「ほくろ」 《登場人物》 中岡守男  (13〜28〜32)  (もりお) ●メッキ工場工員 町田貴司  (37〜41)メッキ工場工員  (たかし) 町田弥生   (37〜41)町田の妻 冬木こるり (20〜24)臨床検査アルバイト ■埼玉県・男(お)衾(ぶすま)駅・前      乗降客がひとりもおらず、しんと静まり返っている。      わずかな店舗と住宅の先に広がる畑と竹林。      緑が鮮やかに色付いている。 ■竹林      木々の間から日差しが降りそそぐ。      学生帽を目深に被った中岡守男(13)がビニール製の敷物の上で仰向けに      なっている。      暗い目付きの少年だ。      半袖のワイシャツと、黒の学生服のズボンという身なり。      女が叫ぶような声がかすかに聞こえてくる。      中岡、ガバッと起き上がり、女の声が聞こえてきた方へ用心深く歩いていく。      立ち止まり、全裸で抱き合う二十代の男女を目撃する。      中岡、思わずしゃがみこむ。      女、激しく腰を動かす男に乳房を撫でられ、喘ぎ声をあげている。      中岡、絡み合う男女の姿に、目を奪われている。      絶頂し果てる男女。      中岡、女の乳房の片方にある、一円玉大の黒いほくろに目を留める。      女、中岡に気付き誘惑するかのような薄笑いを投げ掛ける。      中岡、おののき一目散にその場から逃げ出す。 ■竹林前の畑の畦道      走ってくる中岡、立ち止まると呼吸を整える。      被っていた学生帽をとると、左手の甲で額の汗を拭う。      汗の付着する手の甲にあるほくろに視線を落とす。      竹林の女の乳房にあったほくろと色、大きさがそっくりだ。      中岡、全身を強ばらせ全速力で逃走する。 ■ギラギラと照りつける太陽 ■板橋区大谷口の住宅街      林立する住宅や店舗。      要塞のようにそそり立つ給水塔がひときわ異彩を放つ。      車道沿いに建つ二階建てのビル。     『大谷口メッキ工業』と書かれた看板。     「2000年・夏 東京・板橋」の字幕。 ■大谷口メッキ工業・作業場      二階にある三十平米ほどの室内。      コンクリートの床一面に金属製の網が敷かれ、汗だくの作業員が網の上で      作業をしている。      網の下を流れる排水。      作業員のひとり、小柄な体格の中岡がメッキ加工された金属部品をかごから      遠心分離機に移し操作している。      左手の甲にある、少年の頃と変わらないほくろ。      呼吸を荒くし、多量の汗のため変色している作業着。      町田貴司(37)が中岡に近付いてくる。      長身で細面の容貌の町田。      町田、金属部品の入ったかごを、中岡へ押し付けるように渡す。   町田「(ぶっきらぼうに)次はこれだ」   中岡「(少しむっとしている)……はい」      町田、歩き去ろうとするが立ち止まり、中岡へ向き直る。   町田「中岡守男君だったな」   中岡「そうです」   町田「何日目だ」   中岡「は?」   町田「入社してからだ」   中岡「三日目です」   町田「あと二日だな、いいところ」   中岡「何がですか?」   町田「君がうちの会社を辞めるまでだ。たいがいの者は暑さに音を上げて五日で来なく      なる。早い者は一日だ。ま、帰りに求人雑誌でも買うんだな」   中岡「町田さん、俺は……」      町田、中岡へ背を向け歩いていく。   中岡「(ひとりごつ)なんだあいつ。馬鹿にしやがって」      中岡、半袖の上着の袖で顔中の汗を拭う。      ゴトゴト動いていた遠心分離機が停まる。      中岡、上蓋を開け、金属部品の入ったかごを取り出す。 ■同・前(夜)      ガラス戸が開き、くたびれた顔の中岡が出てくる。      歩きながらペットボトルのジュースを飲み干すと、生き返ったようにフーッと      息を吐く。      ビルの横に立て掛けてある自転車にまたがると、ゆっくりとペダルを漕ぎ始める。 ■川越街道(夜)      中岡の乗る自転車が歩道を走っている。      歩道沿いにある書店の前で停まる。      中岡、店頭の棚に陳列されてある求人雑誌に目を向ける。   中岡「冗談じゃねえ。誰が辞めてやるかってんだ」      中岡、再び自転車で走っていく。 ■中岡のアパート・前(朝)      木造の二階建ての建物。      真裏は雑木林。      中岡、一階の一室から出てくる。      疲れが気になるように腰をさする。      部屋の前に停めてある自転車を引き、道路まで歩くと、サドルにまたがり走り出す。 ■中岡のアパート近くの坂道(朝)      中岡の乗る自転車が緩やかな坂道を下っている。 ■大谷口メッキ工業・前(朝)        走ってくる中岡の自転車が停まる。 ■同・作業場(朝)      中岡、硫酸槽から金属部品の入ったかごを取り上げて水分を切ると、隣の水槽      に浸す。      町田、通り掛かり、水槽を覗き込む。   町田「こんなに水が濁るのはおかしいぞ。かごを水槽に移す前に、硫酸をきちんと      落とさないからだ。水質が悪いと製品に湯垢が付くんだ。駄目じゃないか」   中岡「俺、教わったとおりにやりましたよ」   町田「やり方が悪いからだ。今まではどうだったか知らないが、うちでは一切甘やかさない      からな」   中岡「今までの仕事だって甘やかされてなんかないけど」   町田「口答えするな。大体、本来仕事なんてものは人のやり方を盗んで覚えるものだ。      どの作業も一度教えてからやらせてるんだから、感謝したらどうなんだ」      中岡、悔しそうに歯をギュッと噛みしめる。   町田「とにかく、水槽の水をただちにきれいにしろ、いいな」      町田、サッと立ち去る。      中岡、町田の後姿を憎々しげに睨みつける。 ■作業場の柱時計      時刻が正午になる。      ジリリリと、けたたましくベルが鳴る。 ■大谷口メッキ工業前の道路      かんかん照りのなか、リュックサックを肩に掛けた中岡が、歩道をうつむき      加減で歩いている。 ■大谷口メッキ工業・作業場      町田、中岡の姿を窓ガラス越しに観察するように見ている。 ■西光寺・境内      本堂の前に樹木が生い茂り、さほど広くはないものの趣がある。      中岡、木陰に座っている。      ぐったりとし、食欲なさそうにおにぎりを食べている。   中岡「暑い」      ジュースをガブガブと飲む。 ■大谷口メッキ工業・作業場      中岡、煮立った脱脂液槽に金属部品を浸す、脱脂作業をしている。      いつものように全身汗まみれ。      顔に生気がなく、足がふらついている。      かごを液槽から引き上げ床に置くと、腰からくだけるようにへたりこむ。      中岡の異変に町田が気付く。   町田「どうした、中岡!」      町田と他の作業員が、中岡へ駆けつける。      町田、中岡を背後から抱える。   町田「(作業員に)足持て! 検査室に寝かせるぞ」      町田と作業員たちが中岡を抱えて階段を下り、一階へ。      中岡、目の焦点が定まっておらず、苦しそうに息をしている。 ■同・検査室      中岡、椅子を並べた上に寝かされている。      クーラーの送風の小さな音。      汗がひき、呼吸も正常になっている。      上半身を起こす。      ドアが開き、町田が入ってくる。   町田「楽になったか」   中岡「ええ。腕が少ししびれるけど」   町田「液槽からの蒸気が原因だろう。軽い中毒のようだが心配はいらん、じきに治まる      はずだ」      町田、中岡へ缶ジュースを渡す。   町田「飲めよ」   中岡「どうも」      中岡、ジュースを飲む。   中岡「(落ち着いたように)生き返った」      町田、検査台の椅子に腰掛ける。   町田「初めてか、この仕事するの」   中岡「そうです」   町田「前はどんな仕事してたんだ」   中岡「ハンダメーカーで出荷の仕事してました」   町田「倒れるのも無理ないか。まるで蒸し風呂だもんな、作業場は」   中岡「こんなにも汗が滝のように流れる作業だとは……」   町田「だけど、なぜメッキ工をやろうと決めたんだ。他に仕事あるだろ」   中岡「俺、前の仕事にはつくづく嫌気がさしてたんです。他の奴の尻拭いばかり      させられて、理不尽なことばかりだった」      町田、中岡の話に耳を傾けている。   中岡「倉庫作業って読み書き計算さえできれば誰でもできるんです。ということは、      会社の経営が傾けば、真っ先にクビの対象になる」      中岡、ジュースをひと口飲む。   中岡「手に職をつけて、ずっと食っていける仕事をしたかったんです。年も二十八だから、      未経験でも雇われるぎりぎりの年齢で。ハローワークでここの会社を見つけて、      採用された」   町田「そうか」   中岡「でも、思ってた以上にきつい仕事ですね、メッキ工って」   町田「ぶっ倒れてみてよく分かったろ。こないだも言ったが、何人辞めていったか      分からん。恥ずかしいことじゃないさ。悪いことは言わん、もっと楽な別の      仕事を探したほうがいい。確かにうちの仕事をやってれば手に職はつくかも      しれんが、いつまでも食っていけるか保証できんぞ。従業員十人ほどの零細企業だ、      安定なんてものとは程遠い」      中岡、黙然と聞いている。   町田「もちろん私も雇われの身だから、辞めさせる権限などないがな」       町田、椅子から立ち上がる。   町田「今日は帰っていいぞ。まだ体調が回復しないだろうからな。お疲れさん」      町田、ドアを開けて出ていく。      中岡、ジュースを一気に飲み干す。 ■氷川つり堀公園      石神井川の川べりにあり、小ぢんまりとしている。      