたんじゃ、立ち直るきっ  かけも何もないわよ」   実は背広を脱ぎ、ジャージに着替えなが   ら、 実 「これ以上傷ついたらもっと悪くなる」 由紀「そんな病気みたいな言い方、ちょっと  引っ込み思案なだけじゃない」 実 「美奈子のことはいい、それよりおまえの  連れてきたあの片倉とかいう男」 由紀「晃さんがどうしたの?」 実 「あの男とのつき合いは止めなさい」   ジャージに着替え終わった実、部屋から   出る。 ○ 同・食卓(夜)   勝手口のドアを開けて外を見えいる美奈   子。   木が強風に揺れている。   実が来て、冷蔵庫からビールを出す。   由紀、追いかけてきて、 由紀「何よ、いきなり、私達もう結婚の約束  してるわ」 実 「離婚歴があるとは聞いてなかったぞ」 由紀「……調べたのね、いやらしい」 実 「相手の素性を調べちゃいけないのか」   美奈子、外を見ながら聞いている。 由紀「そんなことをしないでも、そのうち話す  つもりだったわ」 実 「それになんだ、訪問販売なんて人をだ  ますような仕事じゃないか」 由紀「だますなんて、ちゃんとした仕事だわ」 実 「もしその男の会社が違法な事をして問  題になったら、どうするんだ? 役所だっ  て辞めなけりゃならん」 由紀「そんなこと」 美奈子「外」 実 「……」 由紀「……」 美奈子「木枯らし……」 実 「…とにかくあんなインチキ商売をして  る様な男とは別れなさい」 美奈子「お母さんが死んでから家の事全部  やってくれたの、お姉ちゃんじゃない、そ  れなのに」 実 「(遮り)もうこの話は終わりだ。由紀、  お前の相手ならもっとちゃんとした男を探  してやる。だからあの男とは二度と会うな、  いいな」 美奈子「勝手過ぎるよ」 実 「お父さんの言うこと、分かるな?」 由紀「もうやめて!」 実 「……」 美奈子「……」   由紀、二階へ駆けていく。 ○ 二階・由紀の部屋   由紀がバッグに荷物を詰めている。   美奈子が入ってくる。   由紀、それでも手を止めない。 美奈子「ひどいよね、お父さん」   由紀、手にしていた服を叩き付け、 由紀「私、絶対別れたりしないわ」 美奈子「うん」   由紀、興奮が納まると、涙が溢れてくる。 美奈子「……あの人の所へ行くの?」 由紀「行けるわけ…ないよね(笑って誤魔  化しながら涙を拭き)何してるのかしら私」 美奈子「行っちゃえばいいんだよ。お姉ちゃ  ん、今まで頑張ったもん」 由紀「……そんなことはない…私だって」 美奈子「……」 由紀「全部おっぽり出して、家を出ちゃおう  かって何度も考えたわ」 美奈子「私がいたから? だから出られなか  った?」 由紀「何言い出すのよ、そんなんじゃない」 美奈子「だって、せっかく勤めた会社だって  私のために」 由紀「あれは嫌な上司がいたから辞めたの、  美奈子のせいじゃないわ」 美奈子「私ならもう大丈夫だよ」 由紀「本当にそう? アルバイトだってまた  辞めちゃいそうじゃない」 美奈子「ちゃんと行くよ、明日」 由紀「料理とか洗濯とかは? お父さん、何  もしてくれないわよ」 美奈子「私がやる。私、これからは一人で何  でも出来るようになるって約束する」 由紀「ほんとに?」 美奈子「(頷く)」 由紀「私、あの人の所へ行ってもいいの?」 美奈子「(力強く頷く)」 ○ 同・1階   由紀と美奈子が階段を下りてくる。   下がると実が待っていた。   実は由紀が大きなバッグを持っているの   を見て、 実 「何の真似だ」 由紀「私、あの人の所へ行きます」 実 「馬鹿な真似は許さん(由紀のバッグを  つかむ)」 由紀「離して、自分の事は自分で決めるわ」   美奈子は部屋中の窓という窓を開けて回   る。 実 「美奈子、何してるんだ」   美奈子は窓を開けるのを止めない。 実 「閉めなさい」   開け放たれた窓からは強い風が吹き込む。   由紀はバッグを引っ張り、実の手は離れ   る。 実 「閉めなさい、美奈子」   美奈子は木枯らしを受けながらその窓の   前に立っている。 美奈子「行ってらっしゃい、お姉ちゃん」 由紀「……行ってきます」 実 「由紀!」   由紀は玄関に向かう。   美奈子、風を受けながら立っている。 ○ 新興住宅地の路地(夜)   バッグを持った由紀が路地に吸い込まれ   るように歩いていく。   それを見送る美奈子。 美奈子の声「でも結局お姉ちゃんとの約束は  守れなかった。あれから3週間、私はバイ  ト先に戻ることも出来ず、ずっと家にいた」 ○ 佐伯家・美奈子の部屋・三週間後   金魚鉢をじっと見つめる美奈子。   金魚鉢には一匹の赤い金魚がいる。 美奈子「私もそこに行っていい?」   美奈子は金魚鉢をツンと指で弾く。   下から実の怒鳴り声が聞こえる。 実の声「帰ってくれ!」 ○ 同・玄関   美奈子がやってくる。   三和土に額をつけて土下座をしている男、   片倉(32)に向かって怒鳴っている実。 実 「こそ泥の様な真似をして娘を奪って、  何が結婚式だ」 片倉「(額をつけたまま)全て僕の責任です」 実 「分かってるなら娘を返せ」 片倉「由紀さん、必ず幸せにします。ですか  ら式の方には」   顔を上げた片倉の顔は涙に濡れている。 実 「うるさい! 話にならん」   実は玄関から立ち去る。 片倉「お父さん」   泣き濡れたせつない顔の片倉、じっと立   っている美奈子を見ると、にっこりとし   た笑顔を見せる。 美奈子「……」 ○ 路上   立ち話をする美奈子と片倉。 片倉「これ、招待状、君の分とお父さんの  (美奈子に渡す)」   美奈子が受け取ったのは結婚式の招待状   であった。 片倉「僕は身寄りもないし、君と君のお父さ  んしか呼んでないから、ぜひ来てほしい」 美奈子「……」 片倉「それじゃ(行く)」   片倉、歩き出し、美奈子、その後を付い   ていく。   それに気づいた片倉が立ち止まると美奈   子も立ち止まる。   片倉、振り返って美奈子を見る。 片倉「何だい?」 美奈子「……(俯く)」 片倉「君のこと、由紀から聞いてるよ、ちょ  っと変ってるんだってな」 美奈子「あの…」 片倉「うん?」 美奈子「あの涙、嘘だったんですか」 片倉「なんで?」 美奈子「だって……すぐ笑ってたし」 片倉「いや、本当に申し訳なかったし、自然  に出た涙だよ」 美奈子「……でも」 片倉「切り替えが早いんだ。涙も土下座も仕  事でしょっちゅう使ってる手だからね。で  も気持ちは本当だ」 美奈子「……(感心している)」 片倉「しかし結局許してもらえなかったな」 美奈子「……すごいです」   感心している美奈子を見ていた片倉、微   笑み、 片倉「由紀は色々心配してるみたいだけど、  君はそのままでいいんかじゃないのか」 美奈子「!」 片倉「今のままでさ」 美奈子「そんな無責任な事言わないでくださ  い」 片倉「いや俺は本心で」 美奈子「私のことはいいんです。ほっといて  下さい」   美奈子、走り去る。 ○ 簡素な教会・数日後   美奈子が教会の前でたたずんでいる。   やがてドアを開けて中にはいる。 ○ 同・中   指輪の交換をしていたウェディングドレ   スの由紀とタキシードの片倉が美奈子の   方を見る。 由紀「美奈子」 片倉「……」 美奈子「お姉ちゃん」 ○ 同・前の階段   美奈子、由紀、片倉が並んで立っている。 カメラ屋「それじゃいきます。まばたきしな  いようにハイ、123」   フラッシュが光る。 カメラ屋「はい、ご苦労様です」 由紀「来てくれてありがとう、美奈子」 美奈子「綺麗だよ、お姉ちゃん(片倉を見て  お辞儀する)」 由紀「…美奈子、あれからちゃんと仕事行っ  てるの?」 美奈子「(俯く)」 由紀「その様子じゃカウンセリングもさぼっ  てるな」 美奈子「ごめん」 由紀「今ね、晃さんに頼んで、いい仕事先探  してもらってるのよ」 美奈子「……そう」 由紀「受けてくれるわね」 美奈子「(不安げに)私みたいのでもいいの?」 由紀「そんな言い方しちゃ駄目よ、少しずつ  でも変えていければいいんだから」 美奈子「うん」   美奈子、片倉と目を合わせ、俯き微笑む。 由紀「何?」 美奈子「だって逆の事、言うんだもん」 片倉「(にこりと笑い)俺はこの間言ったこ  と、やっぱり今でも正しいと思ってるよ」 由紀「何を言ったの?」 片倉「秘密だよ」 美奈子「うん」 片倉「(美奈子に)仕事のことは暫くしたら  こっちから連絡するよ」 美亜子「ありがとう、お姉ちゃん、片倉さん  も」 ○ 佐伯家・美奈子の部屋(数日後の夜)   真暗な部屋の中、ピアノの前に座る美奈   子の姿が月明かりに照らし出されている。   美奈子は柔らかく静かな指使いでショパ   ンの夜想曲作品9の3を弾いている。   美奈子の前には由紀、片倉と教会で写し   た写真がある。 ○ 総合通販株式会社・会社説明会場   社員の男Aが会社概要を喋っている。 男A「電話アポイントによる販売営業はこの  不況の時代にあっても売上が向上するまさ  に不況知らずの……」   15人ほどのスーツを着た女性達が席に着   き、その一番後ろの隅に美奈子がいる。   