「メランコリア」 橘一成   登場人物   及川由衣(21)スーパー店員   萬田弘美(24)由衣の同僚   須磨桐子(34)由衣の上司     及川彌生(59)由衣の叔母・喫茶店経営   野本恵理子(18)由衣の同僚   富岡弘樹(19)彌生の店のアルバイト   マリア(年齢不詳)謎の貴婦人 ○ クレジット・タイトル   ……何処からか聞こえてくる機械の作動   音。 ○ 煙霧の中の車道(夜)   機械音のSE、続いていて―。   由衣のN「殺すのだ。ほんとうの自分を   殺すのだ。そうしていれば、月日は過ぎ   去り、陽の当たる庭先で老婆は一人柿を   食う」   ゆるやかな勾配を描く道路の彼方から、   一匹のダックスフンドがトコトコと歩い   てくる。 ○ レジが、延々と続くレシートを吐き出し   ていく   野菜や肉、魚に菓子、生活用品……その   他のありとあらゆる商品名とその値段が   連ねられていく―。 ○ スーパーストア『ベルツ□□町店』(夜)   郊外の住宅地にある食品スーパー。   営業は終了しているが、中には明かりが   ついている。   店頭に、求人募集の貼り紙。   『レジ係、時給800円〜。午前9時〜   午後10時の間で時間応相談。18歳以上の   女性の方』 ○ 同・店内(夜)   そのレジでは、いずれも若い女性の店員   たちが、売上げ金を数えたりなどのレジ   閉めをしている。   黒ブチ眼鏡をかけ文学少女といった雰囲   気の女―及川由衣(21)もその一人。と、   札を数えている途中、ふと怪訝な表情を   浮かべた。   隣のレジの野本恵理子(18)、その表情   を見逃さない。 恵理子「……及川さん、またですか?」 由衣「え、うん、ちょっと」 恵理子「(ひやかすように)いくら?」 由衣「……5千円と、ちょっと、かな」 恵理子「(声を抑えながらも)うわ、痛くな  いですか、それ?」   二人の話し声に、一番端のレジに入って   いた年長の女が鋭く目を向けた。レジ主   任の須磨桐子(34)である。 恵理子「(気づいて)……主任、見てますよ」   由衣、チラリと見る。   桐子、明らかに由衣を睨みつけている。   由衣、お札を数え直しながら、 由衣「(小声で)……この穴埋めたら、今月  の残り、生活できないんだけど……」 恵理子「(小声で)及川さん、主任のお気に  入りだから」   と何処か嬉しそうな笑み浮かべると、レ   ジからキーを抜き、 恵理子「おつかれさまでした」   と去っていく。   桐子、腕組みして由衣を見据えている。   由衣、蛇に睨まれた蛙のように、ジリジ   リと追い込まれていく。   何度となく札を数え直す由衣。 桐子「及川さん、何度数えても結果は同じじ  ゃないんですか?」   レジに残っているのは由衣と桐子の二人   だけ―。 由衣のN「自分のミスは自分で埋める。たと  えそれが誰かに仕掛けられたミスであろう  と、それが規則ならば、それに従うより他  にない。けして人を殺そうなどと、考えて  はいけない。自分を殺して、生きるのだ。  けして人を殺そうなどと―考えるべきでは  ない」 ○ 走るバス(夜)   由衣、暗い顔で座っている。   車窓から見える舗道には人の影すらない。   由衣、ぼんやりとしている。   と、灰色の風景に一際目立つ赤いコート   着た女がダックスフンド連れ歩いてくる   のが見える。   由衣、わずかなすれ違いの瞬間、その女   の顔を確かに見つめ、しばし惚ける。   メインタイトル、出る。 ○ 水槽の中を、無数の小さな水泡が静かに   舞い上がっている   ――唐突に横切るランブルフィッシュ。 由衣の声「おかしいと思わない。今月、これ   で5回目なんだよ、5千円オーバーのミス」 ○ カフェ・マルキィ店内(夜)   レトロな雰囲気のこじんまりとした店。   店内の一角に水槽、泳ぐランブルフィッ   シュ。   カウンターのアルバイト青年・富岡弘樹   (19)、苦笑しつつ、どうぞ、とチェリ   ーの乗ったクリームソーダを差し出す。   各種求人誌を広げ、赤ペン握っていた由   衣、顔を上げ、 由衣「あぁ、ごめんなさい。ありがとう」   と、もはや年代物のレジスターを前に、   食わえタバコで金を数えている中年女性   及川彌生(59)が言う。 彌生「弘樹、甘やかすことないんだよ。自分  のミスを棚に上げて、人に責任転嫁するの  はこの子の18番なんだから。アタシャ、あ  んたの雇い主に同情するけどね」 由衣「私は真面目に働いてます。けど、結果  がともなわないだけ。って言うより、誰か  がアタシのレジからお金抜いてるとしか思  えないんだけどな」 彌生「馬鹿言うんじゃないよ」 由衣「だって、そうも思いたくなるでしょ。  オツリ渡す時だって、3回は数え直して渡  してるんだもん」 彌生「そんなことしてたら、行列できちまっ  て商売にならないじゃないか」 由衣「すごい行列作っちゃった」 由衣、自嘲気味に笑う。   と、カランコロンとドアが開き、水商売   風のおばさん二人が顔を覗かせる。   ヤスエ(63)「終わりでしょ、さ、行こ   う、マージャン、マージャン」 彌生「先に行ってて。今、珍客がいらしてね」   由衣、照れたように頭を下げる。 トモ子(58)「あら、由衣ちゃん、久しぶり  じゃないの。彌生さん、心配してたのよ。  家出てったきり、連絡もしてこないって」 彌生「馬鹿言うんじゃないよ、誰が心配なん  てするもんか。第一、アタシの子でもない  んだからさ」 由衣、笑っている。 ヤスエ「うそうそ、由衣ちゃん出てってから  3日間、ウチら徹マンつき合わされたから  ね」 彌生、二人を追い払うように、 彌生「すぐに行くから、とっととお行きよ」   ヤスエら、由衣に手振って出ていく。   由衣、苦笑しつつ見送って。 弘樹「(小声で)ほんとですよ。僕なんかあ  やうく、スーパーに偵察行かされそうなっ  たんスから」 彌生「弘樹、クビにするよ」   弘樹、笑いながら、エプロン外し、奥へ   と消えていく。 彌生「で、あんなタンカ切って出ていったア  ンタがアタシに何の用だい。家に帰してく  れったってもう許さないよ」 由衣「顔見によっただけ。しばらく会ってな  かったから、死んでるんじゃないかって」 彌生「フン、アンタの魂胆はわかってるよ」 由衣「何」 彌生「金だろ」 由衣、ギクッとなる。 彌生「ほら、見てみなさいよ」 由衣「給料入ったら返します」 彌生「ダメだよ、ここんとこツキが落ちて、  小遣い銭も稼げやしないってのに」 由衣「……」 彌生「だから、いつも言ってるだろう。とっ  とと適当な男見つけて、結婚しちまうんだ  よ。そうでもなけりゃ風俗ででも働いてア  タシに楽させておくれよ」   と、彌生、フゥーッとタバコの煙吐き出   して、 彌生「……レズでもホモでもマトモに結婚し  て暮らしてるの、いるじゃないか」 由衣「……」 彌生「アンタは、アタシと妹の血ひいてるん  だから、男好きのはずなんだけどねぇ。反  面教師なのかね」 由衣「ちょっと、そんな話しに来たんじゃな  いの、お金貸してくれるのかくれないのか  ―」   と、私服に着替えた弘樹、メット片手に   出てきて、 弘樹「じゃあ、お先です」 彌生「ちょっと。二人だけにしないでよ。時  給つけたげるからさ」 弘樹「(苦笑して)たまには親子水入らずで」 由衣「親子じゃないわ」 彌生「アタシの遺伝子受け継いでたら、こん   なグズでノロマのアホウにはならないだ   ろ」 由衣「っとに頭来るわね。いいわよ、そんな  にごちゃごちゃ抜かすならね、風俗ででも  なんでも働いてやるから」 彌生「あぁ、そうしておくれ。顔だけはまず  まずなんだから、いいとこいけるよ」 由衣「(弘樹に)行こ」   と、言うと、求人誌をバックに詰め込み、   スタスタと出ていく。   弘樹、彌生に苦笑して一礼、由衣の後に   続く。 ○ 『ベルツ』事務所   店内防犯カメラのモニターに、店内のレ   ジに立つ由衣が映っている。   店長の安田(52)の隣で、それを見つめ   ている桐子。   安田、事務をとりながら、 安田「3丁目にダイエーが進出してきたろ。  ウチも苦しいんだ、そうそう求人広告は出  してられないよ」 桐子「だからって、あんな子を雇い続けてた  ら……」 安田「まだ2ヵ月だよ……多少のミスは仕方  ないさ」 桐子「普通の子は一週間の研修期間で」 安田「(遮って)どうもさ、君の話を聞いて  ると、生理的なものを感じるんだよなァ、  あの子に対するさ」 桐子、各レジの管理表を指し示し、 桐子「実際問題として、これだけのミスがあ  るということを言ってるんです。生理以前  の問題として、彼女は業務に不適格なんで  すよ」 安田「手持ちの駒をやりくりするのも、主任  の仕事じゃないか。それに店頭の求人募集  だって、続けてるわけだし」 桐子「……本社にレポートを提出してもよろ  しいんですよ。前年期からの売上げの低迷  原因は、不景気の波に留まらず、店員教育  に関心がないばかりか、アルバイトを個人  的趣味で採用する店長にあると」 安田「そう言う言い方は、ないんじゃない?  俺だってさ……」 桐子「更衣室に隠してあったカメラもレポー  トと一緒に提出しましょうか?」 安田「おかしな事を……言いがかりだ」 桐子「……彼女の処遇、私に一任していただ  けますよね?」 安田「……へんな騒ぎ、起こさないでくれよ」   桐子、席を立つと、足早に出ていく。   と、電話がなり出す。   安田、出ていく桐子を迷惑げに見送って   受話器を取る。 安田「毎度ありがとうございます、ベルツ□  □町店安田でございます」 ○ 街角の公衆電話   高級そうな黒のサンダルを履いた、奇麗   な女の足に、ダックスフンドが、まとわ   りついている。 女の足の爪に、黒のペデュキュア。 女の声「店頭の求人募集を拝見したんですが  ―」 ○ 『ベルツ』事務室 安田、履歴書越しに感心しきったという   風な顔で、見ている。 そこに女。萬田弘美(24)。   