町田弥生(37)が石造りの丸椅子に座り、堀に竿を垂らしている。      色白で華奢な体付き。      水面に浮く浮きがピクッと引かれ、素早く竿を上げる弥生。      口から釣り針を外され、水桶に入れられるクチボソ。      公園の上に架かる橋で、弥生の姿をスケッチしている冬木こるり(20)。      リュックサックを背負い、ボーイッシュな容姿。      弥生、怪訝そうにこるりを見上げる。   弥生「何?」  こるり「おばさん、いい表情してる。さっきまでの顔で釣りを続けて」   弥生「おばさん……。誰のこと言ってんの? あたしには町田弥生っていう名前が      あるの」  こるり「ごめん、弥生さん。わたし正直だから思ったことを口に出さずにいられない      性格なの。悪気はないのよ」   弥生「(呆れて)これだから若い子は嫌い。礼儀は知らない、遠慮しない。まあ、      いいわ、そろそろ引き上げようとしてたところだったから。絵なんか描かせて      あげない」      弥生、てきぱきと帰り支度を始める。 ■公園の上に架かる橋      こるりが欄干の上に座っている。      公園から出てくる弥生が、こるりをジロリと睨みながら歩いてくる。      こるり、欄干からヒョイと降り、弥生の前に立ちはだかる。   弥生「まだ何かあるの?」      こるり、にんまりと笑う。   弥生「どっか行きなさいってば」      こるり、ペコリと頭を下げる。  こるり「わたし、冬木こるりです。臨床検査のアルバイトをしながら絵の勉強してます。      目標はイラストレーター。さっきは絵になる姿だったから弥生さんのこと      惹きこまれるように描いてしまいました。気分を害してしまったら、ごめんなさいね」   弥生「忙しいから、あたし。用件あるんだったら手短に」  こるり「忙しい人が平日の昼間に、のんびりと釣りなんてしてられるかしら」   弥生「(キッと目を吊り上げる)さよなら」      弥生、こるりを払いのけ、立ち去ろうとする。      こるり、弥生の腕をつかむ。   弥生「何なのいったい! まったく腹の立つ子ね」      こるり、スケッチブックの中の絵を弥生の顔の前に突き出す。      釣りをしていた弥生の様子がデッサンされた絵。  こるり「こるりの絵ってどう思う?」      弥生、言葉が見つからずにいる。   弥生「どうって言われても……ね」  こるり「何でもいいから言ってみて」   弥生「絵なんて全然分からないのよ。うーん、何だか暗いわね。それと……あたし、      こんなに顔色悪い?」      弥生、やや不安そうに絵に見入る。  こるり「気にしないで。感想のとおり、こるりの絵って暗いんです、みんな」      こるり、スケッチブックの他のページを次々と見せていく。   弥生「ほんとだ、どれも暗いな」  こるり「批評してくれてどうもありがとう。ひとりで描いてるだけだといいのか      悪いのか判断できないから、意見を聞かせてもらえて参考になりました。      また弥生さんを見掛けたらモデルになってもらおっと。じゃね、バイバイ」      こるり、弥生に手を振りながら走り出すが、すぐに立ち止まる。  こるり「弥生さん、きれいよ」      こるり、再び走り出す。   弥生「何なんだろ、あの子」      弥生、呆気にとられている。 ■町田家のある都営住宅(夜)      古びた四階建ての住宅棟が、二棟建てられている。      町田の運転する軽自動車が、駐車場に停まる。      町田、車から出てくると、くたびれた足取りで住宅棟の階段を上っていく。 ■町田家・中(夜)      真っ暗な室内。      ガチャと玄関の鍵があく音がし、町田が帰ってくる。      玄関前の通路を進み、ダイニングキッチンに行く。      町田、灯りを点けたあと、壁の掛け時計に目をやる。      七時になろうとしている。   町田「どこ、ほっつき歩いてるんだか」      町田、冷蔵庫を開ける。      シチューが用意されている。 ■都営住宅・住宅棟の階段(夜)      弥生が階段を上っている。 ■町田家・中(夜)      町田、ダイニングキッチンのテーブル席で食事している。      玄関のドアが開き、弥生が帰ってくる。   弥生「早いのね、今日」   町田「この時間に家にいたら都合が悪いような言い方するんだな」   弥生「誰もそんなこと言ってないでしょ。感じ悪いんだから。何かあったんでしょ、      会社で」   町田「別に。何も」      食事を終えた町田、立ち上がると食器を重ね、台所へ持っていく。   町田「いつもと変わらんさ、うんざりするぐらいにな」   弥生「(関心なさそうに)良かったじゃない」      弥生、テーブル席に着く。   町田「気分が悪い。外に出てくる」        町田、玄関に行き、下駄箱の上にある野球のグローブとボールを持つと、      外へ出ていく。 ■町田家のある都営住宅・中庭(夜)      ひと気がなく外灯がわずかに灯る敷地内。      町田、上空に投げて落ちてきたボールを捕球する動作を、延々繰り返している。                 ■町田家・居間(夜)      弥生、鏡台の前に座り、鏡に写った自分の顔を思いつめた表情で見詰めている。      玄関のドアが開閉される音がする。      入ってくる町田、弥生に気付く。   町田「(奇異に思って)……」      弥生、鏡に写る町田の姿に視線を移す。   町田「ぼんやりとして……。何かあったか」   弥生「女だもん、鏡に向かってても、ちっとも不思議じゃないでしょ」   町田「待てよ、聞いただけだろ。なぜそうやってつっかかる」   弥生「つっかかってなんかないでしょうが。貴司の言い方はいつだって棘があるのよ。      言葉選びなさいよ、少しは」   町田「冷静になれ、可愛げのない女だな。もういい。話にならんな」      町田、部屋から出ていく。 ■大谷口メッキ工業・作業場      中岡、手慣れた手付きで脱脂作業をしている。      町田、中岡へ歩み寄ってくる。      中岡、作業の手を止める。   中岡「(何を言われるのか身構えるように)何ですか?」   町田「だいぶ上手くなった」   中岡「(意外そうに)そりゃ、どうも」   町田「それに、よく今日まで続いたと思う。倒れたあと逃げ出すものだと決めつけて      いた」   中岡「俺は……」   町田「ん?」   中岡「俺は逃げませんよ。今までの奴らがどうだったか知らないけどね」      町田、笑みを浮かべる。   町田「気に入った。その言葉を撤回せんようにな。期待してないが。さ、続けるんだ      作業を」      中岡、挑発的に口元をゆるめる。      町田、立ち去る。   中岡「(ひとりごつ)一度や二度倒れたぐらいで辞めてたまるかよ。見くびるなってんだ」      中岡、作業を続ける。 ■大谷口給水塔      給水塔周辺の雑草が、強い風雨に打ちつけられている。      前の歩道を歩行する人々。      皆、秋の装いをし、傘を差している。 ■大谷口メッキ工業・作業場      柱時計の時刻が三時になり、ベルが鳴る。      作業員が全員手を休める。      中岡、冷蔵庫の中からペットボトルのジュースを取り出し、勢いよく飲む。      町田が通り掛かる。   町田「今日も残業になりそうだ。台風らしいから早く切り上げたいんだがな。頼んだぞ」   中岡「了解です」   町田「話は変わるが、今日も自転車で来たのか」      中岡、頷く。   中岡「何でですか」   町田「いや」      町田、窓の外に目を移す。      悪天候の窓外の景色。 ■同・前(夜)      暴風雨が吹き荒れている。 ■同・更衣室(夜)      ロッカーが壁際に所狭しと設置されている。      中岡、作業着を脱ぎ、ジーンズを穿いている。      町田、入ってくる。   町田「帰るのか、家に」   中岡「帰りますよ。家に戻らなかったらどこへ行くってんですか、こんな台風の夜に」   町田「うちに泊まらんか、今日」      中岡の着替える動作がピタッと止まる。   中岡「(意外なことを言われ言葉を失う)……」   町田「聞こえなかったか。うちで寝ろ。車で十分程だ、私の家は。慢性的に人手が      足りないのに、自転車で帰らせて事故でも起こされて、休まれたらかなわんからな」   中岡「(遠慮気味に)でも……」   町田「何も気をつかう必要などない。さあ行くぞ」      中岡、急ぎ気味に再び着替えを続ける。 ■環七通り(夜)      どしゃ降りの雨が降り続けている。      町田の軽自動車が水しぶきを上げながら走っている。 ■走る車の中(夜)      運転する町田と助手席の中岡。   中岡「雨、やみそうにないですね」      町田、静かに頷く。   町田「一晩寝たら台風一過だろう、おそらく」   中岡「ええ」      沈黙する中岡と町田。   中岡「町田さん」   町田「何だ」   中岡「町田さんは今の仕事を何年やってるんですか?」   町田「(頭の中で数える)……十数年だな。なぜそんなことを訊く」   中岡「どうしてメッキ工の仕事を選んだのか前から気になってて」   町田「何でかな……。メッキ工しか続けられなかったからかもしれんな。工員になど      意地でもなるものかって、幼い頃から決めてたんだがな」   中岡「工員になんかなりたくなかった? 聞かせてくれませんか、訳を」   町田「(一瞬考える)……たいした話じゃないさ。私は茨城の日立の出身でな。      知ってるかもしれんが日立市は日立製作所と密接なつながりがあるんだ。      家族、親類、街の人間……誰も彼もが日立、日立っていう土地柄にどうしても      なじめなかったんだ」      中岡、町田の話に聞き入っている。   