「トタン屋根」 新井寧子 登場人物  渡辺咲 (35)主人公 大手電機メーカーのOL  吉田克也(43)咲の上司(課長)で不倫の相手  川島渉(19)浪人生  吉田恭子(39)吉田の妻  坂上千春(34)咲の同僚  渡辺みのり(33)咲の妹  渡辺瑞穂(4)みのりの娘  渡辺和枝(63)咲の母  渡辺健二(34)みのりの夫。婿に入ったので渡辺姓  高原(37)刑事  向井(42)恭子の弁護士  吉田翼(8)吉田の息子 ○病院・婦人科診察室   壁に寄せられた寝台脇のエコーを、婦人   科医(男性38)がじっと見つめている。   エコーの画面には白くぼんやりとした塊   がうつっている。   寝台に渡辺咲(35)が不安そうにお腹を   だして仰向けになっている。   咲のお腹をエコーがなぞっていく。 婦人科医「卵管の近くに出来ている・・出産  をご希望するなら残しますが・・これを取  るなら全摘しなくちゃいけないな・・」   寝台に寝ている咲に、エコーの画像を説   明する医師。 咲「全摘・・」 婦人科医「筋腫の大きさが32センチ、あと、  画面を指しながら)・・ここにも小さいけ  ど筋腫がある・・内膜症もあるし・・」   咲がおろおろして婦人科医を見ている。 婦人科医「(咲を見つめて)年齢とこれから  を考えて、結論を出して下さい」   咲の目線が宙を泳ぐ。    ○同・廊下   一台のストレッチャーを、看護婦Aとヘ   ルパーが囲んでガラガラ音を立てながら   運んでいる。   ストレッチャーに寝ている咲。   頬が緩んで、和やかに看護婦Aに語りか   けている。 咲「何だか、気持ちいい〜」 看護婦A「(優しく)さっき注射したのは、  ただの安定剤だよ。血圧が高い人とか眠れ  ない人が、飲んでいるのと同じのね」 咲「そうなんですか〜? 普段薬とか飲まな  いからあ(にた〜っと笑う)」 看護婦A「(おどけたように)安定剤で酔っ  ぱらった人、初めて見たわ」 咲「そお?・・(にたにた笑っている)」    ストレッチャーの後を、咲の会社の同僚   坂上千春(34)が不安げな表情でついて   きている。 ○同・廊下〜手術室入口   自動ドアが開いて、ストレッチャーが入   っていく。ドア前に取り残されるように   立ち尽くす千春。 ○同・手術室   スピーカーからユーミンの『魔法の鏡』   が流れている。   咲が、看護婦達に抱えられ、ストレッチ   ャーから手術台に乗せかえられている。   看護婦Aがカルテを見ながら、手術室の   看護婦や医師達に確認している。 看護婦A「渡辺 咲さん、35才、(咲の腕に  ついているネームバンドを確認しながら)  子宮筋腫のオペの方です」   咲がいきなりむっくり起き上がる。 咲「ね、なんでユーミンの曲なんかかかって  んの?」 手術室の看護婦「先生が、手術中リラックス  できるようにかけてるのよ」   手術室の看護婦が言いながら、咲を抱え   て横向きに寝かせてしまう。 麻酔科医師「背中、チクっとしますよ」   咲の背骨に脊髄麻酔の針が入っていく。 咲「全然、痛くないんだ〜」   咲がろれつが回らない状態で婦人科医に 咲「先生、オヤジなのに何でユーミン?」 婦人科医「(咲を覗き込んで笑いながら)オ  ヤジとは失敬だな。僕はまだ38だよ。君  と少ししか違わない」   麻酔科医師が吸入麻酔のマスクを咲にか   ぶせる。意識が遠のいていく咲。 ○同・手術室   医師や看護婦が咲を囲んで、手術が進ん   でいく。   『魔法の鏡』にかぶって、医療機器のモ   ニター音が規則正しくリズムを刻んでい   る。 ○タイトル   「トタン屋根」 ○病院・病室   四人部屋の窓際のベッドで寝ている咲。   咲のお腹に、看護婦Aが傷に消毒薬を塗   っている。   婦人科医が咲に笑顔で話している。 婦人科医「う〜ん。我ながら、きれいな傷  ・・」    にっこりとする婦人科医。 婦人科医「あとは内臓の癒着を防ぐために寝  返りを何回かうって下さい」 咲「・・これ・・残るんですか?」 婦人科医「しばらくは残るけど・何年かたて  ばきれいになるし、形成外科で見てもらう  のもいいですよ」   咲が不安げに傷を見ている。 婦人科医「まあ、ビキニは無理だけど・・も  う着ないでしょ(にっこり笑う)」   咲が婦人科医を、不満げな表情で見つめ   返す。 ○同(夕方)   千春が見舞いに来て、上半身を起こして   いる咲と喋っている。 咲「もう、私、数えちゃった。ホチキスが2  7個も刺さっているのよ。お腹に・・。縫  うって、糸かと思うでしょ? 違うんだよ」 千春「痛そうだね・・」 咲「(テンション高く)魚の骨っていうか、  線路っていうか・・で、痛いんだけど・・  身体全体が重くて痛くて、ホチキスで痛い  のかどうかわかんないよ」   千春が、うまい言葉が思いつかなくて困   ったような表情をする。 咲「(千春の表情に気がつき)課長、今度の  仕事、予算うまく取ってくれそう?」 千春「咲が帰ってきてから会議をするみたい  だよ。だから今わからないけど・・」 咲「そっか・・」 千春「そうだ・・課長が、日曜日に見舞いに  行くって言ってたよ」 咲「いいよ。来なくて。月曜退院だし」 千春「そうだよね・・これとばかしにお前の  ツラ見せるなって言いたいよ(笑う)」   咲がぼんやりとしている。 千春「(突然)ねえ、・・手術のこと御両親  に言わなくていいの?」 咲「(正気に返って、千春を見つめて)言わ  ないで! 絶対にダメ!」 千春「──ごめん・・」 ○同・廊下(日替わって・午前中)   看護婦Aがプリントと会計票の入ったフ   ァイルを持って咲の病室に入って行く。 ○同・病室   退院するために私服に着替えた咲。   足元に荷物の入ったボストンバッグ。   ベッドに座ってテレビを見ている。   看護婦Aが咲の所に来る。 看護婦A「渡辺さん、先生から説明は聞いて  いると思うけど、これ読んでおいてね。(  とプリントを渡す)あとこっちは受け付け  に出してお会計してもらってね。(ファイ  ルを渡す)」   プリントに   @湯船につかるのは手術後1ヶ月から。   それまではシャワーを使用。   A性交は手術後2ヶ月から。   など手術後の注意が書かれている。   読んでしまう咲。 看護婦A「(咲の肩を叩き)動くのは大切だ  けど、あまり無理しちゃダメよ」 咲「はい・・」 看護婦A「迎え、本当にいらないの?」 咲「・・ええ・・」 看護婦A「(足元のバッグを持って)玄関ま  で持っていくわよ」 咲「すみません・・」   大またで歩く看護婦Aの後をついて出る   咲。 ○咲のマンション・エントランス前   住宅地の中にある瀟洒な5階建てのマン   ション。   停車したタクシーから降りる咲。 ○同・エントランス   ポストから貯まった郵便物を取り出す咲。   光熱費の請求書などの他に、女性向けの   通販のカタログが入っている。 ○同・リビング   窓を開けて、風を入れている。   咲がソファーでゴロゴロしながら、通販   のカタログをパラパラ見ている。   夏の水着のページが出てくると、手を止   めてしまう。   そこに、若いモデルの滑らかな肌と笑顔。   いきなりカタログを閉じて、ゴミ箱に投   入れる咲。 ○同(夕方)   ソファーに仰向けで横たわる咲。   窓から夕陽が差し込む。   シャツをまくりあげ、お腹の傷を右手の   人差し指と中指で人が歩くようになぞっ   て歌いだす。 咲「(だるそうに)線路は続くよ〜どこまで  も〜」 ○咲の会社・ビル入口(日替わって・朝)   大手電気会社の自社ビル。   通勤する会社員達が足早に歩いている。   ゆっくり歩いている咲。   次々と人に抜かされてしまう。 ○同・オフィス   広いフロアにデスクとパソコンが何台も   並んでいるソフト会社のオフィス。   出勤してくるたくさん人達。ほとんどが   男性である。   もう仕事や打ち合わせを始めているグル   ープもいる。   咲が、テンポを落とした歩き方でオフィ   スに入って来る。   咲に後輩の和歌子(28)が気付く。 和歌子「渡辺さん・・」 咲「(笑って)おはよ!」 和歌子「もう、いいんですか?」 咲「いいの。内臓を癒着させないように医者  が動けって言うから」   咲が和歌子の隣の机につく。   自分のパソコンを立ち上げる咲。 和歌子「(こっそりと)今度のプロジェクト   の(咲のパソコンをいじりながら)この   人件費のファイルのパスワードなんです   けど」   和歌子がパスワード入力のところにカー   ソルを合わせる。 和歌子「(口真似して)問題だ!」   咲と和歌子が窓際にある課長の吉田克也   (43)の机をチラッと見る。 部下にジェスチャーを交えて指図してい   る吉田。 吉田「客にこんなに丁寧にやってやることは  ない! 予算わかってんのか?」   と若い男性社員に怒鳴る吉田。 吉田「問題だ!」   周りの、吉田に背を向けている社員達の   顔が渋い。   咲が笑いながら、キーボードを叩く。   パソコンから出るエラー音。 和歌子「『問題』のNは一つでお願いします」   咲が打ち直すと、きちんと表計算の画面   が出てくる。 ○同・会議室   テーブルに座っている咲と同僚達。   咲、千春、和歌子以外は全員男性である。   居眠りする者はいないが、いたずら書き   したり、指先でボールペンを回したりす   る者がいる。みんな退屈そうにしている。   売り上げらしきグラフが書かれたホワイ   トボードの脇に立ち、力を入れて喋って   いる吉田。 吉田「問題だ!」   和歌子が、咲や千春に向って声を出さず   に真似をしてみせる。   咲が、目をこすりながら吉田を見ている。 ○病院・廊下(入院中・咲の回想)   廊下で大きな窓にもたれて、咲と吉田が   話をしている。   咲が吉田に華奢なプラチナの指輪を、乱   暴に手渡す。 咲「もう、おしまい」 吉田「・・」 咲「だめ・・私の体・・」 吉田「そんな・・(咲を見つめている)」 咲「(涙を浮かべて)バチが当ったのよ」 吉田「・・(うつむく)」 咲「うちにも来ないで・・」   一人で病室へ戻る咲。 ○咲の会社・会議室(現在)   和歌子が座っているみんなにコーヒーを   配っている。   咲と千春がプリントの端で筆談している。 千春の文「予算900万で、2人で出張、5  人で3ヶ月かい」 咲の文「安ーっ! サービス残業 何時間か  い?」 千春の文「あいつ、客先から予算取れなかっ  たんだね」 咲の文「しっかりしろよ〜」 千春の文「彼、そとづらよすぎ」 咲の文「強いものに弱いのねえ」 ○咲のマンション・リビング(夜)   咲がパジャマ姿で、洗ったばかりの髪を   タオルで拭きながら入って来る。   