「アメン棒」   車取ウキヨ 《登場人物》    花岡珠子(6・18)    花岡健一(32・44)    花岡トキ(33・45)    花岡太一(11)    花岡紀子(7)    月島俊郎(25)    月島真佐子(48)    亀田藤吉(37)    亀田ふさ(56)    ミツ子(31・43)    桃若(20)    柴崎(56・70)    清次(24)    良枝(18)    大谷    田村軍曹    岡田二等兵    隣組長    MPたち 《シナリオ》 ○ 花岡理髪店・外観(夜)    真新しいアメン棒(サインポール)が    回り、ガラスの扉に『花岡理髪店』の    文字が鮮やかに直書きされている。 T 1931年(昭和六年)・和歌山県田辺市    ガラス越しに、花岡健一(32)が、    和服姿の客・柴崎(56)の髪を調整    しているのが見える。     ○ 同・店内    ラジオから流行歌が流れている。    健一、ハサミを手鏡に持ち換え、正面    の鏡に、柴崎の後頭部を映し込む。 健一「こいでどうな?」 柴崎「おおきによ。(満足げに)ええ腕や」    健一、ケープについた髪をハケで払う。    柴崎、たった今思い付いたフリをして、 柴崎「ああ、そうそう。残金の件やけどよ」    健一の顔が強ばる。 柴崎「死んだおやっさんへの義理があるから、  安うでここ手放したんや。月々ちゃあんと  払うもん払うてよ」 健一「悪いのう……。思うてたより、道具揃  えるのに金かかってよぉ。わしも辛いんや  けどよ……」 柴崎「なんな、うちの払いは後回しか。まあ  ええわ、月末にはちゃんとしてくれよ」 健一「はい……」    柴崎、帽子をかぶり、ステッキを手に    取ると、 柴崎「ほな、頼んだで」    扉を押して出て行く。    健一「おおきにー」    舌打ちし、床を掃除し始める健一。    住居に続く引き戸から、珠子(6)が    顔を出す。 珠子「おとやん、仕事終わった?」    健一、相好を崩し、 健一「なんな珠子、晩飯待っててくれたんか」 珠子「うん、おとやんと一緒に食べる」    健一、珠子の頭を見て、 健一「おまはん、だいぶ髪の毛伸びたの。ど  ら、顔も剃ったろか?」 珠子「(喜んで)ほんまっ?」    健一、珠子を抱き上げ、椅子に座らせ    る。石鹸水を泡立てながら、 健一「珠子はほんまに散髪好きやの」 珠子「うんっ。おとやんに散髪してもらうん、  大好きや。すっごい気持ちええねんもん」 健一「あたりまえや。おとやんの腕は田辺一  やで」 珠子「うち、大きなったら、おとやんと一緒  に散髪屋すんねん」    健一の手が一瞬止まる。が、すぐに平    静を装って、珠子の顔にシャボンを塗    り始める。    鏡の中の珠子、くすぐったそうに笑っ    ている。 ○ 同・表    アメン棒の脚を持ち上げ、店に入れよ    うとしている健一。    こざっぱりとした頭の珠子、コンセン    トを抜き、アメン棒にしがみつく。 健一「こら、危ないやろ」 珠子「いやや、うちもアメン棒、片付けるぅ」 健一「お……重、い……」    へっぴり腰の健一。 ○ 同・茶の間    健一が、珠子の頭を撫でながら入って    くる。    食卓に、鍋と梅干しが用意されている。    臨月を迎え、パンパンの腹をしたトキ    (33)が、台所から出て来る。 トキ「お疲れさん。……大家さん、何か言い  やったか?」 健一「ああ、そのために来たようなもんや。  散髪代も払わんと」 トキ「またか」 健一「金返せんうちは、しゃあないわい」    健一、立ったまま鍋の蓋を取る。    汁の多い冷えた茶粥に、健一の顔が映    り込んでいる。 トキ「お粥さん、すぐ温めるわな」    健一、鍋の蓋を戻し、 健一「いや、ええわ。わい、今から白浜まで  行ってくるから」 トキ「(眉をひそめ)ミツ子のとこか?」 健一「ああ。話つけるんだけでも、早い方が  ええやろ」    トキ、膨らんだ腹をさすりながら、 トキ「ほんまに、そうするしかないんやろか  ?」    哀れに珠子を見やる。 健一「それしかないやろ。次の子ぉも生まれ  ることやし。女の子がおっても、跡取りに  はならんしのう」    珠子、不安げに両親を見比べる。 ○ 山道(夕方)    珠子を荷台に乗せ、夕陽を浴びながら    自転車を走らせる健一。    珠子、健一の背にしがみついている。 珠子「おとやんっ、うち、おばやんとこの子  になるんか?」 健一「嫌か?」 珠子「………」 健一「おばやんとこの子になったら、毎日、  ええもん食べれるで」 珠子「(大声で)うち、お粥さんでええ!」    よろめく健一。体勢を立て直し、 健一「珠子はおばやんに似てべっぴんさんや  から、きっと可愛がってもらえるわ」    珠子、ぎゅっとシャツを掴み、 珠子「おとやんは、うちのこと可愛いないん  ?」 健一「なにゆうてんねや。可愛いに決まって  るやろ」 珠子「ほならなんでよそにやるん? うち、  おとやんと離れるん、嫌やでっ」    珠子、グズグズと泣き出す。 健一「泣くな、珠子。おばやんとこ行っても、  おとやん毎日会いに行ったるから」 珠子「ほんま?」 健一「ああ、ほんまや」 珠子「ほんまにほんま?」 健一「ほんまにほんまや」 珠子「嘘ついたら針千本、飲ますで」 健一「おー恐っ。珠子はほんまにやりそやの」    夕闇が迫り、眼下に白浜温泉街のネオ    ンが、滲んだように見えてくる。 ○ 白浜・ミツ子の置き屋(夜)    玄関からすぐ居間に繋がる小さな家。    鴨居の上に、芸者の名前を書いた提灯    が並んでいる。    両親の位牌に手を合わせている、粋な    着物姿のミツ子(31)。    玄関の引き戸が開き、慣れた様子で健    一が入って来る。 健一「ミッちゃん、おるかぁ?」    ミツ子、笑顔で健一の所へ。健一の背    に隠れるように、顔だけ出している珠    子を見つけ、膝をつく。 ミツ子「あら、珠ちゃん久しぶり。言うても  覚えてへんやろね。あんたまだ三つやった  から……」    健一、珠子の頭を掴んで前に押し出し、 健一「ほら、挨拶は?」    珠子、ミツ子を警戒し、健一の後ろに    隠れようとする。 健一「こら珠子」    ミツ子、健一を押しとどめ、 ミツ子「珠ちゃん、手ぇ見せてくれるか?」    おずおずと伸ばした珠子の右手を、ミ    ツ子がひっくり返して手相を見る。 ミツ子「あー、これはええ手ぇや。運命線が  まっすぐ伸びてる。男やったら天下を取る  手やな」 健一「(覗きこんで)ほんまか?」 ミツ子「それに感情線が長い。情が深うて、  男はんに、ようもてる」    珠子、ミツ子の話に興味をそそられ、    次第にミツ子に近付いていく。    ミツ子、珠子の頬に手をやり、 ミツ子「人相は……まあなんと可愛らしいこ  と。お人形さんみたいやのう」 健一「どや? おまはんに似とるやろ」 ミツ子「そやなあ。叔母と姪は似るもんや、  ゆうけど……」 健一「トキとおるより、ほんまもんの親子に  見えるで」    微笑むミツ子。 健一「珠子、今日からこのミツ子おばやんが、  おまはんの母親になるんやで」 ミツ子「よろしゅうにな、珠ちゃん」    珠子、不安げに健一を見上げる。 珠子「ほんなら、田辺のおかやんはどないな  るん?」 ミツ子「トキねえやんは、珠ちゃんを産んだ  ほんまのお母さんで、うちはこれから珠ちゃ  んを育てる、二番目のおかあさんや」 健一「珠子、新しいおかあさんの言うことよ  う聞いて、立派な芸者さんになるんやで」 珠子「おとやん、ほんまに毎日、会いに来て  くれる?」 健一「もちろんや」    「ただいまぁ」と声が聞こえ、着飾っ    た芸者・桃若(20)が入って来る。    ミツ子、貫禄たっぷりに膝を正し、 ミツ子「お帰り。ようお勤め」    桃若、珠子に気付き、おっとりと、 桃若「新しい見習いっ子かえ?」 ミツ子「姪の珠子や。あんたの妹分になるん  やから、あんじょうしたってや」 桃若「ふうん。(珠子をじろじろ見て)珠子  ちゃん言うんか。桃若や、よろしゅうなぁ」    珠子、ぼぉーっと桃若を見つめ、 珠子「ねえやん、きれえなぁ……」    桃若、吹き出して、 桃若「ええわぁこの子、気に入ったわ……」    ミツ子、桃若のゆったりしたペースに    いらだった様子で、  ミツ子「ほらもう、こんな狭いとこに固まっ  てんと。みんな早うお上がり」    先頭を切って居間に入る。    桃若、珠子を促しながら、 桃若「うちのことは桃若ねえさん、って呼ぶ  んよぉ。歳は離れてても、今日から姉妹に  なるんやし」    状況がよく理解できないまでも、うな    ずく珠子。 ○ 花岡理髪店・店内(数日後・夕方)    健一が客を送りだしている。 健一「また来てよー」    健一、浮き浮きと店の片づけを始める。    トキが奥から出て来る。 トキ「またミツ子のとこか?」 健一「ああ。珠子と約束したからな」 トキ「そやかて、片道二時間もかかる道を、  毎日毎日ようもまあ……」 健一「(ムッとして)なんやおまえ、珠子が  心細がってるのがわからんのか?」 トキ「そらそうやろうけど、いつまでも里心  ついたままなんは、あの子のためにならん  のと違うか?」 健一「大丈夫や。珠子もミッちゃんに懐いと  るし、ミッちゃんもよう可愛がってくれと  る。芸者になる素質も十分や、言うてな」 トキ「………」 健一「(満足げに)ちょっと遠いけど、血の  繋がってる家に預けるんは正解やったな」 トキ「なんやの、ミッちゃんミッちゃんて」    健一、「ん?」とトキを見る。 トキ「今日はうちが珠子に会いに行きます」 健一「はぁ?」    トキ、割烹着のヒモを外しながら、 トキ「久しぶりにミツ子にも会いたいし、よ  うお礼言うとかんとな……」 健一「阿呆かおまえはっ? せっかく機嫌よ  う暮らしてんのに、母親のおまえが行った  ら、ぶち壊しやないか!」   トキ、溢れる涙を堪え、 トキ「そやかてっ……!」 健一「珠子には会わせんっ」 トキ「なんでや? うちがあの子の母親やっ。   芸者にするために産んだんやないわ!」    健一、トキの割烹着を剥ぎ取る。    トキの大きなお腹が露になる。 健一「そこまで言うなら行って来い! その  腹で行けるもんならな! ただし、やや子  になんぞあったら承知せんぞ!」    トキ、ゆっくりと顔を上げる。 トキ「(凄んで)……何様のつもりや?」 健一「(怯んで)な、なんやねん?」 トキ「痛い思いして、やや子産むんは誰やと  思てんの? 文句言われる覚えはないわっ」 健一「なにゆうてけつかる? わいがおまえ  ら、食わしたってんねんぞ!」 トキ「へーえ。うちらが薄ーいお粥さんしか  食べられへんの、誰のせいやろなあ? 田  辺一の腕前が、聞いて呆れるわっ」 健一「そないゆうたかて、借金あるうちはし  ゃあないやないかっ」 トキ「借金言うたら済む思て。……うちが何  も知らんと思てんの? (鋭く)おまはん、  ミツ子に幾ら貢いだんっ?」 健一「何を阿呆な……」 トキ「とぼけてもあかん! あんたが白浜行  くようになってから、売り上げ合えへんで  っ」 健一「そらおまえ、娘が世話になってんねん  から、飯ぐらいごちそうするがな」 トキ「嘘や! ……娘取られた上に亭主まで  ……うちはいったいなんなん? うちは、  子供産むだけの道具違うわ!」    うわーっ、と号泣するトキ。 ○ ミツ子の置き屋(夜)    ミツ子の三味線に合わせて、珠子が小    唄の稽古を受けている。    勢い良く表戸が開き、 健一「珠子!」 珠子「おとやん!」    珠子、笑顔で健一に駆け寄る。 珠子「遅かったのう。なにしやったん?」 健一「ああ、今日はお客さんが多うてな」    微笑んでいるミツ子。    健一、珠子を抱いたまま居間に上がり、 健一「ほなら、今日教えてもろたとこ、さろ  うてみい」    珠子、うなずいてミツ子の前に正座し、    譜面を広げて唄い出す。 ○ 同・二階の大部屋    健一、眠っている珠子を布団に降ろす。    掛け布団を掛けてやるミツ子。 健一「やっと寝たか……」 ミツ子「ほんま、にいさんもマメやねえ。お  かげで珠ちゃんがぐずることもないから、  うちも助かってるけど……」 健一「珠子のためだけやないわい。(ミツ子  の肩を引き寄せ)わかってるやろ……」    健一、ミツ子を後ろから抱き締める。    クスクスと忍び笑うミツ子。右手を伸    ばして健一の頭を引き寄せる。 ○ 同・居間    ミツ子と健一、仲睦まじげに二階から    降りて来る。    上気した顔で後れ毛をかきあげ、健一    を振り返るミツ子。 トキの声「やっぱりな。こんなことやろうと  思たわ」    二人、ハッと玄関を見る。    トキが白々とした表情で立っている。 ミツ子「(吃驚して)ねえやん!」 健一「(呆然と)おまはん、どうやってここ  まで……」 トキ「(得意げに)タクシーっちゅう便利な  もんがあるやろな」 健一「そんな贅沢な……」 トキ「あんたがミツ子に貢いだお金に比べた  ら、どうっちゅうことないやろ」    トキ、ミツ子の前に進み出て、ピシャッ    と平手打ちをかます。 健一「トキ!」    思わずミツ子を庇う健一。 ミツ子「(キッと睨み)ようも殴ったなっ。  許さへんで!」 トキ「許さへんのはこっちの方や! 男と見  たら見境ないあんたや。姉の亭主寝取るこ  となんか、なんとも思てへんのやろっ」    ミツ子、ギリッと唇を噛み、 ミツ子「よう聞きやっ。……うちはなぁ、ね  えやんと結婚する前から、にいさんのこと  が好きやったんやっ」 健一「ええっ?」 ミツ子「そやけどうちは、親の借金抱えた芸  者の身ィや。言うたら、うちのおかげでね  えやん嫁に行けたようなもんやで。ちょっ  とぐらい貸りたからて、なんやのなっ!」    トキ、ぐっとミツ子を睨みつける。    