町田「日立関連の会社で働くことが良しとされ、抗えば変わり者とみなされる街から      逃げ出したかった。それで日立のみならず工員なんか絶対に真っ平だと思ってた」   中岡「そんなにまで決心してたのに、なぜ?」   町田「高校を出たあと、迷わず東京に出た。仕事がいくらでもあると思ってな。      食うためにありとあらゆる仕事をした。だけどどれも続かなくてな。クビにされたり、      働いてた店が急につぶれたり、私に根気がなかったり……」   中岡「……」   町田「ようやく使い物になったのが今の職場だ。……君や辞めていった者をとやかく      言う資格などないのさ、私には。どうだ、退屈な話だったろ」      中岡、首を横に振る。   中岡「俺とあまり変わらないんだ、町田さんも」   町田「変わらないさ。むしろ劣っているくらいだ。私が作業場で倒れたのは入ってから      二日目だった。黙っていたがな」      町田、反応を確かめるように、中岡を見やる。      中岡、張り詰めていたものから解き放たれたような表情で、前方の車外を      見詰めている。      町田、進行方向へ向き直る。 ■町田家・中(夜)      玄関のドアが開き、町田が中岡を伴い帰ってくる。   町田「ま、上がれよ。見てのとおりのあばら屋だ」   中岡「一晩ご厄介になります」      町田に続いて中岡が、ダイニングキッチンを通り居間へ進んでいく。      居間に入る中岡と町田。      全裸の弥生が仰向けになり、すやすやと眠っている。      細身の体ながら豊かな乳房。      中岡、弥生の右の乳房にある一円玉大のほくろを見て、驚きを隠せない表情。   中岡「(動揺している)……」      中岡、ただ立ち尽くしている。      町田、やれやれといった様子で押入れを開け、タオルケットを弥生の体に      掛ける。   町田「女房の弥生だ。年増のみっともない姿を見せてしまったな。気を悪くせんでくれ。      前もって電話しておくべきだった。今日はお客を泊めるってな」   中岡「(首を激しく横に振りながら)ううん」   町田「夕飯食べよう。ごちそうするなんてほどの食事ではないがな、こっちだ」      町田、ダイニングキッチンへ行く。      中岡、弥生を気にせずにいられないが、町田の後を追う。 ■同・ダイニングキッチン(夜)      テーブル席に向かい合って座る中岡と町田。      食事を終え、くつろいでいる。      中岡、立ち上がり、食べ終えた食器を片付けようとする。   町田「休んでていいぞ。今夜はお客さんだ。片付けは私がやる」      中岡、ためらいつつもゆっくりと椅子に腰を下ろす。      町田、テーブル上にある麦茶の入った容器の取っ手をつかむと、中岡の      グラスにつぐ。      中岡、軽く頭を下げる。      町田、つぎ終わると食器を片付け始める。   町田「がさつな女だろ」      中岡、返事に困っている。   町田「うちのさ」   中岡「面食らったけど……寝てるとき、いつも着てないんですか?」   町田「そりゃ、いつもは何か着ていることが多いさ。だけど万事がこの調子だ。      おおらかというか、ずぼらというか。分かりやすく言うとだな、女らしさが微塵      もないんだ」   中岡「(首をひねり)そうかな」   町田「そうだとも。自分が女だということをとっくの昔に忘れちまってるのさ」      シミーズ姿の弥生、町田を冷たく見やりながら入ってくる。   弥生「誰が女じゃないって」   町田「(顔色ひとつ変えず)……」      中岡、立ち上がる。   中岡「おじゃましてます、中岡です。町田さんの会社に最近入りました」      中岡、弥生へ深々とお辞儀する。      弥生、中岡を一瞬見るが、すぐに町田へ視線を移す。   町田「(弥生に)聞いてたのか?」   弥生「女房の悪口を職場の新人さんへ散々聞かせて気が済んだ? よくあんなにベラベラ      吹き込めるものね」   町田「何もベラベラなんてしゃべっちゃいないさ。突っかかるな。少しは場をわきまえろ、      お客の目の前で。みっともないと思わんのか」   弥生「偉そうに指図するんじゃないわよ! 寝起きで機嫌が悪いの!」      中岡、町田と弥生のやりとりを傍観している。   町田「何を怒ってるんだ。訳が分からん。ろくに中岡君へ挨拶もせんで」      弥生、中岡を見据える。   弥生「ゆっくりしてってね。のっけから夫婦喧嘩に出くわしちゃったら落ち着けない      かもしれないけど」      弥生、高らかに声を上げて笑い出す。   町田「(中岡へ)すまんな」   中岡「いや、全然」   町田「風呂が沸いてるから、一服したら入るといい。その間に布団敷いておくから」   弥生「(驚く)泊まるの?」   町田「そうだ」   弥生「そうならそうと何で早く言わないの。もっとおもてなししないといけないじゃない」   中岡「本当におかまいなく。寝かせてもらえるだけで十分です」   弥生「そうはいかないのよ。下着や歯ブラシなんかは持ってきてないんでしょ」   中岡「まあ……。さっき町田さんに言われて連れてこられたんで」   弥生「分かったわ。今買ってくるから待ってて」      弥生、慌てて居間へ行く。 ■同・居間(夜)      弥生、ブラウスのボタンをはめている。 ■同・ダイニングキッチン(夜)      町田、台所で食器を洗っている。      中岡、椅子に腰掛けている。   町田「(居間の弥生へ)今、外に出てったらずぶ濡れになるぞ。俺のでなんとか      間に合うだろ」      ブラウスとスカートに着替えた弥生が入ってくる。   弥生「そういう訳にいかないの。貴司は黙ってて」      弥生、パンプスを履くと、ドアをバタンと閉めて、荒れ模様の屋外へ飛び出していく。   町田「(ひとりごつ)勝手にしろ」   中岡「(険悪な空気を推し量るように)俺が来たお陰でとんでもないことになって      しまったみたいですね」   町田「何を言うんだ。私と弥生とはいつもあの調子なんだ。驚いたろ」   中岡「うん」   町田「どちらかが口を開けば喧嘩になる。だから最近は会話もないがね。黙っていれば      言い争うこともないし、平穏に時間が過ぎる」   中岡「でも……(言いあぐねる)辛くないですか、毎日のようにこんな状態だったら……。      離婚……考えたりしたことは……」   町田「年中思ってるさ。時には頭がおかしくなるぐらいにな。だが、簡単に別れられる      ものじゃないんだ。少なくとも私から切り出すことはできない、絶対にな」   中岡「どうして……」      町田、わずかに苦笑する。      中岡、これ以上は立ち入れないと察知するように口を閉ざす。 ■同・風呂場(夜)      タオルを片手に入ってくる中岡、仁王立ちになる。   中岡「ほくろ……」      下腹部に目を落とす。   中岡「(膨張している陰茎に気付く)お、おい、なんで、起つんだよ」 ■同・居間(深夜)      常夜灯だけが灯る室内。      町田を中央に中岡、弥生の三人が川の字になって寝ている。      寝つけない中岡、町田と弥生に背を向けている。      左手の甲にあるほくろを盗むようにそっと見るが我に返り、目を固く閉じる      と無理にでも眠ろうとする。 ■台風一過の秋晴れの空(朝) ■走る車の中(朝)      車を運転している町田と助手席の中岡。   町田「また来てくれよな。弥生も内心喜んでるようだった」   中岡「そんなようには見えなかったけど」   町田「君の下着などを買いに行くとき、いつになくいそいそしてた。嬉しかったんだろ、      久しぶりに私以外の者と話せて。さて、今日も忙しくなるぞ」 ■町田家のある都営住宅・前      弥生、歩いている。      こるり、手を振りながら駆け寄ってくる。  こるり「弥生さーん」   弥生「あ」      弥生、立ち止まる。  こるり「憶えてる? こるりのこと。憶えてるわよね。忘れるわけないわよね。      こるりの読みどおりね。きっと弥生さんとまた会えると思った。何やってるの?      今」   弥生「何も。家にいても退屈だから出てきたの。あたしんち、ここ」      弥生、住宅棟を指差す。  こるり「わあ、ここだったの。この辺り何度も来てるのに、どうして一度も会わなかった      のかしら。不思議」   弥生「で、何? 今日は」  こるり「弥生さん、お暇なのよね?」   弥生「(ふくれっ面になり)暇って言い方取り消しなさい。好きでブラブラしてるん      じゃないんだから」      こるり、きょとんとしている。  こるり「随分ご機嫌斜めなのね。とにかく時間があり余ってるんでしょ。こるりに      付き合って。悪いようにはしないから。行きましょ」      こるり、弥生の手を強引に握り締めると勢いよく走り出す。      弥生、こるりに引っ張られていく。 ■浮間船渡駅・改札前      こるり、弥生の手をつかみながら駅の構内から飛び出してくる。  こるり「こっち、こっち」 ■浮間公園      湖のような池と、周辺に広がる緑豊かな野原。      野原にそびえる風車。      風車に向かって、こるりが弥生を伴い走ってくる。  こるり「(清々しい表情で)着きましたよ」      弥生、疲労困憊している。  こるり「描くわ」      こるり、リュックサックからスケッチブックと色鉛筆を取り出す。  こるり「弥生さんをモデルにまた描かせてもらうわ。少しの間、立ってて、      お願いだから」      弥生、言われるままに立ち尽くす。 ■池の水面に飛び跳ねる魚 ■風車の前    佇む弥生とスケッチしているこるり。 こるり「私ね、中学生のとき、ドン・キホーテってあだ名をつけられて、からかわれてたの」   弥生「風車に向かっていく老人のこと?」  こるり「そう。