テレビの前に、スウェット姿の吉田が座   って野球中継を見ている。   吉田の脇に腰を下ろす咲。 咲「これ見たら、帰れば?」 吉田「朝までいたっていいだろ?」 咲「あと、一ヶ月くらい何も、できないよ」 吉田「いいよ。そんなの」   咲が吉田の乳首をつまむ。 咲「(上目使いで)ほんとに、いいんだ」 吉田「・・イヤだけど」 咲「もし、Hできても、前とは違うよ」 吉田「違わないよー。気にしすぎだよ」 咲「だって、子宮全部取ったんだよ。傷だっ  てあるし・・」 吉田「な、セックスはプラトニックな部分だ  ってあるんだよ。(と咲を抱き寄せる)」 咲「何、頭悪そうなOLみたいなこと言って  んのよ」 吉田「俺は、あいつじゃ、もう立たないけど  お前がそばにいるだけで・・こんなに元気  (と咲に、目線で下半身へ促す)」   咲が極り悪い表情になる。   吉田が咲に濃いキスをする。 咲「(うつろな目で)・・不毛・・」   吉田が咲を抱き寄せる。 ○同・寝室(夜)   ベッドで寝ている吉田。   咲が寝付けずにベッドの下に座り込んで   いる。   いびきをかいている吉田。   毛布を持って立ち上がる咲。 ○同・リビング(夜)   少し開けた窓から風が入ってきている。   吉田のいびきが寝室から聞こえてくる。   毛布にくるまってうずくまった咲が、   コーヒーを飲んでいる。   空には明るい月。 ○同・エントランス前(咲の回想・朝)   ゴミを捨てに外に出てくる咲。   玄関の脇に、中年の女性が立っている。   アイロンのかかっていないブラウスを着   ていて、型崩れしたヴィトンのバッグを   かけている。黒いパンプスを履いていて   服装が全体的にちぐはぐしている。   咲の前に立ちはだかり、いきなり 女性「渡辺さんですか?」 ○エントランス前〜マンションのゴミ置き場 (回想)   咲がゴミを置きに行こうと、咲の脇へせ   まろうとする女性=吉田の妻、恭子(39)   を無視して早歩きする。   恭子はヒステリックに顔をピクピクさせ   て咲の後を歩いてついてくる。   ゴミを置いて、彼女を無視して立ち去る   咲。 ○マンションのゴミ置き場(回想) 咲の出したゴミの袋を開けて、中身をが   さごそ調べる恭子。   そこから、ティッシュやコンドームのフ   ィルムの切れ端を取り出し、咲を追って   走り出す。   電柱に止まっていたカラスが、やぶけた   ゴミ袋めがけて飛んでくる。 ○咲のマンション・エントランス前(回想)   咲が入ろうとすると、恭子がエントラン   ス前のゆるい階段を大またで登ってくる。   恭子が、咲の前に廻り込む。 恭子「(手にしたゴミを見せ付け)これは?」   咲がうろたえながらマンションに入ろう   とする。 恭子「こっちは、子供だっているんだからね」   咲のカットソーの裾をひっぱり、咲を止   めようとする。   咲がよろけて転んでしまう。   恭子が咲を見下ろし、 恭子「うちの人と別れなさいよ」   犬を連れていたり、通勤していたりする   人達が二人を見ている。   恭子が怖くて見上げられない咲。   震えている。 ○咲のマンション・リビング(現在・夜)   咲が毛布にくるまって静かに泣いている。   手で目を何度もこすっている。   毛布を口や頬に当ててよだれや涙を拭い   ている。   子供のよう。 ○同・寝室(明け方)   カーテンの隙間から朝日がさしこむ。   ベッドで目を覚ます吉田。   咲がいないことに気がつく。 ○同・リビング   毛布にくるまって寝ている咲を吉田が見   つける。   少し、寝顔を見つめたあと、そおっと咲   を抱き上げる。 ○同・寝室   ベッドに咲を寝かせる吉田。   静かに服を着替えて、部屋を出て行く。   気配に気がつき、薄目を開ける咲。   玄関のドアが閉まる音がする。 咲「・・ごめん・・」   寝返りを打ってまた眠る咲。 ○咲の会社・オフィス   仕事中。   みんな、パソコンに向って、プログラム   を打ち込んだり、電話で応対していたり、   ところどころで小さなミーティングをし   ている。   咲が資料を見ながら、プログラムを打ち   込んでいる。 窓際近くの机から、吉田が呼ぶ声がする。 吉田「渡辺さん」   手を止めて吉田の方を見る咲。   手招きをする吉田。   咲が立ち上がり、吉田の机へ行く。   吉田が資料を見ながら、咲に言う。 吉田「ねえ、渡辺さんは・・学生時代に放射  線取扱主任の試験、パスしたんだよね」 咲「ええ・・」 吉田「その免状はどこにあるの?」 咲「うちに・・」 吉田「(咲を遮り)実家にあるんだよね」 咲「いえ・・うちに・・」 吉田「(また遮り)そうだね」   何だろう? という顔をする咲。 吉田「工場で使うらしいんだ。今、持ってる  人が転勤して他にいないから、2、3ヶ月  名義を貸してやって、月に何回か工場に行  けばいいだけなんだけど・・」 咲「はあ」 吉田「明日、取りに帰ってくれないか?」 咲「わかりました」 吉田「一週間休んでいいから」 咲「え?」 吉田「手術後だろ。無理すんなよ」   咲がきょとんとする。 吉田「たまには実家に帰ってのんびりしろよ」 咲「いいんですか?」 吉田「いいって言っているじゃないか──」 咲「はい・・」   ×  ×  ×   咲が戻って自分の席につく。   向かいの机の千春が 千春「よかったじゃない」 咲「忙しいのに、いいのかな?」 千春「もっと休みを取るのが普通だよ。咲は  働きすぎ」   咲が微笑む。 千春「課長、珍しいね」 ○咲のマンション・リビング   放射線取扱主任の免許書が入った紙筒を   押入れの奥から引っ張り出す咲。   紙筒を開けて免許書を確かめる。   押入れを閉めようと顔を上げたとたん、   中からガラクタが崩れてくる。   そして、一枚の画用紙が丸まっているの   が落ちてくる。   拾い上げ、画用紙を広げる咲。   幼児が書いた人の絵が紙いっぱいに書か   れている。端に大人の字で『咲おばちゃ   んを書きました・みずほ』と書いてある。   懐かしそうな表情をする咲。 ○同・リビング(夕方)   咲が電話(コードレス)を掛けながら、   ボストンバッグに荷物を詰めている。 咲「お母さん、帰るから。明日。──そう。  課長がさ、たまには帰れって。──(話を  しばらく聞いている)──クビ?・・じゃ  ないよ。 ちがうって。──大学の時にと  った資格の免許証持ってこいだって。ほん  とはここにあるんだけど。せっかく休みく  れるんだから、まあ、いいかって──」 ○レストラン(夜10時頃)   広い店内の片隅。   音楽がうるさいくらいかかっていて、   OLのグループやカップルが食事してい   る。   お酒を飲みながら、カウンター席で話し   ている咲と吉田。   吉田の灰皿が煙草の吸殻の山になってい   る。肘をついて酔ったような感じで、貧   乏ゆすりをしている。   眠いのを我慢して相手をしている咲。 吉田「お前、明日、遅く起きんだろ」 咲「ん・・休みだから、当然」 吉田「本当に実家に帰るんだ」 咲「うん。せっかくだから・・悪いね」 吉田「・・ここもさ、飽きたから、別のとこ  つきあえよ」   咲が目をこすり、手を顔の前で組んであ   ごを乗せる。 咲「うちくる?」 吉田「悪いよ・・」   吸っていた煙草の火を灰皿にこすりつけ   て消す吉田。 咲「じゃ、テルホ」 吉田「余計やりたくなるから、いい」   咲が一瞬、目を覚ました表情になる。   吉田の顔を見ずに 咲「最近、そんなに帰りたくないんだ」 吉田「ああ」   咲がまた目をこする。 吉田「うちへ帰るとさ、子供の話ばっかりで」 咲「(からかい気味に)いいじゃないですか  〜。健全な家庭のあるべき姿だよ」 吉田「テストの点がどうだとか、誰々くんと  仲が悪くて困ってるとか、塾行かそうかだ  とか・・飯食ってる時にさ」   吉田が煙草を吸おうとするが、箱が空に   なっていることに気がつき、箱を潰す。 吉田「俺もさ、子供が嫌いってわけじゃない  けど」   咲が吉田の方を向く 吉田「でも、帰ったら、ゆっくり食べさせて  ほしいよな」   吉田が潰した箱をいじりだしている。 吉田「あいつ、すげえよく喋るんだ。話聞か  ないといけませんっていう風にさ・・何か  こう・・疲れちゃうんだ」   咲の目線が下へ向いている。 吉田「俺は、家庭に向いてないんだよ。ダメ  オヤジなんだよ」 咲「(半ばやけくそ気味に)違う、ダメ課長」 吉田「(正気になって咲に向って)何それ」   吉田が淋しそうな表情をする。 咲「・・ダメじゃないよ」 吉田「・・」 咲「多分、私の方が世間ではダメ女・・」 ○咲のマンションへの帰り道(真夜中)   住宅街の静かな道。   電灯や自動販売機がぼうっと光っている。   咲を送っていく吉田。 咲「お休みくれて、ありがと」 吉田「・・(頷く)」 咲「悪いねえ〜。プロジェクトの始めだから  やり残してることもないし、大丈夫だと思  うけど」 吉田「そんなのどうでもいいよ」 咲「・・?」 吉田「いつも、すまないと思ってる・・」 咲「・・急に、どうしたの?・・」 吉田「だから、本当にそう思って──」 咲「(吉田の言葉を遮るように)やめなよ」   急に咲が逃げるように走り出す。最初だ   け勢いよいが、体力がないのでふらふら   しながら走ってすぐ止まる。   振り返って吉田をまっすぐ見る咲。 ○咲のマンション・寝室(翌朝)   ぐっすり寝ている咲。   閉じられたカーテンの隙間から日が射し   ている。   九時を指している目覚ましが鳴る。   ぱっと起きてカーテンを開ける咲。   窓いっぱいに入ってくる朝日。 ○東京駅・東海道新幹線プラットホーム   ボストンバッグを足元に置き、ホームに   入って来る新幹線を待つ咲。 ○走る新幹線の車内   窓側の席で煙草を吸っている咲。   通路に車内販売の女の子がワゴンを押し   てくる。   手を上げ、呼び止めてビールを買う咲。   窓の外を見ながら缶を開けて飲みだす。 ○岡山駅・ホーム   停車した新幹線から、降りてくる咲。   駅に響くアナウンスや発車音。 ○走るバス・車中   バスに乗って外を見ている咲。   道の周りに広がる田や果樹園。   道行く人々。 ○果樹園沿いの道   果樹園のたくさんの桃の木には青々した   葉が茂っている。   ゆっくり歩く咲。   たまにボストンバッグを地面に置いて休   んでしまう。 ○咲の実家前   果樹園から少し離れた大きな一軒家。   一昔前に建てられた、サイディングがし   てある二階建てである。   家の前の細い道を歩いてくる咲。   ベランダはなく、二階の窓の前のトタン   屋根の上には布団が干されている。   