後ろのドアから片倉が入ってくる。   片倉は壁際に立っている年配の男に軽く   会釈する。   年配の男も片倉に軽く手を上げる。 男A「それでは自己紹介がてらお名前と仕事に  対する意気込みを言ってもらおうかな」   男Aは美奈子を指さす。 男A「立って」   美奈子は不安そうに立ち上がる。 男A「人間の行動は普段の行動に表れるんだ  な。目立たず無難に生きていこうと思って  いる人は知らぬ間にそういう位置に座って  しまう。今日から変えてください。さあ、  積極的にどんどん自分をアピールしてくだ  さい」 美奈子「……(俯いてしまう)」 男A「お名前は?」 美奈子「……」 男A「少々きついことを言われたからといっ  て一々落ち込んでたんじゃ仕事なんか出来  ないよ、君。さあ名前は? 名前ぐらい言  えるでしょう」 美奈子「……(俯いたままである)」   場内に白けた空気が流れる。   片倉、じっと美奈子を見ている。 男A「じゃあ君は最後に回してあげよう、座  っていいよ」   美奈子はじっと立っている。 年配の男「君、座っていいんだよ」   美奈子は立っている。 男A「(気を取り直して明るく)それじゃ、  その前の人」   美奈子の前に座っていた女性が立ち上が   る。 女性「伊藤恵子と言います。以前はOLでー、  OLっていってもお茶汲みばかりでー、こ  ういったやりがいのある仕事をして……」   その女性の言葉が続く中、片倉は美奈子   を痛々しそうに見ている。   美奈子はただじっと立っている。 ○ 同・ビルの出口   美奈子が出てくる。   美奈子は外で待っていた片倉に気づくと   走り去る。 片倉「待てよ」   美奈子の後を追いかける片倉。   細い路地に入ったりして逃げ回る美奈子。   美奈子を捜しながら走っている片倉、美   奈子の姿を見失う。 片倉「まるでネコだな」   片倉が立ち止まった場所に3階建てのビ   ルがあり、その脇には最上階まで続いて   いる非常階段がある。   その階段を見上げる片倉。 ○ そのビルの屋上   美奈子が屋上のヘリのそばに立ち、下を   見ている。 ○ そのビルの屋上   美奈子が屋上のヘリのそばに立ち、下を   見ている。 片倉の声「飛び降りるつもりなら、俺が押し  てやるぜ」   美奈子、振り返ると片倉がいる。 美奈子「そんな勇気も…ないもん(座り込む)」 片倉「(明るく)失敗しちゃったな、就職」 美奈子「……(ポツリと)心の中じゃ笑って  るんでしょ」 片倉「笑っちゃいないね、逆に感心したよ」 美奈子「……」 片倉「今時、こんな無器用な子がいるんだっ  てね」 美奈子「……」 片倉「君はジェームスボンドじゃないんだか  ら、身の上がばれたところでどうってこと  ないんだぜ」 美奈子「……」 片倉「今のままでいいって言っただろ」 美奈子「…ジェームスボンドなんて知らない」 片倉「無理して自分を変えようなんて考える  から、余計固くなっちまうんだ」 美奈子「今のままでいいわけない…です」 片倉「俺も含めて、ずうずうしい人間を多過  ぎるからな、君みたいな子に会うとホッと  する…ホントだぜ、この話」 美奈子「そんな風に言われたの…初めてです」   美奈子、伏目がちになり、泣くのを堪え   ている。 片倉「俺、下で待ってるから、泣きたかった  ら、泣けよ」 美奈子「私は…泣かない」 片倉「俺な、君の姉さんの前で大泣きしたこ  とがある…前の女房には涙ひとつ見せなか  ったのに」 美奈子「泣いたりしたら……二度と泣き止む  事が出来ないような気がするから」 片倉「……泣いてみないと分からないだろ」 美奈子「……」   美奈子の頬から涙がこぼれ落ちる。 片倉「……下で待ってる」   片倉、歩き始める。   髪をかきむしり、さらに大声を挙げて泣   く美奈子。   それを痛々しく見ている片倉。 片倉「そのうち泣きやむよ」   美奈子は大声で泣き続ける。 ○ 佐伯家・美奈子の部屋   閉めきられて真暗な部屋の雨戸を開ける   美奈子、部屋内に陽が入る。   金魚鉢の中の金魚がまぶしそうに反応す   る。   美奈子は窓からの光に照らされた散らか   り放題の衣類や本、雑誌などを眺める。 美奈子「……」      ×   ×   ×   美奈子、物凄い勢いで散らかった部屋を   片付けている。 ○ 同・応接間   美奈子が掃除機をかけている。   コンロではカレーの鍋が煮えている。   美奈子は腕を捲り、流しにたまった汚れ   た食器を洗っている。   玄関が開く音がする。 美奈子「お帰り」   実が入ってきたかと思うと、その後ろに   年のわりには派手な服装の絹田幸子(40)   がいる。 美奈子「……」 実 「こちら絹田幸子さんといってな、まあ  簡単に言えばお手伝いさんだ、週に何回か  来てもらう事にした」 幸子「絹田です(お辞儀する)」   美奈子もぎこちなくお辞儀する。 実 「お前も家事に追われて大変だろ、まあ  気さくな人だからお前もすぐに馴れる」 幸子「よろしくね、美奈子ちゃん」 美奈子「……」 実 「ほら、ちゃんと挨拶しなさい」 幸子「いいんです。まあカレー作ったのね、  おいしそう、私も一緒にいただいちゃおう  かな」   美奈子、二階への行ってしまう。 実 「美奈子」 ○ 同・外(夜)   タクシーに乗って帰る幸子を実が見送っ   ている。   幸子、慣れた感じで優しく実の肩の埃を   はたいてやる。 ○ 同・美奈子の部屋(夜)   部屋の窓からその様子を見ていた美奈子。   その表情は冷たい。 ○ 同・由紀の部屋(夜)   美奈子が電灯を点ける。   衣装ケースや段ボールが積まれた、既に   住人のいない由紀の部屋。   美奈子は由紀の机の引き出しを開ける。   そこには数枚の片倉と由紀が二人で撮っ   た写真。 ○ 同・美奈子の部屋(夜)   ピアノの椅子に座り、たたずんでいる美   奈子。   ピアノの上に置かれた三人で教会で写し   た写真。   その写真に重なるようにもう一枚の写真、   片倉が一人で写っている。 ○ 同・食卓・数日後   昼食を盆に乗せた幸子が階段を上ってい   く。 ○ 同・美奈子の部屋の前   ノックする幸子。 幸子「お昼ですよ」   返事はない。 幸子「たまには下で一緒に食べない?」   返事はない。 幸子「一人で食べたっておいしくないでしょ、  おばさん、美奈子ちゃんとお喋りがしてみ  たいのよ」 美奈子「ほっといて」   幸子、ため息をつくと食事を乗せた盆を   置いて立ち去る。   幸子がいなくなるとドアから手だけを出   した美奈子がその盆を中に入れる。 ○ 同・玄関   呼び鈴が鳴り、幸子がドアを開ける。   外には由紀と片倉が立っている。 幸子「あの、どちらさんですか?」 由紀「あなたこそ誰なんですか」   階段を駆け下りてきた美奈子。 美奈子「お姉ちゃん」 ○ 同・美奈子の部屋   窓際に立っている由紀。   窓のサッシに座っている美奈子。 由紀「そう…お父さんの知ってる人なのね」 美奈子「……」 由紀「…お母さんが死んでからもう六年だも  のね」 美奈子「うん」 由紀「一度離れると、もう他人の家みたい」 美奈子「まだそんなに経ってないのに」 由紀「私の部屋は物置きになっちゃってるし」 ○ 同・由紀の部屋   衣装ケースや段ボールなどが置かれた   部屋の中で片倉がボーッとしている。 ○ 同・美奈子の部屋   由紀、ピアノの方へ行く。 美奈子「あれはお父さんが」 由紀「いいのよ、ちょっと言ってみただけ…  ねえピアノ、やってないの? あれ以来」 美奈子「時々、一人の時、弾いてる」 由紀「もう忘れていいんじゃない」 美奈子「そうしたい」   由紀、ピアノの上の教会で撮った写真を   手に取り、もう一枚写真があるのに気づ   く。   それは片倉の写真であった。 由紀「!」   由紀、美奈子を見ながら写真を置く。   美奈子は外を見ている。 美奈子「私もこの家から出たいな」 由紀「……(写真を置く)…泣いたんですっ  てね、晃さんの前で」 美奈子「あんなに泣いたの初めてだった…」 由紀「晃さんの事どう思う?」 美奈子「えっ…そんな、急に変なこと聞かな  いでよ…」 由紀「晃さんの前だと素直になれるんじゃな  い?」 美奈子「……そうかな」 由紀「一緒に住むなら大事な事だもの」 美奈子「えっ?」 由紀「私達の所へ来る?」 美奈子「いいの?」 由紀「勿論、晃さんに聞いてみないと分から  ないけど、それが美奈子の自立のきっかけ  になるんなら歓迎するわ」 美奈子「私、行きたい」 由紀「でも美奈子がちゃんとバイトして、お  金ためて、自分で部屋を探すまでの間だけ  っていう条件よ」 美奈子「うん」 由紀「私も機会があったらお父さんと会って  話をしようと思ってるの、美奈子もちゃん  とお父さんを説得出来る?」 