現実よりも絵なんてくだらないものに夢中になってる落ちこぼれってね。      確かに勉強も運動もできなかったけど、スケッチブックに向かっているときだけが、      なんていうのか……生きてるっていう実感があったの。いろいろな人たちから      どんなに馬鹿にされてもね。今もその気持ちは変わらないわ」      こるり、絵を描き終え、スケッチブックを弥生に手渡す。      弥生、色鮮やかな色彩と素人離れした出来栄えの絵を見て目を輝かせる。  こるり「いかがですか、今回の絵の感想は」   弥生「上手……。釣り堀のときに見た絵と全然違う。色調や全体のタッチも明るいし、      そうね、躍動感があるわね。絵の中のあたしが今にも動き出しそう」        こるり、誇らしげな顔になる。  こるり「四歳から絵を描いてるから、誰でもこのぐらいに上達するんだけどね。これでも      高校生の頃に美術の先生から美大への受験を薦められたことあるんです」   弥生「へえ、才能あるんだ」  こるり「こるり、兄と二人で親戚の家に居候の身だから、諦めたけど」   弥生「そう。それは残念だったわねえ」  こるり「(首を横に振り)ううん。いいの。座りましょ。それはそうと、弥生さんの      お話聞きたいな。いつもこるりばっかりしゃべってるから反省してるの」      草の上に腰を下ろす弥生とこるり。   弥生「あたしなんてたいして話すことないもん。ただのおばさんよ。……でも、      こるりを見てると、夢や目標に向かって、まっすぐに前だけを見詰めていた      時期があった気がするなあ」  こるり「弥生さんにはどんな夢があったの?」   弥生「ちっぽけな夢よ。洋食屋を開くこと」  こるり「ちっぽけなんかじゃないわ。素晴らしいことよ、絶対に」      弥生、寂しそうに微笑する。   弥生「あたし調理師なんだ。もう半年ぐらい働いてないけど。調理の仕事一筋で二十年      近く働いてきた。ところであなた、彼氏は?」      こるり、緩やかに首を横に振る。   弥生「ごめんね、気を悪くした?」  こるり「彼氏なんて欲しくないから平気」      弥生、同意するようにゆっくりと頷く。   弥生「高校二年の頃の話。その頃付き合ってた人がいました。同じ学校の一年上の人。      通ってた学校の隣町にある洋食屋でその人と食事してたら、突然別れ話をされてね。      他に好きな子ができた。悪いなって。結局、男がそのあと何を話したか、あたしが      どのぐらいの時間、店にいたのかまったく思い出せないんだけど、なぜだか洋食屋の      ことが頭から離れなくなってね。調理師になって洋食屋を開くために必死になって      この年まで働いてきたんだ。見返したかったのかな、あの男を」      こるり、弥生の横顔を真剣な眼差しで見詰めている。   弥生「半年前、念願の開店準備をしていたわ。仕事で長年の付き合いがあった人を全面的      に信用していて資金を預けていたんだけど、騙されたの。お金を持ち逃げされて      行方知れず。今までの苦労が全て水の泡……」      弥生、悔しさが込み上げてきたように、拳で地面を何度も叩きつける。   弥生「馬鹿野郎……馬鹿野郎!」      こるり、同情するように弥生の手をつかむ。  こるり「弥生さん、やめよ。また一所懸命働いてお金を貯めればいいじゃない」   弥生「何も分かってないのに、気休め言うな!」      こるり、返す言葉を失い、弥生の手を離す。   弥生「(怒鳴ったことを後悔し)……あなたにあたるの、筋違いだよね」      こるり、弥生の手を再びつかむと、弥生の掌で自分の頬を叩く。      こるりの頬に泥がつく。   弥生「(驚く)こるり……」  こるり「弥生さんの気が済むまで好きなだけ叩いて」      こるり、天真爛漫な子どものような笑顔を見せる。 ■町田家のある都営住宅・前      中岡、自転車で走ってくる。      自転車を停めると、住宅棟へ入っていく。 ■町田家・玄関      弥生、ドアを開ける。      中岡、外の通路に立っている。   中岡「こないだは、どうも」      中岡、軽く頭を下げる。   弥生「入る? 貴司……あ、こういうとき、主人って言うよね、普通の奥さん」      弥生、大口を開けて笑い出す。      中岡、弥生につられてフフッと笑いこぼれる。 ■町田家のある都営住宅・中庭      花壇の前にいる雀が空へ飛び立つ。 ■町田家・ダイニングキッチン      テーブル席に向かい合って座り、お茶を飲む中岡と弥生。   弥生「貴司、戻ってこないなあ」   中岡「あの……」   弥生「うん? 何?」   中岡「弥生さんって、もしかしたら三月生まれじゃないですか?」   弥生「うん。そうよ」   中岡「俺も三月なんです」   弥生「そっか、おんなじだね。じゃ、小さい頃、背の順で並ぶと前の方だったでしょ」   中岡「そうなんです。いつも一番前だった。いまだに背は低いですけど」   弥生「背なんて関係ないよ」   中岡「ありますよ。人は外見です、何といっても。背は低い、顔もいまいち、お金は      ない。駄目な男なんです、俺」   弥生「(諭すように)卑屈になるのやめなさい。同情してほしいの?」   中岡「(むきになって)違います」   弥生「かわいそうって思われたいんだ」   中岡「違う」   弥生「だったら自分を卑下するの、これからはやめようよ。約束できる?」   中岡「はい」   弥生「素直でよろしい」      弥生、微笑する。      中岡、恥ずかしげに目を伏せる。   弥生「(時計を見ながら)遅いねえ、貴司」   中岡「ええ。あの……」   弥生「うん?」   中岡「(言いにくそうに)こんなこと訊きづらいんですけど、町田さんとはいつも      こないだのような喧嘩になるんですか?」   弥生「はっきり訊くじゃない。貴司とはね、水と油なんだ。結婚した当初から上手く      いかなかった。自分で言うのもなんだけど、あたし、きついところあるから      気に障るみたい、あいつ」   中岡「でも喧嘩が絶えなかったら、お互いに嫌になって別れるものじゃないですか?」   弥生「何度も考えたわよ。だけど一度は好きになって一緒になったわけだしね。正直に      言うと打算もあるの、今は。あたし、調理師なんだけどご覧のとおりしばらく      働いてないし。いろいろとあってね、働く気が起きないんだ。嫌な女でしょ」   中岡「(返事に困る)……」   弥生「いいよ、正直に言って。それとね、あいつ、自分からは絶対に離婚を言い出さない      つもりみたい」   中岡「どうしてですか?」   弥生「聞いてごらん、町田主任に。話すかどうかわからないけど」   中岡「……俺には弥生さんと町田さんのことが理解できません、さっぱり」   弥生「他人を本当に理解できる人なんているはずないわよ。あたしも含めてね」      弥生、立ち上がるとベランダへ行き、洗濯物が乾いているか確かめる。 ■同・玄関前        ドアが開き中岡と弥生が出てくる。   中岡「(会釈しながら)どうも長々と」      中岡、町田家から立ち去ろうとする。   弥生「中岡さん」      中岡、立ち止まり、弥生へ振り返る。   弥生「そこで待ってて」      弥生、家の中に入る。      中岡、待っている。      弥生、室内から出てくる。   弥生「あなた、こんなところまであたしの真似して」      弥生、中岡の両手をそっと握ると、自らの胸元に引き寄せる。   弥生「(中岡の掌に目を落としながら)手、荒れちゃって。何も塗ってないんでしょ」   中岡「(内心、どぎまぎしながら)あ、ええ」      弥生、中岡の手を離すと、自分の掌をまじまじと見る。   弥生「あたしもね、仕事柄、水を使うことが多いでしょ、手がガサガサになるんだ」      弥生、ブラウスの胸ポケットから缶入りのハンドクリームを取り出し、      中岡へ手渡す。   弥生「はい、あげる。肌に合わなかったら、使うのやめな」      中岡、ハンドクリームをズボンのポケットにしまう。              弥生「また、遊びに来な」   中岡「来ます」      弥生、家に入り玄関のドアを閉める。      中岡、廊下を駆けてゆく。 ■町田家のある都営住宅・前      中岡、停めてある自転車まで走ってくる。      立ち止まると両方の掌を凝視する。 ■都営住宅近くの道      中岡、込み上げる嬉しさをこらえきれないかのように、懸命に自転車の      ペダルを漕いでいる。 ■史跡・縁切榎      四つ角の一角にひっそりと佇む社と榎の木。      ペダルを漕ぐ中岡、前の道を通り掛かる。      敷地内にふと目を向けると、直立している町田の姿に気付き、ブレーキを      踏む。      町田、ブレーキの音で我に返り、中岡へ振り向く。      中岡、自転車を歩道に停め、町田へ歩み寄る。   町田「何をやっているんだ、こんな所で」   中岡「俺のいう言葉ですよ、それ。何やってるんですか、町田さん」      中岡、社や榎の木をしげしげと見回す。   町田「ここはな、縁切榎というんだ」   中岡「縁切榎?」      町田、頷く。   町田「簡単に説明しようか。妻から離縁を申し立てることができなかった江戸時代から      の言い伝えでな、夫との離縁を願う妻が榎の樹皮を削って、酒に混ぜて飲ませる      と願いが叶うと信じられてきた場所なんだ。それ以来、悪縁絶ちにご利益がある      とされててな」   中岡「悪縁絶ち?」      町田、ばつが悪そうに中岡から目をそらす。   町田「もっとも今のところ、ご利益はないがな」   中岡「誰と縁を切りたいんですか?」   町田「……」   中岡「(言いよどむ)奥さん?」   町田「そうだと答えたらどうする。笑うか? 笑うだろうな。