寝ぼけ眼の珠子、階段を降りて来る。 珠子「……あ、おかやんや。おかやんも、う  ちに会いに来てくれたん?」    珠子、トキに駆け寄り、膨らんだ腹に    バフンと抱きつく。 トキ「珠子……っ」    トキ、珠子を促して、玄関の方へ歩き    出す。 健一「おいトキ、珠子をどうするつもりや?」 トキ「決まってるやろ。連れて帰るんや。こ  んな生臭い家、置いとけるわけないやろっ」 ミツ子「ちょっと待ち! 珠ちゃんは預かっ  たんやない、うちが買うたんや。勝手に連  れて行かせへんでっ」 健一「そうやでトキ。ミッちゃんからもろう  た金、とっくに大家さんの借金に当ててし  もうてんぞっ」    トキ、蔑んだ目で健一を見、 トキ「(なげやりに)ミツ子ぉ、お金の代わ  りに、この人あんたにあげるわ」 ミツ子「(即座に)そんなんいらんわっ。珠  ちゃん貰うのに、うちかて借金してるんや!  連れていくんやったら金返せ!」    トキ、膝をついて珠子を見上げる。 トキ「珠子。おまはん、田辺とここと、どっ  ちにおりたい?」 健一「聞くまでもないやろっ。珠子はここで  何不自由のう暮らしとるんや。それに、ミッ  ちゃんの金、どうする気じゃ?」 トキ「金、金、金てそんなもんなあ、いっぺ  んでも死にもの狂いで働いてから言うたら  どうや!」    黙り込む健一。 トキ「なあ珠子、正直にゆうてみい」    珠子、まっすぐにトキを見つめ、 珠子「帰って……ええん?」    潤む目で頷くトキ。 珠子「うち、田辺がええっ。田辺に帰りたい!」    トキに縋り、わーわーと泣き出す珠子。    トキ、珠子をギュッと抱き締め、 トキ「ごめんなぁ。ごめんなぁ、珠子……」 健一「……(うなだれる)」 ミツ子「……冗談やない。子供育てられへん  からってそっちから頼んで来たくせに、浮  気したぐらいで、鬼の首取ったみたいに偉  そうにっ」   ミツ子、バンッと壁を拳で殴り、 ミツ子「冗談やないわ! 珠ちゃんは渡せへ  んっ!」    駆け寄り、珠子の手を捕らえる。 トキ「離しよし!」    珠子を引き寄せるトキ。 健一「こらっ、やめんか!」    健一が止めに入るが、どちらも珠子を    離さない。    もみくちゃにされ、泣き出す珠子。    健一、トキを羽交い締めにし、 健一「止めろ! 腹にさわるやろ!」 トキ「こんな子! あんたの種なんか、どう  なってもええわ!」    トキ、自分の腹を拳で殴ろうとする。    それを止めにかかる健一とミツ子。    階段をゆっくりと降りて来る足音がし    て、桃若が顔を出す。 桃若「ちょっと皆さん、ご近所に筒抜けよぉ」    揉み合う一同。 桃若「……(ため息)」    桃若、泣いている珠子に気付き、 桃若「珠ちゃん、危ないからこっちおいで」 珠子「(顔を上げて)桃若ねえさん……」 トキ「……うっ!」    トキ、突然腹を抑えて屈みこむ。 健一「どないしたんや?!」 トキ「お……お腹が……っ」 桃若「いやぁ。産気づきはったわぁ……」 ミツ子「(桃若に)いやぁやのうて、早う産  婆さん呼んできて! にいさん、お湯!」 健一「あ……ああ……」    ドタバタと駆け出す大人たち。    呆気に取られる珠子。    ラジオから流れる軍歌が被り……。 ○ 花岡理髪店・外観    十二年の歳月を経て、落ち着いた感の    ある建物。だが、アメン棒の姿はない。    扉に書かれた店名は紙で隠され、全て    のガラスは×印状にテープで補強され、    カーテンが引かれている。    壊れかけのラジオを吊ったリヤカーが、    店の前を通り過ぎる。 ○ 田辺市電報電話局・電話交換室    三十人ほどの女子社員が、直立不動で    将校の訓示を聞いている。    軍刀を提げた将校の脇で、局長が神妙    に控えている。 T 1943年(昭和十八年) 将校「……戦局が厳しくなり、米国の諜報部  員が、各地に潜んでいると考えられる。情  報を扱う皆さんの職務は、ことさら細心の  注意が必要である。不審な連絡に気付いた  ら、必ず上司に報告するよう、心掛けても  らいたい」    真剣な表情の女子社員たちの中、年頃    の娘に成長した珠子(18)が、あく    びを噛み殺す。 局長「では皆さん、職務に戻ってください」    女子社員たち、ほぉっと緊張を解いて、    電話を繋ぎ始める。 珠子「……はい。はい、お繋ぎいたします」    打って変わって、てきぱきと仕事を進    める珠子。    同僚の良枝(18)が、小型の鍋を持っ    た紀子(7)が入って来たのに気付き、 良枝「珠ちゃん、紀ちゃん来たよ」    紀子、小鍋を珠子に差し出す。 紀子「ねえやん、お粥さん持って来た」 珠子「おおきに。ほな、お昼に行こか」    珠子、茶碗包みを持って席を立つ。 ○ 同・食堂    『欲しがりません勝つまでは』の標語    と、『撃ちてし止まむ』のポスターが    壁に貼られている。    テーブル席に珠子、紀子、良枝。    良枝はお弁当を広げ、紀子は褒美にも    らったアメ玉を嘗めている。    梅干しをおかずに、茶粥をすする珠子。 良枝「紀ちゃん、珠ちゃんなあ、選手に選ば  れてんで」 紀子「選手?」 良枝「うん。田辺一の交換手や。凄いやろ?」 紀子「ねえやん、また一等賞か?」 珠子「(平然と)そや」 紀子「あんなあ、学校の先生がゆうねん。お  まはんのねえやんは、いっつも一番やったっ  て。うち、比べられてかなんわ」 良枝「ほんま。珠ちゃんは昔っから、みんな  の憧れの的やったわ」 珠子「なんぼようできたって女は損や。上の  学校行かしてもらわれへんかったし、男は  んに従わなあかんし。うちがもし男に生ま  れてたらな、今頃士官学校出て、肩で風切っ  て歩いてるわ」    珠子、急に真顔になって、紀子に、 珠子「おまはんも、女に生まれてしもてんから、  頑張らんとあかんでぇ」 紀子「頑張るって、何を?」 珠子「なんでもかんでもや」 紀子「頑張らんとどうなんの?」 珠子「おかやんみたいに、子供産んで家のこ  とするだけの人生になってまう」 紀子「なんでそれがあかんの? 女の子は、  お嫁さんになって、子供産むんが幸せなん  ちゃうの?」    珠子、きつい口調で、 珠子「うちはそんなん真っ平や。ありきたり  の人生なんか、ない方がましや」    良枝、言い過ぎをたしなめるように、 良枝「ちょっと珠ちゃん……」 ○ 花岡理髪店の近くの道    珠子が、空になった小鍋をブラブラさ    せて歩いている。    前方に、ゴミを積んだリヤカーを曵く、    清次(24)が見える。    リヤカーには壊れ掛けのラジオがぶら    下がっている。 珠子「清ちゃんにいやんっ」    駆け出す珠子。    清次、珠子を見て速度を速める。知的    障害者特有の、ぎこちない動き。    珠子、すぐに追い付き、 珠子「なんで逃げるん? うち、にいやんに  なんか悪いことした?」 清次「(小声でぶつぶつと)あ、あかんねん  ……わ、わい、恥ずかしねん……」 珠子「昔はよう遊んでくれたやない……」    清次、立ち止まる珠子を置いて、脇目    も振らずに去ってゆく。その後ろ姿に、 珠子「にいやん! 今度磯貝捕りに行こら!」 ○ 花岡理髪店の前    人力車が二台止まっている。    帰って来た珠子、不審な目を向けなが    ら玄関へ回る。     ○ 同・玄関内    珠子が入ってくる。    三和土に、軍靴と上品な草履が並び置    かれている。    軍靴を見た珠子、予感が走って、 珠子「おとやん!」    小鍋を置いて、茶の間に駆け込む。 ○ 同・茶の間    卓を挟んで、上座に軍服姿の月島俊郎    (25)と、外出着に身を固めた母・    真佐子(48)が座っている。    手前には健一(44)とトキ(45)    が、恐縮した様子で座っている。 健一「こら珠子、お客さん来てはんのに何や」 珠子「ごめんなさい……」    珠子、慌てて正座する。 健一「こちら、遠縁にあたる、熊野の月島さ  んや。おまはんと縁組みしたい、ゆうてく  れてはんのや」 珠子「えっ?」 月島「初めまして。月島俊郎です」 真佐子「母の真佐子です」    頭を下げる月島親子。 珠子「は、花岡珠子です」    珠子もつられて手をつく。 真佐子「本来なら父親も同席するところでご  ざいますが、昨年の秋から風邪をこじらせ、  外出を控えておりますもので……。この俊  郎も陸軍士官学校を卒業し、任官したばか  りですが、このたび晴れて出征が叶いまし  た。生死の定めは測り知ることはできませ  んが、覚悟として、婚約だけは果たしてお  きたいかと存じまして……」 トキ「良かったなぁ、珠ちゃん。こんな立派  な将校さんに見初めてもろて……」    珠子、ほっとして、 珠子「うちてっきり、おとやんに赤紙でも来  たんかと思うたわ」 健一「阿呆な。わいはもう四十二やで。この  年で赤紙なんか来んやろ……なあ俊郎さん」 月島「そうですよ珠子さん。叔父さんの手を  借りなければならないほど、日本は弱くあ  りませんよ」 珠子「良かったぁ。何のために散髪屋閉めた  んかと……」    トキ、ピシャリと珠子の膝を叩く。    真佐子の眉がピクリと動く。    月島、怪訝な顔で健一に向き直り、 月島「叔父さん、どういうことですか? 御  国に奉仕するために、木工所に転職をされ  たのですよね?」 真佐子「他に何か理由でも?」    健一、うろたえながら、 健一「いや、わいは、御国のためを思うて工  場に……」 トキ「不自由な寮暮らしも、御国のためには  我慢せなあかんゆうて……なあ珠子?」    何度もうなずく珠子。    健一、咳き払いして、 健一「それより珠子、この話、進めてええね  んな?」 珠子「え? ああ、うちと結婚したいて……」    事の重大さに気付き、にわかに緊張す    る珠子。 健一「ああ、その約束や」 月島「珠子さん、よろしくお願いします」    頭を下げる月島。 真佐子「私の家は、父は海軍参謀で前線基地  に勤務し、夫は陸軍中佐でございますから、  本来ならば、もう少し格式のある家のお嬢  様をと思いましたが、俊郎がたってこちら  のお嬢さんを、と申しますもので……」    珠子、真佐子の高慢な態度にムッとす    るが、健一とトキが素直に喜んでいる    ため、困惑の表情。 月島「しばらく、おつきあいをしていただけ  ませんか? 返事はそれからで結構です」    珠子をまっすぐな瞳で見つめる月島。    珠子、月島の整った容貌に、しばし見    とれる。 珠子「ほな、そうさせてもらいます……」 ○ 同・階段    太一(11)と紀子、茶の間の様子を    盗み見している。 太一「紀子、えらいこっちゃ。ねえやん、嫁  に行ってまうかも知らんで」 紀子「嘘やっ。ねえやん今日、お嫁にいくの  なんか真っ平やって言うてたもん」    太一、月島の顔をじっと見て、 太一「あかん、男前や……。ねえやん、もの  すご面食いなんや……」 ○ 扇ケ浜    砂浜を散歩する月島と珠子。    風が冷たく、対岸の白浜が霞んで見え    ている。    大股で歩く月島の斜め後ろを、珠子が    小走りについていく。    月島、急に立ち止まって振り返り、 月島「珠子さん」    珠子、月島にぶつかりそうになる。 珠子「あ、すみません……」 月島「いえ、こちらこそ……」    間近で二人の目が合い、パッと身体を    離す。 珠子「あの……何でしょう?」    月島、帽子を正して、 月島「私はあなたに、陸軍将校に相応しい妻  になってもらいたいと思っています」 珠子「はぁ……」 月島「あなたは、美しいばかりでなく、たい  へん聡明だ」 珠子「いえ、そんな……」 月島「ただ、少々お転婆が過ぎるとか……」    珠子、心外そうに、 珠子「そんな……誰がそんなことを?」 月島「先程、弟さんからこっそり」 珠子「太一が?!」    月島、うなずき、 月島「武勇伝をたくさん聞かせてくれました」 珠子「(低い声で)あいつ?」 月島「(笑いをこらえて)彼はきっと、あな  たが大好きなのでしょうね」 珠子「え……?」 月島「あなたに、遠くに行って欲しくないの  でしょう。無理もありません。私の郷里は  熊野の山奥ですからね。……戦争に勝つま  では、今のままだと伝えておきましたが」 珠子「はぁ……」 月島「ただし珠子さん。どうぞお気を悪くな  さらないでください。私は、快活な女性は  嫌いではないのですが、がさつであって欲  しくない。……どうですか、この際お仕事  は辞めて、お茶やお花などの、お稽古ごと  を始められては?」    珠子、ムッとした表情を隠すため、顔    を伏せる。 月島「もちろん、花岡家にご不自由をかける  つもりはありません。その分はきちんと、  経済的に援助させていただきます」    珠子、え? と顔を上げ、 珠子「援助……していただけるんですか?」 月島「ええ」 珠子「(喜びを堪え)ではあの、お言葉に甘  えて、そうさせていただきます」    月島、満足げにうなずき、 月島「どうか、上品な女性になってください」 珠子「はいっ」 月島「もう一つ、お願いがあります。聞いて  いただけますか?」    珠子、怪訝な表情で月島を見上げる。 月島「私は、方言というものが好きではあり  ません。親しみはあると思うのですが、礼  節を軽んじているような気がして……」 珠子「はあ……」 月島「美しい言葉遣いを意識して、特に御両  親のことは、お父さん、お母さんと、尊敬  を込めて呼ぶようにしてください」    珠子、「なんだそんなことか」と、ほっ    として笑顔をつくる。 ○ 花岡理髪店・茶の間    健一、トキ、太一、紀子がお茶を飲み    ながら羊羹を食べている。 紀子「この羊羹、おいしいのぅ」    トキ、桐箱のラベルを確認し、 トキ「やっぱり将校さんは、持ってきはるも  んも違うの」    不満げに羊羹をつつく太一。    