「いびつな器」 (人物表) 亜希子(44)花屋の未亡人 糸子 (78)亜希子の姑 可奈 (20)亜希子の一人娘 保坂 (50)亜希子のボーイフレンド タケル(11)家出少年 寅さん(53)ホームレス 御前様(60)寅さんの仲間 雅史 (52)糸子の長男 小夜子(40)雅史の妻 順子 (76)糸子の妹 ヒロシ(24)可奈のボーイフレンド 定子 (78)雑貨屋のおばさん 良   亜希子の夫 三年前に死亡 老紳士、郵便配達、町の人など。 ■野島フローリスト・外(朝)      駅からちょっと外れた商店街。      その中にある小さな古びた花屋、野島フローリスト。      起き抜けの気だるい空気の中、そこここで開店の準備が始まっている。      亜希子(44)が先ほどから店を出たり入ったり。奥へ引っ込んだかと      思うと、バラを入れた大きな花瓶をよいしょ、よいしょと運んでくる。      店先に、仲良く並んだ三つの、ちょっといびつな花瓶たち。      それらをいとおしそうに見る亜希子。 ■同・居間(朝)      店から奥へと続く居間。      テーブルの上で折り込みチラシを一枚ずつめくっている糸子(78)。      スーパーの朝市セールのチラシは右へ、マンションの広告はさっさと左へ。      と、介護付き老人ホームのチラシ。入居金二千万、月々の経費が十万円と      ある。     「一体誰が入るんだか!」などと文句を言いながらじっと見入る。      その後ろを気付かれないようそーっと通り過ぎていく可奈(20)。      両耳にピアスが一つずつ。 ■同・可奈の部屋(朝)        可奈がホッとした顔で入ってくる。      部屋中へビーなロックミュージシャンのポスターでいっぱい。      床に広げられた大きなスーツケース。      可奈、お腹に隠していた靴を取り出し、スーツケースに詰める。洋服、化粧品、      CD、枕まで入れてまるで家出だ。     『ガチャン!』      店先で何かが派手に割れた音。 亜希子の声「ああっ!」      可奈、飛び上がって反射的にスーツケースをベッドの下に隠す。 ■同・外(朝)      バラを入れた花瓶が割れ、花と破片が飛び散っている。  亜希子「ちょっと! どうしてくれんの!」      走り去る少年達の中に一人困ったように立ちすくんでいるタケル(11)。      タケル、突然逃げ出す。  亜希子「あっ! ちょっと!」      一目散に逃げていくタケル。      奥から何事かと糸子が出てくる。      振り返ったタケルと、糸子目が合う。      割れた花瓶と散らばったバラ。   糸子「…あらあら。あんたの大作が台無しだねえ」      亜希子、糸子をちょっと睨む。   糸子「ま、ちょっと安定が悪かったからねえ」      糸子、ボールを拾うとさっさと奥へ。      ブツブツ言いながら破片を拾い、繋ぎ合せてみる亜希子。 ――タイトル「いびつな器」―― ■野島フローリスト・居間      テーブルの上のボール。      亜希子、糸子、可奈の三人が遅い朝食を取っている。      亜希子、まだぷりぷりしている。  亜希子「前はよく仏壇のお花買いに来て、イイコだなあと思ってたのに。親に言って      やろうかしら。いや、言うべきよね」   糸子「止めときなさい。そんなことしたって客が一人減るだけだよ」      話に加わらず一人黙々と食事をしている可奈。      やけにめかし込んでいる。  亜希子「どうしたの」   可奈「(驚いて)え…?」  亜希子「何かあるの」      可奈、固まっている。      じっと可奈を見つめる亜希子。   糸子「(澄まして)何だかごそごそ荷造りしてるようだったけど」      可奈、見透かされていたとわかって真っ赤な顔。  亜希子「荷造り…?って、(驚いて)可奈、あなたまさか」      可奈、俯く。      糸子、事情がわからず   糸子「まさかって、なに」  亜希子「お母さんは許さないわよ」   可奈「(きっぱり)もう決めたの」  亜希子「許さないって言ってるでしょっ!」   糸子「(割って入って)ちょっと待ちなさいよ。一体、何の話?」  亜希子「どうしてここじゃだめなの?!」   可奈「ここにいたんじゃダメなのよ!」   糸子「(腹立たしく)もうっ。肝心な話はいつも除け者だねっ」      亜希子、押し黙る。      可奈、熱っぽく、   可奈「私、どうしても音楽をやりたいのよ」   糸子「音楽?!」   可奈「もっといっぱい練習して、音楽漬けの生活に自分を追い込んで、どこまで自分が      行けるかやってみたいのよ」  亜希子「それがどうして同棲なの?!」   糸子「同棲! どこの、誰」      糸子、意外と冷静である。   可奈「…言えない」   糸子「どうして」   可奈「反対されるのわかってるからよ」   糸子「そいじゃあ話にならない」  亜希子「そうよ! そんなちゃんと紹介も出来ないようなヤツ」   可奈「(ムキになって)水島ヒロシ、二十四歳! 男! ミュージシャン! これで      いい?」  亜希子「(興奮して)の、卵でしょ?! つまりプータローってことなのよ、お母さん!」   可奈「それがなんなの? 誰だって最初っからメジャーなわけないじゃない! これから      苦労して努力してそうなればいいんだもん」   糸子「そりゃそうだ」  亜希子「そういうことじゃないでしょ! だいたいあさってはお父さんの三回忌よ。      それに学校はどうすんの? もうすぐ卒業だって言うのに、何もかも中途半端で      一体何のために苦労して来たと思ってるの?!」   可奈「…学校は、ちゃんと行くわよ」      亜希子、懸命に冷静になろうと努めて、  亜希子「ねえ、音楽やることは反対しない。あなたの人生だもの。だけど何で同棲なの?      一緒にいたいから? そんなの、無責任じゃない。そんなことして、結局損するのは      女の方なのよ!」   可奈「れ・ん・あ・いに損得?!」  亜希子「そうじゃなくて!」      可奈、涙目になり   可奈「お願い…行きたいのよ。今じゃなきゃダメなのよ。あの人と一緒に夢を叶えたいの!」      呆れる亜希子。  亜希子「寝言もいい加減にしなさい!」   可奈「お母さんにはわからないわよ。もうとっくの昔に、人を好きになる気持ちも、      夢を見る気力も無くしちゃったんじゃない!」      可奈、感極まってバタバタと部屋を出て行く。  亜希子「ちょっと待ちなさい!」      追いかけようとする亜希子。   糸子「止めたって無駄よ。頭に血がかーっと上ってる時に、何言ったって」      亜希子、八つ当たりで  亜希子「お義母さんも! どうして何も言ってくれないんですかっ」      と言うなり、可奈の後を追う。   糸子「(小声で)教えてくれなかったんじゃない」      首をすくめる糸子。      除け者でちょっと寂しい顔。 ■同・店先      店先で、スーツケースを引っ張りあっている亜希子と可奈。  亜希子「冷静になんなさいっ。そんなことしたって絶対いいことにならない!」   可奈「離して! お母さんがなんと言おうと私、絶対行くんだから!」      となりの雑貨屋から定子がひょこっと顔を出す。   定子「あら、可奈ちゃん旅行? いいわねえ」      亜希子、思わずひるんで手を離す。      隙をついて可奈、さっと表に飛び出す。  亜希子「可奈っ」   可奈「行って来ます!」      逃げるように走り去る可奈。      追いかけようとする亜希子。      と、行く手を遮るように郵便屋のバイクが止まる。  亜希子「あ、危ないじゃない!」      ビビる郵便屋。      間が悪かったのを察してそうっと消える定子。      悲しそうに可奈を見送る亜希子。      亜希子、郵便屋の視線を感じて  亜希子「何よ!」 郵便局員「…か、書留です」      はっと我に返る亜希子。  亜希子「あ、あっ、すみません。…判子ね。と行きかけ)え? 書留?」      郵便局員の差し出した書留。      見ると、差出人の欄に「保坂和彦」とある。亜希子、突然顔を赤らめる。 ■同・和室      仏壇のある部屋。      糸子が保坂の名前の入った香典袋を有難くおし頂き、仏壇に供える。   糸子「有難いねえ、お友達って。こうしていつまでも忘れないでいてくれて。      あの子も幸せ者だよ。ナンマンダ、ナンマンダ…」      糸子、手を合わせる。      亜希子、その後ろで書留の袋をいじっている。落ち着かない面持ちで差出人の      名前をなぞる。見るともなく外を眺める。 ■同・店      ステッキを持った老紳士(75)、カーネーションを二本買っている。        お釣りを渡す亜希子。  亜希子「有難うございました」      老紳士、丁寧にお辞儀をして去る。      と、亜希子のポケットの携帯が鳴り、  亜希子「(小声で)もしもし? …あ、ハイ…」      と、慌てて奥へ引っ込む。      その様子を居間から見ていた糸子、聞き耳を立てるが聞き取れない。      亜希子、話しながら外に出て行く。 ■同・裏      花屋の裏。      亜希子、携帯で話している。  亜希子「あんな事しないでいいのに…」      嬉しいような困ったような顔の亜希子、足元の小石を蹴る。 ■最澄寺・お堂・中      法要がまさに終わったばかり。      あちこちで列席者が挨拶を交わしている。      糸子の長男夫婦、雅史(52)小夜子(40)、糸子の妹の順子(76)などがいる。      皆が亜希子のこの三年間の労をねぎらっている。よく頑張ったわねえ、とか、      淋しいでしょう、とか、あら、でも亜希子さん綺麗になったみたい、という声が      聞こえる。      亜希子、恥らんでいる。いかにもいい嫁。   順子「ホントに、亜希子さんには頭が下がるわよね。良が亡くなったあともこのうるさい      ばあさんの(と糸子を指し)面倒見てくれて。よくやってるわよ。(と長男雅史の      妻、小夜子の顔を覗き込み)あなた、ホント、ラッキーよ。この人と一緒に暮らして      ごらんなさい!」      糸子、フン、と言う顔。   糸子「この人たちは、親を親とも思ってないのよ」      ばつが悪そうに笑う小夜子。   雅史「(庇うように)母さん、そりゃないよ。うちだって必要とあればいつだってさあ。      でも、結果的に良が花屋を継いでよかったじゃない。サラリーマンじゃこうは      行かなかったよ」      雅史、一人うんうんと納得している。      亜希子と糸子、ちょっとカチンと来ている。   順子「(同調して)そうね。可奈ちゃんもちゃんと短大まで出せたしね。…あら、今日、       可奈ちゃんは?」      亜希子と糸子、ほぼ同時に  亜希子「学校の用事…」   糸子「駆け落ち。」      ええっ?! となる列席者たち。      澄ましている糸子。      亜希子、赤くなって糸子を睨む。 ■野島フローリスト・居間(夜)      亜希子と糸子の寡黙な食事。      糸子のたくあんを噛むポリポリという音が響く。  亜希子「何も、皆の前であんなこと言わなくても」   糸子「取り繕うことないじゃないの。隠したってどうせ後でわかることなんだから」      亜希子、不満そうな顔。いつまでも元気な糸子の顔をまじまじと見る。      糸子、不意に顔をあげて   糸子「何」  亜希子「(慌てて)いえ、別に。可奈も、そんな年になったんだなあと思って。     (作り笑いで)こっちが年取るわけだ」   糸子「上がつっかえててごめんなさいよ」      亜希子、煮詰まった顔。 ■同・可奈の部屋      可奈のいなくなったがらんとした部屋。      亜希子、携帯で可奈と話している。  亜希子「(苦笑いで)…だからそのあと、ずっと可奈の話で持ちきりだったわ」 ■ヒロシの部屋・中      買物してきたばかりの生活用品。      可奈、電話しながらアンパックしている。      痩せぎすで長髪のいかにもロックミュージシャン風のヒロシ(24)、ベッドの上      でエレキギターを電源なしで爪弾いている。   可奈「別に構わないよ。私、悪いことしてるなんて全然思ってないもの」      可奈、新しいコップ二つ並べて満足そう。     (以下、亜希子と可奈のカットバック)  亜希子「学校はちゃんと行ってるの?」   可奈「行ってるって」  亜希子「ねえ、そこどこなの?」   可奈「言わない。