職場では作業の遂行だけ      しか頭になくて、部下を怒鳴りつけても、自分自身をとがめることなど考えたことも      なさそうな男が、家内に離婚を言い出せず、十年近くお参りしているなんてな」   中岡「(返答に窮する)町田さん……」      町田、中岡へ背を向ける。   中岡「俺、さっきまで町田さんの家に行ってたんです。こないだ泊めてもらったお礼を      言いに。奥さんと町田さんの帰りを待ってたんです」   町田「弥生が何か私のことを言ってたか」   中岡「あたしと別れたいのに、自分からは絶対に言い出さないつもりだって」      町田、中岡へ向き直る。   町田「その通りだ。私からは何があっても口にするべきではない」   中岡「町田さんと奥さんとの間にどういう事情があるのか分かりませんけど、一緒に      いるのが嫌だったら無理に結婚生活を続ける必要ないんじゃないんですか。      そうでなかったらお互いに不幸ですよ。結婚したことない俺が、夫婦の問題に      口を出すなんて差し出がましいかもしれないけど」      町田、落ち着き払った表情で、中岡を見据える。   町田「私はな、弥生に救われたんだ」      中岡、口をつぐむ。   町田「先日車の中で、どの仕事も長続きせず、職を転々としていた話をしたの憶えて      いるか?」   中岡「憶えてます」   町田「弥生はな、私がウェイターとして働いていたレストランでコックをしていたんだ」      中岡、町田の話を無言で聞き入っている。   町田「当時から気が強い女だった。仕事中は同僚のコックやウェイターには常に      命令口調でな。そんなある日私はへまをやらかしたのが原因でその店をクビに      なった。落ち込んでアパートで求人誌を眺めていたら、弥生が突然訪ねてきてな。      残り物だけど食べなって、従業員用の食事をこっそり持ってきてくれたんだ」   中岡「奥さんが……」      町田、目をつむりながら頷く。   町田「嬉しかった。東京には頼る友人も知り合いもいなかったしな。俺を心配して      くれる人がいたんだと感謝した」   中岡「それが縁で好きになった」   町田「ああ。姉御肌でな、同い年だが。すぐに一緒に暮らすようになり、何ヶ月もしない      うちに籍をいれた。精神的にも経済的にも助けられた、結婚当初までは。      今こうやって生活していけるのも、元をただせば弥生のお陰なんだ。だからどんな      ことがあっても自分から離婚を口にはするまいと決めているんだ」 ■町田家・中      弥生、ベランダで外の風景をぼんやりと眺めている。      玄関のドアが開き、町田が帰ってくる。      町田、ベランダにいる弥生の後姿を一瞥すると、ダイニングキッチンのテーブル席      に腰を下ろす。弥生、ベランダの洗濯物を取り込み、居間へ入ってくる。   弥生「なんだ、帰ってたの。相変わらず影が薄い男ね」   町田「帰るなり皮肉か。ところで中岡が来てたんだってな。すぐそこで会ったよ」   弥生「そう」      弥生、正座し洗濯物を畳み始める。   町田「楽しかったか、若い男と久しぶりに二人っきりで話せて」   弥生「何言ってんの、やぶから棒に。まさか妬いてるの?」   町田「冗談じゃない、誰が妬くか」   弥生「妬いてるって、その顔は。嘘ついたってお見通し。馬鹿みたい」   町田「(顔色が変わる)誰が馬鹿だって」      町田、感情を押し殺すように椅子から立ち上がる。   弥生「貴司よ。決まってるじゃない。この家にあたしと貴司以外の誰がいるっていうのよ」      居間に来る町田、弥生に近付き突き倒す。   弥生「(憤然と)痛いなあ……」      弥生、体を起こすと町田を睨みつける。      町田、睨み返す。   弥生「そういうことするんだ。暴力ふるって。恥ずかしいと思わないの、男のくせに」   町田「……暴力だなんておおげさなこと言うな。軽く押しただけじゃないか。派手に      倒れおって。いい加減にしろ」      町田、野球のグローブとボールをつかむと外へ出ていく。      弥生、唇の端を歪めて不敵に笑う。 ■東板橋公園・中      町田、ブロック塀の小屋にボールを投げつけ、跳ね返ってきたゴロを捕球する      動作を何度も繰り返している。      こるり、町田の姿をスケッチしている。 ■町田家のある都営住宅・中庭      こるり、ベンチに腰掛け、水筒の飲み物をおいしそうに飲んでいる。      住宅棟から出てくる弥生、こるりに気付く。   弥生「こるり」      こるり、目を輝かせ立ち上がる。  こるり「弥生さん。会えたらいいなと思って待ってたの」   弥生「待ってることないのに。うち四〇一号室。上がる?」  こるり「(首を横に振って)いい。外にいる弥生さんだけに会いたいの。家で主婦を      やってる弥生さんには、あまり興味ない」   弥生「今の言葉は聞き捨てならないなあ。主婦業こなすのって大変なのよ。一度      やってみたら分かると思うけど」  こるり「そういうつもりじゃなかったの……」   弥生「まあいいわ。気分がむしゃくしゃしてたところだし、こるりに遊んでもらおっと。      どこ行こうか」  こるり「(怪訝そうに)何かあったの?」   弥生「旦那にこづかれちゃった」  こるり「(血相を変えて)手を挙げられたのね?」   弥生「あたしも悪いんだけどね。あいつの顔見るとつい憎まれ口たたいちゃうからさ」  こるり「どんな理由があっても、女の人を殴る男なんて最低よ」   弥生「(こるりに気圧され気味に)う、うん」  こるり「わたしがぶっ飛ばしてあげる、今すぐ。弥生さんの家に案内して」   弥生「あいにく、旦那出掛けてる」  こるり「弥生さんを苦しめる者は誰であろうと必ず罰が下るわ」 ■大谷口メッキ工業・更衣室      中岡、汗まみれのシャツを着替えている。      中岡、入ってくる。   町田「作業場の暑さももう少しだからな。十一月になれば楽になる。それに仕事も      安心して任せられるようになった。まだまだ覚えてもらうことはいろいろあるがな」   中岡「町田さんのお陰ですよ」   町田「何を言ってるんだ。持ち上げても何も出ないぞ」      中岡、着替え終え、出入口へ歩いていく。   町田「長く勤めてくれよな」   中岡「はい。そのつもりです」 ■中岡のアパート・前      穏やかな風が吹き、雑木林の枝葉がわずかに揺れる。 ■中岡の部屋      六畳の和室と三畳のキッチンの間取り。      六畳の和室で中岡が仰向けになって寝転んでいる。      思い立ったように上体をむくっと起こす。 ■中岡のアパート前の道      野球帽を目深にかぶった中岡、自転車のペダルを漕いでいる。 ■町田家・玄関前      中岡、呼鈴を二度、三度と鳴らしている。      家の中から誰も出てこない。      中岡、諦め引き返そうとする。      スーパーの買い物袋を提げ、階段を上ってくる弥生、中岡に気付き      立ち止まる。   弥生「……お上がりなさい」      中岡、頷く。 ■同・ダイニングキッチン      中岡、テーブル席に着いている。      弥生、中岡へお茶を出す。   弥生「前もって貴司に言っておけばいいのに、今日うちに来るって」   中岡「急に思い立ったんで」      弥生、中岡の向かいの席に座る。      中岡、お茶を飲む。   弥生「手荒れ良くなったじゃない」   中岡「(手を見ながら)あ、ええ。こんなに簡単に治るんだったら、もっと早く      クリーム塗っておくんだった。ありがとうございました」      弥生、微笑ましそうな表情でお茶を飲む。   弥生「中岡さんは誰かいい人いないの?」   中岡「なぜですか?」   弥生「日曜日にうちに来るようだと……」   中岡「俺、全然もてないんで、そっちはまるで」      中岡、うつむき、ゆっくりと首を横に振る。   弥生「どうして自分でそう決め付けるの。真面目そうだし、もっと積極的になれば      すぐに彼女ぐらいできるわよ」   中岡「真面目って、つまらないの裏返しですよ」   弥生「(なじるように)また卑屈になって……」   中岡「そうでした。やめます、卑屈になるの。男らしくないですよね」      弥生、立ち上がり台所まで行くと、水切りの中の食器を布巾で拭き始める。   弥生「あたしみたいなおばさんと話しててもつまんないでしょ」      中岡、弥生の後姿を見詰める。   中岡「俺、埼玉の男衾っていう駅の近くで生まれ育ったんです。家の周りは竹林と      畑ばかりで。少年の頃、竹林でよく昼寝してました。中学生になって二度目の      夏にいつものように寝ていると、女の人が叫ぶような声が聞こえたんです。      何事かと思って恐る恐る声がした方へ近付いてみた。そこで俺が見たのは      抱き合う男と女の姿だった」      弥生、食器を拭きながら中岡の話を聞いている。   中岡「抱かれている女の胸の片方に大きなほくろがあったんです」      中岡、椅子から立ち上がる。   中岡「驚きましたよ。初めてここにおじゃましたときに奥さんの裸を偶然見てしまった      ら、竹林の女と同じようなほくろがあったんで」   弥生「(落ち着きはらった声で)なぜそんな話するの?」   中岡「好きだからです、弥生さんを」      中岡、弥生に近付き力強く抱き締める。 ■史跡・縁切榎      町田、榎の木を見上げている。 ■町田家・居間      中岡、弥生の白く熟れた裸身を貪るように抱いている。      弥生、中岡に好きなようにさせている。      中岡、弥生の乳房を激しく揉みしだく。   弥生「(感じて)あ、ああっ」      中岡、弥生の乳房にむしゃぶりつき、いとおしそうにほくろを愛撫する。      ほくろを撫でたまま陰茎を弥生の陰部に挿入し、腰を動かし続ける。      果てる中岡と弥生。      荒い呼吸の中岡、弥生の胸に頬を寄せる。 ■町田家のある都営住宅の中庭      花壇に咲く菊の花。 ■町田家・居間      中岡と弥生が寝そべっている。   弥生「(からかうように)抱いたらがっかりしたって顔に書いてある」   中岡「がっかりなんてしてません。良かった。嘘じゃない」   弥生「でも浮かない顔……。後悔してる?」   中岡「後悔もしてない」   弥生「ならもっと嬉しそうな顔しなさい。こんなに激しく求められたの初めてなの」   中岡「(返事に窮する)……」   弥生「貴司のこと?」      中岡、不安そうに頷く。   中岡「明日から町田さんの顔、まともに見られるかな」   弥生「終わりにしよ。今日は」      弥生、上半身を起こし下着を身に着けていく。   弥生「貴司が戻ってきたら、大変よ。早く服を着て」      中岡、立ち上がり衣服を身にまとっていく。 ■同・玄関      中岡、靴を履いている。      弥生、上がり口に立っている。   中岡「次はいつ会えるかな。すぐにでも会いたいんだけど」   弥生「貴司に知られたらどうする気? 覚悟はできてる? 殴られるぐらいじゃ      すまないかもよ」      中岡、ゴクリと唾を飲み込む。   中岡「うちに来られる? 成増なんだけど。いくらなんでもここで会うわけには      いかないしね」   弥生「あたしのこと、そんなに好きになった?」   中岡「うん。町田さんには悪いけど。……来週の日曜日はどうかな?」 ■同・前      玄関のドアが開き、中岡が出てくる。 ■中山道      車が行き交う大通り。      歩道を走る中岡の乗った自転車。      車道を挟んだ向かい側の歩道を町田が歩いている。      中岡、町田に気付くと慌てて顔を隠すように帽子をずり下げる。 ■大谷口メッキ工業・前(夜)      中岡、自転車に乗ろうとしている。      ガラス戸が開き、町田が出てくる。   町田「中岡」      町田、中岡へ歩み寄り毛糸の手袋を渡す。   中岡「町田さん……」   町田「自転車だと手、冷たいだろ。寒くなってきたしな。じゃあ、また明日な」      町田、中岡の肩を軽く叩くと社内に戻っていく。      中岡、手袋をはめると、心苦しそうに顔を歪める。 ■町田家・中      町田、野球のグローブとボールを抱えて外へ出ていく。      居間で新聞を読む弥生、外出する町田の姿を見届けると、立ち上がり身支度      を始める。 ■東武東上線成増駅・北口改札前      中岡、人待ち顔で立っている。      弥生、駅の構内から出てくる。      中岡、弥生に走り寄ると並んで歩き出す。 ■中岡の部屋・居間      中岡、弥生の胸をわしづかみにしながら陰部を執拗に舐めている。      弥生、身をのけぞらせながら悶える。   弥生「(喘ぎながら)そこばっかり……舐めないで……駄目……」        中岡、顔を上げる。   中岡「茂みのところに小さなほくろあるの知ってる?」        弥生、荒い吐息のなか、首を横に振る。   弥生「自分のそこなんて気にしたことないわよ」   中岡「ほくろを見つけて……その、興奮した」      中岡、弥生の陰部を再び舐め続ける。   弥生「(呻くように)あ、あぁ……守男……」 ■東板橋公園・中      町田、ブロック塀の小屋にボールを投げ、跳ね返ってきたボールを捕る      動作を繰り返している。      こるり、町田の姿を背後からスケッチしている。      町田、ゴロを捕り損ね、ボールがこるりの足元まで転がる。      こるり、ボールを拾う素振りも見せず、スケッチを続けている。      町田、ボールを拾いに行く。   町田「かわいくないな、君は。投げ返してくれてもいいものだろ」      町田、ボールを拾うとこるりが描いた絵を覗き込む。      漫画のようにデフォルメされた絵の中の町田の姿。      町田、思わず口元が緩む。  こるり「おじさんに見せたかったから投げなかったんだもん」   町田「おかしいね。なかなか特徴をよくとらえてる。美大生か何か?」  こるり「現在はフリーターだけどイラストレーター志望、二十歳のうら若き乙女よ。      おじさんは?」   町田「私のことはどうでもいいさ。休みの日にやることもなく、時間を持て余している      面白味のないおじさんだ」  こるり「家族をほったらかしにして?」   町田「家族といっても家内と二人暮らしだ。一緒になって十年以上になるとお互いに      関心もない」  こるり「だからひとりでボール遊びですか。中年男性の哀愁がにじみ出てて、スケッチ      しがいがありました。ちょっと遊んじゃったけど」   町田「(苦笑い)こら、大人をからかうものじゃない」      こるり、ぺロッと舌を出して小さく笑う。  こるり「奥さん、浮気してたりして」      町田、真顔になってこるりに視線を向ける。  こるり「やだ、急に怖い顔して。冗談ですよ、冗談。おじさんのこと前にも見掛けたこと      あるけど、お話ししたの今日初めてだもんねえ。何も分かりっこないもんね。      さ、そろそろ行こっと」      こるり、スケッチブックを抱える。  こるり「じゃね」      こるり、風のように走り去っていく。      町田、思案顔で手に持つボールをグローブに投げ入れる。 ■町田家・玄関前      町田、ドアを開けて入ろうとするが、鍵がかかっているのに気付く。      ポケットから出した鍵でドアを開けて室内に入る。 ■同・居間      町田、疑わしげに室内を見回している。   町田「まさかな……」        町田、座布団に腰を下ろす。   町田「(意表をつかれたように)中岡……(小さく首を横に振る)いや、      そんなはずは……」 ■東武東上線成増駅・北口改札前      中岡と弥生が歩いてくる。      中岡、切符を買い弥生に渡す。   中岡「何なら俺も途中まで行こうか」   弥生「(クスッと笑う)あたしをいくつだと思ってるの。ここでいいわよ」      自動改札を通ろうとする弥生の腕をぎゅっと握り締め、引きとめる中岡。   中岡「次の日曜日、また来てくれる? お願いします」      中岡、深々と頭を下げる。   弥生「(困ったように)頭上げて。もう他人じゃなくなったんだからあたしたち。      でもあんまり頻繁に会ってると貴司に感付かれるわ。来週はやめておこうよ」   中岡「本当は帰したくないぐらいなんだ。もう弥生さんなしの人生なんて      考えられないよ」      弥生、中岡の目を無言で見据える。   弥生「いいわ。あなたの望みどおりにさせてあげる。ただしどうなっても知らないわよ、      人生目茶苦茶になってもいいの?」   中岡「かまうもんか。今は一分一秒でも長く会っていたいんだ」      弥生、自動改札を通過すると中岡へ振り向く。   弥生「今度の日曜日、直接あなたの家に行くわ。待ってなさい」   中岡「(力強く頷きながら)きっとだよ」      弥生、改札から離れていく。 ■町田家・居間(夕)      町田、あぐらをかいて座り、黙々とグローブに油をつけ布巾で拭いている。      玄関のドアが開け閉めする音がし、弥生が入ってくる。   町田「忙しいんだな、弥生」   弥生「いいじゃない。あたしが出歩いてちゃいけないわけ」   町田「別に悪いなんて言ってないさ。どこへ行こうと何をしようと」      弥生、関心なさそうにダイニングキッチンへ行く。 ■大谷口メッキ工業・作業場(朝)      中岡と町田がすれ違う。   中岡「(平静を装い)おはようございます」        町田、立ち止まる。   町田「中岡」      中岡、立ち止まると注意深く町田を向く。   町田「おはよう」      町田、立ち去る。      中岡、歩き出し安堵のため息をつく。 ■町田家・中      町田、グローブとボールを持ち、家を出る。      台所で洗い物をしている弥生、町田が出ていったのを確認する。 ■中岡のアパート付近の坂道      弥生、やや急ぎ足で歩いている。      歩きながら背後を気にするように振り返るが、気にせず歩き続ける。 ■中岡の部屋・前      弥生、玄関のドアをノックする。      ドアが開き、室内へ入る弥生。 ■中岡のアパート・前      町田、歩いてくる。      アパート全体を見回す。 ■中岡の部屋・居間      中岡と弥生が全裸で抱き合っている。      中岡、弥生の胸のほくろを唇で這わせている。   中岡「弥生さん、弥生さん……」   弥生「やっぱりそこにいくのね」      中岡、執拗に弥生の胸のほくろを唇で這わせている。   弥生「あたしより……ほくろを好きみたい」      中岡、顔を上げ弥生の表情に視線を移す。   中岡「つい夢中になって……そういうつもりじゃなかったんだけど」   弥生「いいのよ、好きなようにしな」   中岡「(意気消沈)……」   弥生「どうしたの? 萎えちゃった?」   中岡「ごめんなさい」      弥生、おかしそうに笑う。   弥生「なんで謝るの。いいわ、今日はこのまま抱き合ってよ、じっとして」      中岡、頭を弥生の胸にもたれさせ、抱きついている。      弥生、中岡を両腕で抱きかかえている。   中岡「最近寝ても覚めても弥生さんのことしか考えられないんだ」   弥生「嬉しい、そんなふうに言われて。このまま世の中の男に見向きされないうちに      年とっていくものだと思ってたのに」   中岡「仕事辞めてもいいよ、弥生さんと一緒になれるなら。町田さんには謝って      済まされることじゃないかもしれないけど」   弥生「貴司を裏切って浮気してるあたしが言えた義理じゃないけど、よくないわ、      そういう考え。一緒になったとしても多分長く続かない。きっとお互いに不幸になる。      いずれ会うのも終わりにしないと」      中岡、必死の形相で弥生を強く抱き締める。   中岡「やだ! 弥生さんと会えなくなるなんて考えたくない! 