ベージュ系の地味でセンスも悪い洋服に、   安物のサンダルを履いているが、その出   で立ちは、自身の美貌を隠そうとしてい   る風にさえ見える。   安田、弘美の顔をしばらく凝視している。   弘美、伏目がちにしながら、座っている。 ○ 都市空景   青空の下にひろがる、たとえば三多摩地   区のような街の鳥瞰図。 ○ 『ベルツ』更衣室 店員たちが着替えている。 その中に由衣や恵理子も。 恵理子「新しい人って今日からでしたっけ?」 由衣「えっ?」 恵理子「聞いてません?」 由衣、頷く。 恵理子、意味ありげに笑って、 恵理子「及川さんの代わりだったりしてね」 と、制服を着た桐子が、おはようござい   ます、と入ってくる。 その後ろに弘美。 一同の視線が弘美に向く。そして、その   誰もの目が、一瞬、当惑にも似た色を見   せ、動きを止めた。   桐子、ロッカーを弘美に世話して、 桐子「ここで、よろしく」 由衣、弘美を見る。 弘美も何げに由衣を見る。   ―と桐子。 桐子「及川さん、だらだら着替えてないで、  早く仕事についてくださいね。ただでさえ  準備に時間かかる人なんだから」 由衣「……はい」 桐子「(弘美に)着替え終わったら、事務所  の方に来ていただけますか?」 弘美「はい」   桐子、出て行く。   弘美、黙々と着替え始める。   着替え終えた由衣、ふとロッカーの鏡に   視線がいく―。   鏡に写る弘美の体。若干筋肉質な二の腕、   釣鐘型のバスト、引き締まった腹……。   それは見事なスタイル。 由衣、しばし見つめてしまう。 恵理子「及川さん」 由衣「(ビクっとして)えっ」   恵理子、その反応を怪訝に見て、 恵理子「その鍵、及川さんのじゃないですか」   床にロッカーの鍵が落ちている。 由衣「あ、ありがとう」   と、しゃがんでとる。   弘美、制服に袖を通した。 ○ 同・店内   弘美、桐子からレジ業務の指導を受けて   いる。   由衣、客の接客しながらも、つい視線が   弘美に泳ぐ。 ○ 同・従業員出入り口(夜)   打刻されるタイムカード。   中年の女警備員が、店を出る従業員のバ   ッグを簡単に点検している。   由衣、やってきて点検を待つ列の最後尾   につく。   それとなく、列に並ぶ従業員たちを見回   す由衣。 ○ スーパーの対岸にあるバス停留所(夜)   バス、停車している。   乗り込む女店員たち。   由衣、舗道をかけてきて、閉まりかけた   バスの扉にぎりぎり間に合う。 ○ 走り出したバスの車内(夜)   車内にはそこそこの乗客。   息を切らして乗り込んできた由衣、ふと   見た前方に、弘美の姿。 由衣「……」   と後部座席に恵理子がいて、 恵理子「(からかうように)今日は早いです  ね。(笑って)主任が休みだから?」   由衣、苦笑して、恵理子の座る席の横に   立つ。   と恵理子、視線で弘美を指し示す。 恵理子「(こそっと笑って)」 由衣「(その意味が解からず)?」     ×    ×    ×   次の停車先を知らせるバスアナウンス。   「じゃ、おつかれさま」   と恵理子の前の座席に座った由衣に声か   けて、店員Aが降りていく。 由衣・恵理子「おつかれさまでした」   座っている弘美の後ろ姿。   由衣、視線がいってしまう。   恵理子は寝ている。   弘美の後ろ姿。   次の停車先を知らせるバスアナウンス。   由衣、ハッとして降車ボタンを押しかけ   る―。    と、先に弘美が、降車ボタンを押した。 由衣「……」   バス、停留所に入る。   席から立ち上がった弘美。   由衣、見る。   弘美、由衣を見て、瞬間、微笑する。   由衣、動揺したように目礼する。   降車する弘美。   由衣、立ち上がるタイミングを逸して座   ったまま。   発車するバス。   うっすらと目覚める恵理子。 恵理子「あれ、及川さん、どうしたんですか?」 由衣「……うん、ちょっと、友達のトコ」   とごまかす。 ○ 中年女性が怒声を上げる 中年女性「バーコードだか何だか知らないけ   ど、このチキンナゲット、レジにて10%   オフって書いてあるでしょ、見なさいよ、   このレシート、割り引かれてます!?」   『ベルツ』店内は、夕方の繁忙時で込み   合ってい、その客たちの視線を集めてい   る。   平身低頭に謝る由衣。 中年女性「あなた、こないだの人よね。名前  覚えてんだから。オツリはごまかそうとす  るわ、値段は間違えるわ」 桐子「申し訳ありません、すぐに訂正いたし  ますので」   由衣に並んで謝罪する桐子。   弘美、その様子を横目に見つつ、 弘美「(お客に)3千5百円のお返しですね、  ありがとうございました」   と型通りの挨拶をする。 ○ 閉店後の店内(夜)   由衣と桐子の二人だけ。 桐子「萬田さんは、一週間でもうあれだけ出  来てるのに、何でかしらね」 由衣「……」 桐子「向いてないんじゃない? いいのよ、  辞めていただいても」 由衣「いえ、やります……やらせてください」 桐子「あなたの処遇については店長から一任  されましたから、最終的には私が決断しま  すけどね」 由衣「……」 ○ コンビニエンス・ストア(夜)   由衣、アルバイト情報誌を立ち読みして   いる。   と足元に気配を感じ、ビクっとして見る。   そこにダックスフンド(以下、ミキ)。   由衣、顔を上げるとサングラスに赤いコ   ートの弘美が、ニッコリと笑んでいる。 由衣「(一瞬、誰だかわからず)……?」 弘美「おつかれさま」 由衣「(気づいて)あ、萬田さん……」 弘美「何、どうかした?」 由衣「フフ、誰かと思った」 弘美「あぁ、洋服? 洋服って、その人の精  神をあらわすって言うでしょ。あんな格好  でもしてなけりゃ、スーパーなんかで働け  ないから」   由衣、動揺していて、とりあえず笑んで   見せる。 弘美「そう思わない?」 由衣「……」 ○ レジから吐き出されていくレシート ○ 車道から公園に(夜)   歩いてくる二人とミキ。 弘美「お家、このへんなの?」 由衣「この間、越してきたばっかりなんです  けど」 弘美「アタシもそう。何処?」 由衣「この先の、ピザ屋さん、知ってます?  その斜め向かいにあるマンション」 弘美「名前は?」 由衣「え」 弘美「マンションの名前」 由衣「レジデンス・マンション」 弘美「嘘でしょ? アタシもそこよ」 由衣「ほんとに!?」 弘美「アタシは609」 由衣「私、303。……でもウチのマンショ  ン、動物禁止って」 弘美「そんなのは建前よ。分譲賃貸の物件な  んてそれぞれ大家が違うんだから、片一方  が堅実な会社員限定で貸してたって、ヤク  ザ者の事務所と隣り合うことだってあるわ」 由衣「(急にテンション高くなり)だからな  んだ。アタシの隣もふざけたヤツで」 弘美「―桐子みたいな」 由衣「えっ」 弘美「須磨桐子。目の敵にされてるから、嫌  でも目に入るわ」 由衣「私が悪いんだからしょうがないけど」 弘美「楽しく生きる秘訣は他人のせいにする  ことよ。お釣り間違えるのは、1円2円に  右往左往する客のせい、動作が遅いのは、  そういう体質に産んだ親のせい、態度が悪  いのは今までの人生で出会ってきた人間の  せい」 由衣「(苦笑)……」 弘美「共同体の倫理なんか、うすら寒い。無  意味な朝礼、勤務態度、時給800円の小  さな社会」 由衣「どうしてあんなスーパーで」 弘美「他になかったの」 由衣「うそ」 弘美「アタシね、決めたの。スゴロクみたい  にサイコロふって、出た目に従って、生き  てみようって。そうしたら偶然、求人募集  の貼り紙を見た。ただ、それだけ」 由衣「……」 弘美「極めつけの自由って何だと思う?」 由衣「……南の島で、ぼんやりすること」 弘美「そんなのは、作られたイメージでしょ」 由衣「じゃあ、何?」 弘美「スーパーの休憩時間(と笑う)」 由衣「(笑う)」 弘美「でも、ホントよ。足が痛くてしょうが  ないんだもん」   由衣、そんな弘美を見つめる。   と、いつの間にかミキの姿が消えている。 弘美「ミキ」   弘美、不安げにあたりを見回す。 ○ ミキがトコトコと歩いていく(夜)   向かう先は、ドアの開いた黒いリムジン。   ミキ、吸い込まれるようにその車内に駆   け込む。   とドア閉まり、音もなく走り出す車。   その車内―真紅の口紅を塗った妖しい唇   が不気味に笑んでいる。   と、何処からともなく、薄靄が漂い始め   た……。   ○ 公園の前の路上(夜)   弘美と由衣、ミキを探して来る。 由衣「あの、何て呼んだらいいですか?」 弘美「何を」 由衣「ワンちゃん」 弘美、何言ってるの? という笑みで、 弘美「ミキ」 由衣、そうよね、と納得した風で、 由衣「ミキ」   二人、名を呼びながら、歩いていく。 弘美「あっちの方、見てくるわ」   と行ってしまう。 ○ 別の路上(夜)   何処からか暴走族の騒音。   人通りはまったくない。   靄が漂う。  ○ 高架下のトンネル(夜)   無人。    ○ 幹線道路(夜)   物音一つしない薄靄の中、やってきた弘   美、ふと立ち止まり、不安が募る。 由衣の声「ミキ」   弘美、その声を靄の中に聞く。   と由衣が、ゆるやかな勾配の下り坂から   上がってくる。由衣、弘美に気づいて、   首を振る。   弘美、小さく笑みを浮かべる。   由衣、その笑みの理由が分からず、弘美   を見つめる。 ○ レジデンス・マンション(夜)   外階段を上っていく二人。 由衣「……ごめんなさい。私と会わなければ  こんなこと」 弘美「言ったでしょ。あなたは悪くないって。  すべては他人のせい。首輪もつけずに犬を  連れ歩く女のせいだって。そう思って」 由衣「……ウチも昔、犬飼ってて、あんまり  バカだからって父親が、車で遠くに捨てて  きたことがあるんです」 弘美「……」 由衣「でもその一週間後、朝起きると、その  犬が濡れ鼠になって自分の小屋に入ってた  の。道も何にも知らないはずなのに、すご  いでしょ。