そこで咲の姪っ子の瑞穂(4)が座って   ハーモニカを吹いて遊んでいる。   吹いたり、吸ったりかすれた音がする。   瑞穂に気がつく咲。 咲「(大きな声で)みーずーほー」   急に大きな声を出したので少し息が荒く   なる。   瑞穂が声のする方を見る。 瑞穂「・・おばちゃん!」 咲「ババは?」 瑞穂「呼んでくる!」   家の中に入っていく瑞穂。   まぶしそうに見ている咲。 ○咲の実家・玄関   咲が玄関の開き戸を開ける。   奥から(台所の方から)咲の母、和枝(6   3)が出てくる。 咲「ただいまー」 和枝「(笑顔で)おかえり。長旅ごくろうさ  ま」 咲「突然で、ごめんね」   咲が肩で息をしているのに気がつく和枝。 和枝「・・ねえ・・本当は何かあんの?」 咲「・・いや何も・・」   咲が急に素に戻ったような顔になる。 咲「突然、お盆でも正月でもない時、休暇や  るから行ってこいって言われても行くとこ  ないし・・」 和枝「・・(咲を心配そうに見つめる)」   咲が靴を脱いで上がる。和枝の側を通り   ぬけて台所に向う咲 咲「お茶もらうね」   上の方から瑞穂のぎこちないハーモニカ   の音が聞こえてくる。 ○同・トタン屋根   咲が窓枠をまたいで、トタン屋根に降り   て瑞穂の横に座る。   瑞穂の手を止めて咲を嬉しそうに見つめ   る。 咲「ね、おばちゃんに貸して」 瑞穂「いいよ」   咲がハーモニカをドレミファソラシドと   順番に吹いてみる。 咲「何か、これ随分、錆びてる味するねえ」 瑞穂「おともだちが吹いてるのほしいって言  ったらママがこれくれたの」   よく見ると、だいぶ古い。ハーモニカの   下にサインペンのかすれた字『ゆりぐみ   わたなべさき』が書いてある。 咲「・・これ・・おばちゃんが幼稚園の時の  だよ・・」   咲がハーモニカを吹く。   ゆっくり、ドレミファソラシドと音が出   る。 瑞穂「ね、また、瑞穂吹きたい」   瑞穂にハーモニカを渡す咲。 ○同・台所(夕方)   テーブルで咲、和枝、咲の妹みのり(33)   その夫の健二(34)、瑞穂が、夕食をと   っている。   テーブルの上にはご馳走が並んでいる。   ビールを飲みながら、ぷっと笑って噴出   してしまう咲。 咲「(へらへらして)そんな〜。 いやだよ」 健二「ちょっと若いって言っても、3つ年下  くらいよくある話だし、いい男だって」   咲の側に置いてある男性のスナップ写真。   咲があわてて、写真やテーブルにかかっ   たビールを台ぶきんで拭く。   咲のグラスにビールを注ぐ健二。 咲「(健二に)ありがと」 健二「(からかい気味に)お姉さまのような  綺麗な人が結婚しないなんてなあ、いやあ  〜もったいない(と言って自分のグラスに  ビールを注ぐ)」 咲「こっちに帰ってきても仕事ないからね〜」 健二「そこまで仕事しなくてもいいの。子供  できたら仕事なんて言ってられんよ。(み  のりに)なあ」 みのり「健ちゃん、お姉ちゃんはお姉ちゃん  の生活があるんだし・・」 和枝「でも、いい話だよ。いくら咲がいい大  学出て仕事してるからって言っても、女は  ねえ、もっと大切なことがあるんだよ」 咲「・・(へらへら笑ってる)」 みのり「母さん・・」 和枝「父さんだって、さぞ咲のことは心残り  だったと思うよ」 健二「お姉さんが突然帰ってくるって聞いて、  それも一週間いるって言うから・・。前か  らね、(写真を指して)こいつをよろしく  頼むってこの前、仕事手伝った時こいつの  母ちゃんに言われたんだよ」 ○同・咲の部屋(夜)   咲が高校を卒業するまで過ごした部屋。   机や本棚はそのままになっているが、   プラスティックのコンテナなども積まれ   て物置のようになっている。   トタン屋根へ出る窓辺で咲とみのりが二   人で話している。 みのり「本当に会うの?」 咲「会って健ちゃんの気がすむんならいいよ」 みのり「ごめんね。あの人、酒入るとしつこ  くて」 咲「いいよ。私お見合いってしたことないし」 みのり「お見合いってほどでもない相手じゃ  ない・・」 咲「そりゃ失礼だよ」 みのり「だって農協がらみだよ」 咲「30過ぎて、実家でお母さんと二人で住  んでんだからいい人なんだよ。きっと」 みのり「・・ねえ・・」 咲「(窓の外を見ながら)・・ん?」 みのり「本当に、こっち帰ってきなよ」 咲「(みのりの方を向いて)・・」 みのり「何か、疲れてそう」 咲「そっかな?」 みのり「少しくらいゆっくりして・・。役場  とかJAとか中途採用も多分あるよ」 咲「私、勇気がなかった」 みのり「え?」 咲「高校ん時、つきあってた人、覚えてる?」 みのり「後藤くん?」 咲「そう。大学の2次試験が終わって、東京  から帰ってきた次の日に、電話があってね」   咲が窓辺に腰掛け足を外へ出す。 咲「真夜中だよ、一時半にバイクでここへ迎  えに来たの」   みのりが咲を見る。 咲「笑っちゃうんだけど・・その時はやって  たフリフリのワンピース着て、父さんに見  つかんないようにここから飛び降りようと  したんだけど、裾が引っかかって切れるの  が怖くてできなかった・・」 みのり「・・(笑う)お姉ちゃんらしい」 ○喫茶店(翌日)   内装の古いこじんまりした喫茶店。   並んで座っている咲と健二のテーブル   の前に昨日の写真の男性、森田(32)   が一人でやってきて挨拶する。   着ているスーツが少しだぶついている。 森田「(緊張して大きな声)渡辺さん、今日  はよろしくお願いします(頭を下げる)」   咲が上目使いで会釈する。 健二「(笑って)まあ、そう固くならんと」 ○ボーリング場   席で待っている咲、みのり、健二。   レーンにいる森田が腕を大きく振って、   ボールを転がす。   ストライク。   森田が嬉しそうに、席に帰ってきて咲の   手にタッチする。 ○咲の実家・居間(夜)   枝豆やポテトチップをつまみながらビー   ルを飲む咲、みのり、健二。三人とも少   し酔っている。   野球中継が流れるテレビ。 健二「何がいかんの?」 咲「いい人過ぎるんだって」 健二「だったらいいでしょう。いい人過ぎた  って悪いことないでしょ?」 咲「私みたいにねえ、東京で汚い水に流され  て、擦り切れてドブねずみみたいになった  のは、ああいう人の奥さんになっちゃいけ  ないの」 みのり「(健二に)押しつけがましいわよ。  お姉ちゃんに合う人が一番なのよ」 健二「合う合わない考えるよりよお、何が一  番ハッピーかってことだよ」 みのり「だから、それが合う合わないってこ  とよ」   健二の肩を叩いて咲が言う 咲「君はハッピーなんだから、それでもうえ  えやん」   テレビから突然ホームランの音。   ジャイアンツの選手が広島市民球場のグ   ランドを走っている。 咲がテレビを見てポツッと言う。 咲「カープ弱い・・」   三人ともうなだれてしまう。 ○同・咲の部屋(朝)   雨戸が閉まって薄暗い。   咲がぐっすり寝ている。   掃除機の音で目を覚ます咲。 ○同・廊下   咲が目をこすってパジャマ姿で歩いてい   る。   窓を開けて掃除機をかけている和枝。 咲「母さん、早いよ」 和枝「もう、8時半だよ」 咲「・・(目をこすっている)」 和枝「みんな出ちゃったよ。瑞穂だってもう  起きて遊んでるよ」 咲「・・子供なのにえらいねえ・・」 和枝「あんた、そうだらしないからいつまで  も結婚できないのよ。まったくー、自分の  事しか考えてないんだから」 咲「うるさいなあ・・(あくび)」 ○同・台所   掃除機の音をバックに、パジャマのまま   流しで立ったままトーストを食べる咲。   後から瑞穂の声がする。 咲「おばちゃん、遊んで・・」   咲のパジャマの裾をひっぱる瑞穂。 ○同・トタン屋根   咲と瑞穂がシャボン玉を飛ばしている。 瑞穂「瑞穂も大っきいの飛ばしてみたい」   咲がゆっくりシャボン玉を大きく膨らま   す。ふわりと浮かぶ。 咲「こうやってね、ゆっくり膨らますんだよ。  やってごらん」 瑞穂「うん」   瑞穂がストローをもらって膨らますが   途中で割れる。 瑞穂「(足をばたばたさせながら)うまくい  かないよ〜(泣き出す)」 咲「何回も練習すればうまく行くよ」   瑞穂がまた膨らます。息が速くてうまく   いかない。細かいシャボン玉が飛ぶ。 瑞穂「もうやらない。やだ」   瑞穂がストローを乱暴にシャボン玉液に   刺しこんで、液が倒れてこぼれる。   瑞穂が足をばたばたさせる。 咲「どうして、そう、うまくいかないと怒る  の?」 瑞穂「だって、瑞穂がおひめさまだから」   咲が半分あきれた顔で瑞穂を見る。 咲「誰が言ったの?」 瑞穂「ママ」 咲「・・?(なんだそりゃという表情)」 瑞穂「この前、瑞穂のお誕生日だったの」 咲「・・そうだったの(噴出して笑う)」 瑞穂「おひめさまは、何でもできて、かわい  くなきゃいけないの」 咲「それじゃあ、どこの国のお姫様なの」   瑞穂がしばらく考えて 瑞穂「(トタン屋根全体を手で指して)この  ところが瑞穂の国で、(下を指して)あっ  ちが家来がいるところ・・」   咲が笑って 咲「じゃあ、お姫様にしてあげるよ」 ○同・咲の部屋   白いワンピースに着替えている瑞穂が咲   の周りをうろうろしている。 咲「リボン、リボン・・」   机の周りを探している咲。 咲「無いねえ・・」   プラスティックの洋服ダンスを開ける咲。   今はもう着なくなったワンピースが何着   かかかっている。   一瞬懐かしそうな表情をする咲。 咲「この中に何かあるかも・・」   咲が中からオーガンジーのスカーフを取   り出す。 咲「これでどうかな・・」   瑞穂の頭にスカーフを回して頭のてっぺ   んにリボンになるように結わく咲。 咲「かわいいよ。見てごらん」   瑞穂に机の上の鏡を手にして見せる。 瑞穂「(笑って)おひめさまみたいー!」 咲「・・私もお姫様になろうかな」 瑞穂「やだ。やだー! 瑞穂だけ」 咲「じゃあ、家来」   タンスの中からギャザーのよったスカー   トがついた白いワンピースを取り出す咲。 ○同・トタン屋根   着替えて白いワンピースを来た咲と瑞穂   がまたシャボン玉を吹いている。   二人でかわるがわる吹くので沢山飛んで   いる。 ○咲の実家の前   果樹園の方から家の前の通りを、自転車   に乗った川島渉(19)が来る。   洗いざらしたTシャツにジーンズを着て、   コンバースのスニーカーを履いている。   自転車のカゴに回覧版。   顔を上げると、トタン屋根の上でシャボ   ン玉を吹いている咲と瑞穂が目に入る。   透き通るような咲の肌、華奢な肩、ふん   わりしたワンピース。   渉の目が奪われる。 ○咲の実家・トタン屋根   咲が家の前に来る自転車に気がつく。   瑞穂はシャボン玉に夢中になっている。   シャボン玉の手を止める咲。   ちょっときまり悪い表情になる。   玄関の前で渉が自転車を停めて、咲を見   上げる。 渉「すみません、川島ですけど、回覧版です」 咲「・・玄関の脇に置いといてくれる?」   渉が玄関脇の植木鉢の前に回覧版を置く。 咲「(渉に)ありがとう」 渉「・・(咲に何か言おうとする)」   咲が渉の言うことを聞こうと、見つめて   しまう。   渉がどきどきしてしまう。 渉「渡辺さんの家の人ですか?」 咲「ええ・・高校出て、すぐ東京に行っちゃ  ったから・・たまに、一年に何回もないけ  ど・・帰ってくるの」   またシャボン玉を吹こうと液にストロー   を入れる咲。 渉「そうだったんですか・・」 咲「知らなかった?」 渉「はい・・」 咲「今、いくつ?」 渉「・・19です」 咲「じゃあ・・私が東京行ったの・・あなた  が3つになったくらいかな・・覚えてるわ  けないよね(笑う)」   咲がまたシャボン玉を吹く。   咲を見上げたままの渉。 ○同・台所   回覧版を持って台所に入ってきた咲。   和枝が水を張ったたらいにつけた梅の   実の一つ一つヘタをとって、ざるにあ   げている。 咲「(和枝の横に来て)回覧版だよ」 和枝「ありがと・・(咲の格好に驚く)どう  したの? その格好?」 咲「・・まだ着られるかな?って思って・・」 和枝「・・お前、もうおばさんでしょ(噴出  す)・・でもまだいけるかな?」 咲「・・やっぱり似合わないよねえ・・」 和枝「縫い直してあげたら、持ってく?」 咲「さすがに無理だと思うよ」 和枝「(スカート部分をつまんで)ここで、  ダーツを取ってみればいけるかも・・」 咲「いいよ別に・・(笑う)」 ○同・居間   朝着ていた服に着替えた咲が、ワンピー   スのままの瑞穂と一緒に桃を食べている。   和枝がお茶を持って来る。 和枝「あの、回覧版持ってきた渉くんていう  子、変ってんだよ」 咲「何やってる子なの?」 和枝「浪人生なんだけど、あの子ね、お前と  同じ高校なんだよ。頭いいの。医学部受か  ったんだよ。山口大学だよ。国立でしょ」 咲「そうだよ」 和枝「なのにね、行かなかったんだよ」 咲「・・もったいないねえ・・」 和枝「で、予備校に行くわけでもなく、ずっ  と家に閉じこもって勉強したり本読んだり  してるんだと」 咲「そうなの・・」 和枝「あの子のお母さん、いつも深刻な顔し  てるよ。今日なんか外出てるの珍しいよ」 ○同・風呂場(夕方)   咲が椅子に座り、シャワーを浴びて髪の   毛を洗っている。   お風呂にはお湯が張ってある。   いきなりドアが開き、瑞穂が入って来る。 瑞穂「一緒に入ろ」   はっとして、お腹を手拭いで隠す咲。   瑞穂がいきなり浴槽に入る。   ボチャンと水しぶきがあがる。 瑞穂「おふろから出たら、またおひめさまや  っていい?」 咲「もう、明日にしなよ。今日はパジャマ着  てもう寝るの」 瑞穂「ママに教わったの」   瑞穂が浴槽脇にある石鹸を泡立てた後、   手を組んで親指と人差し指が輪になった   ところにできた石鹸の膜をふうっと吹く。   シャボン玉ができそうになるが、すぐ割   れる。 瑞穂「なかなかうまくいかない・・」 咲「どれどれ・・」 咲がやってみる。シャボン玉が一つ浮か   ぶ。 瑞穂「おばちゃん、それムカデにさされたの  ?」   咲がはっとする。お腹の上の手拭いがず   れている。慌てて直す咲。 瑞穂「あのね、この間、バアバと温泉行った  の。そしたらね、そこにおともだちがいた  んだけど、足にムカデのあとがあったの」 咲「・・」 瑞穂「痛かったの?」 咲「・・うん」 瑞穂「おともだちも痛かったって言ってた。  寝てたとき痛いと思って目が覚めたら、ム  カデが歩いていたんだって」 ○同・咲の部屋(咲の夢・夜)   咲がベッドで寝ている。   一匹のムカデが咲のパジャマの上を這っ   ている。   携帯電話の呼び出し音がする。   飛び起きる咲。   目の前にいる真っ赤なムカデに驚く咲。 咲「ひゃあーっ」 ○同・咲の部屋(夜)   飛び起きる咲。 咲「(目をこすりながら)夢か・・」   鳴り続けている机の上の携帯電話。   咲が手に取り、 咲「もしもし・・」 千春の声「あ、もしかして寝てた?」 ○咲の会社・オフィス(夜)   パソコンの前で腕組みしながら電話して   いる千春。   残業している同僚が何人かいる。 千春「悪いんだけど、そこにパソコンある?」 咲の声「・・ない」 千春「マジ? 急なんだけど、咲以外にここ  のプログラムできる人いないと思ってさ。  ちょっと頼みたかった・・」 咲の声「いつまでやらなきゃいけないの?」 千春「金曜までには、上がってないとまずい。  月曜にお客さんの工場に持ってくんだって」 ○咲の実家・咲の部屋(夜)   咲がベッドに腰掛け、電話をかけている。 咲「そうなんだ・・」 千春の声「誰か、近所でパソコンとか持って  る人いない?」 咲「・・もう、今日は遅いからだめだけど・・  聞いてみるよ」   電話を切ってまたベッドにもぐる咲。 ○同・玄関(朝)   掃除機の音が鳴り響いている。   咲が目をこすりながら、サンダルを履い   て外へ出る。 ○果樹園   桃の木の消毒をしているみのりと健二。   木には袋をかぶった桃の実がなっている。   咲がゆっくり歩きながら来る。 咲「あのさあ、ちょっと仕事で確認しなきゃ  いけないことがあるんだけど、この辺でパ  ソコン持ってる家ってある?」 健二「あんまり知らないけど・・」 みのり「学生がいるところ・・?」 ○渉の家・玄関   咲が引き戸をガラっと開ける。 咲「すみません、渡辺ですけど・・」   奥から渉が出てくる。   咲を見て一瞬驚く。 ○同・渉の部屋   渉が勉強机に座っている。   机の脇にあるパソコンを借りて、パソコ   ンの裏画面にしてデータを打ち込んでい   る咲。   咲の様子を覗き込んでいる渉。 渉「いつになったら終わるんですか?」 咲「悪い。あと一時間くらい・・」 渉「プログラムって大変なんですね・・」 咲「いやあ、受験勉強に比べれば・・」   画面を見ながら微笑む咲。 ○同 咲が作業を終えて、渉とコーヒーを飲ん   でいる。   咲が噴出して笑いながら、大声で喋って   いる。 咲「東京に出たいからって・・」 渉「マジですよ」 咲「だからって、医学部だよ・・もったいな  いよ。バカだよ・・」 渉「みんなそう言います」 咲「だって東京なんて医学部出てからだって  いくらでも行けるよ。卒業してから働く先  を探したっていいんだし・・」 渉「十代とか二十代の始めで行くからいいん  じゃないですか・・」 咲「そんなことないよ。東京なんて行ってみ  ればわかるけど、殺風景でさ、まあ公園と  かもあるけど、それだけの所だよ」 渉「だっていろんな映画だって見れるし、本  屋だってすごい大きいのがあるんでしょ」 咲「そうだけど・・ネットでだって本は買え  るよ」 渉「だったら、どうして東京にずっと住んで  いるんですか?」   咲がコップを持つ手を止める。 咲「(うつむき加減で)そりゃあ、大学出て  働く先なんて当時はそんなにこの辺には無  かったし・・。一応物理科出てるけどね、  学校の先生にはなれないと思ったの・・」 渉「そんな風には見えないけど・・」 咲「私、真面目じゃないし、人に何か教えた  り説教するほど強くて偉い人間じゃないか  ら・・」 渉「・・(咲を見つめる)」 咲「それにね、糸の切れた風船みたいなもの  で一度家から出ちゃうと、それっきりで、  帰れないような気がしてね・・」 渉「今、帰ってきてるじゃないですか・・」 咲「・・う〜ん。この辺の女の人って、だい  たい学校出てから、この辺で就職して・・  結婚して・・子供産んで・・そういうのが  できなかったの・・器用じゃないし・・」 渉「・・」 咲「ごめんね。私の話 しちゃって・・」   渉が咲を見つめて言う。 渉「どうして・・できないって思うんですか  ?」 咲「・・(一瞬はっとする)」 渉「今からだって、できるかもしれないじゃ  ないですか・・」 咲「(笑って)そう?」 渉「(考えながら)俺・・自分がよくなりた  いっていうか・・そう思ってるし・・」 咲「いいなあ・・若者は・・」   咲が渉を見つめて微笑む。 渉「・・(何て返したらいいのか戸惑った感  じ)」   咲がコーヒーを飲み干す。 ○果樹園沿いの道   咲と渉がゆっくり歩いている。 渉「あそこでよくシャボン玉とかやってるん  ですか?」 咲「そうでもないけど・・姪っ子がまだ幼稚  園に行ってなくてね。私が物珍しいから遊  びをせがまれてね・・」 渉「見たとき、びっくりした・・」 咲「・・?」 渉「・・(綺麗だったからと言えなくて、ど  きどきする)」 咲「そうよねえ・・中年がひらひらしたの着  て・・まさか誰かに見られるとは思わなか  ったから・・恥かしかったんだけど」   言ってから大笑いする咲。 渉「そんなに年が入っているとは思わなかっ  た。二十代に見えた・・」 咲「(苦笑いして)『年が入っている』って、  そこまで正直に言わなくても・・」 渉「いえ・・そんなんじゃなくて・・」 咲「いいんだよ。ほんとだもん」   渉に微笑む咲。 ○咲の実家・台所(夕方)   咲とみのりが夕食の支度をしている。   咲が芋を切り、みのりがてんぷらを揚げ   ている。   後ろの方で、テーブルに座って瑞穂が絵   を描いたりして遊んでいる。 みのり「お姉ちゃん、何かうれしそう」 咲「そう?」 みのり「ねえ、このままずっとここにいなよ」 咲「・・(みのりを見る)」 みのり「瑞穂だって、なついているよ」 咲「そうだねえ・・」 みのり「今日だって、せっかく帰ってきてる  のに、よそ様のパソコンまで借りてきて仕  事するのおかしいよ・・」 咲「それが当たり前なんだよ。企業に勤める  と自分の都合だけってわけにはね・・」 みのり「・・」   和枝が二人の会話を台所の入口の陰でそ   っと聞いている。 ○同・居間(夜)   和枝が咲のワンピースのウエストの切り   替え部分を目打ちでほどいている。 ○咲の実家前(夜)   家の一階は全部雨戸が閉まっているが、   二階の咲の部屋の窓はガラス戸のままで   灯りがついている。   渉が歩いて庭に入って来る。   ジーンズのポケットから封筒を取り出し   持ってきていたガムテープをつける。   そして、屋根につかまりぶら下がる。 ○咲の実家・トタン屋根(夜)   渉の手が、ポンと屋根の端っこに封筒を   貼り付ける。 ○同・居間(夜)   縫い物をしている和枝がポンという屋根   が叩きつけられた音にびっくりする。 ○同・咲の部屋(夜)   ベッドに寝転んで週刊誌を読んでいる咲。   和枝が入って来る。 和枝「ねえ、今屋根にポンと何か当ったよう  な大きい音がしてたんだけど」 咲「そういえば、音がしたような・・」 和枝「下にいたけど、結構大きい音だったよ」   咲がガラス窓を開けて 咲「どれどれ・・」   果樹園沿いの道を自転車のライトが流れ   ていくのが見える。   咲が屋根の上にガムテープで貼られた封   筒に気がつく。 咲「(振り返って和枝に)何でもないわよ」 和枝「何かと思ったよ・・」   部屋を出て行く和枝。   窓からそおっと屋根に降り、封筒をはが   す咲。 ○同・トタン屋根(夜)   窓枠に腰掛け、部屋の明かりで渉からの   手紙を読む咲。 渉の手紙「今日は、いろいろお話できて楽し  かったです。明日、時間がよければ映画を  見に行きませんか? 川島渉」   手紙から目を離し、渉の家の方を見つめ   る咲。思わず嬉しくなって笑顔になる。 咲「やった!」   手紙を封筒に戻し、ポケットに突っ込ん   で部屋に戻る咲。 ○同・子供部屋(咲の部屋の隣)   みのりが瑞穂に絵本をよんでいる。 みのり「桃太郎は、たくさんの宝物を持って  村に帰ってきましたとさ」   もうぐっすり寝ている瑞穂。   隣の咲の部屋から携帯電話の着メロがか   すかに聞こえてくる。   無視するみのり。   だが、着メロがなかなか終わらない。 ○同・台所(夜)   咲が渉からの手紙を読みながらレモンテ   ィーを飲んでいる。   みのりがバタバタ足音させて入ってくる。   急いで手紙をしまう咲。 みのり「おねえちゃん、電話あったよ。着メ  ロ長かったよ・・」   みのりの方を振り返る咲。 ○同・咲の部屋(夜)   携帯電話の着メロはもう鳴っていない。   履歴から電話する咲。 咲「今、電話した?」 ○咲の会社・オフィス(夜)   咲と電話している千春。   仕事をしている同僚達。 千春「した」 咲の声「またトラブル?」 千春「もしよかったら明日かあさって帰って  きてくれない? 課長がいないの」 ○咲の実家・咲の部屋(夜)   咲が憂鬱な表情をしている。 咲「身体壊したの?」 ○咲の会社・オフィス(夜)   千春が小声で話している。 千春「無断欠勤だよ。今朝来ないから、家と  か携帯に電話したんだけど出ないんだ・・」 咲の声「わかった」 ○咲の実家・咲の部屋(夜)   咲が電話を切る。   どうしたんだろう。という表情。 ○同・台所(翌日・朝)   和枝、みのり、健二、瑞穂が揃って朝御   飯を食べている。   そこへ咲が入って来る。自分でお茶碗に   御飯をよそってからテーブルにつく。 咲「(大声で)いただきまーす」   と言って口と箸をしゃかしゃか動かして   御飯を食べだす咲。 和枝「お前、帰るのは淋しくないのかい?」 咲「やけくそなの! ちっとも休めないんだ  から」 瑞穂「おばちゃん、帰っちゃうの?」   瑞穂が箸を止めて、咲を見る。 咲「そう。昨日会社の友達が帰ってこい。だ  って」   瑞穂が口の中のご飯つぶを飛ばしながら   泣き出す。 瑞穂「今度いつ帰ってくるの?」 咲「お盆は無理だけど、正月か・・」   瑞穂が更に大きい声で泣き出す。   みのりが瑞穂をあやす。 みのり「おばちゃん、また来るから・・ね、  あんまり泣いてると来てくれなくなっちゃ  うよ」   更に大きな声で泣きわめく瑞穂。 みのり「うるさいよ。瑞穂!」 ○同・玄関   咲がボストンバッグを持って実家を出る。   みんなが外まで出てきて見送る。   みのりに抱っこされて、淋しそうな瑞穂。 瑞穂「おばちゃん、バイバイ・・」   咲が笑顔で手を振り返す。 ○渉の家の近くの道路   果樹園沿いを、咲がボストンバッグを持   ってゆっくり歩いている。 ○渉の家・渉の部屋   窓辺で、咲が通らないかとぼうっと見て   いる渉。   咲が歩いてきた。   急いで外へ出て行く渉。 ○渉の家の近くの道路   咲を追いかけて走っていく渉。 渉「渡辺さん・・」   咲がはっとして立ち止まって振り返る。   渉が息を切らして咲に向ってくる。 咲「せっかく誘ってくれたのに・・帰らなき  ゃいけなくなっちゃってごめんね」 渉「・・もし・・僕が東京に出るときがあっ  たら会ってくれますか?」 咲「いいよ・・」 と言ったが、一瞬、ためらいがちな表情   になる咲。   咲がバッグから、ボールペンを取り出す。 咲「紙がないから、悪いけど・・」   渉の手に電話番号をボールペンで書く咲。 咲「大学に受かったら電話して。お祝いする   から」 渉「はい・・(頷く)」   咲がバッグを持って 咲「じゃあ、ちゃんと勉強するんだよ」   咲がバス停に向って歩き出す。   姿が見えなくなるまで咲を見送る渉。 ○岡山駅・新幹線ホーム   やつれた表情で新幹線を待っている咲。   しばらくして、のぞみ号がホームに入っ   てくる。 ○咲のマンション・廊下〜玄関(夕方)   ゆっくりボストンバッグを抱えて歩いて   来る咲。   力なく鍵をドアに差し込む咲。 ○同・リビング(夕方)   疲れた表情で帰ってきた咲。   留守電を確かめようと電話を見る。   一枚のファックスが出ている。   『またあとで来る』とサインペンで殴り   書きしたような字が書いてある。 ○同・寝室(夕方)   手に取ったファックスを見るが、ゴミ箱   に捨てる咲。   そしてバッグから、荷物を取り出し、整   理し始める。 ○咲の会社・ビルの入口(翌朝)   たくさんのサラリーマンに混じって出勤   する咲。   肩に、免許証を入れた筒が入っているシ   ョルダーバッグがかかっている。手には   おみやげのお菓子がはいった紙袋。   ビルの中に人が吸い込まれるように入っ   ていく。   建物の脇で、誰かがテレビのレポーター   にインタビューを受けている。 数人がカメラや照明の周りで様子を見て   いる。   目には留めるが、立ち止まったりせず、   そのままビルの中に入っていく咲。 ○同・オフィス   咲が自分の机にショルダーバッグを置き、   周りにいる同僚に挨拶する。 咲「おはようございます」   みんなうつむいている。 咲「忙しいのに、お休みしちゃってすみませ  ん。おみやげもあるから、みんな食べてね」   後から千春が、咲に耳打ちする。 千春「ちょっと、来て」   千春に腕を引っ張られていく咲。 ○同・会議室   咲と千春の二人きり。 千春「ね、知ってるでしょ?」 咲「え?」 千春「本当に知らないの?」 咲「何?(怪訝そうに)」   千春が窓辺に咲を連れて行く。   窓からはさっきのレポーターがマイクを   持って喋っている。 千春「課長、奥さんを包丁で刺したのよ」 咲「・・」 千春「今、逃げてるらしい」   と言いながらテレビのスイッチを入れる。   ワイドショーの司会者がコメンテーター   と喋っている。 千春「9時過ぎてるからもう終わっちゃった  かな・・」   テレビを消す千春。 咲「・・奥さんは死んだの?」 千春「重症らしいけど、命には別状ないって」 咲「・・」 千春「すごくヒステリックな人で、課長がず  いぶんまいっていたらしい」 咲「・・そうだったんだ・・」   言葉を飲み込むように喋る咲。 千春「・・咲、知ってるんでしょ」 咲「・・?」 千春「奥さんが、課長の浮気相手のことでカ  ッとなって最初に頭を子供の野球のバッド  で殴ったんだって」 咲「・・」 千春「(辛そうに)浮気相手って咲だったん  でしょ」 咲「・・(頷く)」 千春「レポーターが咲のことも聞きまわって  いるのよ」 咲「・・」 千春「今日は、ここにずっと隠れていて。部  長も後から来て話をすると思うけど・・」 咲「そんなこと知らなかったから・・」 千春「私も今朝、知ったの・・」   千春が出て行く。   一人取り残される咲。   また窓からレポーターの様子を見る。 ○同   部長(男・50)が煙草を吸いながら、咲   と話をしている。   窓から西日がさしている。 部長「本当に知らなかったんだね」 咲「はい・・」 部長「あの奥さんじゃ、誰でも浮気したくな  ると思うね」   部長がたばこの煙を吐き出す。 部長「前に、あいつが課長になったとき、挨  拶に来たんだ。今時、課長になったからっ  て・・しかも大人だよ。奥さんがしゃしゃ  り出て挨拶なんかするものかね・・」 咲「・・」 部長「あいつも、見かけはああだけど精神的  には弱いんだね。お前さんはいいトバッチ  リといったところだ」 咲「・・(うつむいている)」 部長「でも、犯した罪は罪だからね・・会社  も辞めなきゃなんないだろうし、刑務所に  も行かなきゃいけないし」   部長が窓の外を見る。 部長「・・いないみたいだね。もう、今日は  帰っていいよ。仕事はあるだろうが、休み  明けだし、これじゃ集中できんだろうし」 咲「すみません」 部長「人目につかないよう、送ってあげるか  ら裏口から帰って」 ○同・踊り場   防火扉を開ける部長と咲。   二人で階段を降りはじめる。   ビルの上の階から降りていくので階段が   何段も続いている。   途中、立ち止まる咲。   咲に歩いていた部長が一緒に止まる。 部長「どうした?」 咲「ごめんなさい・・」   咲がお腹の下のほうを手で抑える。   痛さで苦しい表情になって、うつむいて   しまう。   部長が気の毒そうに咲を見上げる。 ○咲のマンション・エントランス前   咲が重そうに帰ってくると、エントラン   ス脇にレポーターがマイクを持って木の   陰に隠れているのが見える。 ○マンションの駐車場   駐車場の入口から入ろうとする咲。   後から肩を突然、掴まれる。   レポーターがマイクを咲につきつける。   レポーター「渡辺さんですか?」 咲「・・(驚いている)」 レポーター「今回の事件で、犯人の逃亡を手  助けしたという報道もありますが、犯人と  接触したんですか?」 咲「・・知りません」   咲がおろおろしていると、レポーターの   後から人が走る足音が響いてくる。   一人の男性が、レポーターに向って叫ぶ。 男性「おい、こらお前、捜査妨害だ」 レポーター「は?」 男性「警察だよ。わかって言ってんのかよ」 レポーター「・・取材ですから」 男性「犯人が、もしここに来てお前がこんな  ことしてたら逃げるに決まってんだろ」 レポーター「・・」 男性「(怒鳴る調子で)早く、行けよ!」   レポーターが黙ってその場を立ち去る。   男性が咲に名刺を渡して、警察手帳を見   せる。 男性「○○警察の高原と言います。お話を伺  いたいのですが、よろしくお願いします」 ○咲のマンション・リビング   高原(37)がソファーに腰掛け、咲から   話を聞いている。 