形なんてどうだって      いいから、ずっと一緒にいたいんだ!」   弥生「守男……」      弥生、中岡の唇に自らの唇を熱く重ね合わせる。 ■沈みかける太陽(夕) ■中岡のアパート・前(夕)      部屋から出てきた中岡と弥生が歩いている。      アパートの物陰に待ち伏せしていた町田が、中岡と弥生の背後に近付く。      人の気配に気付いた中岡と弥生が振り返る。      表情がひきつる中岡、無表情の弥生。      町田、中岡に殴りかかる。      中岡、吹っ飛び路面に倒れる。   弥生「(絶叫)やめてー!」      中岡をなおも殴ろうとしている町田に、弥生がしがみつく。      町田、弥生を引き離し突き倒す。      鼻から血を流している中岡に町田が馬乗りになり、顔面を殴り続ける。      中岡、反撃する体力も気力もなく、殴られ続けている。      弥生、起き上がると中岡と町田の間に割って入る。      町田、弥生の頬を拳で殴りつける。      よろける弥生、とどめを刺されるように町田から顔を二発殴られ、たまらず      倒れる。      町田、呼吸を荒くしながら、倒れて苦しそうにしている中岡と弥生を見下ろした      あと立ち去る。      弥生、立ち上がり中岡へ歩み寄る。      鼻と口から血を流している無残な顔の中岡。   弥生「起き上がれる? 苦しい?」   中岡「(絞り出すような声で)うん」   弥生「(肩を貸しながら)つかまんな」      中岡、弥生の肩を借りて、ふらつきながら起き上がる。      中岡と弥生、よろめきながら中岡の部屋に戻っていく。 ■中岡の部屋・中(夕)      夕陽に染まる室内。      中岡が弥生にかつがれるように入ってくる。      キッチンを通り居間へ行く。      弥生、中岡を畳の上に寝かせたあと隣で横になる。   弥生「(殴られたところを手で押さえながら)ああ、痛い」   中岡「(痛みをこらえながら)弥生さんも手を挙げられたの?」   弥生「ズキズキする。(手についた血を見て)血が出てる」   中岡「手当て……しよう」   弥生「平気。それよりあなた自分の心配しなさい。相当腫れるんじゃない、顔」      中岡、体を起こそうとする。   弥生「寝てな」      中岡、弥生の言うとおりに体を横たえる。   弥生「……それにしても、あたしたちの姿って間抜けね。ついさっきまで抱き合ってた      この部屋で、血を流しながら倒れてるなんて。笑っちゃう」      弥生、吹き出すように笑う。   中岡「本当だ」      中岡、弥生につられて力なく笑う。   中岡「(真顔になり)町田さんと別れてほしいな、これをきっかけに。もう今の会社には      さすがにいられないだろうけど、次の仕事見つけて必死に働くから。そしたら、      一緒に暮らそうよ。俺、弥生さんのこと好きなんだ、どうしても」   弥生「あたしたち、終わりにするときが来たんじゃない」      中岡、ガバッと上体を起こす。   中岡「(弥生の言葉が信じられず)なんで? どうしてだよ。終わりなんて言わないで      くれよ、やだよ、弥生さんと会えなくなるなんて」      弥生、上体を起こす。   弥生「さっき貴司に殴られて気付いたの。所詮あたしは浮気相手と結ばれて、何も      なかったように幸せに生活できるような女じゃない。どんな理由があっても      浮気ってしちゃいけないことだわ。それにこのままずるずる関係を続けていても、      あなた、いずれあたしのことをうとましく思う日が絶対に来る」   中岡「弥生さんをうとましくなんて思うわけないじゃないか! どうして……どうして       信じてくれないんだよ……」   弥生「終わりよ。あなたの気持ち心の底から嬉しいわ。これは本当よ。誓って嘘じゃない。      だからこそもうこれっきりにしましょう。それがお互いのためなの」      中岡、打ちひしがれ、うなだれている。      弥生、遠くを見るような目で中岡を見詰めている。 ■大谷口メッキ工業・作業場(朝)      気落ちを隠せない中岡、作業員と挨拶を交わしている。      作業員、皆一様に中岡の顔のあざに驚き、心配そうに声を掛けている。      中岡と町田がすれ違おうとしている。   中岡「(緊張と落胆がないまぜになり)おはようございます」   町田「おはよう」      町田、何事もなかったかのように、中岡の横を通り過ぎる。 ■同・作業場      中岡、黙々と脱脂作業をしている。 ■三田化学・作業場(深夜)      白衣を着用した作業員が、血液検査の作業をしている。      ゴムの手袋をした白衣姿のこるり、眠そうな目で血液の入った試験管を専用の      ケースに詰める作業を続けている。 ■町田家近くの書店(朝)      店頭に陳列されている雑誌の数々。      雑誌を選んでいる弥生。      弥生の顔もあざで青黒くなっている。      求人雑誌を手に取る。 ■町田家のある都営住宅・中庭(朝)      弥生、求人雑誌の入った紙袋を持ちながら歩いてくる。      ベンチに腰掛けているこるり、弥生を待ちわびていたように立ち上がり、      弥生のもとまで走っていく。      弥生、元気のない笑顔でこるりを迎える。  こるり「(弥生の顔のあざに気付き)どうしたの、その顔」      弥生、顔を隠すようにうつむく。   弥生「階段から落ちてぶつけた、なんていまどき誰も言わないか」  こるり「イラストを勉強する専門学校に合格したことを一刻も早く伝えたかったんだ      けど、こるりのことなんてどうだっていい。そのあざ……旦那ね」   弥生「だったらどうする? あたしに代わってやっつけてくれる?」  こるり「茶化さないで! 弥生さんをほうっておけない。こんなにひどい怪我させられて。      話して」   弥生「自業自得なの。浮気……ばれちゃった」  こるり「(思わぬことを言われ)弥生さん……」   弥生「あたし、こういう女なの。不潔でしょ。軽蔑するでしょ。せっかくこるりとお友だち      になれて楽しかったけど、もうあたしにかまうのやめなさい。イラストの勉強して、      お仕事に就いて、前だけを向いて生きていくの。自信をなくして、こそこそと夫以外      の男に抱かれて、目の前すら堂々と見ることができない女なんか相手にしないで。      分かったね」  こるり「何言ってるの。馬鹿みたい。弥生さんちっとも悪くないわ。悪いのは旦那よ、      浮気相手よ」    弥生「とにかくもうここに来るのはやめなさい。さよなら」      弥生、こるりの前から立ち去ろうと歩き出す。      こるり、弥生を追い掛け背後から腕をつかむ。      弥生、立ち止まり振り返る。  こるり「弥生さんを守れるのはこるりだけ」        こるり、弥生の唇にキスをする。      弥生、驚くあまり目を見開く。 ■町田家・居間(深夜)      掛け時計の時刻は深夜の二時になっている。      布団を並べて寝ている町田と弥生。      町田、眠れず天井を一心に凝視している。      弥生、目を覚まし、まんじりともできない町田に気付くが、寝返りをうち      眠っているふりをする。 ■同・ダイニングキッチン(深夜)      町田、何をするでもなく、ただ椅子に座っている。 ■同・ダイニングキッチン(朝)      町田と弥生、テーブル席で押し黙り、朝食をとっている。      町田、食べ終え食器を台所に移す。   町田「行ってくる」   弥生「行ってらっしゃい。気をつけて」      町田、玄関に行く。      弥生、茶碗に箸を置き、食べるのをやめる。 ■大谷口メッキ工業・作業場      町田、脱脂作業をしている。      目が充血し、うつらうつらしながらの作業。      脱脂液槽のへりをつかんでいた左手が滑り、誤って左腕を煮立った脱脂液の      中に突っ込む。   町田「(大声で)うわーっ」      中岡を始めとする作業員たちが、一斉に町田のもとへ駆けつける。      中岡、近くにあるホースを握ると、町田の腕に水をかける。      町田、火傷による痛みを唇を噛みしめてこらえている。      中岡、水をかけるのをやめると、呆然としながら町田を見下ろしている。 ■同・前      町田を乗せたタクシーが走り去る。 ■町田家・居間(夕)      左腕に包帯を巻いた町田、敷布団の上で横になっている。      弥生、座卓の前で正座し沈痛な面持ち。 ■都営住宅・住宅棟の階段(夜)      中岡、駆け上がっている。 ■町田家・玄関(夜)      走ってくる中岡、立ち止まる。      呼吸を整えたあと、呼鈴を鳴らす。      玄関のドアが開き、弥生が出てくる。   中岡「(何を言えばいいのか分からず)……」      弥生、奥に一瞬視線を移す。   弥生「入って」 ■同・居間(夜)      町田、布団の上であぐらをかいている。      弥生、コートを羽織り外出する支度をしている。      中岡、入ってくる。   中岡「町田さん……」   町田「来ると思ったよ。(弥生を向いて)どこ行くんだ。三人で話すいい機会だろうが」   弥生「あたしと貴司で話すことは済んだじゃない。中岡さんともこないだで話はついて      ます。あとはあなたたち二人の方がいいでしょ」      弥生、身支度を整え出ていく。   町田「弥生!」      玄関のドアがバタンと強く閉められる音がする。   町田「まあいい。立ち話もなんだ。ま、座れよ」      町田、座布団を指差し、中岡へ座るように促す。      中岡、小刻みに震えながら立ち尽くしている。   町田「どうした? もう殴らんよ。しばらく片腕は自由が利かないしな。さあ、座れ」      中岡、座布団へ腰を下ろす。   中岡「(切り出すように)で、具合は……」   町田「(包帯をしている左腕を見ながら)痛くて仕方がないんだ。