それ見た父は、なんて頭のいい  犬だって感激しちゃって、バカっ可愛がり」 弘美「フフ、ウチのミキはどうかしら。あの  子、アタシに似ず人なつこいから、誰かよ  その人にそのままついていっちゃうかも」 由衣「……じゃ、もう少し探してみましょう  よ」 弘美「いいの……このフロアでしょ」 由衣「あの子の写真か何かあります?」 弘美「どうして?」 由衣「ほら、電信柱に貼り紙とかしてるの、  たまに見ませんか、この犬探してますって」 弘美「でも、いいわ。及川さんが言うみたい  に戻ってくるかも知れないし」 由衣「……」 弘美「でも、鍵開けて部屋に入るわけにもい  かないしね……」 由衣「……」 弘美「ごめんなさい、付き合わせちゃって」 由衣「ううん、ぜんぜん」 弘美「フフ、そうよね。付き合うアナタが悪  いんだから」 由衣「フフ」 弘美「じゃ、また明日」 由衣「さよなら」   弘美、階段を上っていく。   由衣、しばらくその足音を聞いていて。 ○ 弘美の部屋(夜) 入ってくる弘美。 と、点滅する留守電のランプが目に入っ   た。 弘美「……」 留守番電話「メッセージを再生します。録音  件数は3件です」   無言のメッセージが2件。そして―女の   声……以下、秘書(27)とする。 秘書「……社長からのメッセージをお伝えし  ます。偽名をつかっての賃貸契約、および  雇用契約の締結は、私文書偽造の罪に問わ  れます、つまり公権力の行使によってあな  たの身柄を拘束することも可能ですが、社  長としてはこれ以上の無駄な出費を望んで  はおりません。ついては早々にご来社いた  だき、しかるべき状況説明と、謝罪、およ  び我々がこうむった損害の賠償をしていた  だきたくここにお願い申し上げます」 弘美「―」 弘美、ベランダに出、街を見回す。 静まり返った街。 ○ 由衣の部屋(夜)   時計は深夜の4時過ぎ。   由衣、慣れないパソコンで迷い犬の広告   を作っている。解説書などを傍らに。   とメールが着信する。 由衣、? となって、そのメールを開け   てみる。 画面にあらわれたのは、両手両足を鎖に   つながれた美貌の外人女性の裸体写真。   由衣、赤くなって、見る。と同時に、気   味悪さを覚え、メールを削除する。 ○ 『ベルツ』従業員出入り口 に駆け込んでくる由衣。    ○ 同・店内 レジに桐子。 由衣、入ってくる。 由衣「遅れました。すいません」 桐子「……」 由衣「……目覚しが壊れてて」 桐子「……そう。てっきり、嫌気がさして、  自分から来なくなったのかと思ってたのに」 由衣「すいません」 桐子「今日、休みの人多いの。アナタみたい   なのでも、いないよりはマシだから」 と、レジを出ていく。   ふとレジに入った店員たちを見回す由衣、   が弘美の姿はない。と、由衣の視界に、   弘樹の笑顔―。   メット持った弘樹、サンドイッチとジュ   ース、そして封筒が入ったカゴを由衣の   レジに置く。 由衣「どうしたの?」 弘樹「彌生さんがこれ渡してこいって」 その封筒。 由衣「……?」 弘樹「中は知らないけど、(意味ありげに笑  み)ね」   他のレジに入った桐子、見る。 弘樹「(桐子の視線に気づいて)あれ?」 由衣「フフ」 弘樹「レジ、点検してみれば」 由衣「……」 弘樹「お札数えるぐらいできるでしょ。じゃ、  がんばって」 弘樹、カゴを持ち去っていく。 由衣、記録用のレシートを巻き戻してい   く。開店から現在までの記録、客は弘樹   も含めてわずか3名。   由衣、レジを開け、札を数え出す。   レジ管理シート。開店前の入金額。 桐子「及川さん、まだ点検する時間じゃない  わよ」 由衣「……お客様がいらしたら、すぐに止め  ます」   桐子、ツカツカと由衣のレジへ。 桐子「及川さん」 由衣「すぐに終わります」 桐子「……」 由衣「あれ?」 桐子「……」 由衣「千円、足りない」 桐子「……嘘よ、そんなことないわ」 由衣、その束を数えてみる9千円。 由衣「入金額の10万7千円から今日の入出金  ひいて、千円マイナスです」 桐子「……」 由衣「主任、ですよね」 ○ 真紅の口紅を塗った妖しい唇がニヤリと  笑む   そこは、ガラス張りの向こうに、遠く彼   方まで見渡せる高層階のフレンチ・レス   トラン。 黒服に招かれた弘美、入ってくる。 ずらりと並んだテーブルに、客は一人し   かいない。 ―マリアという名の貴婦人。または何   処かの国の女王のような威厳を漂わせる   妖艶な『女』。性別年齢ともに不詳。    マリアの腕の中には、ダックスフンド。   黒服、マリアの前の席に弘美を座らせる。 マリア「犬の帰省本能ってほんとに凄いわね」 弘美「……」 マリア「アナタが何処で何をしていようとい   いのよ、ただね、無断で行動することは   許してないわ」 黒服、弘美のグラスに血のようなワイン   を注ぐ。 弘美「申し訳ありません」 マリア「犬っていうのはね。生まれついての  奴隷なの、首輪につながれてこそ生きる意  味が付与される。反逆は許されないのよ」 弘美「……」 マリア「フフ、でもたまに反逆するからこそ、  調教の楽しみがあるのも事実ね。さっ、グ  ラスを持ちなさい」 弘美、グラスを持つ。 マリア「永遠の隷属を誓って」   とグラスを掲げ、一気に飲み干す。 弘美、飲む。 マリア「フフフ」 弘美、飲み干し、グラスを置いた。 マリア「今はヒロミと名乗ってるそうね」 弘美「……」 マリア「それじゃあ、ヒロミ。今夜は総理主  催の宴がありますから、それまでに世俗の  垢を落としておくのね」 弘美「……かしこまりました」 マリア「総理の口聞き一つで、今度のお前の  不祥事はなかったことにしてあげてもいい  のよ。精一杯のご奉仕をしてあげることね。  あなたは私が育てあげた中でも、最高の玩  具なんですから」 弘美「……」 マリア「アナタが私の支配を免れる日は、そ  の美貌が終わりを迎えた時。わかってるわ  ね、ヒロミ」 ○ カフェ・マルキィ店内(夜) 店内は混み合っていて、カウンターの弘   樹、忙しく動き回っている。 カランコロン、その音に。 弘樹「いらっしゃいませ」 と、入ってきた由衣、ニコッと笑む。 由衣「あれ、おばさんは?」 弘樹「なんか具合が悪いからって」 由衣「……ひどそう?」 弘樹「最近たまにあるんですけどね」 由衣「……」 弘樹「ちょっと寄ってみたらどうです? 心  配でしょ? (と笑う)」 おばさんの声「ね、あんみつ4つ追加して」 弘樹「はい」 由衣「手伝う。忙しそうだし」 弘樹「いいですよ。今だけだから」 由衣「じゃ、今だけ」 弘樹「じゃ」 由衣、エプロンをつけて。 由衣「してやったり」 弘樹、オーダーを処理しながら。 弘樹「何がですか」 由衣「主任がヌいてたのよ、絶対」 弘樹「あぁ」 由衣「露骨に動揺してたもの。フフ、あの顔  思い出すだけで当分はストレスたまらない」 弘樹「じゃ、これお願いしていいですか、あ  そこのテーブル」 由衣「はい」   と、新しい学生風の客、入ってくる。 由衣「いらっしゃいませ」 客 「団体なんスけど大丈夫ですか」   由衣、弘樹を見る。 弘樹、クビを振る。 由衣「ごめんなさい。ちょっとムリです」 弘樹「どうしちゃったんだろ。この店」 由衣「しかめ面した店主がいないからじゃな  い」 と、由衣、オーダーを運んでいく。 客が清算にたつ。 由衣「ちょっとお待ち下さいね、すいません」   弘樹、そんな由衣を見て、微笑する。 ○ 彌生の家の吹き抜けの玄関(夜) 呼び鈴がなる。 鍵を開ける音がし、由衣が入ってくる。 静まり返った空間。 由衣、靴を脱ぎ、部屋に上がる。 由衣、各部屋を見ながら行く。 ○ 同・彌生の寝室(夜) ドアが開き、明かりが差し込む。 由衣、見る。 彌生の姿はない。 由衣、怪訝な顔になる。 ○ 同・廊下〜居間(夜) 由衣「おばさん」   と呼びながら行く。 と、ある部屋の窓が開いてい、そこから   風が吹き込む。 由衣、見る。 近づく。 庭。 彌生が、とうの椅子に腰かけて、空を見   つめている。 由衣「ちょっと、いるなら返事してよ」 彌生「なんだい、店に寄ったのかい」 由衣「ねぇ、寝てなくていいの?」 彌生「人の心配より、自分の心配おしよ。で  何の用事だい」 由衣「封筒の、お礼に」 彌生「何がお礼だよ。お礼ってのは何か手土  産持って来るもんなんだよ。……寒くなっ  てきたね、コーヒーでも入れとくれよ」 彌生、部屋に上がる。   由衣、コーヒーを入れる。 由衣「最近、よくあるそうじゃない」 彌生「ムリしたからね。アンタ育てるのに」 由衣「……」 彌生「せめてマトモな娘に育ってくれりゃ、 香苗に合わす顔もあるんだけど」 由衣「マトモよ、アタシは」 彌生「アタシが甘やかしたつもりはないんだ  けど」 由衣「甘やかされた覚え一つもないけど」 彌生「(苦笑)」 ○ 由衣、マンションに帰る(夜)   見上げる弘美の部屋。明かりはない。 階段を上って、部屋につく。 ○ 由衣の部屋(夜) テレビでアメリカ大統領訪日を伝えるニ   ュース、バックでその音声が流れている。   パソコンからプリントアウトされる迷い   犬の広告。 ヘタクソなミキの似顔絵。 由衣、満足した笑み。    ○ 『ベルツ』店内 レジに並んだ由衣と店員A(金田・26)。 金田「彼女、今日もお休みだってね。いい   わよね、彼氏と旅行とかかしら」 由衣「フフ」 金田「及川さんって彼氏いるんだっけ?」 由衣「いえ」 金田「処女だったりして」 由衣「やめてくださいよ」   と苦笑する。 ○ 同・事務室 外れた受話器。 桐子がやってくる。 事務員「4番外線です」 桐子「(出る)もしもし」 声 「お仕事中、失礼します。私サンライズ  不動産の石本ですが」 桐子「あぁ、はい」 とあたりを気にして、 声 「実はですね、昨晩お問い合わせ頂いた  シティハイム、ウチの杉浦がまだ空きがあ  ると申し上げたようなんですが、お申し込  みの締め切りが終わっておりまして……」 ○ 同・休憩室 恵理子「聞きましたよ、主任とのこと」 由衣「え、何?」 