高原「本当に、今日まで何も知らなかったん  ですね」 咲「はい」 高原「手がかりは、『またあとで来る』と書  いたファックスだけなんですか?」 咲「ええ」 高原「電話とかもなかったんですか?」 咲「そうです」 高原「そんなことないでしょう・・男と女な  んだから・・」   高原がにやけて咲を見る。   不安そうな咲。 高原「こんなきれいな部屋で・・家庭も仕事  も考えないで、ただでできるんだから・・  羨ましいねえ・・」   咲がうつむく。 高原「あなた、何か彼のことで何か知ってい  ることありますか?」 咲「・・?」 高原「たとえば、趣味とか、出身とか、一緒  に行った思い出の場所とか・・」   咲がしばらく考えて 咲「北海道の人で・・こっちの大学を出て、   会社に入ったというのは知ってます」   高原がメモをとっている。 高原「北海道のどこの出身ですか?」 咲「そこまでは・・」 高原「他には?」 咲「趣味とかは知らないし、いつもここで会  っていたし・・他は、特に・・」   高原が咲を見て 高原「あなた、意外と彼のこと知らないんで  すね」 咲「(高原を見つめて)え・・?」 高原「本当に彼のこと好きだったんですか?」 咲「・・」 高原「失礼ですが・・何だかそんな風に見え  ない」   咲がうつむく。 高原「ごめんなさい。気を悪くしないで」 ○同・リビング   窓際にたたずむ高原が窓の外を見る。   咲がキッチンでお茶を入れている。 高原「(咲に)捜査に協力して下さい」   咲が高原の方を見る。 高原「彼は所持金が少ないし、突発的な犯行  だし、きっとあなたに会いに来るはずです」 咲「(キッチンから)そうでしょうか・・」 高原「会いに来るはず・・というか可能性に  かけたいんです」   咲がお茶を持って高原に出す。 高原「すみません・・」   お茶に口をつける高原。 高原「外で張り込むので、嫌だったらいいで  す。ただ、電話とか手紙とか来るかもしれ  ないので・・協力して頂くと助かります」 咲「・・」 高原「彼を・・裏切ることになります。いい  ですか?」   高原がまっすぐ咲を見つめる。   咲が突然、唇を震わす。目に涙が溢れて   くる。 咲「・・ごめんなさい・・私・・知らない人  にこんなこと言うの変なんだけど・・」   高原が申し訳なさそうに咲を見つめる。 咲「本当に、彼のこと好きかどうかなんてわ  からない・・彼の奥さんがここへ来たこと  があって、本当に辛かった・・」   咲が泣きじゃくりながら 咲「奥さんはとても怖い人で、ちょっと変っ  てて・・彼が追い詰められてるみたいで可  哀相だったけど・・私、自分だって辛くて、  彼が愚痴っているのが他人事みたいにいつ  も思えて・・周りの人には秘密だったから、  誰にも言えなくて・・」 高原「辛かったんですね・・」 咲「・・」   咲がキッチンへ戻っていく。   高原が咲の行った方を見つめる。 ○同・リビング(夜)   テレビの前でレトルトのスパゲッティー   を食べている咲。   動かす手がゆっくりしている。   テレビからバラエティ番組が流れている。   画面を見ていない咲。   電話が鳴る。 ○高原の車の中(夜)   張り込みしている高原。   電話につけた逆探知機からの音をヘッド   ホンで聞いている。 咲の声「もしもし」 和枝の声「咲、母さんびっくりしたよ。今日  警察の人が来てここに咲がいたこと確かめ  ていろいろ聞いて帰っていったけど。何か  あったのかい?」 ○咲のマンション・リビング(夜)   咲が電話で話している。 咲「上司の事件に巻き込まれちゃった」 和枝の声「巻き込まれたって・・母さんもう  生きた心地しないよ」 咲「私が何かしたわけじゃないから大丈夫」 ○咲の実家・居間(夜)   電話のコードをいじくりながら話す和枝。 和枝「近所の人にも聞いてたみたいだよ。母  さん何て言えばいいのかねえ・・」   和枝の後で瑞穂が寝転んでぬいぐるみで   遊んでいる。 ○咲のマンション・リビング(夜) 咲「関係ないから・・って言えばいいわよ」 和枝の声「関係ないって言っても警察来たし  ねえ」 咲「私が事件当日どうしていたか知りたかっ  ただけだと思うから心配しないで」 和枝の声「本当に大丈夫なの?」 ○同・寝室(明け方)   咲がベッドで寝ている。 ○同・リビング   誰もいない。   ファックスから、サインペンの走り書き   が出てくる。   『迷惑かけてすまない 会いたい』 ○同・リビング   テレビからは朝のワイドショーが流れて   いる。   テレビを見ながら、ぼうっとトーストを   食べる咲。   玄関のインターホンが鳴る。   急いで行く咲。 ○同・玄関   咲がドアを開けると高原が立っている。 咲「おはようございます」 高原「明け方ファックスが流れてきましたね」 咲「はい・・」 ○同・リビング   咲がファックスを持って見せる。 咲「これです・・」   高原がテレビのワイドショーに気がつく。   咲のマンションがモザイクをかけられて   映っている。   いきなり、テレビの電源を切る高原。 高原「しょうがねえ連中だなあ」 咲「すみません・・」 高原「こんなの見て、何になるんですか?そ  の現場にいる人のことなんてこれっぽっち  も考えてない・・捜査妨害になることだっ  てあるのになあ」 咲「・・」 高原「連中は面白おかしく垂れ流すだけの、  ただのバカだよ。これでも俺よりいい金も  らってるんだろうな・・」   表情を変えずに咲が言い捨てる。 咲「・・それが世の中・・」   高原が咲を見つめる。弾けたように笑い   出す二人。 ○咲の会社・オフィス   咲がいつも通り出勤する。 咲「おはようございます・・」   静かな同僚達。   会釈だけする者がいるが、ほとんどはう   つむいている。   後から部長が声をかける。 部長「こっちに来て」 ○同・倉庫部屋   コピー用紙や、フロッピー、文房具など   がスチール棚に並べられている。   そこの一角に一台のパソコンが備えられ   ている。 部長「これ、向こうとつながっているからこ  こでプログラムとかやって」 咲「・・(哀しそうな表情)」 部長「悪いんだけど、我慢して。まだ捕まっ  てるわけじゃないし。かと言って休んでし  まうと業務にも支障をきたすし・・」 咲「わかりました・・」   咲が座って仕事をしようとパソコンの電   源を立ち上げる。 部長「たまに、ここから備品を出庫する人が  来るから、エクセルにつけといてね」 咲「はい・・」 部長「近いうち、転勤してもらうことになる  と思う・・どこかわからないけど」 咲「・・(部長を見上げる)」 部長「その方が、これからのこととか君のキ  ャリアを考えるといいと思う。希望地は一  応聞いておくから・・」   部長が部屋を出る。 ○スーパー(夕方)   会社の帰りに買い物をする咲。   カートに野菜や乾物、鶏肉などを入れて   いく。   ふっきれて、力が抜けている表情。 ○咲のマンション・キッチン   咲ができあがった炊き込み御飯で、おに   ぎりを作っている。 ○高原の車の中(夜)   マンションの斜向いの民家脇に停車して   いる高原の車。   車に乗って張り込んでいる高原と同僚の   刑事。   二人ともぼうっとしている。   トントンとガラスを叩く音。   咲がノックしている。   ウインドウを開ける高原。 高原「どうしたんですか?」 咲「差し入れ」 高原「(戸惑い気味に)公務員ですから・・」   遠慮しようとする高原に同僚が 同僚「せっかく作ってきてくれたんだから・・  お前悪いじゃんか・・」   高原がよく見ると、咲の手作りのおにぎ   りと、味噌汁が入ったタッパがお盆にの   っている。 咲「いろいろお世話になってるから・・」 高原「気を使って頂いてすみません」   咲がその場を離れる。 高原「俺は食べない」   同僚がもう手をつけてパクパク食べてい   る。呆れ顔で同僚を見る高原。 高原「あの人には悪いけど、万が一ってこと  もあるだろ」 同僚「失礼だねえ」 高原「まあそうだけどさ・・」   高原が窓の外に目をやると、小走りする   吉田が眼に入る。   やつれてヒゲがぼうぼう伸びている顔。 高原「来たよ!」   同僚が残ったおにぎりを頬張る。 ○咲のマンション・エントランス(夜)   吉田が咲の部屋の番号を押し、インター   ホンを鳴らす。 咲の声「はい」 吉田「俺だ・・」 咲の声「課長・・」 ○同・リビング(夜)   インターホンの画面越しに吉田と話す咲。 咲「開けるよ・・」 ○咲のマンション・エントランス(夜)   エントランスの鍵がカチッと開いた音が   する。   吉田が入っていく。 ○高原の車(夜)   車から出てマンションへ向う高原と同僚。 ○咲のマンション・玄関〜室内(夜)   咲がドアを開けると、吉田が立っている。   おどおどしながら吉田を見つめる咲。 咲「ごはんが、できてるから・・」   咲が目線で部屋に上がるように促す。 吉田「(消えるような声)会いたかった・・」   いきなり咲を抱きしめ、激しく顔や身体   に唇を這わす吉田。   咲が拒もうとするが、それまでの飢えを   満たすような勢いで身体を求める吉田。   壁に咲を押し付け、乱暴にカットソーや   ブラジャーを外していく。   突然、玄関のドアが開く音がする。   手の動きが止まらない吉田。   気がついた咲の視線が玄関に向かう。   高原と同僚が、土足のまま部屋に入り込   んでこようとする。   一瞬、半裸の咲から目を反らす高原。   すぐに気を取り直して、 高原「吉田!」   放心した表情の吉田が高原を見る。   高原が吉田を後から押さえ込むと同僚が   腕に手錠をかける。   おろおろして目の前の手錠を見ている咲。 吉田「(ヒステリックに)咲、お前のこと本  当に信じてた・・」   高原が怒鳴る。 高原「お前、ふざけんなよ。この人がお前の  せいで、どれだけ迷惑したと思ってんだよ」   吉田を押さえ込んで耳元で話す高原。 高原「結婚だって、仕事だって、お前のいい  犠牲じゃねえか。今だって・・。これ以上  恥かしい思いさせていいと思ってんのかよ」   吉田がすまなさげに咲を見つめる。   うつむく咲。 高原「おい、行くよ」   吉田を急いで連れ出す高原と同僚。   玄関のドアが閉まる。   呆然とする咲。   靴の音が廊下から響く。   ぼうっとした咲。   1分ほど経過する。   突然、正気になって床にあるカットソー   を手にしてベランダの方に向う咲。 ○同・室内〜ベランダ(夜)   外から車のエンジンをふかす音が聞こえ   てくる。 カットソーに袖を通しながら慌ててガラ   ス戸を開ける咲。 