ジリジリと焼ける      ようでな。医者に言わせればたいしたことないそうだが。跡もほとんど残らない      ようになるらしい。ケロイドのように跡が残って、貴様に一生この左腕を突き      つけてやりたかったんだがな! お前と弥生の一件が緒を引いて、眠れなかった      のが原因だ、今回の怪我は。はっきり言わせてもらうが」      中岡、思い悩むように目を強くつぶり、頭を下げる。   中岡「すみませんでした」   町田「謝るな! 謝れば許されると思ってるのか。思ってるんだよな。だからここに      来たんだよな」      中岡、なおも頭を下げ続けている。   町田「どうした、何か言ってみろ。甘いんだよ。そうやってずっと過ごしてきたんだよな。      私は違うからな。死ぬまで恨んでやる。何かと面倒みてやったのに、この仕打ちか。      こそこそ人の女房と寝やがって。確かに縁切榎で会ったときに弥生と別れたいとは      言ったさ。だからって、手を出していいなんてひと言も言ってないよな。え、おい、      お前のような奴を何て言うか知ってるか?」      中岡、顔を上げる。   町田「犬畜生って言うんだ。けだもの、恩知らず、間男とも言うな」   中岡「何言われても弁解する気はありません。弥生さんを好きになったこと後悔してないし。      全肯定できることではないだろうけど」   町田「当たり前だ。この期に及んでまだそんなこと言えるのか。どういう神経してるんだか。      ……なあ、ひとつだけ知りたい」   中岡「何ですか」   町田「弥生のどこに惚れた?」      中岡、考え込む。   中岡「ほくろです」   町田「ほくろ?」   中岡「弥生さんの胸のほくろ。初めてこの家におじゃましたとき、何も衣服を着てない      状態で寝てたでしょ」   町田「ああ」   中岡「あのとき以来、頭からどうしても離れなかった。中学生のとき、竹林でセックス      してる男女を偶然目撃したんです。女の胸には大きなほくろがあって」   町田「その竹林の女に弥生を重ね合わせたのか」   中岡「そうなりますね」      町田、呆れた様子で小刻みに頷く。   町田「ほくろか。まったく、開いた口がふさがらないとはこのことだ。弥生も嘆くだろうな、      ほくろに最も惹かれただなんて知ったら」   中岡「弥生さんには言いました。言ったうえで俺を受け入れてくれたんです」   町田「お前らどうかしてる。特に貴様は変態だ。色きちがいだ」      中岡、感情のこもってない目で町田の顔を直視している。   町田「失せろ。もう顔も見たくない」   中岡「会社、辞めますよ」   町田「当然だ。これ以上一緒に仕事したくない」 ■町田家のある都営住宅・中庭(夜)      弥生、ベンチに腰掛けている。      住宅棟から出てくる中岡、弥生に気付く。   中岡「弥生さん……」      弥生、待ちかねていたようにベンチから立ち上がる。      中岡、弥生のもとまで歩み寄り、ベンチに腰を下ろす。   弥生「(気遣うように)殴られなかった?」   中岡「うん。殴られたほうが良かったかもしれない。俺の責任で火傷させてしまった      ようなものだから」   弥生「火傷とあたしと守男のことは別問題よ。十年もメッキ工で食べてるんだし、私生活      で何があろうとプロに徹するべきだわ」   中岡「でもお世話になった人を裏切ったのは事実だから。仕事も辞めます。……弥生さん      はぶたれたりしてない?」   弥生「心配ないわ。……貴司と離婚することになった。元の小田嶋弥生っていう名前に      戻るわ」   中岡「(申し訳なさそうに)そう……。弥生さんと町田さんの生活を台無しにしてしまったね」   弥生「いずれこうなるのは目に見えてたのよ。あなたは何の因果か立ち会ってしまっただけ。      今回のことは忘れなさい。仕事変わるのも残念だろうけど、まだ若いんだし十分      やり直しできるから」        中岡、考えあぐねるように沈黙する。   中岡「これから、どうするの?」   弥生「働くわ。また調理の仕事するつもり。他の仕事できないしね。初心に戻ってじゃないけど」   中岡「やっていけるの?」   弥生「あたしひとり食べていくぐらいどうにでもなるわよ。あなたは?」   中岡「(考えを巡らす)さあ、どうしよ……。まだそこまで決められない」      中岡と弥生、無言になる。   中岡「(腰を上げながら)そろそろ行きます」   弥生「最後に触る?」   中岡「何を?」   弥生「ほくろ」   中岡「そんな……いくらなんでも、もう……」   弥生「この先、会うことないのよ。触れば?」      弥生、ストレッチシャツのボタンを外していく。      中岡、躊躇している。   弥生「触って」      中岡、弥生に言われるがまま下着の間に手を入れ、胸のほくろに触れる。      弥生、恍惚の表情。      中岡、気持ちが昂ぶるのを必死にこらえている。 ■大谷口メッキ工業・前(夕)     「1ヶ月後」の字幕。      ガラス戸が開き、中岡が出てくる。      室内に向き直る。   中岡「(お辞儀しながら)お世話になりました」      中岡、ガラス戸を閉める。 ■環七通り     「2004年・夏」の字幕。      車体に「城北引越センター」と記載された二トン車が赤信号で停車している。      路面から立ちのぼる陽炎。      作業服姿で助手席に乗る中岡。   ■史跡・縁切榎・前      中岡の乗る二トン車が通り過ぎる。      中岡、見覚えのある風景に警戒の色を強めながら、車窓の景色に釘付けに      なる。 ■町田家のある都営住宅近くの住宅      木造二階建ての民家。      炎天下の下、中岡が作業員数名と共に引越し作業をしている。 ■町田家・玄関      中岡、ドアの前に立ち、おずおずと呼鈴を鳴らしている。      誰も出てこないため、諦め引き返そうとする。      ドアが開き、町田が顔を出す。      中岡、立ち止まりこわごわと振り向く。   町田「中岡……」   中岡「二度と来ることはないと思ってたんだけど……」   町田「いつか来るような気がしてた」 ■組版会社・ニュースタイル      瀟洒なオフィスで仕事している二十名ほどの社員。      原稿整理や電話応対、パソコンのMacに向かって作業などをし、皆忙しそう      にしている。      こるり、手慣れた手つきでМacを操作しイラストを描いている。 ■阿佐ヶ谷パールセンター      活気があるアーケードの商店街。      買い物客など行き交う人々で賑わっている。 ■レストラン「大正亭」・中      落ち着いた雰囲気の店内。      食事するお客で満席になっている。      コック服に身を包んだ弥生、厨房で手際よく調理している。      やる気と自信に満ちた顔付き。 ■阿佐ヶ谷北のアパート      周辺は住宅が密集している。      小綺麗な木造モルタル二階建ての建物。      一階の一室の玄関ドアに、「小田嶋弥生」「冬木こるり」と明記された表札が      掛かっている。 ■町田家・居間      中岡と町田、座卓で向かい合い座っている。      以前と代わり映えしない室内。      町田、火傷を負った左腕を中岡の目の前に突き出す。      火傷の跡がほとんど目立たない町田の左腕。   町田「治ったんだ。今日のような日が来たら、火傷の跡を貴様に見せつけてやるつもり      だったんだがな。残念だ」        中岡、言葉を返せずにいる。   町田「どうした。得意のだんまりか」   中岡「俺、きちんと謝りたかったんだ。町田さんが火傷したあと、話を聞いてもらえ      なかったから」   町田「話を聞く? 何の話を聞くというんだ。言い訳か。弁解か。聞く必要などまるで      ないな」   中岡「申し訳ないことをしました。謝ります。許してもらえなくても」   町田「当たり前だ。誰が許すか。会社を辞めてしばらく経った。だからもう私が気に      してないとでも考えたのか」   中岡「いえ、許されたいのとは違う。ただ……」   町田「馬鹿」      中岡、押し黙る。   町田「馬鹿といったんだ。聞こえなかったのかこの大馬鹿野郎」   中岡「帰りますよ。何を言っても聞き入れてもらえないようだ」      中岡、すくっと立ち上がる。   町田「待て」      中岡、町田へ目を向ける。   町田「ひとつだけ聞いてやる。今、何やってるんだ」   中岡「仕事ですか。バイトで引越しの作業員やってます。始めてからまだ一ヶ月ですけど」   町田「バイトか。いい年してプータローか。思ったとおりだ。人間のくず、落ちこぼれだ。      そのうち仕事にあぶれて、のたれ死にしちまえ。いい気味だ。弥生とやりやがった      罰だな」      中岡、怒りと屈辱で顔を紅潮させている。   中岡「そうだ、俺はあんたの言うとおり、人間のくずだ。でもな、好きになっちまったんだ      からしょうがねえだろ! カミさん寝取られた負け犬が!」      町田、近くにある目覚まし時計をつかみ中岡へ投げつけるが、外れて壁にぶつかり壊れる。   町田「(頭に血が上っている)何て奴だ」   中岡「もう二度とあんたと会わねえよ」      中岡、玄関へ向かう。   町田「死んじまえ、ゴミ野郎!」 ■町田家のある都営住宅前の道      中岡、町田の部屋を睨みつけている。 ■町田家のある都営住宅近くの住宅      引越し作業をしている作業員。      戻ってくる中岡、作業員に軽く頭を下げると作業に加わり、段ボールの包みを      車から玄関の上がり口へ持ち運ぶ。   中岡「(車へ戻りながらひとりごつ)好きになっちまったんだからしょうがねえ……か」      中岡、ほくろのある左手の甲で額の汗を拭う。 完