美奈子「……(不安げに)うん、説得する」 由紀「じゃあ晃さんに聞いてくる」 美奈子「私、お茶入れてくるよ」   美奈子、部屋を出る。 ○ 同・食卓   幸子がお茶の用意をしている。 美奈子「私がするからいい」   美奈子、お茶の用意をする。 ○ 同・由紀の部屋   話している由紀と片倉。 片倉「俺はいいけど、俺がいちゃ彼女気を使  うんじゃないのか」 由紀「あの子、家族以外の人には心を開こう  としなかったわ…けどあなたは大丈夫みた  いなの」 片倉「……」 ○ 同・美奈子の部屋   お茶を持った美奈子、ドアを開けるが中   に誰もいない。 ○ 同・由紀の部屋   話している由紀と片倉。 由紀「あなたに心を開けるようになれたら、  それがきっかけになって誰とでも話せる様  になれるかもしれない」 片倉「……」 由紀「…こんなことするのも…あなたを信じ  てるから…あんたなら」 片倉「……妹の為か」 ○ 同・由紀の部屋の前   部屋の前でその話を美奈子が聞いていた。   美奈子、お茶を持ったまま自分の部屋に   入る。 ○ 同・由紀の部屋   美奈子が閉めたドアの音で顔を見合わせ   る由紀と片倉。 ○ 同・家の前の路地   家の前に止めた車に片倉と由紀が乗ろう   とした時、美奈子の部屋からピアノ、シ   ョパンの夜想曲作品9の2が聞こえてく   る。   二人は並んで美奈子のピアノを聞く。 由紀「あの子のピアノ聞くの何年ぶりかしら」 片倉「いいね。優しい曲だ」 由紀「ありがとうって言ってるのよ、あの子  の言葉で」   二人は美奈子のピアノを聞いている。 ○ 同・美奈子の部屋   ピアノを弾く美奈子。   何か考え事をしているかの様である。 ○ 同・食卓(夜)   コート姿のままビールを飲む実と、その   横に俯いて座っている美奈子。 実 「お手伝いさんが気に入らないのか?」 美奈子「……」 実 「お父さんだってお前の事を思ってした  ことだ」 美奈子「……」 実 「お前は…お前も由紀も何が不満だと言  うんだ」 美奈子「私は…不満なんて言える立場じゃな  いもの」 実 「……」 美奈子「ただ…新しい場所でやり直してみた  い、そう思って」 実 「それで由紀の所か」   実、手にしてたコップをテーブルに叩き   付ける。   美奈子、その音におびえる。 ○ 同・玄関(数日後)   美奈子が大きなバッグと金魚の入った金   魚鉢を抱えて出てくる。   美奈子、家を振り返るがやがて歩き出す。   美奈子、少し歩いたところで横に車が止   まる。   中から実が出てくる。 美奈子「お父さん」 実 「黙ってコソコソと出て行くつもりか?」 美奈子「……」 実 「そんなものを持って電車に乗れるもの  か」 ○ 走行中車内   運転する実、助手席で金魚鉢を持ってい   る美奈子。   二人とも喋らず沈黙が続く。 美奈子「あの…お父さん」 実 「何だ?」 美奈子「今日、仕事は?」 実 「午後から休みにしてもらった」 美奈子「……」 実「仮病使ったのは初めてだ」 美奈子「だってずっと無遅刻、無欠勤だった  のに…いいの?」 実 「いいわけない」 美奈子「……」 実 「しかし悪くもないな、さぼるというの  も」 美奈子「お父さん(微笑む)」 ○ 片倉のマンション   10階建ての高級マンション。   バッグと金魚鉢を持って立っている美奈   子と車の運転席にいる実。 実 「じゃあな」 美奈子「お姉ちゃんに会っていかないの?」 実 「……」 美奈子「お姉ちゃん、会いたがってたよ」 実 「……行くよ(目をそらし)まあ、頑張  りなさい」 美奈子「お父さん」 実 「うん?(美奈子を見る)」 美奈子「あの人と暮らしたら?」 実 「…美奈子」 美奈子「…行ってきます」   美奈子、歩き始める。   実は歩いていく美奈子をある感慨を持っ   て見つめる。 ○ 同・片倉家の一室(夜)   一番隅の部屋に美奈子の金魚鉢。   その中の金魚を見ている美奈子。   ドアが開く音がして美奈子、玄関に行く。 ○ 同・玄関(夜)   会社から帰った片倉とそれを出迎えた由   紀がいる。 片倉「いらっしゃい」 美奈子「よろしくお願いします(お辞儀す  る)」 由紀「そうそう、写真撮って、晃さん」  と、ポケットからカメラを出して片倉に  渡す。 片倉「オーバーだな」 由紀「記念よ、美奈子の新しい門出の」      ×   ×   ×   片倉、椅子の上にカメラを置いて構図を   作っている。 片倉「じゃあいくぞ、二枚連続」   と、シャッターを押して、並んで立つ美   奈子と由紀の横に入る。   セルフタイマーのシャッターが光る。 由紀「次はみんな笑顔でね、美奈子も笑うの  よ」 美奈子「うん」   作り笑顔の三人にフラッシュが光る。 ○ 本屋・翌日   開店前の本屋の前に立っている美奈子。   開店とともに、美奈子はアルバイトの求   人雑誌を買う。 ○ 電気部品工場   敷地内にはいくつかの巨大な工場がある。   その一角にある小さな事務所。 ○ 同・事務所   胃の悪そうな50才くらいの男性社員、田   中に面接を受けている美奈子。   田中が美奈子の履歴書を見ている間、美   奈子は緊張した面持ちで座っている。 田中「多摩音楽大学付属高校?」 美奈子「…はい」 田中「今時、めずらしいね、高卒なんてね?」 美奈子「…はい」 田中「何で大学行かなかったの?」 美奈子「あの…それは…(俯いてしまう)」 田中「(分かった顔をして)いいんだよ、家  庭の事情とかあったんでしょ」 美奈子「…はい」 田中「じゃないとね、今時あなたみたいな若  い子こないもの、うちみたいな工場には、  (同意を求めて)ねえ」 美奈子「…ええ」 田中「で何やってたの?」 美奈子「?」 田中「楽器は?」 美奈子「ああ、ピアノを」 田中「ピアノか、いいねえ、で、今でも続け  てるの?」 美奈子「…いえ」 田中「何でやめちゃったの、もったいない」 美奈子「あの、それは…(俯く)」 田中「いいんだよ、事情があったんだもんな、  色々あるわなー」 ○ 同・工場内   工場の作業着を着た美奈子があるライン   で、田中からパートの政江(49)に紹介   されている。   田中、美奈子の肩を叩いて行く。 政江「名前、なんつうの?」 美奈子「(声が小さい)佐伯美奈子です」 政江「えっ?」 美奈子「佐伯美奈子です」 政江「ここ音うるさいから聞こえないよ!」 美奈子「(叫ぶ)佐伯! 美奈子! です!」 政江「佐伯さんね、こっちきな、仕事おせえ  てやっから」      ×   ×   ×   電気部品の流れてくるベルトコンベアの   前で美奈子に仕事を教える政江。   政江は鉄の小刀の様なものを持っている。 政江「(一つ手に取り)ほら、ここに変なの  あんだろ、私らバリって呼んでんだけど、  これを、こうけずるわけさ、やってみな」 美奈子「はい」 政江「返事が小さいんだよ、あんたは」 美奈子「…は、はい!」 政江「よし(小刀を渡す)」   美奈子、部品のバリを取る。 政江「うまいじゃないか」   と、バンと美奈子を叩く。   美奈子、痛いがその痛みが嬉しい。 ○ 駅(夜)   強い雨が降っており、傘を持っていない   美奈子が改札を出たところで立ち尽くし   ている。   片倉が改札から出てくる。 片倉「今帰りかい?」 美奈子「はい」 片倉「(傘を広げ)入っていけよ」 ○ 駅近くの繁華街(夜)   片倉の傘に入った美奈子。 片倉「嬉しそうだな」 美奈子「今日バイト先が決まったんです」 片倉「そりゃよかった」 美奈子「嬉しいときってお酒を飲みに行った  りするんですよね」 片倉「何だ、飲みに行ったことないのか?」 美奈子「(首を振り)一度も」 片倉「よし、お祝いに一杯やっていくか」 ○ 居酒屋(夜)   おちょこの日本酒をグイッと飲み干し、   咳込む美奈子。 片倉「大丈夫か?」 美奈子「すいません」   美奈子達の後ろでは学生達がコンパで盛   り上がっている。 美奈子「晃さん、凄いですよ」 片倉「何が」 美奈子「知らない人の家に行って、物を売る  なんて私…絶対できないから」 片倉「俺はずうずうしいんだよ。神経が抜け  てるんだ、そこだけ」 美奈子「…そんな」 片倉「ホントだよ…君の繊細な神経、少し分  けてほしいぐらいだよ」 美奈子「うっとおしいだけですよ。私なんか」   美奈子は口元を隠しながらクスッと笑っ   て片倉をチラリと見る。   片倉はそんな美奈子のかわいさにドキリ   とする。 片倉「そうだ、由紀も呼ばないと怒られちゃ  うな」 美奈子「うん」 片倉「ちょっと電話してくる(席を立つ)」       ×   ×   ×   店内の公衆電話で電話する片倉。 由紀の声「遠慮しとくわ」 片倉「来りゃいいじゃないか」 由紀の声「こんな雨の中嫌よ」 片倉「じゃあ一杯だけ飲んだら帰るよ」       ×   ×   ×   美奈子の座る後ろの学生等は盛り上がっ   ており、大きな声で笑っている。   美奈子は俯き、何かを思い出している様   子。   学生達の笑い声がさらに大きくなる。   