健一、新聞を読みながら、 健一「娘をもらいに来てんから、これくらい、  奮発して当然や」    羊羹を丸ごと口に入れる。口をもぐも    ぐさせながら、 健一「まあ、珠子ももう十八やしな。妙な虫  がつかんうちに、さっさと婚約だけでもし  といてもろた方がええな」    太一、羊羹をつまようじで刻み始める。 トキ「そやけど、ようこんなええ話が……。  棚からぼた餅って、こういうことやな」    トキ、あてつけをこめて健一に、 トキ「ほんま、あの子手放さんで良かったわ」    新聞を読むフリをして、顔を隠す健一。    新聞の一面に戦闘写真。    紀子、太一が刻んだ羊羹を見て、 紀子「にいやん、それいらんの?」    太一、紀子を睨み、 太一「食うわい!」    べろりと皿を嘗めあげる。 ○ 同・玄関内(夕方)    珠子が帰ってくる。奥に向かって、 珠子「ただいまーっ」    トキと太一と紀子、奥から出て来る。 トキ「お帰り。俊郎さんは?」 珠子「表で待ってはる。うち、これから駅ま  で送ってくるわ」 トキ「そう」 珠子「月島さんのお母さんは?」 トキ「とうに帰りはったわ」 太一「家がどうの先祖がどうのって、一人で  しゃべってはった」    珠子、くすくすと笑い、太一と紀子に、 珠子「あのな、月島さんが何でも好きなもん  買うてくれるて。一緒に行こ!」 太一「ほんまか、ねえやん?!」 珠子「おねえさん、や」 太一「へ?」 珠子「月島さんの前ではおねえさん、言わな、  買うてもらわれへんよ」 太一「なんやそれ? ねえやんはねえやんや。  そんなんゆうんやったら、なんも買うても  らわんでええわ!」    太一、二階に駆け上がる。 トキ「これ、太一」    健一、何ごとかと茶の間から顔を出す。 珠子「なんやの、呼び方ぐらいでしょうもな  い。……ええわ、ほな紀ちゃん、行こら」 紀子「うん」    珠子、両親に向かって丁寧な口調で、 珠子「お父さんお母さん、行って参ります」    ペコリと頭を下げる。    何度もまばたきをする健一とトキ。 ○ 紀伊田辺駅前商店街    年末の飾り付けをしている商店街。客    足は少なく、閉めている店も多い。    珠子、紀子の手を引き、月島を案内し    ながら歩いている。    月島、藤娘を押した大きな羽子板を、    むき出しのまま持ち歩いている。 珠子「それ、やっぱり包んでもらった方が、  良かったんじゃないでしょうか?」 月島「大丈夫、汚したりしませんから」 珠子「いえ、そういうことではなくて……」    道行く人々の視線を気にする珠子。    魚屋の前を通りかかった時、 魚屋「珠ちゃん、ええアジ上がってるで」    珠子、目を輝かせて、 珠子「ほんまっ?」    紀子を月島に預け、店を覗き込む。    隣の蒲鉾屋が珠子に気付き、 蒲鉾屋「できたてのごぼ巻き、どうら?」 珠子「ひゃあ、ごぼ巻き! そんな贅沢なも  ん、長いこと食べてへんわあ」 蒲鉾屋「正月ぐらい、奮発してってえや」    呆気に取られる月島。    紀子、月島を見上げ、 紀子「ねえやん、人気者なんやで」    月島、優しく微笑んで屈み込み、 月島「紀子ちゃんも、ごぼ巻き好きですか?」 紀子「うっとこはみんな、ごぼ巻きも蒲鉾も  大好きや。お正月に、みんなで食べんねん」 月島「そうですか」    月島、紀子の手を取り、珠子に近付く。 月島「おいしそうですね」 珠子「そらぁもう。月島さんもお土産に買い  はったら……」    珠子、ハッとして、 珠子「……お求めになられたらいかがですか?」    クックと笑う月島。 ○ 駅前の停車場(夜)    珠子と紀子が黒塗りのタクシーに乗り    込んでいる。    珠子、羽子板を手渡されながら、 珠子「どうもすみません。見送りに来たのに、  こんなにたくさん買っていただいて……」    座席に、荷物がいくつも置いてある。 月島「いいんですよ。(紀子に)今度来る時  は、カステラ持って来ますね」 紀子「にいやん、おおきに」 珠子「紀子、おにいさんて言いなさい」    きょとんとする紀子。 月島「(笑って)紀子ちゃん、またね」    月島、紀子の頭を撫でる。 珠子「あの……、太一の分まで、すみません」 月島「いえ。しっかり勉強するよう、伝えて  ください」 珠子「はい」 月島「ではこれで」    月島、運転手に金を渡し、 月島「下屋敷町の、花岡理髪店までやってく  ださい」 珠子「あの、どうぞ御無事で」 月島「ええ、お国のために、戦って来ます」    深々と頭を下げる珠子。    タクシーが走り出す。    珠子、頬を上気させながら、羽子板の    柄をぎゅっと握る。 ○ 花岡理髪店・茶の間    夕飯の支度を前に、そわそわと柱時計    を見上げるトキ。    時計は七時近くを指している。    健一、まだ新聞を読んでいる。    珠子と紀子の声「ただいまー」    新聞から顔を上げる健一。    トキ、玄関に向かう。 トキの声「まあ、こんな高そうなもんいっぱ  い買うてもろて!」    健一、聞き耳を立てているが、皆が入っ    てくる気配で、慌てて新聞を読むふり    をする。 トキ「あんた、これ見て!」    トキ、新聞の上に、ドサッと羽子板を    置く。 珠子「違うんよ。紀ちゃん、羽根つきしたかっ  ただけやのに、どうせやったらって月島さん、  飾り物のええの買うてくれてん」    紀子、困惑顔で、 紀子「うち、こない大きな羽子板、よう振ら  んわ……」 トキ「そやなぁ。これで羽根つきは、もった  いのうてでけへんなぁ」    珠子、クスクスと笑って、 珠子「月島さんって、真面目なんやけど、どっ  かとぼけてはっておもろいなあ」 健一「将校さんにおもろいなんて、失礼やろ」 珠子「そやかてお父さん、ほんまのことや」 健一「それとな、そのお父さん言うの、やめ  てくれへんか? なんや尻がこそばいわ」 珠子「そうか? ほな、月島さんの前だけに  するわ」 健一「で、どないやねん? この話、受けて  ええんか?」    珠子、どっしりした包みを卓に置き、 珠子「……はい、これも買うてくれはった」    健一が包みを開けると、ごぼ巻と蒲鉾    が現れる。健一、それらを拝み、 健一「ありがたいなぁ。これでええ正月でき  るなぁ。……トキ、ちょっと切って、神さ  んに上げといて」    微笑みを浮かべて健一を見ている珠子。 珠子「決めた。うち、月島さんと結婚する」 健一「ほんまか?」 珠子「うん」    思わず涙ぐむトキ。 紀子「ねえやん、お嫁に行くん?」 珠子「戦争終わったらな。それまでは田辺に  おってくれた方が、会いに来やすいからえ  えねんて」    満足げにうなずく健一。 珠子「あれ? 太一は?」 トキ「あんたと喧嘩したまんま、降りてけえ  へんで」    天井を見上げる珠子。 ○ 同・二階    太一がふて寝している。    珠子が上がってきて、太一の枕元にカ    メラを置く。 珠子「お土産や」    太一、カメラを見て飛び起きる。 太一「なんで! これ……っ?」    カメラを手に取り、目を輝かせる太一。 珠子「弟は家で勉強してます、って月島さん  に言うたら、感心して買うてくれた」 太一「けど……ええんかな?」 珠子「結納の一部や」 太一「! ……ねえやん、結婚するんか?」 珠子「(あっさりと)うん」 太一「あの将校さんのこと、好きなんか?」 珠子「まだようわからん。ええ人なんは確か  やけど、あれこれ理想を押し付けはるんが  ちょっと、な」 太一「好きかどうか分からんのに、結婚決め  たんか?」 珠子「将校さんと結婚できるんや。うちの気  持ちなんか二の次やろ」    太一、不服そうに、 太一「わい、ねえやんがそんなこと言うと思  わへんかった」 珠子「親が決めたことには従うもんやろが」 太一「よそはそうでも、ねえやんだけは違う  と思てた」 珠子「おまはんなあ、うちは長女やで。うち  がしっかりせんと、この家どうなる思てん  の? あんな極楽トンボのおとやんで」 太一「そやけど……」 珠子「ほならおまはんが何かできるんか?   働き盛りの男はんは、どんどん戦争に取ら  れて、人手がないから食べるもんものうなっ  て。……ほっといたらうちらなんか、すぐ  飢え死にや」    押し黙り、カメラを弄ぶ太一。 ○ 花岡理髪店・二階(朝)    もんぺ姿の珠子(19)、天皇陛下の    写真を飾った神棚に水を供え、熱心に    拝む。 ○ 同・店内    扉に貼った紙を、ビリビリと剥がして    ゆく珠子。白い割烹着を着けている。    剥がし終え、『花岡理髪店』の文字が    見えると、背後にいた太一と紀子が拍    手をする。    紀子が扉を開け、珠子と太一がアメン    棒を表に運ぶ。 ○ 同・表    アメン棒を立て終えた三人。   珠子「さあ、花岡理髪店の再開やっ」    トキが配給品を持って帰って来る。 トキ「ちょっと珠ちゃん、何やってんの?!」 珠子「見ての通り、家事手伝いや」 トキ「家事手伝いて……(ぷっと噴き出し)  よう言わんわ」 珠子「そないおかしいか?」 トキ「ほやかて、資格もないのに……」    珠子、太一と紀子に目配せをする。    訳知り顔でにんまりと笑う二人。 太一「ほな、僕ら学校行って来るわ」    太一、紀子の手をひいて駆けて行く。 ○ 同・店内    珠子、トキを前に涼しい顔で風呂敷包    みを開き、 珠子「じゃーん!」    額入りの理容免状をトキに見せる。 トキ「(目を丸くして)いつの間に……」 珠子「習い事の成果や」 トキ「ほなら、お茶やお花は……?」 珠子「新地の料亭が、いつまで営業できるか  分からんゆう時に、お茶やお花もないやろ」 トキ「ほやけど、月島さんが気ィ悪しはれへ  んやろか? 仕事辞めるってことで援助し  てもろてんのに……」 珠子「家の手伝いするのの何が悪いん? 戦  争中でも髪の毛は伸びるやろな。それにな、  おとやんと一緒に散髪屋するんが、うちの  昔からの夢やってん」 トキ「珠ちゃん……」 珠子「戦争が終わったら、そんな日も来るか  なぁ……」 トキ「戦争が終わったらって、その時はおま  はん、嫁にいくんやで」 珠子「ちょっとの間でええんよ……」    珠子、自分の免状を健一の免状の隣に    飾る。    玄関の方で、「ごめんください」と声    がする。    トキ、扉を開け、玄関に向かって声を    かける。 トキ「こっちにおります。店の方に回ってく  ださい」    役場の職員の大谷(48)が顔を出す。 トキ「(怪訝な顔で)大谷さん……」 大谷「トキさん、これ……」    大谷、封筒をトキに差し出す。    トキ、恐る恐る手を伸ばすが、指が震    えて封筒がつかめない。    珠子、横から封筒をつかみ取り、勢い    よく封を開ける。    召集令状が出て来る。赤い紙に『花岡    健一』の文字。    珠子の手も、ブルブルと震えだす。 トキ「まさか……おとやんに……?」    うなずく珠子。    トキ、へなへなと崩れ落ち、 トキ「そんな……! 木工所で働いてたら赤  紙は来んて……!」 大谷「珠ちゃん、すまんがハンコ、もらえん  やろか」    珠子、大谷をキッと睨み、 珠子「おとやん、もう四十二ですよ。戦場で  何ができる、言うんですか?」    大谷、一瞬疲れた表情を見せた後、急    に態度が事務的になる。 大谷「それは、軍部が決めることです」 珠子「そやけど……」 大谷「(無視して)おめでとうございます。  ……ハンコ、お願いします」    珠子、口惜しさも露にハンコを手に戻っ    て来ると、受け取り台帳に判を捺す。 ○ 花岡理髪店・玄関前    『祝 出征』と書かれた日の丸の襷を    掛けた健一が、泣きそうな顔で敬礼し、    周囲の人々が万歳三唱をしている。 ○ 花岡理髪店・二階(朝)    神棚を拝む珠子。水が二つに。 ○ 花岡理髪店・店内(夕)    柴崎(70)の髪を切っている珠子。    ラジオが戦況報告を流している。 柴崎「健やん、今頃どのへんかのう……」    珠子、黙々と櫛とハサミを動かす。 柴崎「まさかあの歳で赤紙が来るとはの。日  本は……ほんまに大丈夫なんやろか……」    ラジオの音声が変わる。 ラジオの声「空襲警報発令。空襲警報発令……」    地を這うようなサイレンの音。 男の声「空襲警報発令ーッ!」    もんぺ姿に防空頭巾を冠ったトキが、    奥から顔を出し、 トキ「珠子! 早う!」    珠子、散髪の手を休めず、 珠子「終わったら行くから、先行っといて」 トキ「終わったらって……」    表の通りを、人々がわらわらと駆けて    行くのが見える。 トキ「はよおいでや!」    トキ、太一と紀子を連れて出て行く。    柴崎、不安そうに、 柴崎「珠ちゃん、逃げんでもええんか?」 珠子「大丈夫やて。アメリカさんが狙てんの  は浜の方やから、こんなとこ、爆弾なんか  落とせへんわ」 柴崎「ほやけど、誤爆ゆうことも……」 珠子「なんや、おいやん恐いんかいな?」    言葉に詰まる柴崎。 珠子「心配ないて。それに、うちと死ねるん  やったら本望やろ?」 柴崎「かなんなぁ……」    苦笑いする柴崎。 ○ 城跡の水門    防空豪代わりの横穴に、人々が詰め合っ    ている。    珠子、柴崎と一緒に走って来て、ふと    空を見上げて立ち止まる。    B29が焼夷弾を落としながら飛んで    ゆく。爆音が響き、地面に近い空が、    赤く染まる。 珠子「きれいやなぁ……」    入り口付近にいた男、珠子に気付き、 男「おい! はよ入らんかいな! そんなと  こに立ってたら狙われるがな」    珠子、ふて腐れた態度で、人々をかき    分け、横穴の奥に向かう。 トキ「珠ちゃん!」    トキが声をかけるが、無視する珠子。    突き当たりの壁際に、ごろりと寝転ぶ。 女1「なんちゅう度胸のええ娘ぉや」 女2「ようこんなとこで寝れるわなぁ」    トキ、恥ずかし気に目を逸らす。 ○ 花岡理髪店・茶の間    イモ粥をすする珠子たち。 電報配達員の声「花岡さーん、電報でーす!」    珠子とトキ、何事かと顔を見合わせる。 紀子「うち、取ってくる!」    電報を持って戻ってくる紀子。 紀子「ねえやんにや」    珠子、電報を音読する。 珠子「アスフタタビシユッセイス シキュウ  ワカヤマノタミヤリョカンニコラレタシ   ツキシマ」 トキ「月島さん、一時帰宅を許されたんや。  熊野へは帰らんと、あんたに会いに来たん  やな……」    何度も電報の字面を追っている珠子。    トキ、神棚から、紫の紐のついたお守    りを降ろし、珠子に握らせながら、 トキ「さあ、これにあんたの毛ぇ入れて」 珠子「毛ぇ?」 トキ「下の毛やで。弾に当たらんためのまじ  ないや」 珠子「うん、分かった」 トキ「ええか。おまはん、月島家の嫁として、  しっかり俊郎さん、送り出してくんねんで」    お守りを握りしめ、固くうなずく珠子。 ○ 田宮旅館・座敷(夜)    膳の前で、姿勢を正して座る月島。    向き合った形で、もう一組の膳が用意    されている。 仲居の声「お連れ様、御案内致しました」    襖が開く。    緊張した様子の珠子が、着物姿で控え    ている。 月島「来てくれたんですね。……さあどうぞ」    月島、立ち上がり珠子の元へ。手を取    ろうと指が触れた瞬間、珠子がさっと    手を引く。    珠子、恥ずかし気に顔を背ける。 月島「珠子さん、そんなに堅くならないでく  ださい。ほら、あなたの分の食事も用意し  てもらいました」    珠子、膳を見る。刺身や煮付けや天ぷ    らなど、近海物の魚を使ったごちそう    が用意されている。 珠子「……(おいしそう)」    料理に見とれる自分に気付き、慌てて    視線を落とす珠子。 月島「(笑って)さあどうぞ」    月島、珠子を膳の前に座らせる。 月島「では、いただきましょう」    月島が箸をつけるのを見て、珠子も膳    に手を伸ばす。煮付けを一口食べると    笑みがこぼれ、料理を次々と口に運ぶ。 月島「珠子さん」 珠子「は、はいっ」    珠子の声がひっくり返る。 月島「私は明日、大事な決戦場に発ちます。  もしかすると、私はもう、戻って来られな  いかも知れない」 珠子「決、戦……」 月島「行く前にもう一度、あなたに会ってお  きたかった。……これでもう、思い残すこ  とはありません」 珠子「それはまさか、日本が負けるというこ  とですか?」 月島「負けないために戦うのです!」 珠子「すみません」 月島「いえ、私の方こそ……」 珠子「あの……これ、お守りです。どうか無  事に帰ってきてください」 月島「ありがとう……」    月島、珠子の両手ごとお守りを抱き、 月島「あなたにお願いがあります。明日、出  発するまで、私と一緒にいてもらえません  か?」    珠子、こくりとうなずき、 珠子「うち……そのつもりで来ました」 月島「珠子さん……」    珠子、至極か細い声で、 珠子「あの、うち、お風呂いただいてきます」   ○ 同・座敷    布団が並んで敷かれている。    脇で、浴衣姿の珠子が待っている。    月島が風呂から帰ってくる。 珠子「(両手をついて)ふつつか者ですが、  よろしくお願い致します」    月島、微笑んで、 月島「珠子さん。あなたを抱くつもりはあり  ません」 珠子「は……?」 月島「私は、もしもの時のために跡継ぎを残  すなどという考え方は嫌いです。男たるも  の、生まれてくる子供を、きちんと責任を  持って育てたい。責任が持てないようなこ  とを、するべきではありません」 珠子「でも……」    月島、珠子の手を取り、 月島「こうやって手を握ったまま、添い寝し  てくれるだけでいいんです」    珠子、うなずく。 月島「その代わり、帰って来た時には、思う  存分あなたを愛させてください」    赤くなってうつむく珠子。 ○ 同・座敷     別々の布団で、手を繋いで眠る二人。    珠子、ドキドキしながら月島の寝顔を    見ている。 珠子「うちは、よかったのに……」    目を閉じ、眠りに入る珠子。    月島が瞼を開く。    ぐっすりと眠っている珠子の横顔。    月島、せつなげに眉根を寄せ、身体ご    と珠子に向き直る。空いた右手で頬に    触れようとした瞬間、珠子の顔が月島    の方を向き、赤ん坊のように無邪気な    笑みを浮かべる。 月島「(身体を起こし)珠子さん……」    珠子、むにゃむにゃと口を動かし、 珠子「今日のお粥さん、おいしいなぁ……」    月島、絶句の後、声を殺して爆笑する。    珠子、小さなくしゃみ。    月島、握ったままの珠子の手を外し、    布団の中に入れてやる。    珠子を見守る表情は穏やかである。 ○ 同・座敷(翌朝)    朝の光が珠子の顔に降り注いでいる。    ゆっくりと目を開ける珠子。隣を見る    と、月島の姿はなく、布団がきちんと    畳まれている。珠子、ガバッと飛び起    き、視線を巡らせるが部屋は無人。    布団の上に置き手紙を発見する。    その内容??。    「珠子さんへ。別れが辛くなりそうな    ので、先に立ちます。あなたの寝顔は、    まぶたの裏に焼きつけました。これで、    目を閉じればいつでもあなたに会うこ    とができます。……あなたを清らかな    ままで残して行くのは、私の思いの深    さゆえです。もし私が戻らなくても、    あなたは心置きなく、新しい幸せを掴    んで下さい。本当にありがとう。                月島俊郎」 珠子「俊郎さん、ずるいわ……」    手紙を掴んだ手が、無念に震える。 ○ 野菜畑(夕方)    辺りが夕焼けに染まる中、自転車を走    らせる珠子。紀子を自分と背中合わせ    にして、荷台に乗せている。    畑仕事を終えた人が、鍬を担いで歩い    てくる。    珠子、速度を落とし、 珠子「ええか、人気がなくなったら言いや」 紀子「うんっ」    後方を確認する紀子。 紀子「ねえやん、今やったら誰もおらんわ」    珠子、自転車を止め、畑から野菜をも    ぎ取り、持って来たズタ袋に詰め込む。 珠子「誰か見えたらすぐ言うんやで」 紀子「うん」    紀子の目の前を赤とんぼが通過する。    赤とんぼを追って注意が逸れた瞬間、    近くで犬が吠え、 女の声「こぉらぁーっ!」    犬を連れたおばさんが、家から飛び出    てくる。 珠子「あかん!」    ズタ袋を籠に乗せ、自転車に飛び乗る    珠子。 珠子「しっかりつかまっときや!」    自転車発進。    犬が紀子めがけて飛びかかるが、間一    髪で空振りに終わる。    紀子、犬にあかんべをする。 ○ 堤防沿いの道    紀子を乗せたまま、自転車を手で押し    ている珠子。 珠子「紀ちゃん、大丈夫か?」    紀子、まだ興奮が冷めない様子で、 紀子「ねえやん、おもろかったな」 珠子「そうか?」 紀子「うん。すっごいゾクゾクしたわ」 珠子「うちは……えらい疲れたわ」 紀子「ねえやん」 珠子「なんや?」 紀子「うち、お漏らししてしもた」    珠子、来た道を振り返る。    土の上に、点々と濡れた跡。 ○ 南方の島・日本軍兵舎前    一本の木の元に、傷だらけの白人兵が    繋がれ、棍棒が転がっている。    立て札に、「ココヲ通リタル者、鬼畜    ニ一撃ヲ食ラワスベシ」と書いてある。    月島少尉を先頭に、敵にやられ、惨澹    たる有り様の中隊が戻ってくる。    月島、中隊を振り返り、軍曹の襟章を    つけた田村に、 月島「田村上等兵」 田村「はっ」 月島「直ちに死傷者の確認を終え、中隊長殿  に報告を」 田村「はっ」    月島、捕虜に目を向けると、棍棒を取    り、捕虜の腹を殴る。    声も無く崩れ伏す白人兵。    月島、宿舎に入っていく。    田村以下、下等兵たちも順に捕虜を殴    り始める。 ○ 秋津の豪農(亀田の家)    紀州の山々を新緑が覆っている。    風呂敷包みを背負った珠子と紀子、一    軒の立派な農家に入って行く。    あばたを浮かせた亀田藤吉(37)に、    中年女性が懇願している最中である。 女「お願いします。この着物と食べ物を交換  してください」 亀田「あかんあかん。うちかてそんな余裕な  いんや」 女「そこをなんとかなりませんか? 子供が  五人もおりますねん」 亀田「何人おろうが知ったこっちゃないな」 女「お願いします!」 亀田「あかん。もう帰れ!」    紀子、珠子の袖を引き、不安げに、 紀子「ねえやん……」 珠子「(小声で)ええから」    女、珠子たちの脇をすり抜けて、とぼ    とぼと帰って行く。    不自由な片足を引きずりながら、奥に    入りかけた亀田に、 珠子「あの……」    振り返る亀田。珠子の容貌を見て興味    の色を浮かべる。 亀田「なんや?」 珠子「食べ物を分けて欲しいんですけど……」    上目遣いに、亀田の顔色を伺う珠子。 亀田「おまはん、独り身か?」 珠子「はい」    値踏みするような亀田の目つき。 亀田「いくつや?」 珠子「二十歳です」 亀田「どこから来た?」 珠子「田辺です」 亀田「ほう。秋津まで、どのくらいかかった?」 珠子「自転車で、二時間ぐらい……」 亀田「そらしんどかったやろ。ちょっと休ん  で行き」    亀田、奥に向かって、 亀田「おーい、茶ぁ持って来いや!」    珠子、慌てて、 珠子「いえ、家のもんが待ってますから、ゆっ  くりもできませんねん。なんとかこれ、交  換してもらえませんか?」    風呂敷を解いて着物を取り出す。    亀田、視線を珠子の顔に据えたまま、    着物には興味を示さない。 珠子「あの……」    焦る珠子。    珠子の脇から、紀子が一歩進み出て、 紀子「にいやん、よろしゅお願いします」    ペコリと頭を下げる。    亀田、わずかに表情を緩め、 亀田「まあええ、換えたるわ」 珠子「ありがとうございます!」    紀子、得意げに鼻をこする。 ○ 田んぼ道    芋とわずかな米を自転車に積んで、家    路を帰る珠子と紀子。 紀子「ねえやん、あのおいやん、おもろい顔  してたなぁ」 珠子「ふん、御国のために働くこともでけへ  んくせに、農家やゆうだけで偉そうに」 紀子「そやけど、なんであのおばやんは、食  べ物分けてもらわれへんかったんやろ?」 珠子「そらあのおばやんが、おばやんやった  からや」    きょとんとする紀子。 珠子「あのな紀ちゃん。男っちゅうもんは、  若うてきれいなねえやんが好きなんや。ほ  やから、若うてきれいなうちは、それをう  まいこと使わな」 紀子「使うって?」 珠子「おまはんも大きなったら分かるわ。……  ええか、これからもおいやんはにいやん、  おばやんはねえやんって呼ぶんやで」    うなずく紀子。 ○ 花岡理髪店・茶の間(夕方)    防空頭巾を背中に斜がけしたまま、食    卓を囲む珠子、トキ、太一、紀子。    トキ、上座に座る太一に粥をよそう。 太一「なんやこれ? 芋のへたばっかりやん」 トキ「すまんなぁ。節約せんと、もう売れる  もんも、あんまりないよってな」 太一「そやけど今日、ねえやんが農家で分け  てもろてきたんちがうんか? こんなん、  食べた気にならへんわっ」    珠子、箸をパシッと置いて、 珠子「なんやの、人の苦労も知らんと!」 紀子「そうやで。ねえやんやから分けてもら  えてんで」 珠子「これでもおまはんの分は、具が多いん  や。おかやんの茶碗見てみ? 汁ばっかり  や。男やったらなあ、長男やから子供やか  らて甘えてんと、自分の食い扶持ぐらい、  自分でなんとかしい!」    太一、ふくれて二階へ駆け上がる。    珠子、太一の茶わんをトキのものと取    り替え、 珠子「おかやん、こっち食べ」    トキの、汁だけの粥をゴクゴクと飲む。 ○ 南方の島・ジャングル    過酷な行軍を落伍した兵士たちの屍が、    道標のように点々と転がっている。    髪も髭も伸び、垢にまみれ、痩せこけ    た中隊を率いた月島がやってくる。    月島の背後で、足を負傷し、田村に支    えられながら歩いていた岡田二等兵が    倒れる。 田村「岡田!」 岡田「自分はもう歩けません。置いていって  ください」 田村「何を言うっ?」 岡田「お願いします、足手纏いなだけですか  ら……」 月島「どうした?」 田村「岡田が……」    月島、岡田を見る。    全てを諦め、許しを乞う岡田の顔。    月島、腰に提げた手榴弾を岡田に握ら    せてやる。 田村「小隊長殿……」 岡田「あ、ありがとうございます」    むせび泣く岡田。    再び行軍を始める、悲痛な面持ちの兵    士たち。涙を拭う者もいる。    背後で爆発が起こる。    固く目を閉じる月島。やりきれない。 ○ 花岡理髪店・二階(深夜)    もんぺを履いたまま、蚊屋を吊るして    寝ている珠子たち。 T 昭和二十年 七月九日 深夜    珠子が寝返りを打った瞬間、無気味に    空襲警報が鳴る。    珠子、パッと起きて、皆を揺り起こす。 珠子「起きや! 空襲やでっ!」    トキは素早く、太一はのろのろと起き    上がる。    窓越しに、西の空が赤く染まっている。    珠子、寝ている紀子を揺り起こす。 珠子「紀ちゃん! はよ起き! 逃げるで!」    寝ぼける紀子に防空頭巾をかぶせ、救    急袋を持って階段を駆け降りる。 ○ 住宅街    逃げる先々が爆撃を受けている。粉雪    のように火の粉が舞い、焼けた電柱が    倒れてくる。    紀子の手を引く珠子の後を、トキが太    一を庇いながらついてくる。    爆音と悲鳴が、四方八方から聞こえる。    