言うとお母さん、必ず見に来るから」  亜希子「だって、なんかあった時困るじゃない。…じゃあ、バイト先教えてよ」   可奈「(迷って)うーん。六本木のレイチェルってライブハウス」  亜希子「レイチェル…」   可奈「それよりお母さん、おばあちゃんと二人で大丈夫?」  亜希子「…だって、仕方がないじゃない。いずれはこうなるわけだし…」      亜希子、電話しながら洋服ダンスを開けたり、本棚を触ったり。      本棚に残されたマニキュア。      亜希子、手にとってしばらく眺めている。  (カットバック終わり) ■同・店(朝)      開店の準備。      花を抱えて店先に並べている亜希子。      三つあった花瓶が二つになっている。 ■同・居間(朝)      亜希子と糸子が朝食を取っている。      亜希子が黙々と食べる、その指先をじっと見ている糸子。      亜希子の爪にマニキュアが塗られている。   糸子「(さりげなく)今日、陶芸教室じゃなかったっけ」  亜希子「そうですけど?」      亜希子、質問の先が読めずキョトンとしている。   糸子「いや、ちょっと聞いただけ。このごろボケちゃってさ」  亜希子「あらやだ。まだ早いですよ」      とこのときばかりは機嫌よく笑う亜希子、ご飯を頬張る。 ■糸子の目で      亜希子のマニキュアが塗られた指。 ■同・店      大きな荷物を持って出て来る亜希子。  亜希子「じゃあお義母さん、あとお願いします」   糸子「あまり遅くならないでちょうだい」  亜希子「はい、行ってきます」      亜希子、背を向けた途端ペロッと舌を出す。      その後姿を見ている糸子。    ■道      亜希子、風を切るように小走り。 ■電車の中      幸せそうな亜希子の表情。      ガラスに映る自分の顔を見つめる。 ■道      地下鉄の駅から出て来る亜希子。      その表情が若やいでいる。      ややあって、糸子があたりを見回すように出て来る。 ■スーパーマーケット      亜希子が楽しそうに食材を選んでいる。 ■アパート・近く      二階建てのちょっと古びたアパート。      亜希子がやって来る。      ちょっと周りを気にしながら、急ぎ足でアパートの中へと消える。      間。      しばらくして糸子が現れる。      息を切らして、どうやら亜希子を見失ったようだ。地団太を踏む糸子。 ■同・中      亜希子、部屋に入ってくる。      小さな冷蔵庫とテーブル、簡素なベッドにソファ。      殺風景で、いかにも普段人が住んでいない感じの部屋。      荷物を置き、換気をしようと窓を開ける。 ■同・近く      帰りかけた糸子、二階の窓の開く音に振り返ると、そこにいたのは紛れもなく      亜希子。      慌てて身を隠す糸子。      糸子、ドキドキする胸を抑える。      しばし茫然と佇む。      そのとき、男のものらしい足音が近づいてくる。      糸子、ハッとしてそちらの方を見やり、更に驚く。      保坂(50)である。   糸子「保坂…さん!」      保坂、大きな紙袋を下げ、糸子に気付かずアパートの中に消える。 ■同・中      料理を始めようとしていた亜希子、ドアをノックする音に、跳ねるように行って      ドアを開ける。   保坂「やあ」  亜希子「(照れて)お帰り」   保坂「うん」      微笑み合う二人。      保坂が大きな紙袋を下に置くと、中から花瓶が覗いている。 ■アパート・下      アパートの階段下の郵便受け。      二〇一のところに小さな字で「野島」と書かれている。      それに見入っている糸子。      やがて放心したように歩き出す。 ■野島フローリスト・店      糸子が引きつった顔で帰って来る。      留守を預っていた定子に声もかけず、入って来るなりずずずっと奥へ引っ込む。      定子、呆れて追いかけて   定子「ちょっと、ちょっと! 愛想がないわねえ。一体どうしたの?」   糸子「うるさい! もういいから帰って!」      定子、驚く。   定子「おお、桑原クワバラ」      と帰って行く。 ■アパート・中(夕方)      亜希子と保坂がバスローブをまとった格好で並んでソファに腰掛け、ワインを      傾けている。  亜希子「…それでね、花瓶割れちゃったのよ」   保坂「いいよ、そんなこと」  亜希子「申し訳ないわ。せっかく重たい思いして持ってきてくれたのに」   保坂「(微笑んで)あれは亜希子さんが作ったはずでしょ」  亜希子「…ヤダな。亜希子って言って」      亜希子、そっと保坂に寄りかかる。      遠い目で  亜希子「夢を見る気力、か…」   保坂「ん?」  亜希子「ううん。…可奈がね、出て行くとき、『お母さんなんか、もうとっくの昔に人を       好きになる気持ち無くしちゃったんじゃない!』って言ったの」      保坂、照れくさそうに微笑んでいる。  亜希子「…私、可奈を引き止めなきゃ、って思いながら、どこかで認めてた」   保坂「物分かりのいいお母さんだ」  亜希子「…だって、私だって、ホントはそうしたいもの」      亜希子、熱い目で保坂を見る。      保坂、亜希子を優しく引き寄せる。 ■ヒロシの部屋(夜)      1DKのアパート。      狭い部屋にベッド。      ほとんど下着姿の可奈とヒロシ、ベッドの上で語り合っている。      可奈、目をキラキラ輝かせて   可奈「え? マネージャーがそんなこと言ったの?」  ヒロシ「ああ。なんかな、空きが出来たら使ってやってもいいって」      ヒロシもちょっと嬉しそうにギターをいじる。   可奈「すごいじゃん、それ! あんなとこでライブ出来たらチャンスかもしれないよ」      可奈、いきなりベッドに立ち上がり   可奈「(マネージャーの真似で)今日、ちょっと時間あるんだけど、君たちの      オリジナル、やってみるかい」      と、ヒロシのギターを取って激しくロックを弾く真似。   可奈「♪ららら〜」      気持ち良く歌う可奈。ベッドがそれにつられて揺れて、ヒロシ、ベッドに転がる。      丁度可奈の下着が見える格好。  ヒロシ「(ふざけて)お客さ〜ん、丸見え〜」   可奈「すると客の中に混じっていた有名プロデューサーがいきなり二人に近寄り…      君たち、うちに来ないかい?」  ヒロシ「(笑って)ねえよ、そんなこと!」   可奈「あるかもしれないじゃん!」      可奈、ヒロシに飛びつく。      ベッドの上で転げまわる二人。 ■電車の中(夜)      亜希子が袋を抱えて揺られている。      花瓶が覗いている。      保坂を思い出すように、優しい表情の亜希子。 ■野島フローリスト・居間(夜)      テーブルの前、まんじりともせず座っている糸子。     『ガラガラッ。』      亜希子が帰って来たらしい音に、糸子、姿勢を正す。      亜希子入ってくる。  亜希子「(驚いて)あら。お義母さんまだ起きてたんですか」      返事しない糸子。      亜希子、居心地が悪い。      わざと機嫌を取るように、持ち帰った花瓶を取り出すと、  亜希子「ほら! 新作。前よりちょっとましになったでしょ?」      糸子、一瞥して   糸子「いつからだった、あなたが陶芸教室行くようになったの」  亜希子「えっ? …ああ、半年くらい前かな。そのわりにうまい?」      微笑みかける亜希子。      その顔をまじまじと見て、   糸子「こうやって、半年間ずっと騙されてたわけだ…」  亜希子「…え?」   糸子「(苦笑いで)陶芸教室なんて、嘘ばっかり。その花瓶も一体どこで手に入れて      くるんだか、亜希子さんも、随分と手の込んだことするわよね」      亜希子、ちょっと青ざめる。  亜希子「嘘じゃありませんよ。どうしてそんな…」      糸子、最後まで聞かず亜希子の手を引っ張ると、   糸子「こんな爪で土捏ねてたって言うの?!」  亜希子「これは…」   糸子「あなたがアパートに入っていくのをね、この目でちゃんと見たのよ! それとも      陶芸教室はアパートの中にあるとでも言うの」  亜希子「…お義母さん、あと付けたんですか? ひどい!」   糸子「どっちが! 練馬に行ってるはずのあなたをね、桜新町で見たって人がいたのよ。       随分バカにされたもんだわよ、ここからたった三駅じゃないの」      固まっている亜希子。   糸子「しかも相手が、よりによって良の友達だなんて…、よくも、よくもそんなことが      出来たもんだ…いやらしいっ!」      亜希子、キッと糸子を見返して  亜希子「お言葉返すようですけどお義母さん、私もう一人身なんですから。何をしようと      誰に恥じることもないんだし」   糸子「(興奮して)向こうには妻子がいるじゃないの!」  亜希子「別居中なんです!付き合い始めたときからもう、奥さんは家を出てたんです!      誰にも後ろ指さされるようなことしてないわ…それに、こんなこと言いたくないけど、      お義母さんとはもう嫁と姑じゃないんだし」   糸子「(呆れて)あ、そう。そんなこと考えてたんだ…。とんだお門違いだったわね。      じゃあ一緒に住んでるのも嫌々だったんだ」      亜希子、唇を噛み押し黙っている。   糸子「私もね、何も頭下げてまで面倒見てくれなんて言わないわよ。どうぞご自由に      なさったらいいわ」  亜希子「そんなつもりで言ったんじゃ…」   糸子「そんなつもりでしょ? それ以外にどんな意味があるって言うの? 悪いけどね、      私のほうが願い下げだ。こんな家になんかいられないわよ!」      糸子、テーブルを蹴って立ち上がる。  亜希子「お義母さん!」   糸子「お義母さんなんて呼ばないでちょうだい!」      糸子、近くにあったバッグを鷲掴みにするとバタバタと出て行く。      亜希子、悔しそうな顔。      と、糸子いったん戻ってきて奥の間へ。 ■同・和室      糸子、入ってきて仏壇の位牌を掴む。   糸子「(悔しそうに)可哀想に。こんなとこいられないわよね!」      と、位牌を包んでバッグに入れる。 ■同・居間      糸子がバタンバタンとわざと音を立てて出て行く。      興奮のあまり、履物が片ちんばなのにも気付かない。      その音にじっと耐えている亜希子。      出て行った音がしホッと肩の力が抜ける。 ■大通り(夜)      手を上げてタクシーを拾おうとしている糸子。      片ちんばの履物が歩きにくそう。 ■雅史の家・玄関外(夜)      タクシーが止まり、糸子が降りてくる。 ■同・居間(夜)      雅史と小夜子が旅支度をしている。      と玄関のチャイムが鳴る。      今ごろ誰だろう、と二人顔を見合わせる。      ドアフォンを押すと、糸子の顔のクローズアップ。      二人、困った表情。 ■同・玄関中(夜)      雅史が玄関を開けるや否や、   糸子「ホント、お話にならないわ!」      言いながら入ってきて糸子、奥まで行ってしまう。      取り付く島のない雅史。     ■同・居間(夜)      糸子が興奮した様子で座っている。      雅史、苦虫を潰した顔。      小夜子、急いでお茶を運んできて  小夜子「(興味津々で)信じられないですねえ、あの亜希子さんが?」   糸子「(歯噛みして)半年よ、半年! この年になるまで、こんなにキレイに      人に騙されたのは初めてよっ」  小夜子「(心配そうに)でもそのアパートって、不倫のため?(アッ!…と、言葉を      捜して)いや、あの、まさか将来のために借りたんじゃないんですよね…?」      言われて糸子、顔が引きつる。   糸子「まさか、そこまで…」   雅史「(面倒臭そうに)どっちだっていいじゃない。騙されてたって気持ちはわかる      けどさ、でもそれは仕様がないんじゃないの? 亜希子さんだってまだ若いんだし、      これからは先はそういう事も含めて、共存していくより他無いんじゃないのか?」      糸子、驚いたように   糸子「あんた、私にあの家に帰れって言うの?」   雅史「だったら花屋を捨てられるの? 親父が亡くなった時、どうしても店を潰すわけ      には行かないって良たちを引き入れたのはお袋じゃないか」   糸子「あの時はあの時。