高原の車が走り去っていくのを見つめて   いる。 がたがた震えている咲の足首。 ○咲の会社・倉庫部屋   昼休み。   咲と千春がコンビニ弁当を食べている。 千春「ここ、いいわね。私だったらお菓子持  ち込んで仕事しちゃうね」 咲「一日いると息がつまるよ。窓が無いから  ね」 千春「(しみじみと)このプロジェクトが終  わったら、あそこのデスクは解散だね・・」 咲「・・」 千春「咲、いつ付けで転勤になるの?」 咲「・・今月いっぱいだって聞いたけど」 千春「どこを希望したの?」 咲「マンション買っちゃったからね。あんま  り遠くはいやだね・・」   咲が食べ終わった弁当を片づける。 咲「町田に工場があるでしょ。免許貸してる  し・・。そこだったらいいかな・・プログ  ラム以外のことはあんまりよくわかんない  けど・・」 千春「私も異動になるんだ」 咲「え・・?」 千春「神奈川の営業部なんだけど。ずっとプ  ログラムばっかりで疲れちゃった。課長の  人使い荒かったから・・。しばらく脳みそ  を休めるつもり」 咲「そうなんだ・・」 千春「咲が、あんな課長とデキてるなんて思  わなかった」 咲「・・」 千春「厭味で言ってるわけじゃないんだ。咲、  人が良すぎたよ。だって何年つきあってた  の?」 咲「かれこれ、三年半・・」 千春「あっちから言ってきたんだ・・」 咲「そう」 千春「何か誘う時、強引で口がうまそうだよ」 咲「そうだねえ・・」 千春「これから、どうするの?」 咲「もう子供はできないからね・・結婚は無  理だし・・」 千春「幸せは自分で掴まなきゃだめよ。子供  を作るだけが結婚じゃない──」 咲「(千春の言葉を遮り)また、他人事だと  思って・・」 千春「私も行き遅れだからね・・そんなに他  人事でもない」   微笑む千春。 ○咲のマンション・ロビー(夜) ポストに少し厚みのある大きな封筒A4   らい)が入っている。   差出人は和枝からになっている。 ○同・リビング(夜)   咲が封筒を開けると、ワンピースをリフ   ォームしたスカートと手紙が出てくる。   手紙をひろげて読む咲。   『咲へ   テレビを見ました。咲の住んでいるマン   ションと会社が出ていたので、わかりま   した。咲が大変な人を好きだったなんて、   知りませんでした。今は、近所で咲のこ   とだと気がついている人は少ないかもし   れないです。事件が落着いたら、会社を   辞めてこっちへ帰ってきなさい』   哀しそうな顔をする咲。   スカートを広げてウエストに当ててみる。 ○咲の会社・倉庫部屋   (T)一ヵ月後   咲が相変わらず、仕事をしている。   部長が倉庫部屋に入ってきて、咲に話を   する。 部長「君の異動先は、決まらなかった・・」   咲が無言でパソコンを打っている。 部長「いろいろ手を尽したが、総務と人事の  方が・・」   言い出しにくそうな部長。 部長「現場の人間の立場が弱い会社だなあ」   咲が、突然、手を止めて 咲「いいんです」 部長「本当に申し訳ない・・」 咲「(はっきりと)私が不倫していたのだっ  ていけないんだから」   咲がはっきりしていることに、逆におろ   おろしてしまう部長。 咲「有休を消化して辞めてもいいですよね」 部長「・・(頷く)」 咲「じゃあ、やり残していることもあるし今  週一杯でいいですか?」 ○職安(日替わって)   咲が、たくさんの人達に紛れて求人票を   見ている。   ×   ×   ×   受け付けで職安の職員に失業保険の手続   きをしてもらう咲。 ○咲のマンション・キッチン   咲が不動産屋を案内している。   不動産屋は一生懸命メモをとっている。 不動産屋「きれいに使っているけど・・ここ  のところ地価もだいぶ落ちているし、少し  損をするかもしれません」 咲「いいんです。ここをなるべく早く離れた  いんで・・」 不動産屋「ここは駅から徒歩圏だし、築浅だ  から言うほど値段は落ちないと思うけど」 咲「そうですか・・」 不動産屋「マンションっていうのは、宝石と  か洋服みたいなもんでさ・・みんな同じよ  うな箱なんだけど、買う人の希望だの夢だ  のが値段に乗っかってるっていうのはある  ね」   不動産屋の話をしみじみと聞く咲。 ○同・リビング(夜)   千春が遊びに来ている。   テーブルには咲が作った料理が並べられ   ている。   二人でワインを飲んで、たわいもない話   をしている。たまに馬鹿笑いをする。   空瓶が咲の脇に一つある。 ○同・ベランダ(夜)   咲と千春が二人で酔い覚ましに風に吹か   れている。 千春「課長をここに入れるなら、私を住まわ  せてくれればよかったのにね」 咲「そうだね」 千春「でもさ、それはそれでやばかったかも」 咲「レズってた?」 千春「私はノーマルだもん」 咲「嘘!」   咲が千春の乳房を触る。 千春「(大きな声で)やめなよ」 咲「中年になる女が二人で住んでいろいろや  ってたら気持ち悪いよ」 千春「いや、課長とやってるのだって同じく  らい気色悪い」 咲「そこまで言わなくてもいいじゃない」 千春「咲が信じられん」 咲「・・」 千春「もう、あんな男のためにここも出てか  なきゃいけないなんてさあ」 咲「東京の人ってすぐ『さあ』って言うよね」 千春「うん」 咲「私、大学に入りたてのとき、『さあ』っ  て言うの慣れなかったなあ」   咲が煙草にライターで火をつける。 千春「・・もう、戻ってこないの?」 咲「うん・・実家の母が帰って来いって言う  けど、田舎だからなかなか仕事もないしね。  大阪とかに行こうかな・・って思ってる」   強い風が二人に吹き付ける。 咲「もう、部屋に戻ろうよ」   ガラス窓を開けて、部屋に戻る二人。 ○映画館(日替わって)   咲が一人でジュースを飲みながら、単館   上映の洋画を見ている。 ○デパート・地下街   ケーキ屋の行列に並んでいる咲。   順番が来てシュークリームを5つ買う咲。 ○花屋   咲が向日葵の花束を買っている。   大きな花束を楽しそうに抱える咲。 ○咲のマンション・リビング   向日葵を無造作に生けた花瓶がテーブル   置いてある。   紅茶を入れる咲。   ×  ×  ×   テーブルで紅茶を飲みながら、シューク   リームを食べる咲。   幸せそうな表情。   突然、インターホンが鳴る。   何だろう? という表情でインターホン   の受話器を取る咲。 咲「どなたですか?」   インターホンの画面に中年の男性が映っ   ている。 男性「すみません、弁護士の向井と申します」 咲「(表情を硬くし)ここじゃなくて、外で  いいですか?」 ○同・エントランス   咲がロビーから出てきて、向井(42)に   会釈する。 向井「突然伺って申し訳ありません」 咲「・・」 向井「(名刺を差し出して)私、例の事件で   被害者の吉田恭子さんの弁護をしていま   す」 咲「はあ・・」 向井「今回の件で、加害者の弁護士の方って  いらっしゃってます?」 咲「いえ」 向井「そうですか・・あなたをいざこざに巻  き込みたくないってことですね・・」 咲「そうでしょうか・・」 向井「そうだと思います」   ロビーから人が出てくる。 向井「ここでは何なので、別のところで話を  してもいいでしょうか?」 ○喫茶店   向井と咲が店の隅のテーブルで話をして   いる。 咲「それは嫌です」 向井「私もそれは無理じゃないかと本人に言  いました」 咲「私も会ったことっていうか、家に押しか  けてきたことがあるんで正直言って嫌です。  ・・(言いにくそうに)ちょっと変ってい  る人なんです。課長・・(言い直して)彼  が追い詰められてああ出ても仕方なかった  と思います」 向井「今回は、奥さんの方から、暴力を奮っ  たのでこちら側が不利というのは間違いな  いです。でも私は弁護士ですからできる限  り仕事はやらせていただきますが(笑う)」   向井がコーヒーに口をつける。 向井「どうして会いたいのかと聞いたら、事  件に巻き込んだことを謝りたいとおっしゃ  ってました」 咲「・・(本当かしらという表情)」 向井「傷の方はだいぶいいみたいで、先週に  退院したんです。ご本人も精神的にはだい  ぶ落着いています」 咲「良かったですね・・」 向井「こちらも余計な仕事・・って言うのも  ねえ・・まあ増やしたくないんですが、彼  女に根負けしました(笑う)」 咲「そうですか」 向井「考えて、もらえませんか?」 ○咲のマンション・玄関   不動産屋と新婚らしき夫婦を案内する咲。 咲「どうぞ、上がってください」   咲のあとについて入る三人。 ○同・キッチン   不動産屋が夫婦に説明する。 不動産屋「きれいに使っていらっしゃいます  から室内クリーニングをこちらでして、す  ぐに住める状態です」   うっとりと部屋を見渡す夫婦。 妻「素敵なおうちね・・」   咲が微笑ましく二人を見つめる。 ○同・リビング   衣服や、荷物をダンボールにまとめる咲。   タンスや押入れが開けっ放しになってい   る。   ダンボールが10個ほどになっている。 ○近くの駅(日替わって)   向井が改札口で待っている。   咲がやって来て会釈をする。 向井「ありがとうございます」 咲「私・・あさって東京出ちゃいますから。  もうこれで彼女の気が済むならそれでいい  と思って・・」   にっこり笑う咲。 ○吉田の家・外観   住宅地にある40坪ほどの一軒家。   家の脇のスペースには国産セダンが止ま   っていてほこりを被っている。   向井の後に歩いてついていく咲。 ○同・玄関   玄関のチャイムを押す向井。   咲は後に立っている。 向井「ごめんください。向井ですー」   ドアが小さく開く。   咲が硬くなっている。   ドアから小学校低学年の男の子=吉田の   息子、翼(8)と柴犬が一匹出てくる。   柴犬は息子の隣でしっぽをふっている。 翼「・・こんにちは」   息子が振り返って、 翼「(大きい声)お母さん、お客さんだよ」   ドアを開けて、入っていく向井。   咲は怖くて入れない。   少し、間を置いて、ゆっくり恭子が歩い   てくる。 向井「渡辺さんが、いらっしゃいました」   恭子が向井の後ろに立っている咲に目が   行く。うつむき加減の咲。 恭子「・・本当に今回はすみませんでした」 咲「・・(黙って頭を下げる)」 恭子「どうぞ上がってください」   向井が咲の方を振り返って促す。 向井「渡辺さん・・」   うつむいたまま向井の後をついて家に入   る咲。 ○同・居間〜庭   向井とソファーに座っている咲。   恭子がお茶とチーズケーキを持って入っ   てくる。 恭子「(はっきりした声で)会社も辞められ  たんですか?」 咲「はい・・」   咲と向井の前の席に恭子が腰掛ける。 