恵理子「こないだの朝」 由衣「フフ」 恵理子「ここだけの話、アタシ気づいてたん  ですよ。だって及川さんのレジに主任が入  った日だけ、決まってマイナスになるんだ  もん、間違いなく何かやってるなって」 由衣「気づいてたら、教えてよ」 恵理子「証拠がないと、ホラ」 と、金田、入ってきて、 金田「ちょっと雨、降ってきたわよ」 恵理子「うそ、天気予報いってました」 金田「言ってない、言ってない、アタシ、洗  濯モノ出しっぱなしよ」 恵理子「結構、ふってるんですか」 金田「これから来そう」   由衣、不安げな顔で。 と、遠くで雷鳴。 ○ 同・裏口 暗雲垂れこめ、その暗闇に稲妻が走る。 雨が降りしきる。 ○ 同・店頭(夜) 傘たてに色とりどりの傘。 にぎわう店内が覗く。 雷鳴。 ○ 電信柱(夜) 捜し犬の広告が濡れている。 雷鳴。 ○ 幹線道路(夜) どしゃぶりの雨。 タクシーが走ってくる。   ラジオの天気予報、関東地方全域に出さ   れた大雨洪水警報を告げていく。 ○ 同・車内(夜) ミキを抱えた弘美が暗い顔で乗っている。 ○ レジデンス・マンションの前(夜) 弘美、タクシーから降り立つ。 電信柱に貼られた迷い犬の広告。 弘美見て、フッと微笑する。 ○ 『ベルツ』店内(夜)   レシート、延々と出てくる レジ閉め。 由衣、淡々と札を数えていく。 見つめる桐子。 管理シートに+−0と書き込んで、 由衣「おつかれさまでした」   と、出ていく。 桐子、苦々しく見つめて。 他のレジ店員たちも、仕事を終え、出て   いく。 桐子。 ○ 同・更衣室(夜) 女たち、着替えている。 金田「あぁあ、傘どうしよう」 店員A「置き傘あるからバス停までなら送っ  てくわよ」 店員B「倉庫に忘れ物の傘、いっぱいなかっ  たっけ?」 金田「あれは桐子さんが管理してるから」 店員C「触らぬ神に祟りなしか」   笑う一同。 金田「野本さんは?」 恵理子「私と及川さんは置き傘派ですから」   由衣、笑む。 店員A「ねぇ、ところでさ、あの新しい人っ  てもう辞めたの?」 金田「だからさ、きっと彼氏と旅行にでも出  てるんじゃないかって」 店員B「場違いよね。アタシが彼女だったら、  ぜったいこんなトコで働かないけど。銀座  か六本木で高給取るわ」 恵理子「あの人って、なんかとっつきにくい  んですよね。主任と同じで、何か人を見下  したような雰囲気、ありません?」 一同、笑う。   と、バンッとドアが開き、桐子が入って   くる。   一同、静まる。 桐子「及川さん」 由衣「……はい」 桐子「店長がお話あるって」 由衣「……」 桐子「ほら。とっとと行く!」 由衣、ビクッとして鍵を閉めようとする。 桐子「誰もアンタのものなんかセンスが悪く  て盗りゃしないわよ」   由衣、ムッとする。 桐子「早く行く!」 由衣、憮然として出ていく。 ○ 同・商品倉庫(夜) 係の男と話していた安田。   由衣、やってきて、 由衣「店長」 安田「うん?」 由衣「あのお話しがあるって」 安田「誰が」 由衣「……?」 ○ 同・更衣室(夜) 桐子、着替えている。 そのロッカーに誇示するようにして花柄   の傘が。   戻ってきた由衣、その傘を見る。 由衣「―」  素知らぬ顔で着替えている店員たち。  由衣、自分のロッカーを開ける。 中にあるはずの傘が、ない。 由衣、キッとなって桐子を見る。 由衣「―主任、その傘」 桐子「はい?」 由衣「私のです」 桐子「何言ってるのか分かってるの」 由衣「返してください」 桐子「ちょっと! いいがかりはやめてくだ  さらない。私がアナタの傘を盗んだって言  うの!?」 由衣「私の傘です」 桐子「アナタの傘だって証拠は? 誰か私が  及川のロッカーから、この傘とるところを  見ましたか?」 一同、視線を反らす。 桐子「私がアナタみたいな人と同じ傘使うわ   けがないでしょう」 由衣、恵理子を見る。恵理子、シラッと   して、おつかれさまと出ていく。 由衣「……じゃ、私の傘は」 桐子「知るわけないでしょ、そんなこと」 と着替え終えた桐子、傘をとり、 桐子「それじゃお先に。風邪ひかないように   気をつけてね、及川さん」 由衣、何か言おうとするが口ごもり、閉   まるドアを見送った。 ○ 警備員が由衣のバックをチェックしてい   る(夜) 通用口の検査。 警備員「他に残られている方はいますか」 由衣「(無言でクビを降る)」 警備員「おつかれさまでした」 由衣、ひったくるようにバッグをとると、 雨降りしきる外へと出ていく。 と、傘さしてミキを抱いた弘美が微笑し   ている。 由衣「……萬田さん」 ○ レジデンス・マンション(夜) 外階段、上っていく二人。 弘美「(笑う)それで黙って帰したの?」 由衣「だって」   弘美、笑う。 弘美「及川さんも、あんな怖い顔するのね」 由衣「(苦笑)」 フロアにつく二人。 弘美「……ねぇ、今夜、これから空いてる?」 由衣「……え?」 弘美「及川さんがよかったら、ウサ晴らしに  出かけましょうよ。どう?」   由衣、笑顔になって頷く。 弘美「じゃ、30分後に一階の玄関で」   弘美、階段を上っていく。   由衣、見送って。   弘美の抱えたミキがまだ由衣を見てい、   ワンと吠える。 ○ 由衣、シャワーを浴びている(夜) ○ あるマンションのエントランス(夜) をミキが駆けていく。 続いて由衣と弘美。 由衣「(怪訝そうな顔でいて)」 集合ポストに『SUMA』の表札。 弘美「302ね」 由衣「……ここ……」 弘美「一般人の住所なんて簡単に手に入れら  れるわ」 弘美、階段を上っていく。 由衣「ね、ちょっと」 弘美、行く。   由衣、躊躇するが、追う。 ○ 桐子の部屋・302(夜) 桐子、電卓をかたわらに、ノートに何や   ら計算している。 傍らに各マンションのチラシや説明会の   申込書。『パークシティ内見』とラベル   の貼られたビデオテープに小型のビデオ   カメラ。 と、ピンポンとチャイム鳴る。   桐子、立ち上がり、出ていく。 桐子、覗き窓覗いて―? となる。 再びチャイム。 桐子、チェーンをかけたまま、ドアを開   ける。 弘美がいる。 弘美「ちょっと……お話ししたいことがある    んですが」 桐子「……どうしてウチが」 と、ドアの隙間からミキが入り込んでく   る。 桐子、キャッとなる。 弘美「ごめんなさい。ダメよ、ミキ」 桐子、一旦、ドアを閉めてチェーンを外   し、再びドアを開ける。 桐子「早く連れ出して。私、犬は苦手なのよ」 と桐子、いきなり顔面を殴りつけられる。 ふっとぶ桐子。 驚いて見る由衣。 ズカズカと入ってくる弘美。   わけがわからず、這うようにして逃げる    桐子。   唖然として見ている由衣、遠くで足音が   し、思わずドアを閉める。   壁際に追い詰められた桐子、まったく脅   えていて、弘美を見る。その背後に由衣。  桐子「……及川さん」 由衣「……」 桐子「何の真似」 弘美「あらヤダ、もしかして、脅えてる?」 桐子「……」 弘美「いつもの調子はどうしたの、須磨桐子  サン」 桐子「出ていってよ、警察に連絡するわよ」   弘美、その頬をひっぱたく。 弘美「何をしに来たと思う?」 桐子「知るわけないでしょう!」 弘美、桐子の髪をつかみあげると、ひき   ずるようにして投げ飛ばし、 弘美「アンタみたいな勘違いした女を見てる  と吐き気がするのよ」 桐子「及川さん、どういうつもりなの、これ」 由衣「(動揺していて)……傘。傘返して」 桐子「私じゃないわ」 由衣「うそ」 桐子「アタシじゃない」 と、弘美、その首をスリーパー・ホール   ドで一気に締め上げる。 由衣「(驚いて)ちょっと」 弘美「殺しはしないわ」 苦悶にゆがむ桐子の顔。 由衣、見つめる。 桐子、落ちた。 由衣「死んでるの?」 弘美「大丈夫よ、さ、この女の身ぐるみ剥が  しましょ」 と弘美、桐子の服を脱がしていく。 由衣「……何もそこまで」 弘美「アタシ、ウジウジした女は嫌いよ。ア  ナタはこの女が殺したいほど憎いはずよ」 由衣「……」 弘美「さ、手伝って」 由衣、躊躇していて―。   ×    ×    × 口腔に下着を詰め込まれ、両手両足縛ら   れている桐子の視界……おぼろげに開く。   ……預金通帳を見ている弘美の姿。 桐子、思わず叫ぼうとするが言葉になら   ない、ばかりか体が動かない。  弘美が、見る。 冷酷なサディストの目。 弘美「よっほど節約して溜め込んだんじゃな  い? そのストレスでレジの女王様って?」    桐子、憎々しく見つめながら、ようやく   下着を吐き出す。   ミキを抱いて不安げな顔で座っている由   衣。 桐子「……アンタたち、狂ってるわ」   と弘美、桐子の顔を踏みにじる。 弘美「狂ってる? その基準は何、常識、倫  理、法律?」 踏みつけられた桐子のゆがんだ唇の隙間 から涎がたれ落ちる。   由衣、見ている。 弘美「ほんとうの狂気も知らずに、狂った人  間の判断があなたにわかるの? アタシか  らすればあなたたちの方が狂ってる。毎日  毎日、飽きもせずレジを叩いて、見せかけ  の笑顔とサービスに腐心し、くだらない強  調性を無理強いする。そしてそれが社会の  常識だと信じて疑わないアンタたちの方が  狂ってるわ」 由衣「……」 弘美「―由衣。あなたも、殴ってごらん」 由衣「アタシは」 弘美「殴られたいよね、お前」 と桐子の痩せた尻を蹴飛ばす。 桐子「(涙目で)殺してやる」 弘美「由衣……。道は二つしかないわ。私た  ちは、もうこの社会の規則を破った。この  まま桐子を許してもいいけど、そうしたら  私たちはきっとこの女に訴えられ、逮捕さ  れる」 由衣「……」 弘美「もう一つは、桐子を私たちの奴隷にし  て、二度と歯向かえないように調教する」 桐子「及川さん、私、訴えたりなんかしない」 弘美「あら、あれだけ蔑んでいた人に助けを  こうの? つくづく醜悪な女だね」 桐子、哀願の眼差しで由衣を見る。 弘美「2人だけにしてあげるから、どっちを 選ぶのか決めるのよ、由衣」   弘美、浴室の方に消えていく。 桐子「及川さん、誰にも言わないから……」   由衣、見ている。 