今は事情が違うじゃない」   雅史「そうやってさあ、いっつもそっちの事情に付き合わされたんじゃ、こっちは      たまらないよ」   糸子「それどういう意味? あんたは親がどうなったって構わないって言うの?!」      雅史、くさりきった顔。チラッと時計を気にする。      糸子、気付いて、回りを見渡すとなにやら旅行の準備中。   糸子「…どっか行くの?」      雅史、観念して   雅史「これから北海道まで行くんだ」   糸子「聞いてないわよ、そんなこと」   雅史「そんなの、一々言わなきゃなんないの? 言うとまたうるさいでしょう、贅沢だとか      何とか」      小夜子、時間を気にして  小夜子「(小声で雅史に)…ねえ、そろそろ」      糸子、ひどく落胆した顔。   糸子「どこ行ってもつま弾きだ…」   雅史「(困って)そんなことないよ。だけどさ、年取ったらもっと…こう、人に可愛がられる      ようになんなきゃ。最後は誰かの世話になるんだからさぁ」   糸子「(ポツンと)息子にそんなこと言われるようになっちゃおしまいだ…」      糸子、すっくと立ち上がると   糸子「お邪魔さま」      と出て行く。  小夜子「あ、お母様」      雅史、小夜子に促がされ、嫌々糸子を追いかける。 ■同・玄関中(夜)      靴を履いている糸子。      雅史来て、   雅史「今度さ、亜希子さんとはちゃんと話してみるから」   糸子「結構よ。自分のことは自分でします」      バタンとドアを閉め出て行く糸子。      雅史、溜息。      小夜子、来て  小夜子「いいの?」   雅史「いいよ。どうせ行くとこなんて無いんだから、家に帰ったんだろ」    ■野島フローリスト・居間(夜)      亜希子、近くにあるものを手当たり次第掴んでは床に投げつけている。      ティッシュの箱、台拭き、クッション。      とりあえず壊れて困るようなものは避けているらしい。  亜希子「(物を投げつけながら)…何よ。私が何したって言うの。私が幸せになっちゃ      いけないわけ? 男ができたって? (段々興奮してきて)いーいじゃない、      ちょっとくらい羽目外したって。アパートが何よ、私だって自由に生きたいのよ!       まだ人生終わったわけじゃないのよ!」      グチャグチャになった部屋。      亜希子、虚しくなってへたり込む。      お尻に当たった置きっぱなしの糸子の靴下。悔しそうに掴むとテーブルに      投げつける。それが醤油ビンに当たって床に落ちる。飛び散る醤油。      亜希子、慌ててティッシュで拭きまくる。      悔しそうに亜希子泣き出す。 ■商店街(夜)      野島フローリストが遠目に見える。      ちょっとお酒が入っているらしい糸子、美空ひばりの歌を歌いながらやってくる。   糸子「♪ひ〜とり酒場でぇ飲〜むぅ酒は〜」        糸子、野島フローリストの前でちょっと立ち止まる。      店を感慨深げにちょっと眺めて、   糸子「(陽気に)あばよ!」      と店に手を上げ、通り過ぎていく。   糸子「♪わ〜かれ話しのあぁじがする〜」      遠ざかっていく糸子。 ■道(夜中)      とぼとぼと歩いている糸子。      先ほどの元気はすっかりなくなっている。 ■公園(夜中)      靴を脱ぎ、公園のベンチにぽつねんと座っている糸子。      歩き疲れた足を擦る。      すっかり肩を落としている。      ×    ×    ×      ベンチの上に眠ってしまった糸子。      辺りが白み始めている。      その糸子に近寄る黒い人影。      その黒い手が糸子に伸び…      寝ている糸子を揺り動かす手。  寅さん「ほらっ。ほらっ」      ホームレスの寅さん(53)、タオルと歯ブラシを持って立っている。      糸子、目が覚め、見知らぬ男の姿に飛び上がる。   糸子「ひいっ!」      慌てて逃げようとするが身体が痛くて思うように動けない。   糸子「あいたた…」      と、足をさする。  寅さん「そんな驚くなよ。死んでんのかと思ってこっちがビビったよ」      糸子、辺りを見回し、思い出すように   糸子「ああ、私ったらいつの間にか寝ちゃってたんだ…」  寅さん「何があったのか知らないがよ、早くうちに帰らなきゃ今ごろ大騒ぎだぞ」   糸子「(フッと笑って)行くとこあったら、こんなとこになんかいないよ」      寅さん、糸子のその寂しそうな顔をじっと見ていたが、  寅さん「あっちで火を熾してるからよ、暖まって行きなよ」      糸子、寅さんのみすぼらしい姿をじろじろ見る。      その時、公園の向こうから声がする。 タケルの声「おーい、寅さーん、お湯沸いたよォ」  寅さん「(手を上げて)おうっ」   糸子「…寅さん」      糸子、寅さんを見、声のした方を見る。      公園の向こうに小さくタケルが見える。 ■寅さんのダンボールハウス・外(早朝)      公園脇に作られた寅さんのダンボールハウス。      その横で薪で火が熾され、ブロックの上の鍋がグツグツ沸騰している。      小枝を拾って来てはくべているタケル。      寅さんと糸子、やって来る。  寅さん「さあて、茶でも飲むとするか」      糸子、タケルに気付いて、   糸子「(驚いて)あら、あんた」      タケル、花屋のおばあさんと気付いてバツが悪そう。  寅さん「何だ、知り合いか」   糸子「(タケルに)あんた、どうしてこんなとこいるの?」      糸子、急に元気になった様子。 ■野島フローリスト・亜希子の部屋(朝)      ぐっすり寝ている亜希子。      朝の喧騒の音にハッとして飛び起きる。      亜希子、時計を見て  亜希子「大変!」      慌てて着替えながら、  亜希子「(気がついて)…あ、いないんだ」      ちょっと嬉しそう。 ■同・キッチン(朝)      亜希子、コーヒーと焼きあがったハムトーストを持って居間の方へ。 ■同・居間(朝)      亜希子、テレビを見ながらトーストにかぶりつく。とてもリラックスした様子。      食べ終わってウアーッと伸びをする。      伸びをしたままの格好で嬉しそう。     ■同・店(朝)      亜希子、仏壇の花瓶にルンルンと機嫌よく花を挿している。      定子、ひょこっと現れて   定子「(小声で)昨日、お義母さん、大丈夫だった?」  亜希子「(わからず)え? …ええ」   定子「(がっかりして)あら、そう。一竜で飲めないお酒を飲んでたって言うから、      何かあったのかと思った」      動揺を作り笑いで誤魔化す亜希子。      定子つまらなそうに引っ込む。      亜希子、途端に不安そうな顔。      仏壇の花を奥へ。 ■同・和室(朝)      仏壇に花を置きながら、  亜希子「あ、位牌」      いつものところに位牌が無いことに気付く。      狼狽する亜希子。 ■寅さんのダンボールハウス・中(朝)      糸子がおっかなびっくり中を覗く。      意外に広く小奇麗な空間。      必要最低限の道具がきっちり揃っている。   糸子「へえ、案外ちゃんとしてるもんだね」      と、ちょっと感心した様子。 ■同・外(朝)      寅さんが雑炊を作っている。      見入っている糸子とタケル。      おにぎりをパックから出し鍋に入れる。      お弁当の揚げ物だけ外して残りを入れる。      糸子、パッケージを拾って消費期限のところを見る。   糸子「(眉間に皺を寄せ)あ、過ぎてる」  寅さん「大丈夫。今まで腹を壊したことはない」  タケル「(得意そうに)僕も」      寅さんが雑炊を器によそって糸子に渡す。      糸子、恐々それを見つめる。  寅さん「嫌なら食うな」      糸子を見つめるタケルと寅さん。      糸子、意を決してパクっと一口。   糸子「あら、美味しい」      タケル、それを見て嬉しそうに食べ出す。      糸子、感心した様子で   糸子「なるほどねえ、水もトイレもあるし、住むに困らないね」      頬張っているタケル。   糸子「タケルくん、あんた、学校は?」      タケル、無視して答えない。  寅さん「(庇って)いいよ、学校なんか行かなくて。無理して俺みたいに途中でプッツン      するよか、今のうちにプッツンしといた方がいいんだ。な、タケル」      タケル、コクンと頷く。   糸子「前はよくお花買いに来てたじゃない」      タケル、俯き顔。  寅さん「こいつの親はさ、母親が若い男と駆け落ちして、それ以来父親が酒浸りで…」      タケル、怒ったように遮って  タケル「すんなよ、そんな話!」      寅さん、しまった、と言う顔。  寅さん「(頭を掻きながら)そうだったな。男は秘密を守らなきゃな」   糸子「…そうなんだ」  寅さん「うーんと心配させればいいのさ。(タケルに力強く)殺人と自殺以外は何でも      していいぞ。そのくらいじゃなきゃ、親も自分が何してんのか気付かないんだからよ」      タケル、力強くコックンと頷く。   糸子「(自分のことを思って)心配するかねえ…。いなくなったと思ってせいせい      してるかも」  タケル「おばあちゃんも何かあったの?」  寅さん「花屋なんだろ」   糸子「そうだよ。旦那が死んでも息子が死んでも、店にしがみ付いて堪えて、やっと      ここまで来たんだ…。もう少しでお迎えが来て、やっと楽になれるって時に…     (タケルに)あの、キーッて怒ったヒステリーがいただろ? (悔しそうに)      あの女、ふてえ野郎でさ、こともあろうに、…」      続きを待っている寅さんとタケル。      糸子、話し掛けて途中で止める。   糸子「言いたかないわ、何が嬉しくてこんな話…」  タケル「言っちゃいなよ」  寅さん「そうだ、話してみろよ。冥土の土産だ」   糸子「(覚悟を決め)息子が死んで、まだたったの三年なんだよ。なのに、あの女、      よりによって息子の友達と出来ちゃってさ…」  寅さん「そいつはひどいや」   糸子「だろ?! そうだよねえ?! …悲しいよ。なんだかやりきれないじゃないか。      それなのに長男は、そんなの人の自由だなんて言い方するし、そんな嫁に世話に      ならなきゃなんない自分も惨めでさ…」      タケル、糸子をまじまじと見ている。   糸子「だからさ、家出しちゃったんだよ。もう二度とあんな家戻るもんか!って…     (タケルに)あんたと同じ。(苦笑いで)家出が流行ってるねえ」      タケル、可笑しそう。 ■北海道・洞爺湖湖畔のホテル(朝)      朝霧に包まれた洞爺湖。      その横に聳え立つホテル。 ■同・その一室のベランダ(朝)      ガラス窓を開けてベランダに出てくる雅史と小夜子。  小夜子「(弾んだ声で)わあ、きれ〜い」   雅史「うん、いいなあ、北海道は広々してて」      雅史、大きく伸びを一つ。      と、部屋の方で携帯の鳴る音。      ん? と振り返る雅史。 ■同・その一室・中(朝)      雅史が入ってきて、携帯に出る。   雅史「もしもし…」 ■野島フローリスト・居間(朝)      亜希子、心配そうに電話している。  亜希子「あ、もしもし。亜希子ですけど。すいません、携帯まで電話して。家の方      通じなかったもんだから」 雅史の声「ああ、亜希子さんか。驚いた。俺、今、北海道なんだよ」  亜希子「(驚いて)えっ、北海道? …あの、お母さんは?」 雅史の声「え? なに、お袋? は来たけどすぐ帰ったんだよ?」  亜希子「えっ、じゃあ夕べは雅史さんの所に泊ったんじゃないんですか?」 雅史の声「ああ? 帰ってないの?!」  亜希子「…良の位牌持ってったんです」 雅史の声「…参ったなあ。そうやってすぐ騒ぎを大きくするんだから。…あのさ、俺、      今洞爺湖なの。夜中に着いて起きたばっかり。(投げやりに)…大丈夫だよ。      前にもそういう事あったじゃない。そんな早まったことする人じゃないよ」  亜希子「そんな、無責任な!」      亜希子、頭に来ている。 ■雑貨屋      亜希子、バタバタと入っていく。  亜希子「すいません! すいません!」      奥から定子が顔を出す。   定子「あら、亜希子さん。どうしたの?」  亜希子「あの…。夕べ、お義母さんがお酒飲んでたって言ったでしょ?」   定子「う、うん」  亜希子「それ誰から聞いたんですか。どこで飲んでたって言いましたっけ?」   定子「(身を乗り出して)どうしたのどうしたのどうしたの。