美奈子、体を硬直させたまま立ち上がる。   電話を切った片倉が美奈子を見る。   じっと立ったままの美奈子の後ろの学生   が声をかける。 学生1「どうかしたんですか?」 美奈子「……」 学生2「ほっておけよ」   片倉が戻ってくる。   何か傷ついた様な表情で立っている美奈   子、その後ろでは学生達がまた大声で笑   っている。   片倉、その笑っている学生の胸倉を掴ん   で立たせる。 片倉「お前、この子に何かしたのか?」 学生「(驚き)何すんだよ」 片倉「(美奈子に)こいつらが何かしたのか?」   美奈子、走って出ていく。 学生「いてえな、離せよ」 片倉「美奈子ちゃん」   片倉、その学生に殴られて倒れる。 ○ どぶ川にかかった橋(夜)   雨と強い風。   底の浅いどぶ川には鯉が泳いでいる。   その鯉を見ている美奈子。   走って来た片倉、美奈子の横に立つ。 片倉「どうしたんだ、いったい」 美奈子「……」 片倉「……由紀から少しだけ聞いたけど」 美奈子「……」 片倉「ピアノやめたことと関係あることなの  か?」 美奈子「……私、ピアノに助けられたんです」 片倉「助けられた?」 美奈子「私、小さい頃から引っ込み思案で…  人と喋らないでいたら、どんどん自分の中  から言葉が無くなっていって…だからピア  ノ買ってもらった時、凄く嬉しくて…それ  からピアノが私の言葉になったんです」 片倉「……」 美奈子「(努めて明るく)高三の時、高校の  オーケストラの演奏会でピアニストに選ば  れたんです」 ○ 大ホ−ル(美奈子の回想)   壇上には学生達のオーケストラが既にス   タンバイしている。 司会「それではご紹介します。ピアノ、佐伯  美奈子さんです」   場内は拍手に包まれる。   演奏用の落ち着いた衣装を着た美奈子が   下手から現われる。   緊張した面持ちでぎこちなく歩く美奈子。   立ち止まり観衆にお辞儀する。   その時、会場で笑い声が起こる。 美奈子「!」   美奈子、満員の観衆に目をやる。   美奈子の目にスポットライトの光が入る。   美奈子の体が硬直し、手足が震え出す。 司会「……(マイクから離れて)佐伯さん、  座って」   美奈子、震えたまま立っている。 司会「佐伯さん! 佐伯さん!」   美奈子は立ったままである。       ×   ×   ×   ざわめき始める客席。   その中にいる由紀と実、心配げに美奈子   を見つめる。       ×   ×   ×   司会、舞台袖にいるスタッフに合図する。 司会「申し訳ありません。しばらくお待ち下  さい」   幕が下り始める。   硬直したままの美奈子、幕に消える。 ○ どぶ川にかかる橋(夜)   美奈子と片倉、川面を見つめている。 美奈子「私、(はにかんだ様な笑みを浮かべ  ながら)そのまま氷のように動けなくなっ  ちゃって、前にも後ろにも……それから学  校に行くのも他人と会うのも、最後には家  から外に出るのも、それから」 片倉「もういい」 美奈子「楽譜も全部捨てて、それから私の友  達といったら」 片倉「もういいんだ」 美奈子「(ポツリと)金魚だけだった」 片倉「すまない、嫌なこと思い出させちまっ  て」   片倉は美奈子が笑みを浮かべながらも目   に涙を溜めている事に気づく。   突風が吹き、美奈子はそれに耐えるよう   に自分の体を抱きしめる。 片倉「そうだ、傘があったんだ」   と、傘を開くが突風にあおられ、傘の骨   は折れてしまう。 片倉「(傘を投げ捨て)帰ろう」   雨の中を美奈子と片倉、歩き出す。   美奈子の手が片倉の手と、時折触れる。   美奈子が涙を拭きながら歩いているのを   見た片倉、美奈子の手を握る。 美奈子「!」 片倉「指、細いんだな」 美奈子「うん、やせっぽち」   二人、雨の中を手を繋いで、ぎこちなく   歩いていく。 ○ 片倉のマンション・玄関(夜)   三和土にいる美奈子の濡れた髪を拭いて   やる片倉、陽気にふるまう。 片倉「ウワーッ」   足踏みをし、美奈子も笑い出す。   由紀、雑巾を持ってくる。 由紀「楽しそうね、あーああ、こんなに濡ら  しちゃって」 美奈子「ごめん、私拭いておくから」 由紀「いいから、そのままお風呂に入っちゃ  って」 美奈子「うん(風呂に向かう)」 由紀「(片倉に)結構飲んだの?」 片倉「いや、一杯だけのはずだが」 由紀「あの子にはまだお酒は早かったかな」 片倉「そうか?」 由紀「そうよ、酔ってるもの」   全裸の体をバスタオルで覆った美奈子が   来る。   それを見て驚く片倉。   その片倉を見て由紀、振り返る。 由紀「何してるの、そんな格好で」 美奈子「私は大丈夫だよ、そんな酔ってない」 由紀「分かったから、風邪ひいちゃうでしょ  早く戻りなさい」   美奈子、行く。 由紀「やっぱり私も行けば良かったな」 片倉「そうだよ、せっかく呼んでやったのに」 由紀「あと、床拭きお願いね(行く)」 片倉「俺がやんのか?」   由紀、振り返って片倉に微笑む。   片倉も微笑みを返すが、由紀の姿が見え   なくなると、その表情は複雑なものにな   る。 ○ 美奈子の部屋(夜)   蒲団に入っている美奈子。   目を開けたまま、指はピアノの鍵盤を弾   く様に動いている。   ふと指の動きを止め、片倉に握られた右   手を見つめる、 ○ 同・美奈子の部屋(数日後の朝)   出勤前の美奈子、金魚を見つめている。 美奈子「最近、話しないね……」   美奈子、じっと金魚を見ている。 由紀の声「美奈子、時間よ」 美奈子「はーい(金魚)行ってきます」   美奈子、部屋から出ていく。 ○ 電気部品工場   美奈子、慣れた手つきでバリ取りをして   いる。   軽快な音楽が流れ、昼食時間となる。   工場の様々な所で働いていた者達が移動   する。   田中が美奈子の所にやってくる。 田中「佐伯さん」 美奈子「(ビクッとして大声を出す)はい!」 田中「いやね、今晩うちのラインの人間で飲  みに行くんだけど、行くかね? 君も」 美奈子「(俯き)あの…私…」 田中「ただの飲み会なんだから、まあそう真  剣に考えないでも」 美奈子「はい…」 田中「いやいや、無理にとは」 美奈子「(深々と頭を下げ)すいません…ご  めんなさい」 田中「(やや呆れ)そんな、謝んなくても、  じゃね(行く)」   その様子を政江が見ていた。 ○ 同・社員食堂   席を埋めたパートのおばちゃん達が社員   の男の冗談にでかい声で笑いながら弁当   や食堂の定食を食べたりしている。   美奈子は隅にポツンと座ってパンを食べ   ている。 美奈子「(隣のおばちゃんに)あの、何の話  題ですか?」 おばちゃん「エッ?」 美奈子「(俯き)いえ、何でもないんです」   美奈子の背後から政江が話しかけてくる。 政江「佐伯さん、ちょっとおいでよ」 美奈子「はい」 ○ 同・片隅   話をしている美奈子と政江。 政江「うちのライン長がさ、気にしてんだわ。  あんたったら、ちょっと注意しただけで飛  び上がらんばかりに気にすっから、注意も  出来ないって」 美奈子「…(ショックである)」 政江「お酒の誘いも断ってたしな、他の人も  さ、正直言って付き合いづらいって言って  んだよね」 美奈子「……」 政江「そうやって黙っちゃうから、そういう  のどうにかならないかってみんながさ」 美奈子「……」 政江「あたしゃ気にしてねえけどさ、だいた  い、何でこんな所で働いてんの?」 美奈子「…何でって」 政江「あんたみたいに若くて、奇麗だったら、  もっと楽して稼げる仕事、いっぱいあるで  ない」 美奈子「(俯く) 政江「何かあったりするとすーぐ広まっちゃ  うかんね、みんな噂好きだから、それであ  たしが代表でさ」   政江が喋り終わる前に美奈子は走り去っ   てしまう。 政江「佐伯さんってば!」 ○ どぶ川の橋   美奈子が橋から川にいる鯉を見ている。   美奈子の目からふと涙があふれる。   商品を乗せた訪問販売の営業車に乗って   きた片倉、美奈子に気づき、車を止める。   片倉、黙って美奈子の横に来る。 片倉「(明るく振舞う)よお」 美奈子「(俯いたまま)」 片倉「偶然だな、今日この辺で家を回ってた  んだ、(営業用の優しい声で)ただいまご  家庭のダニ取りを無料で行なっています」 美奈子「……」 片倉「……」 美奈子「私、またやっちゃった」 片倉「(明るく)そっか」 美奈子「…クビだよね、勝手にかえっちゃって」 片倉「会社出てからずっとここにいたのか?」 美奈子「小さいときから隠れるのだけはうま  かった……存在感ないから」 片倉「……」 美奈子「子供の時、かくれんぼをして誰も私を  見つけてくれないまま夜になっちゃって、  私も怖くて出れなくなって大騒ぎになって」 片倉「……」 美奈子「そしたらお姉ちゃんが私を見つけて  くれた…それもただ勘だけで私の居場所を  突き止めてくれた」 片倉「…君が見つかったら、由紀の奴、屋上  でバーベキューしようって張り切ってた」 美奈子「捜してくれてたんですか? 