桐子「ねぇ、お願い、あなたらしくないわ、  こんなこと」 由衣「……ねぇ、何であなたは私を目の敵に  するの?」 桐子「それは、……思い違いよ、私は」 由衣「……ちゃんと答えなさいよ、バカ女」   桐子、その目が一転、敵意に満ちる。 由衣、立ち上がって、 桐子「(睨つける)」 由衣「答えてよ」 桐子「(睨つける)」 由衣、桐子の頬を軽くはる。 由衣「答えなさいよ」 桐子「生理的に受けつけないのよ! 理由な  んてあるわけないでしょ!」 由衣「―」 由衣、桐子の右目を殴りつける。 桐子、悲鳴を上げて身をよじる。 由衣、再び殴りつける。   由衣、執拗にその目を殴り続ける。 やがて出血、頬に血が垂れてくる。   と弘美が戻ってき、見つめる。 殴り続ける由衣。 弘美「……由衣」 その声に由衣、我にかえって手をとめた。   桐子の右目は無残に腫れ上がり、何処か   らとも知れぬ血に染まっている。 桐子の股間から流れでた小水が、小さな   泉を作る。 傍らにダックスフンド、クンクンとその   臭いを嗅ぐ。 ビデオカメラ回しながら、弘美。 弘美「やめなさい、ミキ。ほら」 ○ ファミレス(夜) 由衣と弘美、飯を食っている。 由衣「……萬田さんって菜食主義?」 弘美「おかしい?」 由衣「スタイルいいから」   弘美、微笑で答える。 弘美「何も食べてないんでしょ、おなか空か  ないの?」 由衣「(笑う)萬田さんは? いつもサラダ  だけなの?」  弘美「そんなこともないけど……ね」 由衣「ねぇ、タバコ持ってる」   弘美、差し出す。 由衣「吸っていい?」 弘美「まだ落ち着かないの?」 由衣「(吸う)」 弘美「吸い方、知ってるのね」 由衣「身近にいるから、ヘビースモーカー」 弘美「誰、彼氏?」 由衣「(問うように見て)……」 弘美「(ささやく)私はレズじゃないわよ」 とニッコリ笑む。 由衣「私だって」 と笑む。 弘美、タバコ、吸う。 弘美「家族?」 由衣「……なんて言ったらいいのか分からな  いけど、一応は家族かな。育ての親」 弘美「ふぅーん、そう」 由衣「(ふと時計見て)もう12時越えてるん  だ」 弘美「……出ようか」 由衣「ううん、違うの。まだぜんぜん」 弘美「フフ、ね。海、行こうか」 由衣「……海?」 弘美「そうよ。……いや?」 由衣「(肯定の笑み)」 ○ タクシー、夜の車道を走り抜ける(夜)   明けつつある空の下、黒い海が見えてく   る。 ○ 海(明け方) 防波堤の上に並んで座った由衣と弘美。 さざ波うつ暗い水面を、ぼんやり見つめ   る由衣。 弘美「大丈夫よ、あの女が恥をしのんで、わ  めき出したとしても、誰も相手にしちゃく  れないわ」 由衣「……どういうこと?」 弘美「とにかく、あなたは何も考えなくてい  いの……ね、こっち向いて」 由衣「……?」 弘美、由衣の頬に手を添え、その肌を愛   撫する。 由衣、弘美を見つめる。   弘美の指、由衣の唇の上をなぞりつつ、 弘美「安心していいの、桐子は死ぬまで私た  ちの奴隷なんだから」 由衣「……」 と、弘美、悪戯な笑み浮かべると指を由 衣の唇の中に。 由衣「!?」 弘美「舐めたいって顔してるから」 由衣「(戸惑い)」 弘美「フフ」 由衣「(おずおずと舐める)」 弘美「ほら、舌使って」 由衣「(舐める)」 弘美「人を殴りつける感触って気持ちいいで  しょ。お肉の弾力とその向こうの微妙な骨  の固さ」 弘美、ゆっくりと指を抜く。まとわりつ いた唾液が糸をひく。 弘美、由衣に自分の唇を近づけていく。   由衣、受け入れる。   弘美の舌が、由衣の口腔にわけいる。 明け方の空。 唇が離れる。 由衣、とろんとした目で弘美を見ている。 弘美「気持ちいい?」   由衣、頷く。 弘美「この世界で意味があるものは、快楽と  苦痛だけ。その、どちらを選ぶかはアナタ  の自由」   由衣、弘美の頬に手のひらを這わす。そ   して弘美の唇の間に指を入れた。 空。 ○ 『ベルツ』更衣室(夜) 恵理子が驚いたという風で、 恵理子「今日で辞める? 何で」 由衣「フフ」 恵理子「何? いい仕事見つけたんですか」 由衣「働く意味を失ったの、それだけ」 恵理子「……萬田さんも辞めるって」 由衣「二人一緒にね」 恵理子「……」 チラッと弘美を見る。 弘美、ポーカーフェイスに着替えている。 と、伏目がちにして桐子が静かに入って   くる。その右目には眼帯をはめている。 (以下のシーン、すべて眼帯着用で)。 ロッカーの鏡越しに視線を合わせる由衣   と弘美、微笑を交わす。 ○ 代官山あたりのショップ   洋服などを選んでいる由衣と弘美。 ○ 眼帯をはめてレジ打つ桐子 ○ エステ   美容マッサージなどを受けている由衣と 弘美。 ○ 新築マンションの抽選会場 50名ほどの客がいる。 営業マンが抽選結果を発表する。 営業マン「11番、36番、64番……」 一喜一憂する客たちの中に暗く沈んだ眼   帯の桐子。    手の中の紙には、36番とある。   桐子、その紙を握りつぶす。 ○ カーショップ   車を見て回る由衣と弘美。 ○ 眼帯をはめてレジ打つ桐子 ○ 宝石店   きらめくダイヤを見つめる由衣と弘美。 ○ 車道〜ファミレス(夜) ママチャリに乗った桐子が走る。 ファミレスが見えてくる。 その窓際の席に談笑する由衣と弘美。   憎悪に燃えたぎった、その左目。 ○ 同・店内(夜) 桐子、ウェイトレスに、 桐子「……コーヒー下さい」 とい面でニンマリとしている由衣、そし   て弘美。 由衣「毎朝、鏡見るのが楽しくてしょうがな  いでしょ」   桐子、その片目がギョロリと睨みつける。 由衣、フフと笑う。 由衣「今月の調教代は?」 桐子、カバンの中から封筒を取り出し、 テーブルの上に置く。   由衣、その袋持ってみて、鋭く桐子を見   る。 桐子、目を伏せ、 桐子「今月は、それで精一杯よ」 由衣「……」 弘美、袋とって覗き、 弘美「何なの、これ? ウチのミキの餌代に  もならないじゃない?」 桐子「ムリよ、これ以上どうしろって言うの ……」 弘美「アタシたちが教えてあげたでしょ。い  くらだって金は作れるってことを」 桐子「どうなってるのか、さっぱりわからな  いわ」 弘美「何が?」 桐子「すべてよ、この国の、あらゆるすべて」 由衣「……?」 桐子「あなたたちのしていることは間違いな  く犯罪行為よ、暴行、恐喝、詐欺、傷害。  なのになぜ、警察はアナタたちを放置して  いるの?」 弘美「……」 由衣「警察に言ったの?」 桐子「……告訴したわ。この目の診断書も添  えてね。警察はあなたたちを聴取すると言  った、だけどあなたたちの行為は収まるど  ころかエスカレートしていくばかり」 由衣「警察なんて、来てないわよ」 弘美「(冷笑して)あなたの価値観が通用し  ない世界もあるのよ。しょせん、アナタは  スーパーの女王様だもの」 桐子「……どうすれば許してくれるの」 由衣「……」 桐子「どうすれば解放してくれるのよ。もう  限界なの、アタシ、もう……」 と泣き出す。 桐子「私が悪かったのよ、私が」 弘美「桐子さん、子供じゃないんだから、泣  いてどうなるものでもないのよ。アナタ、  立派な社会人なんでしょう、だったら自分  で考えなさいよ、どうやってお金を稼ぐの  か。……次からは最低この5倍は入れてち  ょうだいね」   と、弘美、席をたつ。 由衣、いきかけて桐子を見つめる。   そして伝票を手にとると、 由衣「……今夜はいいわ。たまにはお礼もし  なくちゃね……」   弘美、由衣、出ていく。 桐子、テーブルに残されたクリームソー   ダの抜け殻を見つめる。 ○ 走るワンボックスカー車内(夜) 運転する弘美と助手席の由衣。 由衣「……」 弘美「どうかした」 由衣「べつに」 弘美「隠し事?」 由衣「フフ、隠し事」 弘美「知る必要はないけど」 由衣「どうして?」 弘美「だって分かるから」 由衣「フフ、じゃ何だ」 弘美「桐子に同情してる」   由衣、笑い出す。 由衣「同情なんかするわけないでしょ。楽し  くて仕方ない、こんな気分って小学生以来」 弘美「それなら何? アタシが時々出かけて  いく先が男のところだと疑ってるとか?   やめてよ、そういうの、鬱陶しいから」 由衣「違うわ……警察はどうして何もしない  の」 弘美「誰も信じてないのよ。桐子の言うこと  を」 由衣「……でもあの女が黙ってここまで堕ち  るとは思えない」 弘美「あなた、まだ気づいてなかったの?」 由衣「何を?」 弘美「マゾよ、桐子は。正真正銘の。生まれ  ついての奴隷なのよ」 由衣「……隠し事?」 弘美「じゃ、たとえばね」 由衣「……」 弘美「たとえば、世の中には、支配する者と  支配される者しかいない。支配する者は、  この世界のあらゆるすべてを支配する、政  治、警察、経済、法律。そういう人間がこ  の世界には存在してるってそんな話、信じ  る? (と笑う)」 由衣「……」 弘美「信じないでしょ、ありえない話だって」 由衣「……フフ、映画の世界」 弘美「ほっとけばいいの、……あなたが気に  することじゃないわ」 由衣「……」 ○ 近代的な造りの大型マンション(夜) ワンボックスカーが入っていく。 ○ 同・部屋・607号(夜) 10畳ほどのリビングには、高価なソファ   やインテリアが揃っている。 入ってくる弘美と由衣を、ミキが迎えて。 ○ ケーキ屋 商品ケースに並んだケーキ。   由衣、選んでいる。 ○ ターミナル駅周辺 由衣、歩いてくる。 ○ カフェ・マルキィ前   由衣、やってきて中を覗く。 ○ 同・店内 店内の一席に、黒の帽子深く被った女が   一人、静かにコーヒーをすすってる。   マリアだ。   他の客は誰もいない……。   と、ドアの開く音に、マリアの眼球が動   く。   入ってきた由衣、ふとマリアと目が合う。   マリア、笑ったように見える。 弘樹「(由衣に)あ、何処に行ってたんです  か、探してたんですよ。店は辞めたって言  うし、電話も解約されてるし、心配してた  んですから」 由衣「フフ、ごめん、この前、引っ越しした  の。