やっぱり何かあったのね?!」  亜希子「(嫌々)…帰らなかったんですよ、昨日」   定子「まあ!」      定子、ちょっと考えて   定子「任しといて。心当たり当たってみるから。こういう時のためのネットワークだもんね」      言いながら早くも受話器を握っている。      ×    ×    ×      定子、亜希子に教えながら電話している。   定子「あ、そう。十一時半の看板まで、そこにいたのね? …うん、ずっと一人だったんだ…      それじゃあその後どこに行ったかはわからないんだ…」      亜希子、次第に不安そうな顔。   定子「ああ、有難うね。…うん、また連絡するわ」      神妙な顔つきで受話器を置く定子。   定子「一体、どこ行っちまったんだろうねえ」  亜希子「…どうしよう。警察に届けた方がいいかしら」   定子「そうねえ…でもあの人のことだから案外ひょこっと帰ってきたりするかもよ?」  亜希子「(ハッと気づいて)私、家ン中見てくる」   定子「家ン中?!」  亜希子「前にもね、いないいないって大騒ぎしてたら、こっそり押入れの中に寝てたっ      てことあったから」         走って出て行く亜希子。 ■野島フローリスト・糸子の部屋      入ってくる亜希子。      ツカツカっと近づいて、サッと押入れを開ける。      もちろんいるわけがない。      亜希子、カクンと肩の力が抜ける。      茫然とあたりを見回す。      捨てきれない物で溢れている部屋。      貯まる一方の紙袋。手紙の束。机の上にはキレイに畳まれた折込チラシ、そして      まだ結婚したての頃の亜希子夫婦と糸子夫婦が一緒に写った写真。      幸せそうに笑った写真。      亜希子、感慨深く写真に見入る。 ■公園      子供たちもまばらな静かな公園。      ラーメン屋のバイクが止まる。      ラーメン屋のお兄ちゃん、辺りを見回す。      向こうで糸子が手を振っている。   糸子「(叫んで)こっち、こっち!」      お兄ちゃん、ラーメンを持っていく。 ■寅さんのダンボールハウス・中      糸子、寅さん、タケルの三人が、フウフウ言いながらラーメンをすすっている。   糸子「(得意そうに)ね? ここのラーメンは一品だろ?」      寅さん、夢中で食べながら無言で頷く。      食べ終えたタケル、箸を置いて  タケル「うちも昔よくここのラーメン食べに行った」      糸子、ハッとして   糸子「あ、そう…。そんなこともあったんだ…」  タケル「(嬉しそうに)久し振りで美味しかった」   糸子「(嬉しくなって)そうか、なら良かった! じゃあさ、今晩は寿司でも食べる      かな? それとも鰻がいいかね」      寅さん、食べ終わってラーメンの汁を鍋に集めながら  寅さん「寿司かあ…。そんなもんはもう十何年食ってないなあ」   糸子「じゃあ決まり! うんと美味しいとこ奢るよ」  寅さん「寿司は食いたいが…ばあさん、どうすんだよ今夜」   糸子「(強がって)どっか、ビジネスホテルでも探すよっ」  寅さん「俺が言うのもなんだけどさ、こじれないうちに帰った方がいい」      糸子、急にいじけて頭を垂れる。  寅さん「あんたの家なんだろ? ばあさんが守ってきた家なんだろ? 堂々と帰りゃ      いいじゃないか。卑屈になるこたないよ」   糸子「…」  寅さん「一日伸ばしにすると、これが余計帰り辛くなるんだよ。もう一晩もう一日と      思ってるうちに、とうとう十年。俺なんかもう後戻りできなくなっちまった…」   糸子「あんた、家族は?」  寅さん「家族…。いたなあ。息子が一人いた。ところが、こいつの誕生日をどうしても      思い出せない。確か、7月のまだ雨の多い時期だったんだ。…そんなもんだ、      家族だって離れてしまえば」   糸子「親はいないの?」  寅さん「こんな息子に会いたいと思うかい?」   糸子「どんな息子だって、息子は息子なんだよ。プーでも何でも、生きててくれさえ      すればそれでいいんだよ」      しんみりしてしまった三人。      突然、寅さんのお腹がグルグル言い出す。      お腹を抑える寅さん。  寅さん「う。駄目だ」      飛び出す寅さん。      心配そうに見送る糸子とタケル。 ■公園      寅さんがお腹を抑えてトイレに駆け込む。 ■寅さんのダンボールハウス・中      寅さんが駆け込んだのを見ていた糸子とタケル。   糸子「慣れないもの食べてお腹壊しちゃったんだ」      笑い合う。   糸子「(神妙に)もう、どのくらい家に帰ってないの?」  タケル「数えてない。…二ヶ月くらいかな」   糸子「そんなに!」      糸子、しばし考えていたがおもむろに   糸子「ねえ。どこいても同じならさ、おばあちゃんチ来ないかね。…ていうか、来て      くれないかい?」      驚くタケル。   糸子「(恥ずかしそうに)一人じゃさ、あの家の敷居は跨ぎにくいんだ」      タケル、糸子を見ている。 ■野島フローリスト・居間      亜希子がアルバムを引っ張り出している。      新婚時代、可奈が生まれた頃、昔を懐かしんでいる。      保坂の写真が出てくる。      良と肩を並べて写った写真。      見つめる亜希子。 ■同・店・外      辺りが次第に暗くなってくる。      店に臨時休業の札。      ラーメン屋のお兄ちゃん、バイクで通りかかり、ちょっと止めて考えるが、臨時      休業の札を見て走り去ってしまう。 ■同・居間        亜希子、心配そうに部屋の中を行ったり来たりしている。      思いたって携帯を出し、かける。      呼び出し音。  亜希子「あ、もしもし、可奈?」 ■ライブハウス「レイチェル」      雑多な人で賑わう店内。      ステージでは若いグループのライブ。      ヒロシが楽しそうな顔でカウンターでバーテンをしている。      可奈、黒いミニスカートにエプロン姿。      携帯で話しながら、ちょっと静かな踊り場まで来て、   可奈「おばあちゃんが家出?」 亜希子の声「…ちょっと、いろいろあってね。昨日家を飛び出したっきりまだ帰って来ないの」   可奈「ふうん。前にもあったじゃない、そんなこと。まだ一日目なんでしょ?」 亜希子の声「そうだけど、もう歳だからねえ…ねえ、ちょっと帰って来れない?」   可奈「ええ? 急にそんな事言われても…」      可奈、困った顔。      カウンターでヒロシが店長に何か言われている。      店長、時おりヒロシのお尻を叩いて『頼むよお』と言う雰囲気。      可奈、低姿勢でぺこぺこしているヒロシのことが気にかかる。 ■野島フローリスト・居間  亜希子「あのね、お母さん、あなたに聞いて欲しいこともあるのよ。だから…。      …もしもし? …ねえ、聞いてる?」 可奈の声「…あ、うん。だけど、今日の今日は無理。また連絡する。今ちょっと手が離せないの」      プツンと切れる携帯。  亜希子「あ、待って…」      亜希子、溜息をつく。 ■ライブハウス「レイチェル」      可奈、ヒロシのところに行ってカウンター越しに話をする。   可奈「店長、何の話だったの?」  ヒロシ「…いや、バイトの子が遅れるんでちょっと繋いでてくれって」   可奈「(驚いて)ダメだよ、今日は皆で音合わせがあるんじゃない」  ヒロシ「しょうがないだろ。…行くよ、終わったら飛んでいくからさ」      可奈、不満そうな顔。 ■野島フローリスト・居間      再び携帯を掛けている亜希子。      呼出し音。  亜希子「(優しい声で)あ、もしもし…」      プツンと携帯が切れてしまう。      首をひねる亜希子。      また携帯を掛け始める。      今度は『お客様がおかけになった電話番号は…』とアンサーフォンが流れる。      納得いかない顔の亜希子。 ■保坂の家・リビングキッチン      ソファで新聞を読んでいた保坂、新聞の陰に隠れて携帯の電源を切り、そっと      ポケットに仕舞う。      キッチンのテーブルで素焼きの焼き物に色付けをしている妻の元美(48)チラッ      と保坂を窺う。      新聞を畳んで部屋を出て行きかける保坂に、   元美「携帯を肌身離さず持ってるって、浮気してる証拠なんですって」   保坂「(度肝を抜かれ)何だよ、それ」   元美「この間テレビでやってた」   保坂「(ホッとして)下らないこと言うなよ」        と、出て行きかけるところに、自宅の電話が鳴る。      立ち上がりかけた元美より早く受話器を取る保坂。   保坂「もしもし…」 亜希子の声「あ、もしもし、亜希子です。携帯が繋がらなかったもんだから」   保坂「(ひどく狼狽して)あ? あ、そう? いや、それは気付かなかった…」      保坂の様子を窺っている元美。      その視線を感じている保坂。     (以下、亜希子と保坂のカットバックで)  亜希子「実はね、おばあちゃんがいなくなっちゃって…」   保坂「えっ? それはそれは…」  亜希子「…? バレちゃったのよ、あなたの事も、アパートの事も」   保坂「…!」  亜希子「私へのあてつけなんだろうけど…。だったらいっそのこと、私がここ      出ちゃおうか、なんて…。アパートもあることだし」   保坂「…」  亜希子「…もしもし?」   保坂「…。もしもーし」  亜希子「ハイ」   保坂「…もしもーし。あれ、この電話おかしいなあ…もしもーし」  亜希子「ハイ! 私、いるわよ!」   保坂「混線してるのかなあ? もしもし? あれ、何にも聞こえなくなっちゃった…      えー、聞こえてるかどうかわかりませんが、のちほど携帯の方へお電話ください」      ホッとしたように電話を切る保坂。  亜希子「…」      怪訝な顔の亜希子。     (カットバック終わり)   保坂「なんかヘンな電話だったなぁ」   元美「…あなた、何か私に隠し事してない?」   保坂「(動揺を隠して)してないよ。何でそんな事言うんだ」   元美「…ならいいけど。もし何かあったら、私泣き寝入りなんてしないわよ。今は      年金だって半分ずつになるんだから」   保坂「ばか! テレビの見過ぎだよ」      保坂、怒った振りで出て行く。      元美、その後姿を見ている。 ■同・廊下      リビングキッチンから出てきた保坂、動揺している。 ■野島フローリスト・居間      亜希子、また保坂の携帯に電話している。      アンサーフォンが流れる。  亜希子「(怒って)結局繋がらないじゃない」      ちょうどその時『ガラガラ』と店の方で戸の開く音。      亜希子、ハッとして振り返ると      糸子がヌッと現れる。   糸子「ただいま」  亜希子「お義母さん!」      と、糸子、タケルを呼んで   糸子「ほら、遠慮しないで早く上がんな」      タケル、入って来る。珍しそうに中をジロジロ。      亜希子、呆気に取られていたが、タケルがボールの少年とわかって  亜希子「(驚いて)あ! この間の悪ガキ!」      タケル、ちょっとムッとした顔。   糸子「この子に、タケルくんにね、夕べは世話になったの。行き倒れになるところを、      助けてもらったのよ。お礼にしばらく家にいてもらうことにしたから」  亜希子「…え?!」   糸子「(高飛車に)そうだ、お寿司取ってちょうだい。うんといいとこね。あ、でも      その前にお風呂」  亜希子「(…!)」      亜希子が何か言いかけるのを糸子、キッと睨む。      亜希子、迫力に押されて言葉を飲み込む。 ■同・お風呂      湯船に浸かっている糸子、恐い顔で   糸子「(ひとり言)負けるもんか!」      顔にお湯を掛ける。 ■同・居間      テーブルの上に寿司が置かれている。      部屋の隅に正座して亜希子を窺っているタケル。      亜希子、言葉を選ぶように  亜希子「夕べはおばあちゃんとどこにいたのかしら」      タケル、上目遣いに亜希子を見る。      亜希子、優しく作り笑顔。      タケル、そっぽを向く。      亜希子、呆れた顔。      亜希子、忍耐強く  亜希子「心配でさ、おばさん、一晩眠れなかったのよ…。どっかに倒れてんじゃないか、      交通事故にでもあったんじゃないか、お腹空かしてるんじゃないかってねえ」  タケル「ラーメン食べたよ」  亜希子「ラーメン?!」  タケル「公園の寅さんとこで」  亜希子「公園の寅さん? 