赤ん坊を抱えた女が駆けて来て、 女「あっちはあかん! 火の海や」 珠子「城跡の水門は?!」 女「駅からこっち、みんな焼けてるわ! 引  き返した方がええ!」    女、珠子たちの来た方向へ駆けて行く。    珠子、立ち止まって考える。 トキ「珠ちゃん、どうする?!」 珠子「……家帰ろ」 トキ「えっ?」 珠子「ええから! 一回戻って荷物かついで、  田辺から逃げ出すんや!」 トキ「逃げ出すて……」 珠子「こんだけやられたら、当分田辺には住  まれへん。今のうちに持てるだけ持って逃  げよ!」    珠子、紀子の手を引いて、来た道を駆    け戻る。 ○ 赤々と燃える町    油脂焼夷弾が雨霰と降り注いでいる。    逃げる男の腕に油が飛び、青白い炎が    上がる。    男が用水桶に腕をつっこむと火は消え    るが、水から腕を出すと再び燃え上が    る。パニックを起こし、叫びながら腕    を振り回す男。次第に炎に包まれる。        ○ 堤防沿いの道    一様に汚れ、疲れ果てた人々が、同じ    方向に歩いている。    珠子たち四人も、救急袋と水筒を肩か    ら交差して掛け、リュックサックを背    負った上に、布団を亀の甲羅のように    かぶって、ふらふらと進んで行く。    突然、轟音が降って来た。空を見上げ    る人々に、火が渦を巻いて襲い掛かる。    「ギャーッ」と悲鳴が上がる。 珠子「あかん! 布団の中に伏せるんや!」    四人、布団をかぶって這いつくばる。    布団を握りしめ、目を閉じて、ゴーッ!     という音が遠ざかるのを待つ。    音が止み、珠子が布団から顔を出す。    隣の布団が燃えている。 珠子「太一ッ!」    珠子、太一の布団を剥ぎ、踏みにじっ    て火を消す。 太一「ねえやん……」    太一、のろのろと立ち上がる。 珠子「大丈夫か?!」 太一「うん、なんともない」 珠子「よかった……」    二人、燃える町を見渡す。熱風が頬を    なぶる。 珠子「よう見ときや。これが戦争やで……」    トキと紀子、珠子たちの傍らに立つ。    空から落ちて来る火の玉が空中で割れ、    行く筋もの火柱となって降り注ぐ。    何か大きい物が四人の側に飛んで来て、    ドオンッと地面に突き刺さった。    隙間から黒い煙りと火の粉を吹き出し    ている、大きな金庫である。 ○ 亀田家・玄関前    ほうほうの体で、門前に辿り着いた珠    子たち。    珠子、布団を降ろし、 珠子「ここで待っといて」    懐に入れた手ぬぐいで、汚れた顔を拭    いながら、玄関を叩く。 珠子「夜分すみません! 開けてください!  お願いします!」    電球が灯り、扉が開く。    不機嫌そうな亀田藤吉が立っている。    珠子の顔を見て驚き、 亀田「なんな、おまはんか」 珠子「すみません。田辺、焼けだされてしも  たんです。行くとこのうて……。しばらく  置いてもらえませんやろか?」 亀田「おまはんだけか?」 珠子「いえ、あそこに家族が……」    珠子が指差す方向を見て、亀田の顔が    歪む。 亀田「おばはんとガキも一緒か。あかん、無  理や。帰れ」 珠子「なんとかお願いします! 小屋の隅でも、  土間でもええですからっ」    紀子がとことこと近付いて来て、亀田    の顔をじっと見る。亀田を指差し、 紀子「あ、親切なにいやんや。ねえやん、こ  の人のおかげで助かったなぁ」    亀田、無表情に紀子を見て、珠子に、 亀田「おまはんと、この子だけやったら泊め  たってもかまんわ。けど、あっちのガキと  おばはんはあかん」 珠子「そんな……!」 亀田「不服か? 嫌なら帰れや」    玄関を閉めようとした亀田に、 トキ「待ってください!」    トキ、駆けて来て地面に手をつき、 トキ「私はええんです。けど、太一だけは、  どうか一緒に泊めたってください!」 珠子「おかやん……」    トキ、努めて穏やかに、 トキ「珠ちゃん、うち、おとやんが帰ってく  るかも知らんから、家帰るわ」 珠子「(驚き)帰ってくるて……。おとやん、  戦争に行ってんねんで?!」 トキ「そやけど、帰った時、だぁれもおらん  かったら、おとやんかって寂しいろ?」 珠子「家かて、残ってるかどうか……」    トキ、立ち上がって珠子の目をまっす    ぐ見つめ、首を横に振る。    トキの決意に気付く珠子。涙が溢れる    のをぐっと堪え、 珠子「そやな……。おとやん、もしかしたら  帰って来てるかも知らんもんな。ほな、太  一と紀ちゃんのことはうちに任して」    トキ、亀田に深々と頭を下げ、 トキ「すみませんが、子供らのこと、どうぞ  よろしゅうお願いします。落ち着いたら、  ちゃんとお礼させてもらいますよって」    憮然と腕組みをする亀田。    トキ、亀田の返事を待たず、燃え盛る    空に向かって、来た道をスタスタと戻っ    て行く。 太一と紀子「おかやんッ!」    トキの後を追いかけようとする二人を、 珠子「行ったらあかん!」    珠子が抱きとめる。    トキ、振り向きもせず、バイバイと手    を振る。その唇が、堅く結ばれている。 亀田「なんや、体よう三人も、押し付けられ  てしもたな」    太一と紀子、亀田を睨み付ける。    珠子、慌てて二人の頭を押さえ込み、    頭を下げさせる。 珠子「よろしゅうお願いします」    亀田、じろりと三人を見て、 亀田「そのなりでは家には上げられへんな。  そっちの空いた小屋使え」    言い捨て、玄関を閉める。 ○ 梅小屋    朽ちるに任せた、梅干しを作るための    小屋。あちこち隙間ができている。    運んできた布団にくるまり、横になっ    ている珠子、太一、紀子。    紀子はぐっすり眠っているが、太一は、    顔にたかる蚊が気になって眠れない。    パチン! パチン! と、蚊を潰そう    と躍起になっている。 珠子「殺したらあかん」 太一「そやけど……」 珠子「火ぃ焚いたるから待っとき。今はな、  虫一匹でも死んで欲しないんや……」 ○ 堤防沿いの道    人々が逃げて来る道を、ただ一人逆行    するトキ。 男「おばやん、どこ行くんら? そっち行っ  たら火の海やで!」    トキ、人々の制止を無視し、思いつめ    た表情でひたすら前進する。 ○ 梅小屋    パチパチと音を立てて燃えるたき火。    その煙りが、屋根の隙間をすり抜け、    星空に吸い込まれていく。 太一「ねえやん?」 珠子「ん?」 太一「起きてるか?」 珠子「うん……」 太一「……おかやん、大丈夫かな?」 珠子「大丈夫や……」 太一「もう家に着いたかなぁ?」 珠子「そやな。布団置いて行ったから、来た  時より早いやろ。心配してんと、はよ寝ぇ」 太一「ねえやん……」 珠子「………」 太一「なあ」 珠子「なんやのよ、もう……」    太一、涙声になり、 太一「おかやん、死んだりせえへんよな?」    珠子、微笑みを浮かべ、布団ごと太一    ににじり寄る。 珠子「あーほ」    布団を広げ、 珠子「こっち入り」    太一、もぞもぞと珠子の布団に入る。    珠子、太一をぎゅっと抱き締める。 太一「わい、このままおかやんに会われへん  かったらどないしょ? えらそうなことばっ  かりゆうてしもて……」    しゃくりあげる太一。    珠子、太一の背をポンポンと叩く。 珠子「大丈夫やって……」    と、表戸がガタリと鳴る。    ビクリと抱き合う珠子と太一。    戸が開き、亀田がにゅっと顔を出す。    たき火に煽られた奇怪な形相に、さら    に驚く二人。    亀田、 盆を持って入ってくる。 亀田「ここ置いとくで」    盆を置き、あっさりと帰って行く。    太一が恐る恐る盆に近寄る。    無骨な形の握り飯が載っている。 太一「おにぎりやねえやん! 米の握り飯や!」    太一、握り飯にかぶりつく。    珠子、紀子を揺さぶり起し、 珠子「紀ちゃん、起きや! おにぎりやで!」 紀子「う……ん……?」    紀子、寝ぼけ眼で太一を見る。視界が    はっきりすると、 紀子「おにぎりや!」    飛び起きておにぎりに突進する。 珠子「慌てたらあかん、胸つまるで」 太一「ねえやんも早う!」    珠子、盆に近付くと、まぼろしでも掴    むように、そっとおにぎりを手に取る。 紀子「おいしいなぁ。……おいしいなぁ、ね  えやん。うち、こんなおいしいもん、生ま  れて初めて食べたわ」 珠子「良かったなぁ、紀ちゃん」    珠子、おにぎりを見つめ、涙ぐむ。 ○ 花岡理髪店の前    燃え続ける火で、辺りは昼間のように    明るい。ガラスが割れる音や、建物が    崩壊する音が響いてくる。    煤だらけで、ぼろ雑巾のようになった    トキが、店に辿り着く。    爆風で窓は全て割れ、店の中はぐしゃ    ぐしゃである。    トキ、大きく息をつき、わざと大声で、 トキ「ただいまぁっ」    言いつつ店内に入る。 ○ 同・店内    アメン棒が、壁にぶつかって止まって    いる。てっぺんの球体は割れているが、    他はわりあい無事に見える。    瓦礫に混じって、健一と珠子の理容免    状が落ちている。    トキ、それらを注意深く拾い上げ、胸    に抱いて住居に続く引き戸をくぐる。 ○ 同・廊下    トキが居間に入ろうとすると、「ねえ    やん」と声がして、二階からミツ子    (43)が降りて来る。 トキ「おまはん……(絶句)」    ミツ子、トキに駆け寄り、腕を掴む。 ミツ子「良かったぁ。白浜が焼けて、行くと  こないから逃げてきたのに、誰もおらんね  んもん」    ミツ子を凝視するトキ。    ミツ子は、モンペの上に健一の着物を    着こんでいる。 トキ「おまはん、それ……」    ミツ子、トキの視線に気付き、   ミツ子「(しれっと)ああ、うちの着物ボロ  ボロになってしもたから、二階の押し入れ  にあったにいさんの着物、ちょっと借りた」    悪びれずに微笑むミツ子。    トキ、カッとなって免状を放り投げ、    ミツ子の着物の胸元をぐいっと掴む。 トキ「こら! この着物脱がんか!」 ミツ子「やめてえな! これ脱いだら、うち  裸やんかッ!」 トキ「脱げッ! あんたにはやらん!」 ミツ子「なっ……ねえやん、落ち着いてっ」    トキ、構わずぐいぐいと、凄い力で着    物を剥ぎ取っていく。その目が異常な    光を放っている。 ミツ子「いやーっ!」    上半身をシュミーズ姿にされたミツ子。    戦利品の着物を抱えたトキ、髪を振り    乱し、 トキ「ここはうちの家や! あんたは入れん!」    平手をふるいながらミツ子を店に押し    戻す。バン! とミツ子の目の前で引    き戸が閉められる。 ミツ子「ちょっと! 開けてえなっ!」    引き戸に体当たりするミツ子。    つっかえ棒が転がる音。    ミツ子、急いで戸を開ける。    バタバタと階段を駆け上がる、トキの    足元。    ミツ子の頬が怒りで紅潮する。 ミツ子「待ちやッ!」    ミツ子が後を追おうと階段を見上げた    途端、ドオォンッ! という音がして、    天井が崩れ落ちて来る。    土煙の中、瓦礫にまみれて倒れている    ミツ子。    一面の暗闇。 ○ 亀田家の梅小屋(翌朝)    朝日を受け、無防備に眠る珠子、太一、    紀子。    ガラリと戸が開き、亀田が顔を出す。 亀田「起きろや」    珠子、太一と紀子を揺り起こす。 亀田「仕事、手伝うてもらうで」 珠子「はい」    亀田、笹に包んだ握り飯を差し出す。    珠子、受け取り、頭を下げる。 珠子「何から何まですみません」    亀田、じろじろと珠子を見て、 亀田「食うたら、はよ来いや」    足をひきずりながら出て行く。     ○ 同・五右衛門風呂(夜)    風呂釜の端で、珠子が紀子の身体を洗っ    ている。 珠子「太一ー、おいでやー」    軒下で、太一が前を隠してもじもじし    ている。 太一「わい、やっぱり一人で入りたい」 珠子「阿呆いいな。お湯が冷めてもったいな  いやろ。恥ずかしがってんと、はよおいで」    太一、照れながら近付いてくる。珠子    の裸を見てぎょっとなる。    珠子、紀子の身体を洗い終え、 珠子「はい、紀ちゃん。きれいになったから  入ってええよ」 紀子「はーい」    風呂釜によじ登り、木の桶を沈めて湯    に浸かる紀子。 珠子「(太一に)洗たるから、はよう」    太一、手を前に添えたまま、珠子の前    にしゃがみ込む。 珠子「いくでぇ」    太一の頭に、ザバーッと湯がかけられ    る。 ○ 同 ・五右衛門風呂    湯舟に浸かっている三人、『カボチャ    の歌』を歌っている。 ○ 同・板の間    亀田が手酌で酒を飲んでいる。    囲炉裏の周りに、漆塗の猫足膳が五つ。    下座にひっそりと座る、ふさ(56)。    廊下の奥から、珠子たちの足音が聞こ    えてくる。 亀田「こっちや」    珠子たち、板の間の入り口で手をつく。 珠子「ほんまにありがとうございました。お  かげさまで、さっぱりさせてもらいました」 ふさ「そら良かったなぁ」    急に脇から声が聞こえ、吃驚する三人。 亀田「おかやんや」 珠子「(慌てて)花岡珠子です。こっちは太  一と紀子、いいます。この度はえらいお世  話になりまして」 ふさ「田辺が焼けたんやて? たいへんやっ  たなぁ」 珠子「けど、うちらは運がええですわ。こな  いして、お風呂までいただけて……」    亀田、ぶすっと、 亀田「おばはんは追い返したけどな」    黙り込む一同。    ふさ、明るく、 ふさ「ほな、ごはんにしましょな。たいした  もんは用意でけへんかったけど……」 珠子「ありがとうございます」    珠子たち、膳の前に就く。    たちまち太一と紀子が歓声を上げ、珠    子も目を見張る。    