今日はそのご報告に」 弘樹「彌生さん、今、入院してるんですよ」 由衣「え?」 弘樹「おとつい、ヤスエさんたちとマージャ  ンしてる最中に、苦しみだしたらしくて…  …医者もご家族の方、呼んでくれって」 由衣「何処の病院?」 弘樹「□□病院です」   マリア、コーヒーをすすりながら見てい   る。   由衣、店を飛び出しかける。   と、マリア。 マリア「ちょっと」   由衣、立ち止まり振り返る。 マリア「□□病院でしょ。だったら私もこれ  から行くところだから」 由衣「……」 マリア「フフ、お話し聞こえたの」   とマリア、テーブルに一万円を置くと、   弘樹に目線で会釈し、立ち上がる。 マリア「遠慮しないで、車ありますから」   と出ていく。 弘樹「オツリ……」   弘樹、由衣、目を見合わせて、出ていく   マリアを見る。 ○ 同・前 に黒塗のリムジン、入ってきて止まる。 由衣「あの……」 マリア、リムジンのドア開けて、 マリア「さぁ、早く、乗って」 由衣「……」 マリア「遠慮なさらずに、さぁ」 マリアの視線。 ○ 走るリムジンの車・中 向き合って座った由衣とマリア。 由衣「ありがとうございます。ほんとに……」 マリア「フフ、気にしなくっていいのよ。偶  然もまた必然って言うからね、これも神様  のおぼし召し」 由衣「……」 マリア「お母さま?」 由衣「……叔母なんですけど、育ててもらっ  たのは」 マリア「あなたのご両親は?」 由衣「……小さいころに」 マリア「そうですか。じゃあ、ご苦労なさっ  て」 由衣「……」 マリア「それじゃあ、心配よね。そうですか。  あのお店を切り盛りしてあなたをこんな美  しいお嬢さまに育てあげたんだ」   マリア、由衣を見据えているよう。   由衣も多少居心地悪く、照れたように笑   う。 マリア「お年は、お母さま、いえ叔母様の」 由衣「来月で、還暦です」 マリア「あら、何座?」 由衣「……射手座、です」 マリア「何日?」 由衣「7日ですけど」 マリア「あら驚いた! こんな偶然って。生  年月日が完全に一致した人と出会うことっ  て、これで3人目。フフ。何か運命を感じ  るわね」 由衣「昭和20年生まれ?」 マリア「そう。天皇が終戦を宣言し、合衆国  に隷属した記念すべき年よ」 由衣「……」 マリア「フフ、ごめんなさい。今時の人にリ  アリティはないわね」 由衣「いえ」 マリア「私も戦争の記憶なんてないけど、意  識下には戦後数年のこの国の空気が焼きつ  いてるの。生きるためにあらゆる欲望は肯  定され、それを否定する者は、欲望の餌食  にされるしかなかった。支配するものは、  お金と力、それを手に入れた者、生まれな  がらか奪い取ったか、とにかく素晴らしく  単純明快な人間社会の力学を実践した人間  たち」 由衣「……」 マリア「そんな混乱の最中に私たちは生まれ、  幸いにも今日まで生き抜いてきたというわ  け。フフ、これね、歴代総理も懇意にして  たって言う占い師の先生に聞いたんだけど  ね、私の生まれ年月日って素晴らしく幸運  に恵まれる星の配置にあるんですって。フ  フフ、そしてその占い師は言うのね、あな  たは生まれついて富と権力を手に入れるべ  き運命を与えられている、って」 由衣「……」 マリア「あなたの叔母様も、幸運に恵まれて  るはずよ。だから心配することはないわ」  由衣「……」 ○ レントゲン写真 肺―にガンと思しき影。 そしてそのガンは各場所に転移している、   その部位の写真―。 ○ □□病院・病室 ベッドに中腰でいる彌生、その表情は、  いつもと変わらぬ健康体に見える。 その隣に暗い顔の由衣。 由衣「……先生から聞いた?」 彌生「自分の体のことぐらい自分でわかるさ」 由衣「じゃあ、何でずーっと黙ってたの」 彌生「黙ってたわけじゃないよ。言う相手が  いなかっただけさ。そのうち痛みにも慣れ  ちまってね」 由衣「……」 彌生「それより、アンタ、仕事も辞めて、家  にも帰らず、何してたんだい?」 由衣「……」 彌生「オトコでも出来たのかい?」 由衣「そんなことより」 彌生「話をごまかすんじゃないよ。知ってる  んだよ、アンタ、変な女とつるんでるそう  じゃないか」 由衣「……友達よ、それぐらいアタシにだっ  て」 彌生「ヤスエさんに聞いたんだよ、ずいぶん  奇麗な女だって言うじゃないか」  由衣「……」 彌生「(ため息ついて)ったく、困ったねぇ、  アンタには」 由衣「……女だから男を好きにならなくちゃ  いけないなんて、くだらないわ」 と、隣のベッドに寝る老婆が視線を向け  る。 彌生「ちょっとお止めよ、こんなところで」 由衣「……ごめん」 彌生「もういいよ、とっととお帰りよ。アタ  シの世話はみんなに見てもらうからさ」 由衣「おばさんの面倒は私が見る。ちゃんと  手術代だって払えるし、もっと広い個室に  も入れてあげる。専門の付添い婦さんだっ  て」 彌生「馬鹿お言いよ。仕事もやめてフラフラ  してるアンタの何処に金があるのさ」 由衣「お金はあるわ、昔とは違うんだから」 彌生「ウソお言い。こんな命にかけるお金が  あるんならね、自分のためになることにお  使いよ。いろいろあるだろう、英会話習っ  たり、資格とったり、お見合いパーティー  に参加してみたり」 由衣「そんなこと必要ない」 彌生「ダメだよ、アンタ、医者の口車に乗っ  て、やれ薬だ手術だなんだっての。それが  アイツらの手なんだから」   由衣、寝返りうって背を向けた彌生を見  つめて―。 ○ マンション・607号・室内   日は暮れて、室内は薄暗い。 ミキ、ドックフードをガツガツと食らう。 赤いコート着た弘美、楽しげに見つめている。   と、携帯がなる。 着信表示に、ユイ。 弘美「(出る)もしもし、今出るところだけ  ど」   以下、カットバック。 ○ 公衆便所 鏡と向き合って電話している由衣。 由衣「罰があたったのかも知れない」 弘美「何を言ってるの?」 由衣「アタシのおばさん、入院したの」 弘美「?」 由衣「病院行ったら、いきなりガンだって」 弘美「……」 由衣「手のほどこしようがないって」 弘美「……今、何処にいるの?」 由衣「病院のトイレ」 弘美「予定通りに、ホテルで落ち合いましょ  う」  由衣「……今日はやめよう」 弘美「どうして?」 由衣「……」 弘美「私が悪者?」 由衣「違うわ、そんなんじゃないけど」 弘美「桐子が寂しがるわよ」 由衣「……」   と、部屋の電話がなる。   弘美、ふと見る。 弘美「……ホテル行くわ。じゃ」   と留守電が作動する。   弘美、由衣との電話を切る。 留守電から聞こえるのは秘書の声―。 秘書「社長からの伝言をお伝えします」 弘美、受話器をとり、 弘美「何?」 秘書「社長からの伝言があります。あなたが  飼育している犬2匹について」 弘美「……」 秘書「一匹についてのあなたの行動は、我が  社に対する嫌がらせ行為と受け止めており  ます。すでに我々はあなたの行為によって  いくらかの金銭を損失しました」 弘美「損失した金ってのは勝手に使った金で  しょ。私は、いつ訴えられて、捕まっても  かまわないわ」 秘書「言っておきますが、あなたのお考えは  改められた方がよろしいかと思います。仮  にあなたが死刑に値する罪をつくることで  私たちの拘束から逃れようとしているなら  それは大きな間違いです。今回の件は、も  う一匹の犬の生育過程も絡んでいますので  社長も傍観していますが、通常ならこのよ  うな行為は厳罰です」 弘美「仕事はちゃんとしてるし、連絡もして  るわ、それでいいんでしょ」 秘書「伝言に戻ります。須磨桐子に対するこ  れ以上の関与は禁止します、ただちに桐子  を解放して下さい」 弘美「……わかったわ。それだけね」 秘書「それともう一つ、もう一匹の犬につい  て社長は、たいへん興味を持たれておりま  す。しかるべき調教を終えたのち、私ども  が管理することになるかと思いますが」  弘美「―あの子はアンタたちに何の関係もな  いでしょう」 秘書「伝言は以上です。それと住居変更の届  けが今回もなされませんでしたので、後日  ペナルティをお支払いいただきます。それ  では」 弘美「ちょっと待って、あの子は……」 電話は切れている。 呆然とする弘美に、ミキが吠える。 ○ 高級ホテルのラウンジ 悄然としている由衣。 見つめる弘美。 弘美「フフ、そうしてると何か昔の由衣に戻  ったみたいよ」 由衣、睨むように見る。 弘美「ごめん……アタシ、よくわからないか  ら、何て言うの、そういう悩みって」 由衣「……?」 弘美「どっちかっていうとアナタの叔母さん  と同じみたいだから、考え方」 由衣「考え方って?」 弘美「死についての」 由衣「……」 弘美「自己満足に過ぎないと思うわ、治るは  ずのない病気を治療し、延命させたとして  も。あなたのおばさんも、それを分かって  る」 由衣「あなたが、私にそう教えたのよ」 弘美「?」 由衣「自分の行為が、回りの状況を変化させ  るって。世界は変わるって」 弘美「フフ……でも死ばかりはね」 由衣「……わからないわ、そんなこと」  弘美「……そうね、わからないけど」   二人、沈黙する。 由衣「……桐子、遅いね」 弘美「……桐子は来ないわ」 由衣「?」 弘美「さっき電話、なったでしょ。桐子だっ  たけど、フフ、何言ってるのかわからなか  った。ちょっとしばらくはムリね」 由衣「ムリって……」 弘美「壊れたら、終わりだから」 由衣「……」 ○ 病院・病室 寝ている彌生の隣に由衣。 ○ 同・診療室 入ってくる由衣。 医師(32)。 医師「あ、どうぞおかけ下さい」 由衣、座る。 医師「これ、新しい検査結果なんですけどね  思いのほか、進行が早くて……」 由衣。 医師「(苦笑して)正直、困ってるんですよ。  もう諦めてられるのか、僕を信用してない  んだか、説明すら聞いてくれない」    由衣、苦笑。 医師「実際、厳しいんですよね。ウチで出来  ることも限られてるし」 由衣。 医師「いくつか紹介状、書いたんで、回られ  てみますか? 