誰それ」  タケル「ホームレスだよ」  亜希子「ホームレス…! まさか、夕べそこにいたの?!」  タケル「そうだよ」      亜希子、乗り出していた身を思わず引っ込める。      亜希子、タケルをしげしげと見て  亜希子「…あなた、お家は?」      タケル、途端に口をつぐむ。      湯上りの格好で糸子が入って来る。   糸子「あら、まだ食べてなかったの。お腹空いてるはずだろ?」      糸子、亜希子とタケルの気まずさを見て取って   糸子「じゃあ、先にお風呂入っといで。…そうだ、着替え…何か良のがあったかも」  亜希子「(驚いて)お義母さん!」   糸子「ちょっと、こっちおいで」      糸子、亜希子を無視して、優しくタケル連れて奥へ。 ■同・和室      糸子、たんすの中から新しめの下着やTシャツ、ズボンなどを見繕っている。   糸子「これどうだい」      と引っ張り出しタケルに当ててみる。   糸子「あら。案外似合うじゃない」      懐かしそうに目を細める糸子。      タケル、興味深げにその糸子の優しい顔をみている。 ■同・居間      亜希子が怒った顔で座っている。      糸子、入って来る。      亜希子、我慢ならないというように  亜希子「私へのあてつけですか」   糸子「何が」  亜希子「あの子連れてきたり、わざわざ良の服引っ張り出したり」   糸子「ああそう言えば、あの子はあんたの大事な大事な花瓶を壊したんだっけ」  亜希子「(ムッとして)よその子勝手に連れてきて、親が知ったら何て言うか」   糸子「(開き直って)だって、あんたと二人で、どんな顔してここにいろって      言うの? 嫁でも姑でもないって言われて、どうせみんな他人様じゃないか、      あの子も一緒だよ」  亜希子「(悔しそうに)出てけっていうなら、私出て行きます」   糸子「別に引止めやしないよ」      亜希子、もう我慢の限界。  亜希子「…そんなに私が憎いですか。私はもう誰とも恋しちゃいけないって言うんですか!」   糸子「いやらしいっ! あんたは私の息子と結婚したんだろ」  亜希子「でも、もう良は死んだんです! この世にいて、私を抱いてくれたり…(ハッと      言葉を呑む)」   糸子「…!」  亜希子「…でも、だからって、忘れたわけじゃない。私が誰かと付き合ったからって、      良と過ごした時間までなくなるわけじゃない。でも私だって前を向いて生きたい。      その、どこがいけないんですか」   糸子「とてもそういう風には割り切れないよ…。ここん中にね(と、胸を叩き)しっかり      入り込んでたら、とてもそんな気になれないよ」  亜希子「私、お義母さんみたいな人生は送りたくない!」   糸子「(キレて)お義母さんみたいな人生って何よ。ええ? 言ってごらん!」  亜希子「…」   糸子「言ってごらんなさいよ!」      亜希子、唇を噛み締めている。   糸子「(怒って)冗談じゃないよ。あんたになんかわかって堪るもんか。私なんか夫も      無くし、親もなくし、おまけに子供一人無くして、それでもまだ生きてなくちゃ      ならないんだ。そんな甘いこと言ってられないのよ!」  亜希子「私はお義母さんとは違います!」      タケル、入って来る。      亜希子、タケルの着ているだぶだぶのTシャツに思わず目を奪われる。  亜希子「…これ、良のお気に入りだったTシャツ…」   糸子「そうだよ。あんたが裏切ったダンナのね!」      亜希子、堪らず部屋を出て行く。      糸子、驚いているタケルを気遣うように   糸子「さあ、お腹空いたろ。ここのお寿司はおいしいんだよ…」      糸子にもこみ上げるものがある。 ■同・キッチン(夜)      亜希子が一人皿を洗っている。      糸子との諍いの声が蘇る。     『どうせみんな他人様じゃないか、あの子と一緒だよ!』     『出てけっていうなら、私出て行きます』     『別に引止めやしないよ』      ×    ×    ×      亜希子が鍋をピカピカに磨いている。      糸子との諍いの声が蘇る。     『いやらしいっ! あんたは私の息子と結婚したんだろ』     『そうだよ。あんたが裏切ったダンナのね!』      亜希子の涙が鍋に落ちる。      涙で、鍋が見えなくなる。      水道の水をジャージャー流しながら、それでも必死に鍋をこすり続ける亜希子。      ×    ×    ×      ピカピカになったキッチン。      亜希子、茫然とはげてしまったマニキュアを見ている。 ■同・居間(日替わり)      糸子とタケルがオセロをしている。      真剣な顔の糸子は、黒。      タケルの一手で碁盤がアッという間に白に変わる。      地団駄を踏む糸子。   糸子「もう一回!」      余裕の顔のタケル。 ■同・店      二人の様子を店の方から眺めている亜希子。諦め顔。 ■商店街       午後、買い物客で賑やか。 ■野島フリーリスト 居間      糸子、気持ち良さそうに転寝している。 ■同・可奈の部屋      机に頬杖をついて、一人窓から外を眺めているタケル。      亜希子が知らずに入ってくる。  亜希子「あら」      タケル、バツが悪そう。  亜希子「タケルくん、あんた、どうして学校行かないの?」  タケル「(逆らって)行きたくなきゃ行かなくていいんだよ。僕は今プッツンしてる      んだから」  亜希子「何馬鹿なこと言ってんの。子どもは学校行かなきゃいけないに決まってるでしょ!」      小さくなるタケル。  亜希子「(考えて)ちょっとこっちおいで」      タケル、恐る恐るついて行く。 ■同・店      枝などのゴミをブラシでズズズッと外へ押しやるタケル、ちょっと楽しげ。  亜希子「(タケルに)まとめておいてね」      タケル、素直に頷く  老紳士「ごめんください」      いつもの老紳士が花を買いに来ている。      花を見渡してから  老紳士「今日はバラを二本下さい。花開いているのとちょっと蕾くらいの」  亜希子「はい。バラですね、ちょっとお待ちください」      亜希子、バラを持って奥へ包みに。      老紳士、振り返ると、タケルがデッキブラシで床の掃除をしている。 小学生1「あ、タケルだ」      タケル、顔をあげると目の前に同級生の三人組。 小学生2「ほんとだ」      タケル、ブラシを投げ出すと走って店の奥へ。      バラを持ってきた亜希子、そのタケルの様子に驚く。 ■同・居間      タケルが膝を抱えて隅っこに小さくなっている。 ■同・外(日替わり)      商店街の向こうから、小学生三人に連れられやってくる大人一人。      野島フローリストの前で立ち止まる。 小学生1「先生、ここ!」      と、店を指差す。 ■同・居間      糸子がタケルに新聞の漢字を教えている。      なかなか覚えが良くて糸子楽しそう。      亜希子、やって来て  亜希子「お母さん、先生」   糸子「先生?」      タケル、察して逃げようとする。      亜希子、その行く手を塞いで  亜希子「ちゃんと話を聞かなきゃ」      タケル、うな垂れる。      ×    ×    ×   先生「ご存知でしょうが、タケルくんのお父さんは深酒なさる方で、前にも暴力が      原因でタケルくんを施設に預けたことがあるんです」      亜希子と糸子、驚いて顔を見合す。      タケル、先生の横でうな垂れている。   先生「それが先日、とうとうアルコール中毒で入院しちゃいましてね…」      タケル、エッと顔をあげる。  タケル「お父さんが入院?!」      先生、タケルの頭に手をやり   先生「そうなんだよ。それでずっと君の居場所を探してたんだ。失礼ですが(と亜希子      と糸子の方を見て)タケルくんのご親戚か何か…?」   糸子「…いえ、そうじゃないんですが、以前よく花を買いに来たりしてたもんでね」   先生「そうですか…。まあ、そういうわけで、今日はタケルくんを児童相談所のほうへ      連れて行ってですね…」  タケル「嫌だ! 先生、僕は一人で大丈夫だよ。一人でお父さん帰ってくるのを待って      られるよ!」   先生「…タケルくん。そうは行かないんだよ。知ってるだろ? 子供は一人で生活しちゃ      いけないんだ」  タケル「そんなのひどいよ! じゃあ大人は勝手に、僕のことあっちやったりこっちやったり      していいの?!」   先生「タケルくん…」      糸子、見かねて   糸子「先生、私がタケルくんを預っちゃだめなんですか」  タケル「おばあちゃん!」      全員、驚いて糸子を見る。   糸子「この子の父親が治るまで、私が責任もって預りますから」   先生「…しかし」   糸子「こんな小さいのにたらい回しになっちゃ可哀想だ…。明日っから、ちゃんと学校      にも行かせます。何か書類が必要なら何にでも判子押しますよ。ね、タケルくん、      あんたもそうしたいだろ?」  タケル「うん!」      タケル、すがるように先生を見つめる。      先生、考えていたが、ポリポリ頭を掻き   先生「そうですねえ…。本来は相談所にお願いすべきことなんですが…、ここの方が      タケルくんにとっては幸せですよねえ」      糸子とタケル、嬉しそうに顔を見合わせる。      亜希子、呆れ顔。 ■同・居間(夕方)      亜希子、糸子、タケルの三人の夕食が済んだところ。      糸子、早速タケルに新しいTシャツなど買って来ている。      着てみるタケル。とても嬉しそう。   糸子「(目を細めて)じゃあ、お風呂入っといで。明日っから学校行かなきゃなんない      からね」  タケル「はーい」        糸子、タケルの後姿を見て   糸子「こうしてみると素直ないい子じゃないか」      亜希子、寡黙に後片付けしていたが、糸子に向き直り  亜希子「お義母さん、タケルくんを預るって本気なんですか?」   糸子「(冷たく)当たり前だろ。人一人預るんだ、いい加減な気持ちじゃないよ。      …場合によってはね、私はあの子を養子にしたっていいと思ってるんだ」  亜希子「(驚いて)養子?!」   糸子「そうだよ。あの子なかなか頭もいいし、育て甲斐のある子だよ」      亜希子、糸子の顔をしげしげと見る。      亜希子、憤懣やるかたない様子。 ■同・洗面所      亜希子、洗濯機に洗濯物を放り込んでいる。      掴んだ洗濯物を見て手が止まる。      良のTシャツだったもの。      亜希子それを握り締めている。  亜希子「ああ、…もうダメ」      必死に堪えている。 ■ライブハウス「レイチェル」中      凄い人いきれ、大きな音量の生演奏。      亜希子が恐る恐る入ってくる。      ちょっと気圧されている様子。      人込みを掻き分け、可奈を探す。      飲み物を運んでいた可奈、亜希子に気づき驚いた顔。      亜希子、ちょっとばつが悪そうに手を上げる。      ×    ×    ×      可奈が亜希子を踊り場に連れて来る。      着くや否や   可奈「いきなり来ないでよ、仕事中なんだから」  亜希子「ごめん、どうしても話があって…」     と、亜希子、可奈のピアスの穴が二つ増えたことに気付く。  亜希子「(指差して)あなたまた…」   可奈「(けん制して)こんなところでケンカ売らないでね」      亜希子、気落ちする。      可奈、言い過ぎたという顔。 ■ファミレス      亜希子と可奈が向かい合って座っている。      可奈、制服にコートを纏っただけの格好。      可奈、まじまじと亜希子を見て   可奈「驚いたな。お母さんにそんな人がいたなんて…」      亜希子、コーヒーをかき回しながら  亜希子「…信じられない? それとも、許せない?」   可奈「ていうか…。仕方ないじゃない、今更、そうなっちゃったもんは。…まあ、      私はいいかな、ちゃんと、自分で自分の人生エンジョイしてくれてた方が…。      でも、おばあちゃんにはキツイよね」  亜希子「…そうなのよね…」      亜希子、遠くを見詰めて  亜希子「でもね、こうなって初めて、ああ私、こんなことも出来たんだって…、もっと      別の人生も送れたんだ、もっと色んな事してみたかったんだって、いろんなこと      気付いてね…不思議な気持ちだった」      亜希子と可奈、お互いを見つめ合う。   