膳には、煮物、しんじょ、お浸しなど    が朱塗りの腕に盛られ、焼き魚まで添    えられている。    ふさが炊きたてのごはんをよそい、そ    れぞれの膳に置く。 ふさ「さあ、いっぱい食べてや」 太一と紀子「いただきまーす」    二人、がっついて食べ始める。    亀田、徳利を珠子に差し出す。 亀田「ほれ」 珠子「いえ、うちは……」 亀田「飲め」    珠子、盃を受けるが、浮かない表情で    注がれた酒を見つめる。 亀田「はよ飲まんか」 珠子「すみません。お酒、飲めませんよって」 亀田「ほな、口つけるだけでええわ」    二人のやり取りを気にしながらも、目    を合わせようとしないふさ。 ○ 同・板の間    亀田、自分の腹をぽんぽん叩きながら    立ち上がり、  亀田「あー、食うた食うた。腹いっぱいや。  ほな、おまはんらは今日はここで寝え」 珠子「(ホッとして)すいません」 亀田「おかやん、布団用意したってや」 珠子「あ、自分らでやりますから……」 ふさ「そうか。ほな、お膳持ってついてきて」 珠子「はい」    太一と紀子、膳を持とうとする。 珠子「紀ちゃんは触りなや。落としたらたい  へんやから。太一も気ぃつけてな」    太一、ムッとして、 太一「高いもんやゆうぐらい、分かってるわ。  こんなお膳、お祝いの席でしか見たことな  いし」    さっとふさに目を走らせる珠子。    ふさ、そしらぬ顔で膳を下げる。 ○ 同・板の間(深夜)    囲炉裏を囲んで寝ている、珠子たち。    太一と紀子は深い眠りについている。    珠子だけは眠れず、炉の明かりを顔に    受けながら、考え事をしている。    腕に抱えている紀子が寝返りを打つ。    ガタン、と廊下に続く戸が鳴る。    頭をもたげる珠子。    ふさが近付いてくる。珠子の背後で、 ふさ「この子らは見といたるから、おまはん  は奥の部屋、行きないら」    珠子、驚いて、 珠子「いえ、いいです。うちが見てますから」    ぎゅっと紀子を抱き締める。 ふさ「……藤吉が、おまはんを気に入ったら  しい」    珠子、起き上がり、懇願するように、 珠子「そやけどうち、婚約者がいるんです。  軍人さんで、帰って来たら結婚することに  なってます」 ふさ「事情は藤吉にゆうてんか」    珠子、囲炉裏に目を向ける。焦点の合    わない遠い瞳に、炎が照り輝いている。 珠子「どうしても……行かなあきませんか?」    ふさ、無言で珠子を見つめる。    珠子、ふさから視線を逸らせる。    無邪気に眠る太一と紀子。 珠子「……分かりました。自分で話つけてき  ます」    珠子、スッと立ち上がる。    やれやれと安堵する、ふさ。 ○ 亀田の部屋の前    珠子が襖の前に座り、声をかける。 珠子「あの……おかあさんから言われて来た  んですけど、うち、にいやんのお相手はで  きません。せんどお世話になってて、えら  い申し訳ないんですけど、うち、陸軍の将  校さんと婚約してて、戦争から帰ってきはっ  たら、結婚することになってますねん」    珠子が耳を澄ますが、部屋の中からは、    物音一つしない。 珠子「それであの、お世話になったお礼は何  倍にもして返しますから、どうかもうしば  らくいさせて……」    突然襖が開き、驚く暇もなく、珠子が    部屋に引きずり込まれる。 ○ 亀田の部屋    布団の上に投げ出され、押さえ付けら    れる珠子。    怒りに燃える亀田の目。    珠子、スタンドの明かりで見る亀田の    形相の凄まじさに声も出ない。 亀田「わいはなあ、おまはんを嫁にしてもえ  え、思とったんや。それがなんやと? 将  校と婚約? ……わいは、この世で軍人が  一番嫌いなんじゃ!」 珠子「ひっ……!」 亀田「軍隊がわいに何をしたと思う?」 ○ 軍隊の私的制裁    兵舎にて。    新兵が一列に並んで、ドスッ、という    音と共に、首を竦めている。    足を開き、両手を挙げ、尻を突き出す    ように前屈みになった亀田、上半身裸    で汗だくの上官に、『軍人精神注入棒』    と書かれた直心棒で、思いっきり尻を    殴られている。    食いしばる歯の隙間から、うめき声が    漏れる。    二発、三発と制裁がくり返されていく。 亀田の声「愛国精神を養うんじゃなんやと、  毎晩尻が紫色になるまで棒で殴られたわ。  ある晩、あたり所が悪うてな……」    上官の手元が狂い、尾てい骨に直心棒    が直撃する。    上官、しまったという顔。    海老のように体を丸め、痙攣する亀田。    別の上官が亀田の胸ぐらを掴み起こし、    頬を張ろうとするのを、殴った上官が    首を横に振って止める。 ○ 元の亀田の部屋    亀田、不自由な右足をポンポンと叩く。 亀田「……こんなみっともない身体にされて、  放り出されたわ。名誉の負傷で、一階級特  進やと。……阿呆くさ」 珠子「………」 亀田「わいはその時思たんじゃ。こんな軍隊、  滅んだらええ。大日本帝国なんぞ糞食らえ、  とっとと降参してしまえってな」 珠子「(咎めるように)そんな……」 亀田「わいは非国民か? そやけどなあ、戦  争始めた奴はのうのうと安全圏におって、  とばっちり食うのはいっつも前線の兵隊や」    亀田、珠子の顎を鷲掴む。 亀田「おまはんかって、戦争さえなかったら、  こないな目に遭わんで済んだのにのう……」    珠子に被いかぶさる亀田。 珠子「嫌! やっ! ちょっと待って!」    じたばたと暴れる珠子。    亀田、凄んで、 亀田「あんまり騒いだら、弟らに知れるぞ」 珠子「分かってます。分かってますから乱暴  せんといてください。こうなったら、うち  ももう、覚悟決めましたから」 亀田「ほんまか?」 珠子「ほんまです。にいやんの女になります」    力を緩める亀田。    珠子、襟を直して起き上がる。 亀田「どや、わいの嫁になるか?」    珠子、首を横に振る。 亀田「おまはんが傷物でもかめへんで」    珠子、亀田をキッと睨み、 珠子「あの人は、うちの手ぇ握る以上のこと  はしませんでした。そやから、うちはまだ  乙女です」 亀田「あほぬかせ。軍人ゆうもんは、子種残  すために婚約するんとちゃうんか?」 珠子「嘘かほんまか、どうせもうすぐ分かる  ことです。それより一つ、条件をつけさせ  てください」 亀田「なんや?」 珠子「ここでお世話になってる間は、うちの  ことどうしようと、にいやんの勝手です。  ほやけど、うちらがここを出たら、二人の  ことは、なかったことにしてください」    亀田、興味深気に、 亀田「ほう。なんもなかったことにして、ぬ  けぬけと結婚する、言うんか?」    珠子、亀田の目を見据え、 珠子「うちは、家族も守りたいし、親を泣か  すのも嫌や。……これは取り引きや。うち  の気持ちはにいやんに関係ないし、この後  どうしようが、うちの勝手や」    亀田、感心して、 亀田「おまはん、女にしとくには惜しいな」 珠子「うちもそう思います」    亀田が珠子の腕を掴む。    睨み合う二人。    亀田、突然弾かれたように笑い出す。 ○ 同・亀田の部屋    珠子に被さった掛け布団が、大きく盛    り上がり、もぞもぞと蠢いている。    珠子、布団から右手を出し、まじまじ    と運命線を見ている。    布団の動きがピタリと止まり、亀田が    にゅっと顔を出す。    ぎょっとする珠子。 亀田「こら」    上下で向き合う亀田と珠子。 亀田「何考えてた?」 珠子「な、なんも……」 亀田「嘘ついても分かるわい。他のこと考え  て、気ィ紛らわしとったやろ?」 珠子「………」 亀田「ええか、おまはんはわいのもんになる、  ゆうてんから、たとえ意に沿わん相手でも、  しっかり気ィ入れんかい」    亀田がどこかをつねったらしく、珠子    が顔をしかめる。    亀田、珠子の身体を撫でながら、 亀田「……今、わいの手はどこにある? ど  こを触っとる? ……集中してみ。おまは  ん、もっとええ女になれるわ」    目を閉じる珠子。    布団が波打つ。    珠子の身体が一瞬硬直し、低いうめき    声が漏れる。頬に一掬の涙。 ○ 南方の島・日本人捕虜収容所(夜)    バラ線を張り巡らされた窓から漏れる、    わずかな月明かりに照らされて眠る日    本人捕虜たち。    鳥や虫の鳴く声が聞こえている。    膝を抱えて眠る月島。髪も髭もさっぱ    りと刈られ、PW(Prisoner of war)    とペンキで書き殴られた、米軍兵士用    の中古の作業服を着せられている。    その襟元から、垢にまみれた紫色の紐    が覗いている。    突如、カッと目を開く月島。額一面に    脂汗が浮かんでいる。    月島、服の上から、胸に下げた御守り    をぎゅっと握る。     ○ 亀田家・土間(翌朝)    珠子が靴を履きながら、太一と紀子に、 珠子「ねえやん、田辺の様子見に行ってくる  からな。おいやんのお手伝いして、おとな  しゅう待ってんねんで」    うなずく太一。 紀子「ねえやん、おかやん連れてきてくれる?」 太一「なにゆうてんねん。ここのおいやんが、  おかやん置いてくれるわけないやろ」 珠子「大丈夫や。ねえやん、ちゃんと頼んど  いたから。絶対おかやん連れて戻ってくる  からな」 紀子「ほんま?!」 珠子「ああ、ほんまや。ほやから、ええ子に  しときや。太一、紀ちゃん頼んだで」 太一「まかしとき」    防空頭巾を背に、出て行く珠子。 ○ 瓦礫と化した町    ??を歩く珠子。    黒焦げになった死体が、道の脇に転がっ    ている。    折れた水道管から噴水が上がり、その    脇に、水を求めて集まったらしい人々    が、折り重なって死んでいる。    珠子の脇をトラックが走り抜ける。    荷台に満載された死体を見て、足を止    める珠子。 珠子「うっ……」    泣き出しそうになるのを必死に堪え、    歩き出す。その歩調が次第に早くなり、    家に向かって駆け出す。 ○ 花岡理髪店の前    家を見上げる珠子。    二階があったはずの場所には、ぽっか    りと入道雲が浮かんでいる。 珠子「おかやん!」    店に飛び込み、住居側へ。 珠子「なんや……これ……?」    二階から落ちて来た廃材が、床に山を    築いている。 珠子「おかやん! おかやん! どこ?!」    家の中を一周し、表に飛び出す。    とたんに誰かにぶつかり、弾き飛ばさ    れる。    のっそりと、清次が立っている。 珠子「清ちゃんにいやん?!」    清次、うつむいたまま、 清次「た、珠ちゃん……、わ、わいについて  きて……」    清次、珠子に背を向けて歩きだす。 ○ 小学校の校庭       被災した人々が手当てを受け、避難し    ている。    清次、頭に包帯を巻いた、一人の女の    元へ近付く。 珠子「おかやん!」    駆け寄る珠子。……が、振り向いたの    はミツ子である。頭だけでなく、左腕    も包帯で吊っている。 珠子「おかあ……さん……?」    ミツ子、涙目で、 ミツ子「覚えててくれたんか? まあ珠ちゃ  ん、ええ娘さんになって……」 珠子「おばやん、おかやんは? 一緒やの?」    ミツ子、黙って首を横に振る。何かを    くるんだハンカチを右手で取り出し、    珠子に握らせる。 珠子「……?」    珠子がハンカチを開くと、一房の髪が    現れる。 珠子「!」 ミツ子「爆風に遭うた時、二階におってな……。  あんたの居場所が分からんかったから、今  朝、埋葬してもろうた」 珠子「う……そ……」    珠子、懇願するようにミツ子を見て、 珠子「嘘やろ、おばやん……」    ミツ子、首を横に振る。    珠子、眼を見開き、??絶叫。 珠子「なんでー?! なんでやっ、なんでお  かやんがーッ!」 ミツ子「……(瞼を伏せる)」    珠子、震える掌を見つめ、ガクンと膝    を落とす。 珠子「あ……あああ……ああ……」    己の髪をかき乱し、声にならない悲鳴    を上げる。    清次、しゃがみ込み、ぎこちない仕種    で珠子の肩を抱く。 ○ 亀田家・板の間(夜)    白飯とたくあんだけの夕食を、ぼそぼ    そと食べている紀子。 紀子「にいやん、昨日のごはんはおいしかっ  たなぁ」 太一「しっ……」    玄関に聞き耳を立てている太一。 亀田の声「なんと言われようと、知ったこっ  ちゃないわい」 ○ 同・土間    亀田が、土間に立つ隣組長を見下ろし    ている。 隣組長「そないなこと言わんとよ。……軍隊  で怪我させられたことは気の毒や思うけど、  焼け出されて逃げて来た人に罪はないろ?  食べるもん、分けてやってくれんかのう?」 亀田「お断りじゃ。おまはんらが陰で、なん  ちゅうて噂してるか、知らんと思てるんか?」 隣組長「………」 亀田「わいはな、戦争の尻拭いなんぞ、一切  する気はないで。米一粒たりともな!」 隣組長「そない意固地にならんと……」 亀田「なにがや? わいは意地張ってゆうて  るんやない、意志を通しとるんや。(思い  付いて)そや、戦争反対ゆうて叫んだやつ  には、恵んだってもええかのう」 隣組長「おまはん……。しまいに憲兵に連れ  て行かれるぞ」 亀田「(おかしそうに)はっ。憲兵なんぞ、  今頃あちこち逃げ回っとるわ。戦争が終わっ  たら、あいつらみんな犯罪者や」 隣組長「(憤り)日本が負ける、言うんか?」 亀田「あたりまえじゃ。おまはんの目ぇは節  穴か? もう日本中、ボロボロやないかッ!」    あざける口調とは裏腹に、亀田の拳が    悔しさに震えている。 ○ 同・板の間    食べかけの茶碗と箸を、膳に戻す太一。 紀子「にいやん、どないしたん?」 太一「わいは、非国民やない……」 ○ 小学校の校庭    大鍋で、隣組の人たちによる炊き出し    が行われ、人々がその前に列を作って    いる。    