何処も専門の病院で、それ  なりに高くはなりますが……いかがです」 由衣「……」 ○ 走るバス   由衣、暗い顔で座っている。 車窓から見える舗道、歩く人々。   由衣、ぼんやりとしている。 ○ 『ベルツ』店内 恵理子のレジに由衣がやってきて、 由衣「主任は?」 恵理子「ここ最近、来てないんですよ。及川  さん辞めたあと、あの人なんだか別人みた  いになっちゃって」 由衣「……そう」 恵理子「ここだけの話、ちょっと頭の方の病  気みたいで、店長から出社、止められてる  みたいですよ」 ○ 路上 を歩いていく由衣。 ○ フィットネスクラブのプールの中 激しく乱れる水の波形。   クロール。   息つぐ弘美。   プールサイドに上がり、タオルで体を拭 いていると、携帯電話がなる。 弘美「(出る)はい」 秘書「今夜9時、パシフィック・ホテルのス  イートルームで奥田会長のお相手をお願い  します。それとご自宅の方に、お届けもの  があります。どうぞご確認ください」 弘美「―」 ○ 緩やかな勾配を描く車道は、がらんとし  ている   トコトコと歩いていくダックスフンド。 車道に出てきた由衣、認めて。 由衣「……ミキ?」 と、ミキ、立ち止まるとゆっくり振り返   った。   眼球をえぐられたその両目。   由衣、はっきりとは判別できないが、確   かにある違和感を感じて……。   歩いていくミキ、その姿が見えなくなる。 と、クラクション。 由衣「……」   ミキ、吠える。 ○ マンション・607号の室内 ドアを開けて入ってくる弘美。 リビング。 弘美、? となって室内を見回す。 弘美「ミキ(と呼ぶ)」 と、テーブルの上に日付しか書かれてい   ない領収書がダイヤの散りばめられた小   さな四角い箱によって押さえられている。 弘美「……?」 箱を開け、見つめる。 どす黒い血にまみれた眼球が2つ。 弘美、! として、それを見つめる。 と、駆け込んでくる由衣。  由衣、異変を即座に感じ取り……。     ×    ×    × 座り込んだ由衣と弘美。 由衣「……誰がこんなこと」 弘美「……」 由衣「ね、警察に」 弘美「無駄よ」 由衣「……」 弘美「桐子じゃないけど、誰も相手にしてく  れないわ」 由衣「……何が起こってるの?」 弘美「(諦観するように)由衣には、関係の  ないことよ」   弘美、立ち上がり、キッチンに行くと、 水飲む。 ダイヤのきらめく箱。 弘美、睨むように宙を見つめて。 低空飛行の飛行機の音。 由衣「……ごめん」 弘美「どうして、あなたが謝るの?」 由衣「……」   弘美、ジッと由衣を見つめる。 由衣、視線を伏せていて。 弘美、わずかに微笑んだよう。それは、 ある悟りと悲しみを含んでいる。 弘美「……私の選択ミスだったわね」 由衣、弘美を見る。 弘美「あなたを奴隷にしてればよかったんだ  わ」 由衣「どういう意味?」 弘美「すべての学問は限度を知るためにある  って、誰か言ってたけど、私たちはその限  度が見つけられなかった、それだけのこと」  由衣「……わからないわ、言ってること」 弘美「人を支配したつもりでいても、永遠に  支配され続ける奴隷でしかないってこと」 由衣「……」 弘美「日常の生活に手も足も縛られて身動き  できずにいるあなた見てたら、自分を見て  るような気がしたのよ」 由衣、見つめる。 弘美「あなたが、そこから解放されることで、  私も解放されるような気がしたの。……で  も、そんなことはないのよね」 由衣「……弘美?」 弘美「……もう別れた方がいいわ。私たち」 由衣「どうして?」 弘美「住む世界が違うのよ」 由衣「―」 弘美「あなたには心配する家族がいるけど、  私は一人で生きてきた。だから根本の価値  観がまるで違う」   由衣、何か言おうとするが、言葉が見つ   からず―。 弘美「今なら、まだどうにかなると思う。こ  れ以上、私のいる世界に巻き込めないわ」 由衣「もう、巻き込まれてる、私を導いたの  は誰? 私、弘美がいなかったら」 弘美「……」 由衣「私はあなたがいなければ何も出来ない  女に調教されたのよ」 と弘美、由衣を殴りつけた。 由衣、倒れる。 そこに弘美の蹴り。 由衣、呻く。 弘美、もう一蹴り。 由衣、痛みに呻きながら、弘美を見る。 弘美「私もあなたもみんな奴隷なのよ、何処  にも逃げ場所はないわ」   由衣、目に涙ため、弘美を見ている。 弘美「同じ奴隷でも、私は桐子より、由衣、  あなたが好き。それだけは本当」 由衣「……」 ○ 街の鳥瞰図 ○ 『ベルツ』店内 閑散とした店内。 レジに並んだ女たち、両隣で談笑。 恵理子、あくびする。 ○ マンション・607号 室内は、もぬけのから。 ○ □□病院 木陰に一人の少女(4)、ジッと地面を 見つめている。 列なして巣に向かう蟻、蟻、蟻。 少女、ニッコリとし、踏む。 次々に、踏む。 男の声「由衣、明治屋にでも寄って帰ろう」 少女、その声に一切の反応を見せず。 ○ 長く続いた病院の廊下   医師と由衣、歩いていく。 医師「満床っていわれましたか?」 由衣「……」 医師「……そうですか」 由衣「あの、お金ならなんとかしますから」 医師「命ばかりは、まだお金で解決できる問    題じゃないんですよね。そのうち。そうい  う時代が来るとは思いますがね」 由衣「……」 医師「(立ち止まって)及川さん」 由衣「はい」 医師「一週間ばかり退院してみますか」 由衣「……?」 医師「ご一緒にお過しになられてはいかがで  すか?」 由衣「―」 ○ 彌生の家(深夜) ○ ビデオの映像 桐子の部屋。 縛られた桐子が、弘美の履いた黒皮のハ   イヒールをぺちゃぺちゃと舐めている。 由衣の声「お前、ほんとうに須磨桐子なの?」 弘美、桐子の顔面を蹴りつける。 弘美「これがほんとうのアナタなのよね」   桐子、眼帯から血をにじませながら。 由衣の声「ご飯の時間ね。今日はとびきりの  ご飯よ」 と差し出されるのはドッグフード。 桐子、うつろな片目で『餌』を見つめる。 由衣の声「さぁ、お食べ」 桐子。由衣をにらむ。 と、カメラが、桐子の頭を殴りつける。 由衣の声「食べるんだよ、このドブスが」 と髪をつかみあげ、皿に押えつける。 桐子、観念して食べ始める。 カメラは弘美に向く。 弘美、満足そうに微笑んでいる。 弘美「下剤入りだから、おいしいだろう」   桐子がドッグフードを吐き出す音。 カメラ、桐子に向く。 由衣の笑い声。   今度は弘美が、桐子の髪の毛をつかんで 弘美「残さず食べて、クソまみれになるんだ   ね」 と、皿に桐子の顔を押しつける。 弘美の嬉々とした表情。 ○ 彌生の家・居間(深夜) 由衣、ぼんやりとそのビデオを見つめて   いる。 弘美のサディスティックな冷笑。 見つめる由衣。 由衣、その顔でストップポタン押した。 ○ 彌生の家・居間(日替り) 由衣と彌生、向き合ってお茶を飲んでい   る。 テレビでドラマ……女子高の昼休み。 彌生「(凝視して)あぁ?」 由衣「?」 彌生「今、見切れたの、白河さんとこのバカ  娘だろ」 由衣「……」 彌生「ほら。あの子だよ。アンタよく泣かさ  れた」   由衣、凝視する。 彌生「あっちにいったら教えてやろう。白河  さん、きっと喜ぶよ。小さい時から劇団に  いれたりしてたんだから」 由衣「アイツ、劇団になんか入ってたの」 彌生「知らなかったのかい? 有名じゃない  か、あそこの兄貴も、ジャニーズ入って踊  ってたんだから」 由衣「フフ、それは知ってるけど」 彌生「アンタも劇団にでも入れときゃよかっ  たね。こんな程度でテレビ出れるなら、今  頃アンタ―(と由衣見て)でもないか」   由衣、フフと笑う。 ○ スイート・ルーム(夜)   シルクのシーツの中で、ふとっちょの東   洋人が、あらゆる欲望を使い果たした陶   酔の眠りについている。その腕には黄金   に輝くダイヤの時計。   そのベッドサイドで服を着ている弘美。   備え付けの大型液晶テレビでは、衆議員   解散のニュースを伝える英字放送。    ○ テレビ映像   内閣総理大臣のインタビュー。 総理「今こそ、構造改革が必要なんです。そ  のシンボルこそ郵政の民営化なんです。民  間にできることは民間に。我が党を支持し  ていただき、私が再び総理になったならば、  必ずや、既得権益に塗れた政治をぶっ壊し」 ○ スイート・ルーム(夜)   至福の眠りにつく東洋人。が、その目は   見開かれ、固まっている。   シーツから投げ出された腕に時計はなく、   だらりと垂れ下がったその腕にどす黒い   血が伝い落ちてくる。 ○ 墓地 何処までも広がる大きな墓地。 由衣に腕をささえられた彌生、及川家の   墓石の前に来る。 祈りをあげる二人。 に、玉を弾くパチンコ台の盤面がオーバ   ーラップする。 ○ パチンコ屋   無数の玉が賞球も得られず、無常に吸い   込まれていく。 無表情に打ち続ける彌生。 その隣で打つ由衣も、また。 彌生「ったく、ロクでもないね。何のための  墓参りさ」  とスコーンと玉がヘソに入賞する。 由衣「あ、ほら、回ったよ」 彌生「どうせダメだよ」 由衣「ぜったい来るって」 リーチはやがてスーパーリーチに発展す   る。 由衣「ほら、いったじゃない」 彌生「……あらヤダ」 パチンコ台の著しく射幸心を煽る、憎た   らしいばかりの演出―が外れ。 二人、絶句する。がどちらからとなく、   笑い出し―。 ○ マリアのオフィスに続く赤い絨毯のひき  つめられた廊下 を、弘美が歩いていく。 ○ 同・オフィス メイド服を着たアンドロイドのような白   人女が、弘美を迎え入れる。 入ってきた弘美、奥から出てくるマリア を見据える。 マリア「フフフ、やってくれたわね」 弘美「……二人だけでお話しを」 マリア「(メイドに)お下がり」   メイド、部屋を出ていく。 椅子に腰かけたマリア、悠然とタバコに   火をつけ、弘美を見つめる。 マリア「私が慌てふためいてるとでも思った  のかい」 弘美、ダイヤのきらめく箱取り出して、 弘美「お忘れものをお届けに」   マリア、フフと笑うと立ち上がり、弘美   の前に行く。 