可奈「お母さんも好きなように生きてみたらいいじゃない」  亜希子「…うん」   可奈「それで…家を出てどうするの?」  亜希子「まだ何も考えてないのよ」   可奈「おばあちゃんには話したの?」      亜希子、頭を振る。   可奈「口では強がり言っても、きっと寂しがるね。私のあと、すぐお母さんなんて」  亜希子「多分ね…。今はタケルくんがいるから紛れてるけど」   可奈「しっかし物好きだよなあ、他所の子預るなんて」      亜希子、微笑む。  亜希子「ところで、あなたの方は上手く行ってるの?」   可奈「え? …あ、うん。まあね」      可奈、ちょっと顔が強張る。  亜希子「あの、カウンターにいたバーテンの人がそう?」   可奈「えっ、わかったの…?」  亜希子「これでも母親よ。そのくらいわかるわよ」   可奈「(わざと元気に)あそこでね、バイトしながら時々歌わせてくれる約束なんだ。      始めたばっかりだから、まだだけどね」  亜希子「そう。良かったね。でも、…何か困ったことあったらちゃんと言ってよ。      お母さんでも、おばあちゃんでも」   可奈「うん。でも大丈夫よ。自分の責任で始めたことだし、ヒロシと何でも話し合って      やって行こうって言ってるの」  亜希子「そう…。そうよね」   可奈「それより、お母さん頑張って。その年で自立するって、きっと大変だよ。相手の      人にだって子供とかいたりするんだろうし」  亜希子「(空元気で)大丈夫よ! そんなこと。お母さんだってまだまだ、大丈夫!」      亜希子と可奈、ぎこちなく笑いあう。 ■同・外      ファミレスの外、お互い掛ける言葉を失っている亜希子と可奈。  亜希子「…じゃあね」   可奈「うん…、またね!」      別々の方向に歩き出す二人。      亜希子、途中で立ち止まって可奈を見送る。      振り返らず、消えて行く可奈。      亜希子に一抹の寂しさ。     「よしッ!」と自分に喝を入れる亜希子。 ■貸しスタジオ      可奈のバンドが練習している。      気持ちよくシャウトしている可奈。      と、ヒロシのギターがテンポを外す。      バンドのメンバー、またかよ、という雰囲気。      可奈、ヒロシを気遣っているが、ヒロシ、やる気が出ない様子。      辛そうな可奈。 ■野島フローリスト・亜希子の部屋      亜希子、生き生きと部屋を片付けている。      使わなくなった物は思い切って処分。      要らない雑誌も束ねる。      飾り物、アパートに合いそうなものだけ除けておく。      少しずつこざっぱりとしてくる。      亜希子、思いついたように携帯を出す。      保坂の番号。  亜希子「(明るい顔で)もしもし…」 ■野島フローリスト・居間      亜希子、糸子、タケルの三人が食事を終えたところ。      亜希子、テーブルの上を片付けている。      タケルがランドセルの中から百点のテストを自慢げに出し、糸子に見せている。   糸子「凄いねえ。ちょっと勉強すればもうこれだ。たくさん勉強したら一体どうなっちゃう      んだろう」  タケル「(嬉しそうに)さあどうなっちゃうかなあ。社長くらいにはなれるんじゃない」   糸子「社長! 野島フローリストのかい?」  タケル「違うよ!」      二人、小突きあっている。楽しそう。      亜希子、呆れている。   糸子「(真面目に)ねえ、一度お父さんのお見舞いに行かなくちゃねえ」      タケル、途端に不機嫌な顔。  タケル「会いたくないよ」   糸子「お父さんはね、会いたいと思うよ」  タケル「…」   糸子「おばあちゃんが付いてってあげるからさ、あんたが元気でいることがわかるだけで      安心するんだ。ね?」  亜希子「そうね。一度行っといた方がいいかも」   糸子「じゃあ明日にしよう、いいね?」      タケル、嫌そうな顔。  亜希子「あの、私も明日の午後ちょっと出かけて来ます」     糸子「…あ、そう」      糸子、察しは付いているが知らん顔。 ■バス停      糸子とタケルがバスを待っている。      タケル、憂鬱な顔。 ■バスの中      後部座席で揺られている糸子とタケル。      タケル、浮かない顔。      糸子、タケルを勇気付けようと   糸子「ちゃんと百点の答案もって来たかい?」  タケル「おばあちゃんはね、僕のお父さんを知らないんだ…百点なんかどうだって      いいんだよ。会いに行ったって嬉しくないんだ」   糸子「(胸を打たれて)そんな事あるもんか…親ならみんな…」  タケル「親って何? 自分のことしか考えて無いじゃん! どうして子供だけ親のこと      考えなきゃいけないの?」      糸子、言葉に詰まる。      悲しい目でタケルを見つめる。      タケル、窓の外を見ている。     ■病院前      バスが止まって、糸子とタケルが降りてくる。 ■病院・中・ナースセンター      糸子とタケルがナースセンターの前に待たされている。      二人を見てひそひそ話している看護婦達。      タケル、そわそわと落ち着かない。      年配の看護婦近づいてきてタケルに、  看護婦「…そう。息子さんがいたんだ。家族の人が来るの初めてなもんだから。でも、      まだ絶対安静でね、今主治医の先生に連絡とってますから、もうちょっと待ってて」   糸子「あ、どうもすみません」      と、頭を下げる。  看護婦「(同情した風に)いろいろ大変だねえ、君も」      と、タケルの頭をなでる。      タケル、キッとした顔になって突然走り出す。      糸子、慌てて   糸子「タケル! タケル、どこ行くの!」      唖然としている看護婦、ちょうどそこへ主治医がやってくる。      糸子、タケルを追うに追いかけられない。 ■野島フローリスト・亜希子の部屋      きれいに化粧をした亜希子が着ていくものを選んでいる。あれこれ当てて見るが、      なかなか決まらない。 ■病院・一室      糸子が主治医と話している。  主治医「彼の場合はね、アル中だけじゃなく、ちょっとうつ病の気もありましてね、入院      は長引くと覚悟してください」   糸子「長いって、先生どれくらい…」  主治医「…まあ短くてもあと二、三ヶ月は。今日はせっかく息子さん来てくれたのに、      彼が会いたがらなくて、可哀想なことした…」      糸子、頭を垂れている。 ■野島フローリスト・店・外        糸子、バタバタと帰ってくる。 ■同・店・中      糸子、帰ってくる。      留守を預って雑誌を読んでいた定子、   定子「(顔を挙げて)ああ、お帰り」   糸子「タケルは?」   定子「あれ、一緒じゃないの?」   糸子「帰ってないの?!」   定子「はあ。私が知る限りは」   糸子「(不安そうに)…どこ行ったんだろう」   定子「なんかあったの、病院で」      考えていた糸子、突然ハッとして   糸子「ちょっと出かけてくる」      と、飛び出していく。   定子「(慌てて)ええ? ちょっと、うちの店はどうなんのよ!」      もう糸子の姿はない。 ■公園      急いでやって来る糸子。      ダンボールハウスが壊されている。   糸子「…!」      遠巻きにしている数人の人だかり。「これでやっと綺麗になるわね」といった声      が聞こえる。      糸子、焦ってダンボールハウスがあった辺りへ。 ■寅さんのダンボールハウスのあった所      制服を着た区の人達がもう少しで撤収作業を終えるところ。      ホームレス数人、移動の準備。      糸子、寅さんの姿を探す。      仲間の、通称御前様(60)と一緒に荷物をまとめている寅さん。      その横でうな垂れているタケル。      糸子、息せき切ってやって来て   糸子「タケル! …ああ、よかった」      タケル、糸子を見るとサッと寅さんの陰に隠れる。      糸子、ショックな様子。      寅さん、タケルを小突き  寅さん「ほら、迎えにきてくれてよかったじゃねえか」      タケル、まだ陰に隠れて出て来ない。  寅さん「(庇って)…何かな、親父に会うともうばあさんの家にいられなくなるって、      心配だったらしいぞ」   糸子「えっ」  寅さん「こいつに取っちゃさ、会いたい親父でもなけりゃ、戻りたい家でもないんだ」   糸子「(動揺して)そうか…そうだったんだ。ごめんよ、あんたの気持ちも知らないで、      余計なことして…。ごめんよ、タケルくん」      タケル、まだそっぽを向いている。      寅さん、荷物を取って  寅さん「さあて、俺たちは(と御前様を見て)どこかねぐらを探すかな。なんせ物が      ダンボールだから引越しは簡単よ」      と、糸子に笑いかける。  タケル「行かないでよ!」      タケル、突然泣きそうな顔で寅さんに縋りつく。  タケル「行かないでよ! …みんなして、どっか行っちゃわないでよ!」      タケル、泣き出す。      驚いて顔を見合す糸子と寅さん。      寅さん、ちょっとグッと来ている。   糸子「…そうだよね、あんたに取っちゃ大事な大事な友達だもんね」      糸子、妙案を思いついたように   糸子「ねえ、うち来るかい?」  寅さん「え?」      タケル、突然泣き止んで目を輝かす。      糸子、弾みが付いて   糸子「そうだ、そうしなよ! 一晩くらいどうってことないだろ」      タケル、嬉しそうな顔。   糸子「あの人も一緒にどうだい?」      糸子、寅さんの近くにいた御前様に目をやる。      御前様、戸惑っている。 ■夜景の見えるバー(夜)      ホテルの最上階にある夜景の見えるバー。      外に向かってテーブルと椅子が並んでいる。      奥の席で保坂がグラスを傾けている。      亜希子、入ってきて保坂を見つけると嬉しそうに近寄る。  亜希子「ごめんなさい、突然…」      保坂、明るく振り返る。   保坂「いいんだ。(と、亜希子に椅子を勧めながら)いろいろ大変だったね」  亜希子「ええ。でも、もう大丈夫」      明るく笑って見せる亜希子。      バーテンが来て注文を待っている。  亜希子「あ、ジントニック」 バーテン「かしこまりました」      バーテンが去ったのを見て、   保坂「で、話って?」  亜希子「(弾む気持ちを抑えて)驚かないでね。…私ね、家を出ることにしたわ」   保坂「え…」  亜希子「近いうちにアパートの方へ引っ越そうと思って」   保坂「(ちょっと驚いて)そりゃまた随分急だね」  亜希子「娘と話したの…。それでわかったのよ。娘が自分の夢のために家を出て行った      ように、私もアパートを借りようと思ったときに、さっさとあの家、出て行かなきゃ      いけなかったのよ。あの家にいて、あれもこれも上手く行かそうなんて無理があった      のよ」   保坂「…」  亜希子「(不満そうに)喜んでくれないのね…?」   保坂「いや、そうじゃない。あなたがそうしたいならそうすればいいさ。ただ…」  亜希子「ただ?」   保坂「これから一人でやっていくのは大変だよ?」      亜希子少なからず傷ついて、  亜希子「(遠慮がちに)…あなたは、あなたは奥様との事どうなってるの?」   保坂「(無理に微笑んで)どうしたの急に」  亜希子「(困って)だって、あまり話したがらないなと思って…」   保坂「(辛そうに)別居したとは言え、まだ係争中で、離婚が正式に成立するのは      いつになるかわからないんだよ。年頃の子供の事もあるしね。だから、君の力に      なりたくても今はなれないんだ…申し訳ないけど」  亜希子「…」      バーテンがジントニックを運んでくる。      乾杯する二人。   保坂「たまには外でこうやって飲むのもいいね」  亜希子「…ええ」      亜希子、はぐらかされた気持ちでいる。   保坂「僕はね、こうして君に会えるだけでいいんだ。…水曜日は、またいつものように       あそこで会えるよね?」      返事の代わりに微笑む亜希子。      機嫌よくグラスを傾ける保坂。      少し割り切れない気持ちの亜希子、夜景ではなく、ガラスに映る自分たちの姿を      見ている。 ■野島フローリスト・居間      髭もあたってやけにこざっぱりした寅さんと御前様。糸子とタケルの四人で宴会      をやっている。タケル以外はみんな結構出来上がって楽しそう。   