清次、校庭の隅に空ろに座る珠子に、    団子汁を差し出す。 清次「た、食べて」 珠子「……(無反応)」 ミツ子「しばらくそっとしといたり。そのう  ち嫌でもお腹は空くから」    両膝で椀を挟み、片手で器用に団子汁    をすするミツ子。逞しい。    校庭の反対側では、在郷軍人会のメン    バーが、死体を焼く準備をしている。 清次「珠ちゃん、わ、わい、阿呆やから、兵  隊になれんかった。いっつも、は、恥ずか  しかった。そやけど……」 珠子「………」 清次「こ、こんなこと、わい、でけへん。わ  い、人殺し、いやや。あないなって、し、  死ぬのも、いやや……」    真っ黒な煙りが上がり始める。    徐々に珠子の瞳の焦点が合い、涙がブ    ワリと膨れ上がる。 ○ 亀田家・畑    草むしりをしている太一と紀子。腰に    ぶら下げた非常袋から、煎り豆を取り    出してはボリボリと齧っている。 紀子「ねえやん、どうしたんやろ?」    無視する太一。不機嫌である。 紀子「このままねえやんまで帰ってけえへん  かったら、うちらどないしよ?」 太一「あほっ、そんなことあるか」 紀子「ほやけど……」    紀子、非常袋の中をごそごそいじり、 紀子「にいやん、どないしよ?」 太一「(イラついて)ほやから、そんなこと  ないってゆうとるやろっ」    紀子、ベソをかいて、 紀子「違うねん。うちのお豆さん、終わって  しもた」 太一「(あきれて)知るかっ、そんなもん」 紀子「……もしもの時のために、取っとかな  あかんて言われてたのに……」    太一、大きな溜息をつき、 太一「わいなんか、夕べからこれだけで食い  繋いでんのに……」    豆を一掴み、紀子の袋に入れてやる。 紀子「にいやん、おおきに」    にっこりと笑う紀子。 珠子の声「紀ちゃーんっ、太一ーっ!」    太一と紀子、声のした方を振り向く。    やつれて、煤だらけになった珠子が、    よろよろと駆けてくる。 紀子「ねえやん!」    走り出す紀子。    太一も駆け出そうとするが、トキの姿    がないことを不審に思い、動けない。    紀子が珠子に抱きつき、二人で太一の    元へやってくる。    珠子、息を切らしながら、 珠子「ごめんなぁ、昨日中に帰るつもりやっ  てんけど……」 太一「おかやんは?」 珠子「田辺で待ってる」 太一「待ってるて……?」 珠子「田辺に帰るで」 太一「帰れんの?!」 珠子「家は無事や。アメリカさんも、海兵団  潰してしもたら、もう田辺に用はなくなっ  たみたいで、空襲のくの字もなかったわ」    太一、躍り上がって、 太一「やったぁ! 帰れるんや!」 紀子「帰れるんや!」    畑の上を飛び跳ねる、太一と紀子。    珠子、二人をせつなげに見守っている。 亀田の声「帰るんか?」    ハッと振り返る珠子。    作業着を着た亀田が立っている。 珠子「すいません。弟ら、預けっぱなしで……」 亀田「………」    珠子、太一たちに、 珠子「ちょっとにいやんと話あるから、おま  はんら、荷物まとめとき」 太一と紀子「うんっ」    二人、家に入る。    珠子、亀田に向き直り、 珠子「あの、ほんまにお世話になりました。  おかげで命拾いしました」    亀田、珠子を凝視する。 亀田「おばやんは?」 珠子「えっ……?」 亀田「無事やったんか?」 珠子「………」 亀田「そうか……」    亀田、珠子に背を向け、 亀田「ちょっと待ってろや」    家に入って行く。    青空を見上げる珠子。    山の稜線にみかん畑、鳥の鳴き声。    のどかな風景に涙ぐみそうになるのを、    慌ててすすり上げる珠子。    亀田、米袋を持って戻ってくる。 亀田「持ってけ」    珠子、キッと亀田を睨み、 珠子「償いのつもりですか?」 亀田「阿呆か。なんでわいがおまはんに償わ  なあかんねん? 水揚げ代の残りじゃ」 珠子「……(睨む)」 亀田「要らんのか?」    珠子、ぷッと吹き出して、クスクスと    笑い出す。 亀田「なんな? 何がおかしい?」    珠子、滲んだ涙を拭いながら、 珠子「うち、小さい頃、芸者に売られかけた  ことあるんです。ほやから、どっちみちこ  んな運命やったんかと思て……」 亀田「こんなって、どんなや?」 珠子「好きな人と添われへん、ゆうことです」 亀田「………」    珠子、米袋を受け取って、 珠子「そういうことなら、遠慮のう……」    にっこり笑う。亀田に背を向けた途端、    笑顔がかき消える。 ○ 花岡理髪店の前    珠子、太一、紀子が、崩壊した店の前    に並び立つ。 太一「ねえやん……。これでも、無事やて言  うんか?」    珠子、膝を折って太一を見上げ、 珠子「あんな、太一。ねえやん、嘘ついたわ  けやない。おかやん、ほんまにおまはんら  を待ってる。ほやけど、おかやん、な……」 太一「おかやんがどうしたんや?!」 珠子「おかやん……灰になってもうたわ……」 太一「!……嘘やッ!」    珠子、太一の腕をしっかり掴んで、 珠子「嘘やない。おかやん、二階で爆風に遭  うてな……」    珠子を振り切り、店に飛び込む太一。    紀子、珠子の袖を掴んで揺さぶり、 紀子「ねえやん、どないしたん? はよ中に  入ろうな」    ミツ子が心配そうに、店の中から顔を    出す。    珠子、ミツ子にうなずきかけながら、 珠子「(紀子に)そやな……」 ○ 同・茶の間    にわかづくりの神棚の前に立つ、珠子、    ミツ子、太一、紀子。    珠子、トキの髪の入った包みを神棚に    供え、手を合わせる。 珠子「おかやん、太一ら無事連れて帰って来  たで。……一緒に頑張るから、見ててな」    太一、ぶるぶると拳を震わせ、 太一「あいつが……あのおいやんが、おかや  ん追い返したからや……」 珠子「阿呆言いな。あのおいやんが引き受け  てくれへんかったら、うちらもどないなっ  てたか……」 太一「けど、あと一人ぐらい……っ」 珠子「あんたの気持ちは分かるけどな、そや  けど、これが戦争や。……どんな理不尽な  ことが起きても、我慢するしかないんやっ」 ミツ子「トキねえちゃんは、おまはんらを守っ  てくれたんやで」 太一「………」    紀子、珠子の服の裾をひっぱる。 紀子「ねえやん、おかやんは?」 太一「おかやんは死んだ! 死んでしもたん  じゃ! 会いとうても、もう二度と会えん  のじゃ!」 珠子「太一っ!」    紀子、顔をくしゃくしゃにして、火が    着いたように泣きじゃくる。 紀子「おかやぁーん……おかやぁーん……」    紀子を抱き締める珠子。太一にも手を    差し伸べる。    太一、咽をひくつかせ、 太一「うわぁー!」    こらえきれず、珠子の胸に飛び込む。    二人を抱き締め、悲痛な表情の珠子。 ○ 花岡理髪店・玄関跡    廃材を積んだリヤカーを引いて帰って    来る、珠子、太一、清次。    皆、汗と埃でドロドロである。    粥を作っているミツ子と紀子。    ミツ子はまだ片手を吊っている。使え    る右手で皆に茶碗を渡す。 ミツ子「お帰り。ようお勤め……やのうて、  お疲れさん」 珠子「(笑って)ただいま。(皆に)ほな、  ちょっと休もか」 ミツ子「紀ちゃん、お願い」 紀子「はぁい」    紀子、ヤカンの水を皆に配る。       廃材に腰掛ける珠子とミツ子。 珠子「怪我してんのに手伝うてもろて」 ミツ子「なにゆうてんの。うちこそやっかい  かけてんのに……」 珠子「治ったらどうするん?」 ミツ子「そやなあ。左手の腱切れてしもたか  ら、踊りも三味線もあかんし、額の傷は残  る言うし。戦争終わったら、芸者は廃業し  て、置き屋一本でやろかな」 珠子「そやけど、家焼けてしもてんやろ?  ここで一緒に暮らせへん? うちもその方  が心強いし……」    ミツ子、首を横に振る。 ミツ子「それは……ねえやんが許さんやろ」 珠子「おとやんとのことか?」 ミツ子「(首を竦ませて)覚えてたんか」    うなずく珠子。    ミツ子、遠くを見て、 ミツ子「にいさんが帰って来たところで、今  さらどうとゆうこともないけど、なんや後  ろめとうてな……」    太一が、空になったヤカンを紀子から    取り上げ、水を汲みに行こうとする。    紀子、自分の役目とばかりに、怒って    太一を追い掛ける。    紀子を懸命になだめる清次。 珠子「人間って逞しいもんやな。……おかや  んが死んで、めちゃめちゃ辛いのに、うち  らなんでこんな一所懸命働けてんのやろ?」    黙って微笑むミツ子。 珠子「あんな小さい紀ちゃんでさえ、泣き言  ひとつ言わんと……」 ミツ子「生きなあかんからな。……何があっ  ても、人は一生懸命生きていかなあかん」 珠子「なんで?」 ミツ子「そらせっかく生まれて来たんやもん。  死んだらもったいないやんか」 珠子「そやけど、兵隊さんらは御国のために、  命捨てる覚悟で戦うてるやん」 ミツ子「それで納得してはる人はええかも知  れんけど、死にたないのに無理矢理連れて  行かれた人は気の毒や」 珠子「うん……」 ミツ子「うちが死ぬ時はなあ、寿命が来て、  『おおきに、ええ人生過ごさせてもらいま  した』ゆうて、笑うて死ぬって決めてるん  や。戦争なんかで死んだらあかん……」 ○ 花岡理髪店・店内    とりあえず修理された店内。    近所の人々が、ラジオの前に集まって    いる。 T 1945年(昭和二十年)八月十五日    珠子、緊張の面持ちでラジオをチュー    ニングしている。    包帯が取れたミツ子もいる。    太一と紀子、散髪台に座ってこの様子    を見学している。二人、ひそひそと、 紀子「今から何があんの?」 太一「天皇陛下の御声が聞けるらしいで」    柴崎、時計を見ながら、 柴崎「そろそろ正午や。よっしゃみんな、ラ  ジオに向かって頭下げろ!」    一同、深々と頭を下げる。    玉音放送が始まる。 ラジオの声「朕、深く世界の大勢と帝国の現  状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾  せしむと欲し、……」    人々、次第にすすり泣きを始める。    紀子、吃驚して、太一にこっそりと、 紀子「みんななんで泣いてんの?」    太一も首をかしげ、 太一「さあ? 雑音だらけやし、何言うてん  のか、いっこも分かれへん」    珠子、二人に近付き、抱き締める。 珠子「日本がな、戦争に負けたんやて……」 太一「そんな阿呆な……。日本が負けるやな  んて……」 柴崎「うるさい! 黙れ!」 ラジオの声「…堪え難きを堪え、忍び難きを  忍び、以て万世の為に大平を開かむと欲す」    柴崎、うおーっと叫び、 柴崎「天皇陛下はっ? 日本はこれからどう  なるんや?!」 紀子「おとやんは? おとやん帰ってくるん?」 太一「負けたっちゅうことは、全員捕まって  皆殺しか?」 珠子「阿呆なこと言いな。……大丈夫や。戦  争が終わってんから、おとやんも月島さん  も、みんな無事に帰って来る」 ○ 花岡理髪店の前(朝)    頭の取れたアメン棒を、扉から引きず    り出している太一。    紀子も出て来て、 紀子「うちも手伝うーっ」    アメン棒にしがみつく。 太一「阿呆っ、かえって重いわい」    太一、とっととアメン棒を立ててしま    う。 紀子「このアメン棒、回らへんの?」 太一「ああ、壊れてしもた。……行こら」    紀子の手を引き、学校に向かう太一。    その横を、米軍のジープが通り過ぎる。 ○ 同・店内    ガラス越しに、遠い瞳でアメン棒を眺    めている珠子。    ふと壁のカレンダーに目を止め、日付    けを指折り数え始める。    カランカランと、扉についたベルが鳴    る。    珠子、振り返りながら、 珠子「いらっしゃいませ」    黒い影がサッと店の奥まで走り抜ける。    影の正体を見て、息を飲む珠子。 珠子「月島さん……っ」    薄汚れたジャンパーを着た月島、げっ    そりと痩せ、無精髭を生やしている。    表から見えない位置に身を潜ませ、 月島「(小声で)MPに追われています。店  を閉めてくださいっ」    珠子、急いで店のカーテンを閉める。    最後に扉の鍵をかけると、月島がホッ       としたように立ち上がる。    珠子、振り返り、緊張した面持ちで、 珠子「どうぞこちらへ」    月島、風呂敷でくるんだ棒状の物(軍    刀)を手に、住居に続く戸口をくぐる。 ○ 同・茶の間    軍刀を脇に置いて正座する月島の前に、    手拭いと水を置く珠子。    月島、ゴクリと咽を鳴らし、一気に水    を飲み干す。    ほぅーっと息をつき、珠子を見返る。 月島「ご家族は? どうされました?」 珠子「父は出征したまま、まだ戻ってきませ  ん。弟たちは学校です。母は……空襲で死  にました」 月島「叔母さんが、亡くなったのですか……」    顔を伏せる月島。    珠子、改まって両手をつき、 珠子「ようお戻りになられました」    珠子を見つめる月島。視線が熱い。 珠子「あの……なぜMPに?」    月島、ぶるぶると唇を震わせ、 月島「……南方の島で、私たちの師団は基地  を死守するよう命じられました。だが、補  給路を断たれ、食料と弾丸の尽きた我々は、  退却するしかなかった。……地獄の道程で  した。飢えと病と敵の銃弾に苦しみ、バタ  バタと仲間が死んでいきました。捕らえて  いた捕虜も死に、それが、戦後の調査で、  我々が殺したと……」 珠子「病死、だったんですよね?」    月島、それには答えず、 月島「捕まれば裁判にかけられ、恐らく死刑  になります」 珠子「戦犯ですか?!」    うなずく月島。 月島「日本が負けたと分かった時、潔く自決  しようと思いました。