私を」 片倉「仕事ついでだよ」 美奈子「私…みんなに迷惑ばかりかけて」   美奈子、また泣きながら歩き始めるが、   川に向かって歩き出してしまう。   咄嗟に片倉が見の手を掴んで止める。 片倉「危ない、そっちは川だ」 美奈子「すいません」 片倉「泣くのは終わりだ、顔上げて、前見て  歩くんだ」 美奈子「すいません、すいません」 ○ 同・屋上(夕刻)   見晴らしの良い、10階の屋上。   地平線まで建物だけが続いている。   そんな風景に囲まれた屋上の中央のバー   ベキューセットで肉を焼く由紀と片倉、   その横に俯いている美奈子。 由紀「元気出して、美奈子」 美奈子「うん」 由紀「大丈夫大丈夫、明日からまた来てほし  いって言ってたから」 美奈子「……」 由紀「行けるよね、辞めたりしないよね」 美奈子「……うん」 由紀「よし、じゃあ始めよう」   片倉がクーラーボックスからビールを出   す。 片倉「美奈子ちゃんも飲むか?」 由紀「駄目よ、また酔っ払っちゃうでしょ」 美奈子「うん、ジュースでいい」 片倉「そうか?(美奈子にジュースを渡す)」 由紀「それじゃ第一回屋上バーベキュー大会  に乾杯」 片倉「乾杯!」 美奈子「乾杯」       ×   ×   ×   肉も食べ終わり、空缶の並んだテーブル   セットに座ってビールを飲んでいる片倉   と由紀。   美奈子は一人屋上の隅で沈み行く夕日を   眺めている。   片倉、クーラーボックスを開けるがビー   ルがなくなっている。 由紀「もう少し飲む?」 片倉「そうだな」 由紀「取ってきてあげるわ」 片倉「すまない」   由紀、行く。   片倉、美奈子を見つめる。       ×   ×   ×   赤かった空は青へと変わり始める。   由紀がビールを持って戻ってくる。   それに気づかず、美奈子の横にいる片倉。 美奈子「またすぐに会えるのに……なんでこん  な寂しい気持ちになるんだろ」 片倉「夕陽か」   美奈子、スッと片倉の手を握る。   それを見た由紀、立ち止まる。 由紀「……」   片倉も驚いて美奈子を見る。   美奈子はじっと夕陽を見つめたまま、体   を硬直させている。   片倉は夕陽に目を戻し、美奈子の手を握   り返す。 美奈子「……。(俯き)ありがとう」   と手を引っ込める。 片倉「(美奈子を見つめる)」 由紀「(見ていなかったふりをして)すっか  り暗くなっちゃったね、空」   片倉、由紀を振り返り、美奈子に目を戻   す。   美奈子は俯いたままである。 ○ 同・寝室(夜)   ベッドに入っている片倉と由紀。 由紀「手を握り返したの、なぜ?」 片倉「見てたのか?」 由紀「……」 片倉「振り解いた方が良かったか?」 由紀「そんな風には言ってないわ」 片倉「じゃあどうすればよかったんだ?」 由紀「分からないわ」 片倉「俺だって……」 由紀「御免なさい、あの子だって辛いことが  あったんだろうし、あれでよかったんだわ」 片倉「……」   片倉、由紀と唇を重ねる。 由紀「どうしたの?」   片倉、由紀を荒々しく愛撫し始める。 由紀「駄目よ(愛撫に耐えながら)美奈子ま  だ起きてるかも」   愛撫を続ける片倉。   感じ始めている由紀、しかし片倉は急に   止めて由紀を見つめる。   由紀も片倉を見つめる。   片倉ベッドサイドに座る。 片倉「駄目みたいなんだ」 由紀「……」 片倉「すまない」 由紀「(服を着ながら)そういう事mあるわ  よ、疲れてるんでしょ」 片倉「……」 ○ 同食卓(夜)   片倉、冷蔵庫の横で缶ビールを飲む。   応接間のソファーに人影があり、片倉近   づく。   美奈子がソファーに猫の様に丸くなって   いるが、目は開いている。 片倉「(ソファーに座り)何してるんだ?」 美奈子「ここの方が落ち着くから」 片倉「怖い夢でも見たんじゃないのか?」 美奈子「……」   片倉、そんな美奈子をしばらく見つめた   後、立ち上がる。 美奈子「いてくれますか」 片倉「……」 美奈子「(顔を上げ)眠れるまでここに」   片倉、ウイスキーのボトルとグラスを取   りに行き、ソファーに座る。   美奈子、片倉に微笑みかける。   片倉も笑みを返しながらウイスキーを飲   み始める。 ○ 同・寝室(夜)   由紀、一人ベッドに座って考え事をして   いる。 ○ 同・食卓(翌日、日曜の朝10時頃)   美奈子が食卓のテーブルで目をつぶり、   ピアノを弾く真似をしている。   片倉が部屋から出てくる。 片倉「おはよう、由紀は?」 美奈子「起きたらいなかった」   美奈子はピアノを弾く真似を続ける。 片倉「ピアノかい?」 美奈子「(目をつぶったまま)音が出ている  ことを想像して弾くんです」 片倉「思いきり弾いてみたくなったんだろ、  ピアノを」 美奈子「(片倉の両手を握り)晃さんの指太  くて、鍵盤みたいね」 片倉「これが?」 美奈子「ほら」   と、片倉の両手の平を開かせ、その両手   の指がピアノの鍵盤のようになる。 美奈子「弾いていいですか?」 片倉「どうぞ」   美奈子、片倉の指を鍵盤に見立てて、弾   き始める。   二人、目が合い微笑む。   美奈子、やがて目をつぶって弾き始める。   美奈子の指は片倉の手の上で小刻みに動   く。   目をつぶり、空想しながら弾く美奈子。   そんな美奈子の顔を見つめていた片倉、   手の甲を表にする。   美奈子はその上を踊る様に指を動かして   いたが、やがてやめ、片倉の手の平に自   分の手の平をを置く。 片倉「……」 美奈子「……」   美奈子、片倉の手を握る。   それでも美奈子は目をつぶったままであ   る。   片倉、ゆっくりとした動作で美奈子と唇   を重ねる。   美奈子、震える手で片倉の手を強く握り   しめる。   片倉、重ねていた美奈子の唇を離す。   目を開け、俯く美奈子、片倉の手を握っ   ていた手を引っ込める。   片倉、自分のしてしまった事に嫌気がさ   した様にテーブルに拳を打ち付ける。   美奈子は俯いたままである。   片倉、何か言おうとするが言葉が見つか   らない。   ドアの開く音がしてフランスパンの入っ   た紙袋を持った由紀が帰ってくる。 由紀「焼き立てを待ってたら遅くなっちゃっ  た、すぐご飯にするから」   美奈子、何も言わず自分の部屋に行く。 由紀「……(片倉)今起きたの?」 片倉「うん? ああ」   片倉、顔を隠すように冷蔵庫を開け、牛   乳を出すとパックごと飲む。 由紀「……」 ○ 同・美奈子の部屋(朝)   金魚を見つめている美奈子、呆然とした   表情で唇を拭っている。   ふと涙がこぼれ落ちる。 ○ 同・食卓(朝)   美奈子、由紀、片倉が黙ったまま朝食を   食べている。 由紀「そろそろ美奈子の部屋、探さないとね」 美奈子「……」 由紀「仕事だって続けられそうだし、思い切  って一人暮らしを始めてみるのもいいと思う  んだけど、どうだろ?」 美奈子「……」 片倉「まだ早いんじゃないのか?」 由紀「でもこのままじゃ実家にいた時と同じ  だわ」 美奈子「うん…」 由紀「今日行って見ようか、せっかくの日曜  日なんだし」 片倉「急すぎるよ」 由紀「晃さんだってここにこのまま美奈子が  いたってよくなるとは思わないでしょ」 片倉「良くなるとか良くならないとか、そん  な言い方はよせよ」 美奈子「いいんです……(明るく振舞い)部  屋探すの手伝ってね、お姉ちゃん」 由紀「大丈夫よね、仕事が落ち着くまで家賃  折半してあげるから」 美奈子「うん」 ○ 調布付近のワンルームマンションの前   片倉が車の運転手からマンションを見上   げている。 ○ 同・4階の部屋   4畳半ぐらいの部屋についている小さな   ベランダに美奈子と由紀が立っている。 管理人「(来て)レンジ、エアコン、冷蔵庫、  ベッドに収納まで付いていますからね、こ  んないい部屋めったとないですよ」 由紀「場所も仕事先と私達の家とちょうど真  中ぐらいだし、いいんじゃない」 美奈子「うん……でも」 由紀「何?」 美奈子「建物しか見えないんだね」 由紀「田んぼが恋しい?」 美奈子「よく部屋の窓から蛙の声を聞いたね」 由紀「実家に戻りたいんじゃないの」 美奈子「……(首を振る)」 由紀「じゃあ決めちゃおっか」 美奈子「うん、いい部屋だと思う」 ○ 片倉のマンション・片倉の寝室(深夜)   ベッドに入っているがまだ起きている由   紀、片倉はベッドサイドでウイスキーを   飲んでいる。 片倉「何で一人暮らしなんて言い出したんだ」 由紀「…そうしないと本当の自立にならない  と思ったから…厳しいかな」 片倉「いや、俺があの子と手を繋いだからか  と思ってな」 由紀「そんな、私、本当にあの子の事を思っ  て」 片倉「分かってる(グラスをあおる)」 由紀「……」 ○ 同・食卓(翌日の早朝)   まだ薄暗い朝。   寝起き顔の片倉がやって来て、水道の水   を口飲みする。   美奈子の部屋から鼻をすする様な声が聞   こえる。 ○ 同・美奈子の部屋(早朝)   片倉がドアを開ける。   美奈子がベッドに座り、泣いていたのを   隠そうと涙を拭う。 片倉「泣いてるのか?」 美奈子「(微笑み、首を振る)」 片倉「本当はここから出たくないんだろ?」 美奈子「すぐ納まりますから…感謝してます」 片倉「何が?」 美奈子「泣くことを教えてくれて」 片倉「……」 美奈子「(泣きながら笑い)そのかわり涙も  ろくなっちゃって…ごめんなさい、大した  ことじゃないんです」 片倉「俺から由紀に言って、もうちょっとこ  こにいれる様に」 美奈子「いいんです、ほっといてください」 片倉「……」 美奈子「……」 ○ 同・片倉の寝室(早朝)   少しだけ開いたドアから応接間の方を見   ている由紀の姿が見える。 ○ 電気部品工場   美奈子がラインでバリ取りをしている。   社員の田中がやってくる。 田中「佐伯さん、ちょっといいかな」 美奈子「…でも仕事が」 田中「いいから、ちょっと」   美奈子、作業をしている政江と目が合う   が、政江、目を伏せる。 ○ 同・事務所   その一角にあるソファーセットに美奈子   と田中。 田中「非常に言いにくいんだけどね、君、ち  ょっと変った病院行ってたのかい?」 美奈子「……病院ですか?」 田中「その、ほら、ここの(頭を指さす)じ  ゃないのか、ほら、心の」 美奈子「カウンセリングセンターに通ってた  時期もあります。でも今は行ってません」 田中「いやね、うちの仕事は細かい作業だか  ら、そういうの大丈夫か心配でね」 美奈子「……」 社員B「私もね、そういう方はなるべくバッ  クアップしてあげたいんだけど、他の従業  員がなかなかね」 美奈子「クビ……ですか?」 社員B「この事だけが原因じゃないんだよ、  うちも不景気で人員削減を言い渡されてね、  私としては非常に惜しいんだけど」 美奈子「……」 ○ 片倉のマンション・食卓(夜)   片倉が帰ってくる。   食卓で料理をしている由紀。 片倉「美奈子ちゃんは?」 由紀「まだなの」 片倉「もうとっくに帰ってる時間じゃないか」 由紀「あの子だって寄り道ぐらいするわ」 片倉「ちょっと探してくるよ(行く)」 由紀「行く必要ないわよ」 片倉「雨降りだしてきたし…行ってくる」 由紀「あなた…」   由紀、片倉の後ろ姿を見つめる。 ○ 駅(夜)   駅近くの道に片倉の車がハザードを点滅   させながら停車している。   駅の改札を出たところで降り続く雨を見   上げる片倉、時計を見る。   時間は九時になろうとしている。 ○ 美奈子のワンルームマンション(夜)   片倉が車から降り立ち、マンションを見   上げる。 ○ 同・美奈子の部屋(夜)   片倉、美奈子の部屋のドアを開ける。   鍵は開いていたが中には誰もいない。   片倉、部屋から出る。 ○ 同・屋上(夜)   美奈子が雨に濡れて立っている。   片倉が近づいてくる。 片倉「びしょ濡れじゃないか、中に入ろう」 美奈子「いいんです…雨に濡れるの好きだか  ら…冷たい風も……人間よりそっちの方が  いい」 片倉「……来るんだ」   片倉、美奈子の手を握り、引っ張ってい   く。 ○ 同・美奈子の部屋(夜)   濡れた服を脱ぎ、毛布で体をくるんだま   ま立っている美奈子。   バスルームではお湯を出している音。 片倉「(来て)今、お湯はってるから、体を  暖めてから帰ったほうがいい」 美奈子「もう行ってください」 片倉「……何かあったんじゃないのか?」 美奈子「いいんです、もう……構わないでく  ださい」 片倉「……俺が優しくしちゃいけないのか?」 美奈子「……私、今日はここに泊まります」 片倉「……」 美奈子「行ってください」   片倉は行こうとする。   美奈子は窓際に行き、窓を開ける。   雨交じりの風が吹き込み、美奈子の髪を   揺らす。   片倉は戻ってきて窓を閉める。 片倉「そんなに雨に濡れるのが好きか?」   美奈子はまた窓を開ける。   片倉はそんな美奈子を押さえつける。 美奈子「……」 片倉「……」   片倉、美奈子を抱きしめる。   美奈子の体を覆っていた毛布が落ち、美   奈子の裸体があらわになる。      ×   ×   ×   雨交じりの風が吹き込む中、ベッドに寝   た美奈子を求める片倉、息が白い。 片倉「窓、閉めよう、君の体も氷みたいだ」 美奈子「……このまま(目を閉じる)」   片倉、激しく美奈子を求め始める。 ○ 片倉のマンション・玄関(夜)   片倉が帰ってくる。   寝巻姿の由紀が出迎える。 由紀「美奈子は?」 片倉「今日はあっちの部屋に泊まるそうだ  (行こうとする)」 由紀「何があったの?」 片倉「言わないんだ」 由紀「……それなのにこんな時間まで」 片倉「もう寝よう(行く)」   由紀、片倉の後ろ姿をじっと見つめる。 ○ 美奈子のマンション屋上(翌日の朝)   真っ青な空。   美奈子、手にサラダ油のボトルを持な   がら何かを見ている。   それは丸められたシーツだった。   美奈子、シーツにサラダ油を垂らす。   美奈子、ポケットからマッチを出すと、   火を付け、シーツに落とす。   パッと火が広がり、シーツが燃える。   シーツは燃えながら形を変え、シーツに   残っていた血の染みをあらわにする。   それは見えたかと思うと、火にあぶられ、   血の染みは黒ずんでいく。   その火を見つめる美奈子。 ○ 片倉のマンション・玄関   美奈子が帰ってくる。   由紀が出迎える。 由紀「お帰り」   美奈子、目を伏せ、自分の部屋に向かう。 由紀「何があったの?」   美奈子、答えず部屋に向かう。 由紀「美奈子」 美奈子「会社、クビになった」   美奈子、自分の部屋に入って戸を閉めて   しまう。 由紀「……」 ○ 同・美奈子の部屋   戸を押さえている美奈子。 由紀の声「開けなさい、もっと詳しく話しな  さい」 美奈子「……」 ○ 美奈子のワンルームマンション   由紀が鍵を開けて美奈子の部屋に入る。   美奈子のベッドには昨日美奈子が体に巻   いていた毛布が掛けられている。 由紀「……」   由紀、そのベッドに腰掛ける。   ベッドを触りながら考え事をしていた由   紀、ベッドのシーツがないことに気づく。   由紀、毛布を剥ぐ。   ベッドに黒っぽい血の染み。 由紀「!」   由紀、呆然としながら、その染みに爪を   たてる。   由紀の爪に乾いて変色した血がこびりつ   く。 由紀「……(怒りと恐怖が込み上げてくる)」 ○ 片倉のマンション・食卓(夕方)   料理している美奈子、由紀が帰って来る。 美奈子「おかえり」 由紀「……」 美奈子「晩ご飯作ってみたんだけど」   由紀、キッチンに立つ美奈子の後ろ姿を   見ているうちに怒りが込み上げてくる。 由紀「におうわよ」 美奈子「えっ?」 由紀「何か生臭い感じのにおい」   美奈子、由紀の冷たい表情に驚きながら、   食卓に並べた料理のにおいをかぎ、 美奈子「これは今日作った物ばかりだから、  大丈夫なはずだけど」 由紀「ここじゃないわ」  由紀、美奈子の部屋の方へ行く。 ○ 同・美奈子の部屋(夕方)   由紀、続いて美奈子が来る。 由紀「ここからにおうわ、何か生臭いにおい」 美奈子「……」 由紀「これよ」   由紀、金魚鉢を指さす。 由紀「これのにおいよ」 美奈子「(金魚鉢のにおいをかぐ)そんなに  おわないよ」 由紀「このにおいだったんだ」 美奈子「におわないったら」 由紀「駄目、私このにおい耐えられない」 美奈子「でも今まで平気だったじゃない」 由紀「近くの川にでも捨ててきて」 美奈子「嫌だよ」 由紀「捨てなさい」 美奈子「嫌だ」 由紀「出来ないなら私が捨ててきてあげる。  (金魚鉢に近づき)川に捨てたって死ぬわ  けじゃないんだから」 美奈子「(金魚鉢を体で覆い)嫌だ」 由紀「(ピシリと)貸しなさい!」   由紀、美奈子から金魚鉢を奪うと外に行   く。 美奈子「待って」   玄関には片倉が仕事から帰ってくる。 片倉「どうしたんだ?(由紀に)金魚鉢どう  するんだ」   由紀、片倉を見ているうちに悔し涙が流   れ、金魚鉢を抱えたまま外に走っていく。 美奈子「やめて、お姉ちゃん(追う)」   片倉、その美奈子の腕を掴んで止め、 片倉「どうしたんだ」 美奈子「お姉ちゃんが金魚を捨てるって」   美奈子、由紀の後を追う。   片倉もその後を追う。 ○ どぶ川にかかる橋(夜)   橋の所に金魚鉢を持った由紀がいる。   通りから出てきた美奈子と片倉、由紀を   発見する。 美奈子「駄目!(走ってくる)」   由紀の手からスルリと金魚鉢が落ちる。 美奈子「!」      ×   ×   ×   金魚鉢はそのままの形で川に落ち、中の   水と金魚を保ちながら浮いて流れていく。      ×   ×   × 由紀「あれじゃ駄目だわ」   由紀、土手に回る。   美奈子と片倉も土手に回る。   美奈子と由紀、どぶ川に入って、金魚鉢   と追う。   片倉もどぶ川に入り、追う。   