糸子「ねえ、何で御前様って言うの?」  寅さん「こいつがさあ、会う度に『おい、寅、汚れた浮浪者にはなるな、おい、寅』ってさ、      自分が汚いホームレスのくせして俺に説教ばっかりするのよ。お前まるで御前様      みたいだなって、それが始まりよ」      御前様、歯の欠けた口で笑っている。  タケル「じゃあ寅さんは?」  寅さん「俺か? 俺はさ、別に失恋ばっかりするからじゃないのよ? 俺はどっちかって      言うともてた方だからね」  御前様「初耳だ」  寅さん「何言ってんの。昔はほら、こうバリッと背広なんか着ちゃってさ、周りの女は      ほっとかなかったねぇ」  御前様「こういう法螺ばっかり吹くから寅って言うんだよ」  寅さん「バカ、お前、俺、昔レストランの支配人やってたときにな…」  御前様「お前が支配人?!」      みんな可笑しそうに笑っている。 ■同・店の外      亜希子が帰ってくる。      家の中から賑やかな声が聞こえてきて、亜希子、不審な顔。 ■同・店      店から居間に続く上がりがまちに脱ぎ捨てられた汚い靴。      居間の方からは男たちの話し声と笑い声。      亜希子ますます驚いている。 ■同・居間      盛り上がっている糸子たち。  寅さん「(立ち上がって)俺がさあ、こう黒いタキシードに黒い蝶ネクタイでここに      立っていたとするか。そこへこう、絹のドレスかなんかを着た女がさ、向こうから      やって来て…」      と寅さんが手を差し出した方に亜希子、突っ立っている。 寅さんたち「わっ!」      みんな亜希子の突然の帰宅に驚く。      呆気に取られている亜希子。      バツの悪い寅さん、かしこまって座る。      御前様、気にして寅さんを小突き行こうか、という合図。      糸子、それを見て慌てて、   糸子「いいんだよ、何も遠慮しないで。(高飛車に亜希子に)今日、この方たちに      泊って頂くことになったから」  亜希子「(目を丸くして)泊って…?!」      亜希子、二の句が継げずプイッと奥へ。      その態度にカチンと来た糸子、わざと大声で   糸子「愛想の悪い嫁でご免なさいよ。さあさ、もっと飲んでちょうだい」      酒を勧める糸子。と、 亜希子の声「きゃーっ!」      全員、驚いた顔。 ■同・お風呂場      お風呂場を開けて見ている亜希子、思わず顔をしかめる。      湯船が泥だらけの垢だらけ。そこら中汚れて、クサイ服が脱ぎ捨てられている。      亜希子、完全にキレた顔。 ■同・居間      ツカツカっとやってくる亜希子、糸子に  亜希子「お義母さん、何ですか、あのお風呂場!」   糸子「お風呂場?(とこちらもキレて)お客さんの前で何だい、その言い方! せっかく      来て頂いたのに、愛想の一つもなくて!」  亜希子「来て頂いたって…(呆れて)この方達に?」   糸子「なんて失礼な! ここは私の家なんだからね、何をしようと勝手だろ!」       亜希子、唖然として  亜希子「そうですよね。ここはお義母さん一人の家だったんですよね? …ちょうど      よかった。私、明日出て行きますから!」      捨て台詞を残して亜希子出て行く。      怒り心頭の糸子。      その間に寅さんたち、こそこそといなくなる。      タケル、心配そうに糸子を見つめている。    ■同・亜希子の部屋      モノに当り散らしながら亜希子、荷物の整理をしている。 ■同・和室      仏壇の前、憤慨して座っている糸子。      良の位牌が戻されている。      タケル、心配そうに覗いている。 ■商店街(朝)(日替わり)      定子が店先を掃いている。      野島フローリストのシャッターはまだ半開きのまま。 ■野島フローリスト・亜希子の部屋(朝)      きれいに身支度を整えた亜希子が鏡を覗く。      自分を見つめる亜希子。      もう一度口紅を塗ってみる。      溜息一つ。      意を決したように立ち上がる。 ■同・居間(朝)      ボストンバッグ一つ下げて亜希子がやって来る。      糸子がいないことがわかると荷物を置いて糸子の部屋に。 ■同・糸子の部屋(朝)      誰もいないシンとした部屋。 亜希子の声「お義母さん」      亜希子、ふすまを開けて、中を覗く。      しかし、糸子はいない。      亜希子、諦め、襖を閉める。 ■同・糸子の部屋の中の押し入れ(朝)      押入れの中で正座している糸子。      一点を見つめる。 ■同・居間(朝)      タケルがランドセルの中身を点検している。      亜希子、やって来て  亜希子「おばあちゃん知らない?」  タケル「(顔も見ずに)知らない」  亜希子「そう…。どこいったんだろ、朝っぱらから…。タケルくん、おばあちゃんに      伝えてくれないかな、私が出て行ったこと。他の荷物はそのうち引き取りに      来ますって。…それから、タケルくん、おばあちゃんをよろしくね…?」      神妙な顔でタケルを見る亜希子。      タケル、荒々しくランドセルを担ぐと  タケル「そんなの、自分で言えよ!」      と、飛び出す。      亜希子、ちょっと胸が痛む。 ■電車の中(朝)      電車に揺られている亜希子。 ■アパート・前(朝)      亜希子がやってくる。      感慨深くアパートを見上げる。 ■野島フローリスト・居間      糸子、電話をしている。 雅史の声「(非難がましく)亜希子さんに出て行かれて、店はどうするのよ」   糸子「どうって…。小夜子さん、手伝いにこれないかい?」 雅史の声「都合のいい事言わないでよ。だから多少のことは目をつぶれってあれほど      言ったのに、見境も無く我を張るのはやめてくれよ」      糸子、言い返す元気がない。 ■アパート・部屋の中      カーテンが変わりきれいになった部屋。      カレンダーや装飾品もある。        料理をしている亜希子、楽しそう。      チラッと時計を見たりして、時間を気にしている。      鍋が噴いて慌てて蓋を取る。 ■アパート近くの道      ワインの袋を抱えた保坂が歩いて来る。      胸ポケットの携帯が鳴り、立ち止まって携帯を開ける。      メールが届いている。 ■携帯の画面     『覚えてると思うけど、今日はママの誕生日だからね。早く帰ってよ』 ■アパート近くの道      保坂、しまったと言う顔。      どうしようか迷っている。 ■アパート・部屋の中      テーブルの上には出来上がった食事が二人前。      亜希子、さっきからしきりに携帯を気にしている。と、保坂からの電話。  亜希子「(嬉しそうに)もしもし?」  (以下、亜希子と保坂のカットバックで)   保坂「あ、もしもし、僕。実は…今日は行くの止めた方が良さそうなんだ」  亜希子「え? 何かあったの?」   保坂「(神妙な声で)どうもね、最近つけられてるような気がして…」  亜希子「えっ…」   保坂「興信所だよ。考えすぎだとは思うんだけどね、何しろ離婚の係争中だから…      用心したに越したことないと思うんだ」  亜希子「…そう」   保坂「ごめん。この埋め合わせは必ずするから」      亜希子心配そうな顔で電話を切る。      ×    ×    ×      夜      テーブルがきれいに片付けられている。      一人ぼんやりとテレビを見る亜希子。      保坂の声が蘇る。 保坂の声「別居したとは言え、まだ離婚の係争中で、いつになるかわからないし、今、      君の力にはなれないんだ」 保坂の声「どうもね、最近つけられてるような気がして…」      亜希子、不安げな顔。      時計を見ると九時。      亜希子、急いで携帯を掛ける。     『ただいまこの電話は電波の届かないところにあるか…』とアンサーフォン。      亜希子、心配でたまらない。      保坂の自宅の電話番号を出し、掛ける。      呼び出し音が途切れて、 元美の声「もしもし、保坂でございます」  亜希子「…!」      亜希子、衝撃で声も出ない。 ■保坂の家(夜)      家族で誕生日をお祝いしていたらしい食卓のあと。      テーブルの上には保坂の持ち帰ったワインが、空けられている。   元美「…もしもし? 保坂ですけど」     (以下、亜希子と元美のカットバック)      亜希子、どうすべきかうろたえている。  亜希子「…あ、あの…」   元美「…」  亜希子「…あの、ごめんなさい、間違えました…」      電話を切ろうとする亜希子に、    元美「待って!」      と、携帯から声が響く。      亜希子、恐る恐る電話に出る。   元美「待って! …まだ、そこにいらっしゃるわね…?」      亜希子、自分の心臓の音が聞こえるほどドキドキしている。   元美「間違ってたらごめんなさい…いえ、間違ってるはず無いわ、今日は      水曜日だもの(と、空になったワインを見)…あなた、いつも花瓶を      買ってくださる方よね」      亜希子、携帯を落とさんばかりに驚く。  亜希子「どうしてそれを?」   元美「(薄く笑って)だって、あの花瓶、私が焼いたんですもの」      亜希子、固まっている。   元美「図々しいわよね、主人を寝取った上に花瓶まで…この泥棒猫!」  亜希子「…!」   元美「でも、今日は私の誕生日だったから、そちらに伺えなくて残念だったわね」  亜希子「…えっ」   元美「そういう人なの。(様子を窺って)…それでもまだ主人にご用が?」  亜希子「(歯を食いしばり)…いいえ」   元美「そうでしょうね。…それから、花瓶はまだこれからも必要かしら?」      亜希子、空威張りで  亜希子「…いいえ、もう結構です」   元美「そう。…なら、良かった。私まだ、あんまり上手くないんですもの」      けらけらと笑う元美。  亜希子「(意を決して)…あの、一つだけ教えて下さい」   元美「何でしょう?」  亜希子「…ご主人と別居なさったことは…?」   元美「(はっきりと)一度もありません」      亜希子、茫然と電話を切る。 ■道(夜)      亜希子、茫然と歩き回っている。 ■回想・喫茶店      亜希子と保坂が向かい合っている。   保坂「アパート?!」  亜希子「(恥ずかしそうに)…そう。おかしいって言うかもしれないけど、私ああいう      ホテルみたいなところ抵抗があって…。だからいいでしょ? アパート借りても」      ×    ×    ×  亜希子「理由は何にしよう…」   保坂「陶芸教室なんてどう?」  亜希子「ああ、それいいわ。でも、持って帰る作品がないとね…」   保坂「僕が調達してあげるよ」  亜希子「(嬉しそうに)ほんと?」      ×    ×    ×   保坂「僕はね、こうして君に会えるだけでいいんだ。…来週はまたいつものように      あそこで会えるかな?」    ――回想終わり―― ■道(夜)      幹線道路の横をひたすら歩き続けている亜希子。車の煩い音に紛れて、  亜希子「(自虐的に)ははは。私って馬鹿みたい…いい年して夢中になって…ふふ     (次第に泣き笑いで)ほんッとに馬鹿!」      行き交う人が気持ち悪そうに通り過ぎる。  ■公園(夜)      亜希子が滑り台をしている。  亜希子「シューッ」      靴を脱いで、洋服が汚れるのも気にせず何回も何回も滑っている。      やがて疲れて滑り台の上に寝転ぶ。      天を仰ぐ。      泣いてるような笑ってるような顔。 ■野島フローリスト・外(夜)      靴を両手に持って亜希子、歌を歌いながら千鳥足でやって来る。      かなり酔っている。  亜希子「♪ひ〜とり酒場でぇ飲〜むぅ酒は〜」        亜希子、野島フローリストの前でちょっと立ち止まり、古びた看板を感慨深げに      見上げる。      アハハ、と笑ってみる。      更に大声で、  亜希子「♪わ〜かれ話しの〜」      と、入っていく亜希子。 ■同・居間(夜)      糸子がタケルとオセロで遊んでいる。      アッという間に逆転されてくさる糸子。     『ガラガラッ』と戸の開く音。      突然亜希子がヌッと顔を出す。  亜希子「お義母さん」   糸子「(驚いて)わっ」      裸足でよれよれになった亜希子、酔ってまっすぐ立っていられない。  亜希子「すいません、お義母さん、雑巾」   糸子「(わけがわからず)ええ?」      