けれど……」    月島、膝に乗せた拳をぐっと握りしめ、 月島「あなたに会いたくて……あなたの無事  をどうしても確かめたくて、生き恥をさら  し、こうして戻ってきました」 珠子「月島さん……(辛い)」    月島、珠子の手を取る。 月島「良かった……あなたが無事で……」    珠子、月島の手を振りきり、 珠子「うちはっ、月島さんに思てもらう資格  がないんです!」    うっと息を詰まらせ、茶の間を飛び出    す。 月島「珠子さん!」    珠子を追う月島。 ○ 同・店内    取り乱した珠子が扉の鍵に手をかける。    月島、背後から珠子を捕らえる。 珠子「離してっ!」 月島「何があったんです?!」    珠子、もがいて月島から逃れると、剃    刀を掴み、刃を自分に向ける。 月島「珠子さん?!」 珠子「寄らんといてッ! うちは酷い女ですっ。  もう、うちのことは忘れてください!」    珠子、滲む瞳で刃を見つめ、ウウッ!    と唸ったかと思うと、剃刀を鏡に叩き    付ける。    蜘蛛の巣状にひび割れる鏡。    珠子、ハァハァと荒い息をして、 珠子「うちの、お腹には、やや子がいてます」 月島「!」 珠子「飢えへんために、操を捨てたんです。  無理強いやのうて、納得ずくで、家族を守  るために……」    月島の手が、激しく戦慄く。 珠子「うちはひとでなしです……月島さんの  思いを守りきれませんでした」 月島「飢えないために……。そう、ですか……」    月島、くっと顔を上げ、 月島「分かりました。その男に会わせてくだ  さい」 珠子「(驚いて)会うて、どうしはるつもり  ですか?!」    月島、ぞろりと己の顎を撫で、 月島「……髭を、あたってもらえませんか?」 ○ 同・店内    真剣な面持ちで、月島の髭を剃ってい    る珠子。    月島、珠子の指の感触を楽しむかのよ    うに、穏やかな表情で目を閉じている。    髭を剃り終え、珠子がコトリ、と剃刀    を置く。    痩せて、精悍さを増した月島の顔立ち。    珠子、吸い寄せられるように月島の唇    にくちづけて……、己の行動に驚き、    はっと目を開ける。    月島が、無表情に珠子を見つめている。 珠子「あ……」    両手で口元を隠し、後ずさる珠子。    月島、珠子の腕を掴んで顔を覗き込む。    珠子、頬を真っ赤に染めながら、 珠子「ごっ……ごめんなさい! そやけど、  うちの唇はまだ、誰にも……」 月島「……!」    一瞬、激情に駆られて珠子を抱き寄せ    かけた月島だが、思いとどまって珠子    を押し戻し、顔を背ける。    絶望感に打ちのめされる珠子。 ○ 亀田家・板の間    囲炉裏の側で、鎌の手入れをしている    亀田。    軍靴の音が響き、軍刀を提げた月島が    入って来る。 亀田「誰や?」    亀田、月島の背後にいる珠子を見て、    あざけるようにフンッと笑う。 亀田「なんじゃ、バレたんか」 月島「(とぼけて)なんだ、人間じゃないか」 亀田「なんやと?」 月島「弱味に付け込んで珠子さんを犯し、妊  娠までさせるとは、どんな畜生かと思った  ら……」 亀田「妊娠……? (珠子に)ほんまか?!」    うなずく珠子。腹に手をやり、 珠子「うちは、この子を産みます」 亀田「(憮然と)ほいで、わいにどないせえ  ゆうねん? 金か? 引き取れゆうんやっ  たらかまんで。跡取りにできるかも知れん  しの」 珠子「(カッとなって)この子はうちの子やっ。  にいやんには関係ないっ」 亀田「ほならいったい何しにきてん?」 月島「決着をつけにですよ」    月島、スラリと軍刀を抜く。 珠子「(驚いて)月島さん?!」    亀田、鎌を握り直し、 亀田「わいを斬る気か?!」    裏口から、野菜を持って入って来たふ    さ、この光景を見て腰を抜かす。 月島「(冷やかに)珠子さん、どうします?」 珠子「うちはっ、そんな……っ」    珠子、月島の腕にすがり、激しく首を    横に振る。    月島、亀田を見据えたまま、 月島「……あなたを純潔なまま残していった  のは、僕の過ちでした。僕は、あまりにも  重いものをあなたに背負わせた」 珠子「月島さん……(嬉しい)」 月島「僕は、あなたに償いたい。……さあ、  言ってください。あなたの本心を……」 珠子「本、心……?」      珠子、亀田を見る。 亀田「な、なんやねん? お互い納得ずくやっ  たんちゃうんか?!」 珠子「……(見る)」 亀田「おまはん、子供産む、言うたな。父親  はわいやぞ。母親が父親殺させる、言うん  か? そんなことして、生まれて来る子に  顔向けできるんかっ?」    珠子の顔から、すぅーっと表情が消え    る。    亀田、ぞっとして、 亀田「待て! 妊娠させたんはわいが悪かっ  た。……そやけどやな、おまはんがその男  の話なんぞ持ち出せへんかったら、わいも  無理無体にあないな真似……」 珠子「え……?」 亀田「あの晩わいは、結婚申し込むつもりで  おまはんを呼んだんや。それがいきなり、  わいの相手はでけへんの、陸軍将校と婚約  してるの言い出して……。そら、冷静では  おれんやろがっ?」    珠子の視線が宙を泳ぐ。震える声で、 珠子「ほな、うちを抱いたんは、腹いせやっ  たって言うんですか? 早とちりしたうち  が阿呆やったって……。(ふさを見て)そ  やかて、あのお膳……」    珠子の視線を避けるふさ。 ふさ「あそこまでしたら、あんたが、断りに  くなる、思て……」 亀田「おかやん責めんなや。あんなもんで、  どうこうできるとは思てへんかったわい」 月島「(吐き捨てるように)……欺瞞だ」 珠子「あんな……もん……やて……? ほな  うちは……いったい……なんのために……」    珠子の肩が激しく上下する。血走った    眼でキッと亀田を見据え、 珠子「斬ってくださいッ!」 亀田「げっ!」    珠子、狂気を孕んだ様子で、亀田に向    かって大股で歩き出す。亀田を指差し、 珠子「斬って! こいつを殺して!」    かと思うと、突如月島の方に向き直り、 珠子「うちもや! うちも殺してぇーッ!」    叫びながら月島の懐に飛び込み、軍刀    を奪い取る。 月島「珠子さんっ!」    珠子、軍刀を己の脇腹に引き付け、 珠子「キアァーアッ!」    気合いもろとも亀田めがけて突きをく    り出す。 亀田「ひぇーッ!」    亀田、夢中で鎌を薙ぐ。    ダンッ!    鎌は軍刀を弾き、方向を変えた刃は亀    田の頬を裂き、壁に突き刺さった。    横目で刃を追い、肝を冷やす亀田。    両腕をだらりと垂れ、放心状態の珠子。    月島、壁に刺さった軍刀を引き抜くと、 月島「(穏やかに)直前で躊躇しましたね?   ……やはりあなたに、人殺しは無理です」    珠子、両の掌で顔を覆う。    ドカドカと軍靴の音が迫り、白人と日    系二世のMPが入って来る。 二世兵「月島少尉、捕虜殺害の罪により、逮  捕するっ」 月島「来たか」    月島、ニヤリと笑い、屋敷の奥に走る。 白人兵「Wait!」 二世兵「待ちなさい!」    小銃を構えるMPたち。 珠子「逃げてぇッ!」    珠子、二人の前に立ちはだかる。 二世兵「邪魔すると撃つぞ!」     白人兵、珠子を払い除ける。    壁にぶつかり、倒れる珠子。 亀田「大丈夫かっ?」    亀田、珠子を抱え起こす。 珠子「離してッ!」    珠子、駆ける。        ○ 同・奥座敷    MPたちが襖を開く。    月島、床の間を背に片膝をつき、軍刀    の切っ先を己の腹に当てたまま、MP    を睨み付ける。    立ちすくむMPたち。 二世兵「自殺はいけませんっ」 月島「やかましい! 誰が貴様らになぞ……」    月島、刀を両手で握る。 珠子「駄目ーッ!」     駆け込む珠子。だが…… 月島「ふんッ!」    月島、脇腹に刀を突き立てた!    一気に刀を押し込み、さらに横一文字    に腹をかっさばく。ぐはっと血を吐き、    MPたちを睨み上げる月島。    後ずさるMP。 珠子「いやぁーッ!」    月島を抱きとめる珠子。そのまま二人    して、ずるずると崩れ落ちる。 珠子「月島さん……っ!」    月島の手を握る珠子。    月島、うっすらと目を開き、虫の息で、 月島「これで……いいんです……。最初から、  あなたに会えれば、死ぬつもりでした……」 珠子「なん、で……っ」 月島「僕は……敵兵ばかりか、仲間も大勢殺  した……。時間をかけて野垂れ死ぬより、  いっそ、一思いに楽にしてやりたくて……。  共に戦ってきた戦友を、この手で……っ。  僕こそっ、ひとでなしだ……ッ!」    珠子、首を横に振り、 珠子「うちが月島さんでもそうしてます!  きっとその人たちも、月島さんに感謝して  死にはったと思います」 月島「それだけじゃない……。僕は……捕虜  を、食った」 珠子「!」    珠子、二世兵を見返る。 二世兵「彼の上官が、猿の肉と偽って、部下  に食べさせたと自白した」 珠子「(狼狽えて)そんなこと……うちは……。  いえ、うちも、その場になったら……」 月島「あ、ありがとう……」    月島、続く言葉を閉じ込めるように、    血にまみれた人さし指で、珠子の唇の    中心に触れる。    紅を指したごとく、可憐に染まる珠子    の唇。    月島、愛おし気に目を細め、 月島「あなたに……会えて……よか、た……」    息絶える。 珠子「俊郎さんーッ!」    月島に縋って慟哭する珠子。    帽子を胸に、立ち尽くすMPたち。    亀田、廊下に佇み合掌する。 ○ 花岡理髪店の前(夕方)    月島の軍刀と遺骨を提げたミツ子を、    珠子が送り出している。 ミツ子「ほな、行くわな。熊野まではだいぶ  あるけど、名誉あるお役目や」 珠子「月島さんのお母さんに、よろしゅう伝  えてな」    去ってゆくミツ子を、いつまでも見送    る珠子。 ○ 焼跡の一本道    ミツ子、復員服姿の男とすれ違う。    ふと気になって、男の後ろ姿を見る。    杖をついてよろよろと歩いてゆく男。 ミツ子「……?」 ○ 花岡理髪店・店内    皮ベルトで剃刀を研いでいる珠子。 ○ 同・表    アメン棒をぎこちなく触る、汚れた手。 ○ 同・店内    扉の向こうに人影が立つ。 健一の声「ごめんください。花岡理髪店はこ  こやろか?」    珠子、ハッと顔を上げ、扉を開ける。    黒眼鏡に杖をついた、復員服姿の健一    が立っている。 珠子「おとやん……っ」 健一「なんな、珠子か」    健一が黒眼鏡を外す。目の玉全体が、    白い膜で覆われている。 珠子「!」    健一、ぐっと目を凝らすが、やはり見    えないらしく、しょんぼりと黒眼鏡を    かける。 珠子「……見え……へんの?」 健一「そやねん。おとやん、えらいさんの散  髪ばっかりしとって、戦わんでええと思とっ  たら、爆風でガラスが目に刺さってな。帰  るのにえらい時間かかったわ……」 珠子「……(切ない)」    太一と紀子、奥から出て来る。 太一「(健一に気付き)おとやん!」 紀子「おとやんや!」    二人、健一に抱きつく。 紀子「おとやん、お帰りーっ」 健一「ただいまぁ。……おかやんは? 中か?」 ○ 同・店内(夜)    理髪台に座っている珠子。鏡に写る自    分の顔を見ている。    思い立って掌を見、運命線を指で辿る。    健一が、引き戸をくぐり、壁を伝って    降りて来る。 健一「珠子、そこにおるんか?」    珠子、慌てて健一を支えに行く。 珠子「呼んでくれたら行くのに……」 健一「店の中見ときとうて……いや、見ると  は言わんなぁ。触りとうて、かな」    珠子、くすくすと笑い、 珠子「どっちでもええやん」    健一、店内を手で確認していく。 健一「おおおお、理髪台もちゃんとある。よ  うやってくれたな、珠子」    理髪台に腰掛ける健一。眼鏡を取って、 健一「どや、鏡にわい、写ってるか? まだ  男前か?」 珠子「(笑って)うん」 健一「ほな、男前なうちに、おかやんに会い  に行きたいなぁ。……こんな身体で長生き  してもしゃあないし」 珠子「何ゆうてんの。……そやおとやん、顔  剃ったるわ。さっぱりしたいやろ」 健一「そうか。嬉しいなぁ……」    珠子、石鹸を泡立て、健一の顔に塗る。    剃刀の研ぎ具合を手の甲に当てて確認    すると、髭をあたり始める。 健一「娘に顔剃ってもらう日が来るとはなぁ。  ……なかなかええもんやな」 珠子「うちも、おとやんに顔剃ってもらうん、  大好きやった」 健一「そやったなぁ。……そや、おまはんの  夢」 珠子「なに?」 健一「小さい頃、よう言うとったやろ? お  とやんと一緒に散髪屋する、て。……叶え  てやれんで悪かったな」 珠子「なんで? これからなんぼでもやれる  やないの」 健一「そやかて、わい……」    珠子、剃り終え、健一の顔をタオルで    拭う。 珠子「さ、交代や」 健一「交代て……」    珠子、健一を立たせて剃刀を持たせる。    自分でシャボンを顔に塗ると、健一の    左手を顎に導く。 珠子「ここが顎や。おとやんやったら手ぇの  感触で、顔ぐらい剃れるやろ?」 健一「おまはんなあ……鼻削いでも知らんぞ」 珠子「かめへんかめへん」    健一、左手で珠子の顔の形を確かめな    がら、慎重に右手の剃刀を動かしてゆ    く。    珠子、突如嗚咽が込み上げ、唇を震わ    せる。涙が膨れ上がった瞬間、 珠子「(驚いて)あ……」 健一「なんな、どうした?」    珠子、自分の腹に手をやる。 珠子「今、ピクッて……」 健一「なにが?」    鏡に映る珠子の顔に、ゆっくりと微笑    みが拡がってゆく。名残りの涙が頬を    伝い、泣き笑いの表情に。    鏡の隅の暗がりに、アメン棒がひっそ    りと佇んでいる。                       終わり