マリア「あら、これはアナタたちへのプレゼ  ントよ」 弘美「―」 と、弘美、コートの中からジャクナイフ   を取り出し、マリアの首筋に突きつけた。  マリア「フフフ、あの子にどんな調教を受け   たのかしら」   ―閃光のごとく、弘美、マリアの首を   切り裂く。   いや、マリア、驚くべき俊敏さで、その   刃を逃れると、逆に弘美のナイフ握る手   をつかみ上げた。 弘美「―!」 マリア「お前の美貌も今日限りだよ。そこの   鏡を見て、網膜に焼き付けておくんだね」   マリア、弘美の腕をねじあげていき、そ   して一気にへし折る。   弘美、悲鳴をあげて、床にくず折れる。   マリア、スカートの裾たぐり上げ、弘美   に馬乗りになると、弘美の顔をサンドバ   ッグのように殴りつける。   息も切らさず、喜々としたマリア。   入ってくるメイド、マリアの姿を陶然と   見つめる。 ○ 彌生の家・台所(夜) 夕飯のかたづけをする由衣。 を椅子に座った彌生が見ている。 由衣、洗い物を終え、ふと振り向く。 彌生が見ている。 由衣、? と笑って見せる。 彌生「フフ、何か実感がないね」 由衣「実感?」 彌生「明日、誕生日だろ、毎年、べつに気に  することもなかったけど、今年ばかりは、  てんで実感がない」 由衣「還暦なのに?」 彌生「あぁ、そうか。60になるんだね。あん  た、まさかちゃんちゃんこなんて買ってな  いだろうね、やめとくれよ」 由衣「(苦笑して)言うと思った。明日、お  祝いに外でご飯食べようか」 彌生「無駄な金使うこたぁないよ。ウチでい  いさ、ウチで」 由衣「じゃ、おスシでもとる?」 彌生「ったく、つくづく庶民だね、アンタは」   由衣、笑う。 と、玄関で物音がする。 二人、? となって、 由衣「聞こえた?」 彌生「風だろ」 由衣「……」 と、玄関を覗いて見る。   が何事も異変はない。 彌生「そういえばアンタ、噂の彼とはどうな  ってるんだい」 由衣「……彼?」 彌生「会ってないのかい?」 由衣「フフ、別れたの、気にしないで」 彌生「……」 由衣「……」 彌生「弘樹、どうだい。あの子はアンタに気  があるよ」 由衣「……そうね。考えてみようかな」 彌生「フフ、ここ最近、やけに素直じゃない  か、気味が悪いね」 由衣「親孝行みたいなもの」 彌生、フンと鼻で笑う。 ○ ビデオの映像 コマ送りで進む弘美の冷笑に、見つめる   由衣がダブる。 ○ ホテル街(夜) 遠くで選挙カーの演説が聞こえる。   黒いコートの襟を立てた桐子が、路上に   佇む。   坂の上からゆっくりと降りてくるリムジ   ン……。   その窓が開く。   マリア、桐子を見つめる。 ○ カフェ・マルキィ店内 水槽に浮かぶ腐敗しかけのランブルフィ   ッシュ。   誰もいない店。 ○ ケーキ屋 由衣、店員にケーキを注文する。 ケーキを買い終えて、店を出る由衣。 ○ 彌生の家・前 にやってくる由衣。 と門が開いている。 由衣、? となり、玄関へ進み、鍵を開   け、ドアを開けようとするが開かない。 由衣、再び鍵を差し込む。 ドアが開いた……。 と由衣、愕然とする。 ○ 血まみれの床を由衣の足がピチャピチャ    と歩いていく ……由衣、居間を覗いた。 常軌を逸した大量の血だまりの中に、彌   生が倒れている。   ―由衣、絶叫する。 由衣、血だまりを這うようにして彌生に   近寄り、その顔を見る。 えぐられた両目。 絶句する由衣。   由衣、血だまりを駆けて、電話機にとり   すがる。 と、その上のカレンダーに貼られた一枚   の写真とメモ書きされた紙片。   『警察に連絡する? 自殺扱いにされな   いといいけど』 由衣「―」 写真、そこには血まみれで両手を縛られ   吊された裸の弘美が写っている。見覚え   のある背景……桐子の部屋。   由衣「……」 死んだように座り込み、彌生を見つめる   由衣。   血だまりの中の彌生。その姿がしだいに   量を増す血の中に飲み込まれていく。 ―血の海は、由衣の腰のあたりまで浸   水し、さらに増水していく。 由衣、無抵抗に沈んでいく彌生を見つめ   て……。 ○ 走るバス・車内 の窓からの風景。無人の舗道。   選挙カーのウグイス嬢の声。 声 「明日の投票日には、改革の旗手・国民  党候補・梶祐一郎、梶祐一郎に、一票をお  入れ下さい、改革の旗手、梶祐一郎、梶祐  一郎に……」 ○ 『ベルツ』外景 ○ 同・店内   売場から包丁を一本取り、カゴに入れる   由衣。 レジには恵理子が一人だけ。   由衣、包丁1つ入ったカゴをレジに置く。 恵理子「……及川さん、なんか顔つき変わり  ましたね」 由衣「……主任は?」 恵理子「辞めましたよ。及川さん、こないだ  お店来たでしょ。あの日限りで」 由衣「……そう」 恵理子「また戻ってくればいいじゃないです  か。一緒にまた働きましょう、何か及川さ  んいなくなってから、つまんなくて」   由衣、金銭と商品の受け渡しを終えると、   愛想もなく、その場を立ち去る。   恵理子、怪訝に見送る。 ○ 桐子の住むマンション・外景   チラチラと雪が舞い降り始める。 ○ 桐子の部屋・前 由衣が、ドンドンとドアを叩き続ける。 何の反応もないが、由衣は延々とドアを   叩き続ける。 と、階段をのぼってきた主婦が、不審に   由衣を見、立ち止まる。 由衣、チラと見るが、再び、ドアを叩き   出す。 主婦、恐怖さえ覚えつつ歩いてくる。   ―彼女の部屋は桐子の隣室。 主婦、由衣の隣にたち、慌てたように鍵   を開け、中に滑り込むように消える。 由衣、ドアを叩き続ける。 と主婦がチェーンをかけたドアを開け、   その隙間から顔を出し、 主婦「お隣りの人なら、いませんよ。さっき  商店街でお見かけしたから」 というやいなや、ドアを閉めた。 由衣、ドアを叩くのをやめ、ふと雪に気   づく。 ○ 商店街(夕方) ―だが、そこににぎわった人波はない。 明かりはついているが、何処にも人はい   ない。 桐子を捜すように歩いてくる由衣。   と、八百屋の軒先に桐子。   見つめる由衣。   桐子、誰もいない店舗の中に向かい、何   やら文句を言っているよう。   由衣、立ち止まり、包丁をとりだした。 狂人のように、ブツブツと文句を言い続   ける桐子。 と、声。 「須磨桐子」 桐子、振り返る。 包丁を持った由衣。 桐子、ニッコリと笑む。 由衣、桐子の腹に包丁をつき刺した。 桐子、! となり、由衣にすがるように   体をあずける。 由衣、その体を振り払う。 路上に仰向けで倒れ込む桐子。 由衣、馬乗りになって桐子をメッタざし   にする。―その姿は弘美を殴り続けた   マリアにも似て。   桐子、すでに絶命している。   由衣、刺し続ける。 無数の雪が桐子の顔に舞い落ちる。 由衣、包丁を投げ捨てる、と今度は桐子   の衣服のポケットやカバンを探り出す。 そして、ポケットからミッキーマウスの   キーホルダーのついた鍵を見つけた。 由衣、その鍵を宙にかざしてフフと笑う。 ○ 無人の路上(夕方) 雪が舞い落ちている。 返り血を浴びている由衣、急ぎ足にやっ   てくる。   遠く衆院選立候補者の駅前演説。 声 「今回の選挙は、郵政民営化に賛成か反  対か、それを皆様国民に問う選挙なんです。  明日の投票日には、ぜひ皆様のお答えを我  々国民党に届けてください。みなさんは改  革に賛成ですか? 郵政民営化に反対しま  すか?」   大観衆の異様なまでの拍手が聞こえる。    ―由衣、歩いていく。 ○ 由衣、鍵を開けて部屋に入る 由衣、奥へと進み、そして見つける。 両手を鎖につながれた血まみれの弘美を。 弘美の美貌は見る影もなく、無残な暴行   の傷痕と腫れ上がったいくつもの箇所で、   まるで化け物のようですらある。   弘美、うっすらと目を開け、由衣を見る。 由衣、微笑む。 弘美「……どうして、ここに」 由衣「迎えに来たの。行きましょう」 弘美「……由衣」   由衣、必死になってその手錠をはずそう   と試みる。が、開くわけもない。 弘美「……ダメ……ここにいたら」   由衣、まだ手錠をガチャガチャといじっ   ている。 弘美「……早く……逃げて」 由衣「フフ、だめだこれ」 と座り込む。 弘美「……由衣」 由衣「……もう、しゃべらなくていいの、私  がここにいるから」 弘美「……」 由衣「気持ちよければそれでいいの、だって  私は快楽を選んだんだもの」 と由衣、弘美にキスする。   舌を滑り込ませる。 長く一方的なディープキス。   離れる唇。   由衣の吐息。 由衣「フフ、私が悪いんじゃないわ。アナタ  が悪いのよ」 弘美「……」 由衣「アナタにも仕返ししなくちゃね」   弘美、由衣を見つめる。   由衣の頬を涙が垂れ落ちる。   由衣、キッチンへ歩いていく。   流しの洗いモノ入れに、包丁。 ○ リムジンのフロントグラスに吹き付ける  雪をワイパーが取り除いていく(夜)   マリア、妖しげな笑みを湛えて、座って   いる。 ○ リムジンが止まったのは、桐子のマンシ  ョンの前(夜)   秘書、傘をさして、マリアを下ろす。   マリア、マンションを見上げる。 由衣のN「殺すのだ。ほんとうの自分を殺す  のだ」 ○ 同・桐子の部屋(夜) 由衣のN「けして人を殺そうなどと、考えて  はいけない。自分を殺して生きるのだ」     床に、鮮血のしたたる包丁。   血だまりの中で由衣と弘美、重なり合っ   て死んでいる。 ○ 同・階段〜桐子の部屋の前(夜)   コツコツと階段を上っていき、やがて桐   子の部屋の前にたどり着くマリアと秘書。   マリア、終始、笑みを崩さない。   ドアを開け、部屋に入る二人。 ○ 空   ひたすらに雪が降り続く。 由衣のN「けして人を殺そうなどと、考えて  はいけない。自分を殺して生きるのだ。そ  うしていれば月日は過ぎ去り、私たちは盲  目に、日常生活の支配を受け続けることが  できるのだから」 ○ マリア、苦々しい顔で二人の屍を見つめ、  怒りに任せて、秘書を打つ―。 ○ クレジット・ロール                  了