美奈子と由紀、どぶ川の中を金魚鉢に向   かって競争する。   片倉、由紀に追いつき、由紀を押える。 由紀「触らないで、汚らしい」   と片倉を闇雲に叩く。   美奈子、金魚鉢に追いつき、金魚鉢を拾   い上げる。 由紀「(美奈子に)あなた今、自分自身を拾   い上げたのよ」   美奈子、金魚鉢を抱いたまま由紀を見つ   める。 由紀「その金魚は美奈子と一緒、自分は川を  泳いでるつもりでも、実際は水槽の奇麗な  水の中でしか泳いでないわ」 美奈子「……」 由紀「金魚は…本当はどぶの中でも泥を舐め  て生きていけるのよ…美奈子は…美奈子は  水槽の中にいて私をあざ笑ってたんだわ」 美奈子「(俯き)お姉ちゃんの言う通り…水  槽の中で暮らしたいってずっと思ってた」 由紀「それが…それが今じゃ姉の夫と寝て平  気な顔してられるなんて」 美奈子「!」 片倉「そんなことあるはずが…」 由紀「(遮り)嘘はやめて、美奈子の部屋で  見たわ、ベッドに付いた血を」 片倉「……」 美奈子「……」 由紀「私が気づかなかったらどうするつもり  だったの?(片倉に)あなた」 片倉「……」 美奈子「あの時で終わりよ、先には何もない  もの」 片倉「……」 由紀「美奈子の為を思って同居させてあげた  のに、それなのに、こんなひどいこと、こ  んな……」 片倉「……」 美奈子「…お母さんが死んでから、お姉ちゃ  んは自分を犠牲にしてきたね、私の為に、  私の為にって…その度にいつも傷ついてた  ね」 由紀「……」 美奈子「私、確かに晃さんのおかげで随分助  けられた…お姉ちゃんの言う通り、晃さん  には心を開くことが出来た…でもそこまで  自分を犠牲にして、また私のために…」 由紀「…美奈子…私達の話、聞いてたの」 片倉「……」 美奈子「私…ひどいよね…謝って許されるも  のじゃないよね、私のした事」 片倉「いや、俺が悪いんだ」 美奈子「私、今日からあっちの部屋に行くよ」   美奈子、どぶ川を戻っていく。 片倉「……由紀」 由紀「私達のことは後で考えましょ」 片倉「俺は」 由紀「今日は何も聞きたくない」 片倉「終わりだなんて言わないでくれ…俺は  由紀を」 由紀「(遮り)聞きたくない…聞きたくない」 ○ 美奈子のワンルームマンション   美奈子、床に座り込んで金魚をじっと見   ている。 美奈子の声「それからの一週間、私はほとん  ど家から出ず、ずっと金魚を眺めていた」   呼び鈴がなる。   美奈子は動かない。 片倉の声「俺だ、片倉だ、開けてくれ」   美奈子、玄関に行き、ドアを開ける。   無精髭をはやした片倉。 片倉「あれから戻ってこないんだ、由紀」 美奈子「あの日からずっと?」 片倉「……どこか、心当たりないか」 美奈子「……」 ○ 片倉のマンション・美奈子の部屋   美奈子は来たときのバッグに自分の荷物   を詰めている。   服をたたんで入れ、そして隅に積まれた   本を取ろうとして、棚の中に紙袋に包ま   れた本を見つける。   その中には古ぼけた何冊もの楽譜集が入   っており、佐伯美奈子と名前が書いてあ   る。中に本と一緒に美奈子が初めて片倉   家に来た時に写した写真。   その写真の裏にはこう書いてある。   『もう一度ピアノを弾いてほしい姉より   妹へ」   その文面を読みながら座り込む美奈子、   目から涙がこぼれ落ちる。 美奈子「ごめん…ごめんね、お姉ちゃん」   封書と紙切れを握った片倉が来るが呆然   としたまま何も言わない。   美奈子は片倉の手からそれを取る。   その紙切れは由紀が既に著名捺印した離   婚届けであった。   美奈子は封筒の裏を見るがそこには何も   書かれていない。 美奈子「これだけ?」 片倉「それしか入っていなかった…(頭を抱  え)由紀、今どこにいるんだ」   と沈痛な表情になる。 美奈子「(離婚届けを持ち)これどうするの」 片倉「そんな物…誰が書くものか」 美奈子「……」 片倉「由紀を捜し出して、もう一度会いたい  …そして出来ればやり直したい」 美奈子「でも仕事が」 片倉「そんなもの…由紀がいないんじゃ、働  いたって何にもならない」   美奈子、立ち上がり、封筒をポケットに   入れる。 美奈子「仕事は続けてください、お姉ちゃん  はきっと戻ってくるから」 片倉「……」 美奈子「きっとです。だから待ってて下さい」 ○ 川の土手(早朝)   日の昇る前の青い時間。   金魚鉢を持って、川の土手にいる美奈子   の背中にはナップザック。   しゃがんで、金魚を優しく川に放つ。   金魚は川の中を元気に泳ぎ、やがて姿を   消す。   そう様子を見ている美奈子。 ○ 走行中の中央線車内(早朝)   まだ、まばらな車内の座席に座っている   美奈子が由紀からの封筒を見ている。   東京中央区北という消印。   美奈子はナップザックから東京都の地図   を出し、中央区のページを破る。   その中央区の地図は八重洲辺りを境に上   半分を赤マジックで囲まれており、横に   乱暴に中央区北と書かれてある。 ○ 東京都丸の内側の外(早朝)   駅を背にして美奈子が立っている。   手には中央区の地図。   美奈子はゆっくりと目を閉じる。 美奈子の声「お姉ちゃんには出来たんだ…私  のいる場所を見つけることが…思いつくま  ま、感じる方向に行くだけで…思いつくま  ま、思い浮かぶまま…」   美奈子は目を開けると、日本橋方向に向   かって歩き出す。 ○ 人通りの多い場所(朝)   美奈子は洪水の様に押し寄せてくる人達   に向かって由紀を捜している。   地下鉄出口から出て来る会社員達、巨大   なビルの入り口に吸い込まれていく会社   員達、交差点を渡ってくる会社員達、そ   の中に立っている美奈子。   いぶかしげな目で見られたり、肩がどん   とぶつかりながらも、人混みの中で由紀   を捜す美奈子。 ○ 交差点   信号が青になり、歩道を歩き出す美奈子、   様々な人と擦れ違う。 ○ 別の通り   会社のビルからぞろぞろと出てくる会社   員達、それを見つめながら立っている美   奈子。   近くの定食屋やレストランには会社員達   が列を作っている。   それを見つめる美奈子。 ○ デパート街(夕刻)   クリスマスの派手な飾りに包まれたデパ   ート街を歩く美奈子。 ○ 別の通り(夜)   会社の出入り口からぞくぞくと出てくる   会社員達が駅方向に向かって歩いている。   美奈子が一人逆方向に歩きながら、擦れ   違うOL達の顔を確認している。 ○ 走行中の中央線(夜)   寿司詰めの車内にいる美奈子、地図を見   ている。   地図にはバツが5か所ぐらいに増えてい   る。 ○ 歩道橋の上・別の日   雨の中、傘をさした美奈子が立っている。   美奈子の視線の先には幾重にも信号があ   り、信号が変わりと、歩道を交差する人   達であふれる。 ○ 住宅街・別の日   歩いている美奈子、立ち止まる。   そこは新聞配達所である。   壁に配達員募集、寮完備の看板がある。 美奈子「……」 ○ 商店街・別の日   歳末大売り出しのチラシが張られた商店   街を美奈子が歩いている。 ○ 皇居前広場の前の通り・別の日(夕刻)   やつれた美奈子が疲れ切った様に歩道の   柵に座り込み、地図にバツを付ける。   しかも中央区北と区切られた範囲にはも   うバツを付ける場所がない。   美奈子、悔しげに地図を握り潰す。   その時、通りの反対側を由紀らしい人物   が通って行く。   立ち上がり、目を凝らす美奈子。   由紀は美奈子のいる場所から遠退いてい   く。 美奈子「お姉ちゃん」   由紀は遠退いていく。   美奈子、通りを渡ろうとするが走行中の   車に阻まれる。   信号が変わるのを待って、由紀を追う美   奈子。 ○ 東京駅周辺(夕刻)   走ってきた美奈子、由紀を見失っていた   が、駅に入っていく由紀を発見する。   駅に向かって走る美奈子。 ○ 東京駅ホーム(夕刻)   美奈子がホームを見渡すが既に由紀の姿   はない。 ○ ビジネスホテル・フロント(夜)   受付の男の前に、美奈子が立っている。 受付「何か?」 美奈子「……」 受付「ご宿泊ですか?」 美奈子「…いくら…ですか?」 受付「今日は八千円の部屋からしか空いてい  ませんが」 美奈子「…ごめんなさい(行く)」   受付、ポカンとしている。 ○ 深夜喫茶(夜)   飲み帰りの客や若者で席は埋まっている。   座席にもたれて美奈子が眠っている。 ○ JR東京駅の改札(翌日の朝)   由紀を見失った改札に立っている美奈子。   押し寄せる会社員達の群れに逆らうように   立って、由紀を捜す。      ×   ×   ×   昼頃、壁際にもたれている美奈子が改札   を通る人の中に由紀を捜す。      ×   ×   ×   帰宅のラッシュの時間。   改札の横に立って、改札に押し寄せる人   達の中に由紀を捜す美奈子。      ×   ×   × ○ 東京駅地下道(深夜)   浮浪者の寝ている間を歩く美奈子。 美奈子「……」       ×   ×   ×   地下鉄の一角で美奈子が段ボールを下に   ひいて、丸くなって寝ている。 ○ 同改札付近・別の日   顔はやつれ、汚れた服のままの美奈子が   壁際に座り込んで改札を見ている。   サラリーマン達の姿はなく、駅構内は大   きな荷物を抱えた帰省の家族やスキーに   行く大学生達でにぎわっている。      ×   ×   ×   深夜。人気の無くなった改札。   壁際に美奈子が座り込んでいる。   既に目は空ろになっている。   制服警官と駅員が美奈子の方を見ながら、   何やら話し、やがて近づいてくる。   美奈子。ヨロヨロと立ち上がり、走って   逃げ出す。 ○ 丸の内ビル街(夜)   美奈子、ヨロヨロと歩いている。   全く人けのないビル街に街灯だけが等間   隔に続いている。   美奈子はビルとビルの間の幅1メートル   ほどの空間を見つける。   そしてそのビルの狭間に入っていく美奈   子。   奥には浮浪者が残していった棺桶のよう   な段ボールの家がある。   美奈子、その中に入り込む。      ×   ×   ×   翌日の夕刻。   ビルとビルの間の隙間から見える小さな   空にかすんだ夕日がある。   段ボールの上に座り込み、その夕日を見   ている美奈子。(ファーストシーンと繋   がる)   ビルとビルの間から一瞬見える通りすが   りの人達。   やがて一人の老いた浮浪者がその空間で   立ち止まり、美奈子を見つめる。 美奈子「……」 浮浪者「ただいま」 美奈子「……」 浮浪者「ただいま」 美奈子「……(恐怖を感じている)」 浮浪者「(美奈子の目の前に立ち)ただいたま」 美奈子「……おかえり」 浮浪者「ただいま」 美奈子「おかえり」   美奈子、壁をはうようにして浮浪者と擦   れ違い、出口の方へ行く。 浮浪者「ただいま(段ボールの家に入る)」 美奈子「(一歩一歩後退りながら)おかえり」 浮浪者「ただいま」 美奈子「おかえり」 浮浪者「ただいま」 美奈子「おかえり」 ○ 駅に向かう道   美奈子が独り言を言いながら歩いている。 美奈子「ただいま、おかえり、ただいま、お  かえり、ただいま、おかえり」 ○ 東京駅広場   大晦日東京駅コンサートと書かれた看板   があり、業者の人がその準備をしている。   近くで美奈子が見ている。 美奈子「ただいま、おかえり、ただいま、お  かえり」   グランドピアノが運ばれて来る。   業者の人達はまだ他に運ぶものがあり、   いなくなる。 美奈子「(ピアノに近づきながら)ただいま、  おかえり、ただいま、おかえり」   美奈子、ピアノの蓋を開ける。   しならく鍵盤を眺めるとスッと椅子に座   る。   目を閉じる美奈子。   そして激しい旋律とともに弾き始める。   曲はショパンのポロネーズ『英雄』。   駅構内に響き渡るピアノの音。   通行人達が立ち止まって聞き始める。   激しく、激しく弾き続ける美奈子。   その力強い指使い。   そして時に繊細な指使い。   やがてピアノの周りは黒山の人だかりに   なる。   その中に由紀がいた……。   ピアノを弾く美奈子を見つめる由紀。   業者の人達が美奈子を取り囲んで何か言   っている。   美奈子、構わず弾き続けるが、やがて業   者の人達に取り押さえられる。 由紀「美奈子!」   しかい、その声は美奈子には届かない。   由紀、黒山の人だかりの間を美奈子の方   へ走っていく。 由紀「美奈子!」 美奈子「(気づく)お姉ちゃん」   美奈子、業者の人達の手を振り解き、   由紀の方へ走っていく。   美奈子、倒れるように由紀にすがりつく。 美奈子「…晃さん…待ってるから…私のした  事…許して」   美奈子、気を失い、ズルズルと倒れ込む。 由紀「美奈子! 美奈子!」   気を失ったままの美奈子。 ○ 六人部屋の病室・翌日   病院の寝巻きに着替え、寝ていた美奈子、   目を覚ます。   ベッドの脇には由紀が座っている。   二人、無言で見つめあう。   六人部屋だが、この部屋の入院患者は美   奈子だけである。   美奈子、由紀に手を伸ばす。   由紀、その手を握る。 由紀「馬鹿ね」 美奈子「うん」 由紀「おとなしいくせして時々大胆なことす  るんだから」 美奈子「うん」 由紀「栄養つけてゆっくり寝たらすぐ直るっ  て」 美奈子「うん……今何日なの?」 由紀「元旦よ、この部屋の患者さん達も正月  休み」 美奈子「一日寝てたんだ」 由紀「あけましておめでとう(お辞儀する)」 美奈子「(半身起こし)おめでとうございま  す(お辞儀する)」   顔を上げた二人、顔を見合わせて微笑む。 美奈子「私を見つけてくれてありがとう、お  姉ちゃん」 由紀「美奈子が私を見つけたんじゃないの?」 美奈子「(首を振り)お姉ちゃんが私を見つ  けてくれたんだよ」 由紀「……うん」   美奈子、微笑む。      ×   ×   ×   夕刻。病室の窓から夕日を見ている美奈   子と由紀。 美奈子「今、どうしてるの?」 由紀「近くで友達が一人暮らししててね。そこ  に居候させてもらってる」 美奈子「私ね、お姉ちゃん」 由紀「うん?」 美奈子「知らない人と挨拶したの…人と挨拶  するのって意外と簡単なのね」 由紀「…(微笑み)うん」 美奈子「ただいま……こんにちわ……(ポツ  リと)会わないの? 晃さんと」 由紀「……」 美奈子「……」 由紀「そうだ、美奈子の服買ってきたのよ」   と、美奈子のベッドの方へ行く。 美奈子「……」 由紀「(袋から服を出し)ほら、店あんまり  開いてなかったから気に入らないかも知れ  ないけど、我慢してね」 美奈子「(寂しい笑みを浮かべ)うん」 ○ 病院の出口(夜)   帰る由紀を美奈子が見送っている。 由紀「お父さんに連絡していいの?」 美奈子「…私から連絡する」 由紀「うん…じゃあ明日また来るわ」 美奈子「お姉ちゃん」 由紀「うん?」 美奈子「ううん、何でもない」 由紀「じゃあ明日」 美奈子「(手を振る)」   由紀の後ろ姿を見送った美奈子、ロビー   にある公衆電話をかける。 ○ 美奈子の病室(夜)   美奈子のベッドで手紙を書いている。 美奈子の声「また馬鹿な事をしてしまってご  めんなさい。こんな風にしか出来なくて、  こんな風にしか出来ない私は本当に馬鹿で  す」      ×   ×   ×   翌朝。美奈子のベッドは空になっている。   そのベッドの横で由紀が美奈子の置いて   いった手紙を読んでいる。 美奈子の声「お姉ちゃんほど私にとって優し  い人はいないから。一緒にいてこんなに安  心できるのはお姉ちゃんだけです。だから  ついまた甘えてしまいそうで…水槽の中に  入ってしまいそうで…」      ×   ×   ×   病院に向かう道を片倉が歩いてくる。      ×   ×   ×   病室で手紙を読む由紀。   そんな由紀と片倉の姿が重なり、 美奈子の声「昨日の夜、晃さんに電話しまし  た。私がこんなこと言うのは本当に悪いこ  とです。でももう一度晃さんと幸せになっ  てほしい。そう願ってます。私なんかを理  解してくれたのはお姉ちゃんと晃さんしか  いません。ありがとう。ほんとにほんとに  ありがとう……。落ち着いたら必ず連絡し  ます……。私はきっともう一度ピアノを始  めます。お姉ちゃんが取っておいてくれた  楽譜のおかげです」   病室のドアが開き、片倉が立っている。   見つめあう由紀と片倉。 由紀「……」 片倉「……(歩いてくる)」   由紀は手紙に目を戻す。   片倉は由紀に近づき、由紀の手の平にそ   っと手を合わせようとするが、出来ない。 片倉「……美奈子ちゃんは?」 由紀「行っちゃった」   由紀、片倉の手を握る。 片倉「……」 由紀「……」 ○ 街並(夜)   早朝だがまだ真暗な時、雨が降っている。   その一角に室内に電灯を灯した一軒の新   聞配達所がある。   看板には配達員募集、寮完備の看板。   そこは以前、美奈子が由紀を捜している   時に見かけた新聞配達所である。   戸が開き、中から合羽を着た新聞配達員   達が出て来て、各自自転車に新聞を乗せ   る。   その中に美奈子がいる。   美奈子、新聞の束を自転車の雨除けのビ   ニールカバーの籠に入れようとするが、   新聞を落としてしまう。 新聞配達員「馬鹿野郎! 何やってんだ!」 美奈子「すいません!(拾ってまた乗せよう  とする)」 新聞配達員「駄目だ、取り替えてこい!」 美奈子「すいません!」   美奈子、濡れた新聞を持って中に戻る。      ×   ×   ×   雨の中、各家に新聞を配る美奈子。   自転車をこぐ美奈子、白い息を吐きなが   ら、自転車をこぎ続ける。   街灯の続く真っ直ぐな一本道をぎこちな   く自転車をこぐ美奈子の姿が消えていっ   て……。                (おわり)