亜希子、立っていられず入り口にゴロンと寝転ぶ。   糸子「ちょっと亜希子さん! 一体どうしたの?!」      亜希子、寝転んだまま陽気に、  亜希子「お義母さん。私、振られちゃいましたあー」      と、万歳の格好。   糸子「えぇ?」  亜希子「別居してるとか、もうすぐ離婚するとか、ぜぇんぶ嘘!ハハハ。私、真に      受けちゃって…、とってもとっても素敵な恋をしてるつもりで…ハハハ、      見事に裏切られちゃいました!」   糸子「(怒った顔)…それで? あんたはなんて言い返したの?まさか泣き寝入りして      帰ってきたんじゃないでしょうね?!」      亜希子、首を振り  亜希子「相手は奥さんだもの…。私に何か言えるはずない…(だんだん寝始めて)      恥ずかしくて、(と涙混じりに寝息)…穴が…たかった…」   糸子「悪いのは男の方じゃないか!」      と糸子、興奮して亜希子を揺さぶる。   糸子「ちょっと起きなさいよ! …冗談じゃないわよ、うちの嫁馬鹿にして。あんたが      馬鹿にされたってことはね、良が馬鹿にされたってことなのよ?! あんたもあんた      だわ、そんなことでこんな酔っ払って、ちゃんと男に一泡拭かせてやるくらいの、      気迫が無くてどうすんの!」  亜希子「…(寝言)お義母さん…」   糸子「なにがお義母さんよ、小娘みたいに、だから舐められるのよっ」      糸子、必死に亜希子を揺さぶる。      寝入ってしまった亜希子。      糸子、悔しくておいおい泣き出す。      タケル、唖然と見ている。 ■同・亜希子の部屋      亜希子、布団に蓑虫みたいに包まって、泣き笑いの顔で寝ている。 ■ヒロシの部屋      玄関に脱ぎ捨てられた可奈のブーツ。      可奈が疲れた顔で座っている。      時計を見ると夜の十二時を回っている。      ヒロシが帰って来る。  ヒロシ「ただいま…ああ、疲れた」   可奈「ヒロシ?! どうしたの? みんな待ってたんだよ」    ヒロシ「ごめん。バイト一人やめちゃってさ。いやあ、今の若いやつって無責任だねえ」   可奈「そうじゃなくて、練習は?!」  ヒロシ「(ばつ悪そうに)ごめん。ホントに忙しくて電話もかけられなかった」   可奈「…」  ヒロシ「…悪い、俺、シャワーあびるわ」   可奈「逃げないでよ! ヒロシ、最近おかしい」  ヒロシ「(キッと振り返って)なにが。店の仲間が困ってるんだ。見棄てて遊びに      行けるかよ」   可奈「遊びって…」  ヒロシ「(キレて)遊びだよ! 俺たちがやってることは。いつデビューできるかも      わかんない、ただの遊びなんだよ!」      ヒロシ、可奈を睨みつける。      可奈、ショックを隠しきれない。 ■野島フローリスト・亜希子の部屋(朝)      木漏れ日が亜希子の顔にかかる。      目を覚まし、起き上がろうとする亜希子。  亜希子「アイタタ…」      激しい二日酔いに顔をしかめる。  亜希子「あれ…」      見回すと自分の部屋。  亜希子「ここに帰ってたんだ…」      思い出そうとしている亜希子。      と、がらっと戸が開いて   糸子「お味噌汁炊けたわよ。まったく、あんな酔っ払って。早くしないとお店に間に      合わないからねっ」      ピシャリと戸を閉めていく糸子。     「アイタ!」と亜希子、音が頭に響いてしかめっ面。 ■同・居間(朝)      亜希子、糸子、タケルの三人の朝食。      亜希子、神妙な面持ちで味噌汁を啜る。      一口啜るごとにゲップが出そうなのを堪える。      知らん顔で黙々と食べる糸子。      タケル、不思議そうに亜希子と糸子の顔を見ている。      と、携帯が鳴る。      亜希子、携帯を見ると保坂から。      亜希子、驚いて糸子の顔を見る。      糸子、見つめ返す。      徐に電話に出る亜希子。  亜希子「…もしもし?」 保坂の声「もしもし。ああ、僕。昨日は悪かったね」  亜希子「あ、いえ…」 保坂の声「埋め合わせをしなくちゃ」      亜希子、保坂の声を聞きながらキラキラした目で糸子を見る。      糸子、察している。 ■道      亜希子、歩いている。      考えながら一歩一歩、歩いている。 糸子の声「男にね、自分の人生変えてもらおうなんて甘いんだよ。自分で変えてやる!      くらいの気概がなくちゃ。まだまだひよっこだよ」      亜希子立ち止まり、ショーウィンドウに映る自分の顔を見つめる。 ■アパートの前      亜希子、感慨深くアパートを見上げる。      吹っ切ったように入っていく。   ■同・中(夜)      入ってくる亜希子。      殺風景な部屋を、隅から隅まで見渡す。      夢のようだった部屋が今はみすぼらしく見える。      寂しさがよぎる亜希子。      亜希子、思い切りご馳走を並べている。      用意されたシャンパン。      その時、ドアをノックする音。      亜希子、ドアを開け  亜希子「いらっしゃい」   保坂「やあ」      保坂、入ってくる。      キスをしようと亜希子を引き寄せるが、亜希子スルリと身を交わす。      ちょっと戸惑う保坂。      ×    ×    ×      テーブルを囲んでいる亜希子と保坂。   保坂「まるで何かの記念日みたいなご馳走だね」      と、ほろ酔いでご機嫌な様子。      亜希子、凛とした笑顔で応える。   保坂「(熱っぽく)いつもきれいだけど、今日のあなたは特別きれいだな」      亜希子、保坂をじっと見つめる。  亜希子「…私は、あなたの、その優しさが嬉しかったのね…あなたとの他愛ない      おしゃべりや女として見てくれるその目線…」   保坂「(戸惑って)どうしたの? 急に」      亜希子、ふふ、と笑って誤魔化し、  亜希子「(明るく)ねえ、私が、あなたの離婚が成立するまで待ってるって言ったら、      あなたどうする?」   保坂「(苦笑い)さあ、どうするかなあ」      亜希子、まっすぐに保坂を見つめている。      保坂、困って、   保坂「(苦しそうに)いつどうなるかわからない先の事を軽々しくは言えないよ。      それにね…、正直言って、僕とあなたとの間には今も良がいる。そのことの罪悪感が、      どうしてもなくならないんだ」      亜希子、一瞬寂しそうな顔をするが  亜希子「(明るく)良かった…あなたにもし、待っててくれと言われたら、私悩むところ      だった。…でも、そうじゃなくて良かったわ」      亜希子、明るく保坂を見る。      保坂、意味がわからず怪訝な顔。  亜希子「(おもむろに)実はね、私、ほかに好きな人が出来たの」   保坂「(唖然として)…えっ」  亜希子「だから、今日が最後の晩餐」   保坂「う…そ、だろ?」  亜希子「本当よ」      冷たく保坂を見る亜希子。      驚く保坂。   保坂「…どうして」  亜希子「二股って言うの? こういうの。そろそろどうにかしなきゃって思ってたのよ」      保坂、ショックを受けている。   保坂「…」  亜希子「こういう時って、なんて言ったらいいのか難しいわね…。楽しかった、って      言うのもヘンだし、有難う、もヘン。ホントにいい言葉が見つからないわ」   保坂「…」      保坂、返答に困っている。  亜希子「…そういうことなの。…だから」        と、亜希子、優しく保坂を見つめると、すっくと立ち上がり握手の手を差し出す。  亜希子「さようなら」      保坂、突然の出来事に唖然とした顔。      亜希子の顔と差し出された手を交互に見ている。      やがて、自嘲的に笑うと   保坂「カッコよくさようなら、というわけには行かなかったな…」      徐に手を差し出す。      と亜希子、手を引っ込め、  亜希子「私、ここを片付けて帰るから」      と、背中を向ける。      その背中を見つめていた保坂、辛そうに立ち上がり玄関へ。      その、背を向けた亜希子の顔が涙を堪えている。 ■野島フローリスト・居間(夜)      亜希子の帰りを待ち、そわそわしている糸子。 亜希子の声「ただいま」      糸子、急に座り直し新聞を読み始める。      亜希子、入ってくる。   糸子「(新聞から目を離さず)おかえり」  亜希子「お義母さん、まだ起きてたんですか?」   糸子「うん。ちょっと昼寝しすぎちゃって…」  亜希子「(察して)お茶でも入れましょうか」    糸子「こんなものしかないけど」      と、テーブルの上の布巾を取るとおでんにワンカップ二つ。  亜希子「(顔が明るくなって)あら、お義母さん飲めるんですか」   糸子「あんたのおかげでね!」      亜希子、笑いながら蓋を開ける。      女二人、無言で乾杯。      亜希子、涙が出そうで唇を噛み締める。      糸子、所在に困っている。      と、タケルが目をこすりながら起きてくる。  タケル「あ、ずるいよ、大人だけ」   糸子「あ、タケル。いいとこ来た。オセロやろうよ、ね?」  タケル「えー、またあ? おばあちゃん弱いんだもんなあ」   糸子「そんなこと言わないでさ」      渡りに船と準備する糸子。      嫌がりながらもやる気のタケル。      亜希子、そのやり取りをほほえましく眺めながら、目じりの涙をそっと拭く。        と、店の方でガタガタいう音。      三人、何だろうという顔。      亜希子、立ち上がると、可奈がヌッと現れる。 亜希子と糸子「可奈!」   可奈「ただいま」      可奈、スーツケースをドスンと置くと、わざとみんなの注目をそらして   可奈「あ、おでん!」      可奈、亜希子の箸でおでんをつまむ。   可奈「お腹空いてたんだあ」      亜希子、糸子、タケルの三人、可奈を見つめている。      可奈、タケルに気付き、   可奈「…あ、君がタケルくんか。別にいいけど、でも、今日から私、自分の部屋使うよ」      亜希子と糸子、顔を見合わせるとほとんど同時に 亜希子と糸子「どうしたの?!」      可奈、ワンカップを一口飲むと   可奈「きっぱり、別れた」      とそのとき、可奈の携帯が鳴る。      可奈、携帯を見るが出ない。      みんなで携帯を覗き込む。      携帯画面に(ヒロシ)の文字。      可奈、出ない。      携帯の音、鳴り止む。      全員、ホッとしたように息をつく。   可奈「(携帯を見ながら)ヒロシとはね、生き方が違ったの。見てるものが違ったのよ」  亜希子「そう…」   可奈「でもね、私はそう簡単に夢を諦めないわ。バイトしてお金貯めてね、アメリカに      行く」   三人「(ほとんど同時に)アメリカ?!」   糸子「やれやれ、今度はアメリカかい」      可奈、にっこり笑って   可奈「もう決めたの」      可奈、お構いなしでおでんを頬張る。   可奈「あー、うまい! 久し振りだ、まともなご飯」      呆れた顔で顔を見合す亜希子と糸子、タケル。 ■同・可奈の部屋(日替わり)      亜希子、神妙な面持ちで可奈の前に座っている。      可奈、亜希子の耳を鋏んで   可奈「いい? 行くわよ」  亜希子「うん…(思わず目をつぶる)」   可奈「えいっ」  亜希子「イタイッ!」      恐る恐る目を開けた亜希子、鏡を覗く。      亜希子の耳に開けられたピアスの穴。      亜希子、しげしげと見つめる。 ■同・店(日替わり)(朝)      まだ眠っている商店街。      店の奥から可奈とタケルが出てくる。   可奈「ようし、バリバリ稼ぐぞぉ」      伸びをして張り切っている可奈。  タケル「行ってきまーす」   可奈「じゃあね」   糸子「はい、行ってらっしゃい」      可奈とタケル、それぞれに出かける。      見送る糸子。      ×    ×    ×      いつもの老紳士が花を買いに来ている。      亜希子、奥から包んだ花を持ってきて  亜希子「お待たせしました」      老紳士、じっと亜希子を見つめる。  亜希子「…何か?」  老紳士「ピアスをされたんですね」  亜希子「(恥ずかしそうに)ええ、ちょっと…。年甲斐も無く」  老紳士「(真面目な顔で)いや、とてもお似合いです」      亜希子、頬を赤らめる。      老紳士の背中を見送りながら、そっとピアスに手をやり微笑む亜希子。 おわり