恭子「(穏やかに)そうですか・・申し訳な  かったですね」   突然、柴犬が居間に入ってくる。   後を翼が追いかけてくる。   咲と向井の周りをくるくるまわって様子   をうかがう柴犬。 恭子「(息子に)大事なお話をしてるんだか  ら、タロウ連れて出てくれない?」 翼「そこに、骨があるの」  向井の座っている下から、骨型の犬用のガ  ムが落ちているのを翼が拾う。 恭子「まあ、すみません・・。散らかしっぱ  なしなのがばれちゃうわ」   恭子や柴犬のタロウからも目線が離れ、   ぼうっとしている咲。   いきなりタロウがテーブルに飛び上がり、   ティーカップをひっくり返してしまう。   咲のチーズケーキを一口で食べるタロウ。   お茶が咲の膝にこぼれる。   びっくりして我に返る咲。 恭子「ごめんなさい。(わざとらしい笑顔で)  タロちゃん、チーズ大好きなのよね〜。普  段太るからあげないんだけど・・」   咲がこぼれたお茶をバッグからハンカチ   を取り出して拭く。 恭子「すみません。今、布巾持ってきますね」   恭子を見上げられない咲。   恭子が布巾を取りにキッチンへ行く。   翼が恐る恐る咲に言う。 翼「タロウがいたずらして・・ごめんなさい」 咲「ううん・・いいのよ。かわいいワンちゃ  んね」   脇から向井が 向井「(咲に)ねえ、素直でやさしいお子さ  んでしょ。この僕ちゃんのことを思うとね  ・・私も頑張らなきゃって思うんですよ」   咲がいたわるような目をして翼を見る。 翼「タロウ、いろんなことできるんだよ」 咲「芸するの?」 翼「うん。ちょっと外へ出るから見てて・・」   翼が居間の大きなガラス窓を開けるとタ   ロウが庭へ飛び出していく。   庭の芝生がぼうぼうに伸びている。   後から、翼が靴脱ぎ石にあるサンダルを   つっかけて降りていく。   翼にまとわりついているタロウ。   咲と向井が窓のそばで立って翼を見てい   る。 翼「(犬に)お座り」   お座りするタロウ   そして翼がタロウの鼻に指さしして、円   を描くとタロウがチンチンをしながらく   るくる回りだす。咲が感心しながら翼に 咲「随分、上手に躾けたのね・・」 翼「お父さんがタロウにいろいろ教えてた・  ・」   咲が懐かしそうな顔をする。 咲「そんなことしてくれたんだ・・」 翼「お父さんがデパートで買ってくれたんだ。  な、タロウ」   突然、後から恭子が呼ぶ声がした。 恭子「すみません、先生・・ちょっと・・」 向井「(振り返って)どうしたんですか?」   咲も振り返って居間の入口に立っている   恭子の方を見る。   口の脇をひきつらせている恭子。 恭子「ちょっと書類のことで伺いたいんです  けど・・」 向井「書類?」 恭子「ええ・・(手招きをする)」   向井が恭子の方へ行く。   また、咲が翼に話しかける。 咲「お父さん、優しいんだ」 翼「・・うん」 咲「・・」 翼「もう、帰ってこないのかなあ」 咲「・・(どきっとする)」   タロウが庭の片隅にあったボロボロのテ   ニスの硬球を噛んで遊んでいる。 ○同・廊下   居間の入口の脇へ恭子が向井を促す。   恭子が書類の入った封筒を持って、向井   にいきなり文句を言い出す。 恭子「どうしてあの人は、こっちで下手に出  てるのに、ごめんなさいとか申し訳ないと  か、ウンともスンとも言わないじゃない」 向井「渡辺さんもずいぶん、ショックだった  ようですから・・まだ気持ちの整理が──」 恭子「(向井を遮り)あの人は自分が悪いな  んてこれっぽっちも思ってないんじゃない  かしら。澄ましこんだ顔して随分えげつな  い事してるくせに!」   恭子の口や目元がピクピクし始める。 恭子「どうやったら、あの人は私に頭を下げ  てくれるのかしら」 向井「どうして、また急に・・」 恭子「決着をつけたかったんです!」 向井「・・」 恭子が苦々しく居間の窓のそばにたって   いる咲を見ている。 恭子「先生は、いろいろな方を見ていらっし  ゃるから、わかっていただけると思います  からお話しますが」   向井が気まずそうな顔をしている。 恭子「私は主人に・・短大の時に、旅行先で  ──学校の友達と新島に行った時に声かけ  られて、(だんだん早口になっていく)そ  の日のうちにセックスしてそして付き合い  出して、すぐ妊娠したんです。そして」   恭子の声がだんだん大きくなっていく。 ○同・庭〜居間   咲が靴脱ぎ石に足を投げ出して、窓の縁   に腰掛けて翼とタロウが遊んでいるのを   見ている。   大きくなっていく恭子の声が嫌でも咲の   耳に入って来る。 恭子の声「学校を卒業しなきゃいけないから  子供は堕したんです。あの人優柔不断だか  ら、だからそのまま、ずるずるずるずるつ  きあって、私もあの人と別れて誰かとつき  あうと、堕した子供のことを思うんじゃな  いかと怖くて・・。卒業して一年で結婚し  たわ。私も普通の家庭が欲しかった。子供  が二人ぐらいいて。でも怖くて産めなかっ  た。あの人はちっとも私に優しくなかった。  仕事から帰っても何一つ口を聞くわけじゃ  ない。休みの日はどこかに連れて行ってく  れるわけじゃない」   咲が振り返って居間の入口の方を見る。   そおっと入口の方へ歩いていく。 ○同・廊下   ヒートアップしている恭子。   向井がひたすら聞いている。 恭子「(早口で)私は専業主婦だから、世間  じゃ気楽に見えるかもしれない。だけど孤  独だわ。学生の時の友達とは生活が違うか  ら、だんだん疎遠になるし。10年過ぎて  やっと子供が授かるまで、ずっと一人だっ  た。少しパートに出たり、図書館に行った  り、映画見たりずっと暇つぶし」   恭子が涙目になっていく。 ○同・居間〜廊下   咲が入口から少し離れたところで恭子の   話を聞いている。   翼がタロウと一緒に居間にあがってくる。   咲に尋ねる翼。 翼「あれ? お母さんとおじさんは?」   咲がどきっとして振り返るが言葉が出な   い。恭子が咲に気がつき、居間に入って   来る。恭子がまっすぐ咲を見つめる。 恭子「あなた、話を聞いていたのね!」 咲「・・いえ・・」 恭子「何から何まで本当に泥棒みたいね!」 向井「(後からやっと制するように)吉田さ  ん・・」   恭子が涙を流しながら言う。 恭子「続きを話してやるわよ! 子供がやっ  とできた。管理職にもなった。今度は新島  に行った時と同じで、会社の女の子に声を  かけ始めた。あなただけじゃないのよ。知  らなかったでしょ(引きつって笑う)あな  た運が悪いわね。本当にこんなことにまき  こまれて。あの人と付き合った人はみんな  会社を辞めたか、別の誰かと結婚してるわ。  あなただけよ。もっともそんなに簡単に人  を刺すなんてことないけど」   咲がうつむいてしまう。 向井「あの・・また・・」   咲の腕をひっぱって廊下に出る向井。 恭子「ちょっと、何なのよ。あなた弁護士で  しょ!」   向井が咲を先に玄関へ促す。 恭子「聞きなさいよ。そしてこの傷よ」  恭子が自分の着ていたカットソーをめくろ  うとする。自分の言っていることに酔いし  れて周りが見えなくなっている。   向井が構わず咲と出て行こうとする。   咲が振り返る。 咲「やめてください。お子さんが・・」   (F)居間の片隅で小さくなってタロウ   の頭を撫でている翼。 恭子「あの子はいつだって、こんな言い争い  に慣れっこだわ」   向井が咲をせかして外へ出ようとする。   慌てて靴を履く二人。   咲の目線が、靴箱の脇に置かれた金属バ   ッドに行く。   追いかけるように二人に叫ぶ恭子。 恭子「どんなに私が辛かったか、わかってほ  しかったのよ!」 ○帰り道   向井と咲が無言で歩いている。   突然、ぽつんと向井が言う。 向井「本当にすみませんでした」 咲「・・」 向井「私、騙されていました・・あの人あな  たに謝りたいって、泣いて・・って言って  もこう、大声で泣くんじゃなくて目に涙を  滲ませるっていった感じで」   咲が向井を見ずに、ぼうっと歩いている。 向井「入院中も看護婦さんを逆に気遣ってい  たりしていたそうです。・・私も精神的に  も安定しているような感じに見えました」 咲「・・」 向井「私も、仕事していて、いろいろ人には  慣れているつもりだったのですが・・今回  は被害者だったし・・こんなことになると  は・・。今まで受けてきた心の傷が大きか  ったんでしょう」 咲「(消えるような声で)そうですね・・」 向井「裁判より、あの人の今後を考えていか  ないといけないな・・」   咲が向井をチラッと見る。   向井の額から何本か流れる汗の筋。 ○咲のマンション・リビング(夜)   荷物が片付いて、殺風景な部屋。   咲が壁に寄せてまとめたダンボールの上   にタオルケットを敷いて身体を横にする。   寝付けなくて寝返りを何度かうつ。   眠れない。 ○中華料理屋(夜)   カウンター席の咲がラーメンをすすって   いる。   テレビからはお盆の帰省ラッシュの様子   のニュースが流れている。   何十キロも続く車の行列や、新幹線の待   ち行列。 ○咲が勤めていた会社・ビル前(翌日)   人が歩いていない。   夏スーツを着た咲が、ビルに入っていく。 ○ビルのロビー   誰もいないロビーを歩く咲。 咲「誰もいないねえ・・」   咲の独り言で残響がでる。 ○咲が勤めていた会社・オフィス   ほとんどの社員は休みだが、広いフロア   に数人が仕事をしている。   様子を見るとすぐに出て行く咲。 ○ビル・階段   咲が防火扉を開けて、踊り場に出る。 咲「よーし」   階段をものすごく早く降りていく咲。   早く降りることができたので、嬉しそう   な表情になっている。   足音がぱたぱた響く。   しばらくして掃除のおじさんとすれ違う。   掃除のおじさんが不思議そうに咲を見る。 ○ビルのロビー   防火扉から出てきた咲。 ○ビル前   振り返って、咲がビルを見上げる。 咲「さよなら」   そのまま歩き出す咲。   咲のほかに誰もいなくて、照り返しで真   っ白になった道路。   暑くて咲が額の汗を手で拭う。   突然、バッグの中の携帯電話が鳴る。 咲「もしもし」 渉の声「渡辺さんですか? 今東京に来てる  んです」 ○予備校・廊下   休み時間。   生徒達がジュースを飲んだり、煙草を吸   ったり喋ったりしている。   渉が隅で公衆電話を掛けている。 渉「今日で、予備校の夏期講習が終わるんで  す。今日の10時に高速バスで帰るんです  けど」 咲の声「そうなんだ・・。じゃあ・・」 渉「今日、お休みだったら、会ってもらえま  すか?」 ○ビル前   咲がちょっと淋しげな表情で 咲「うん・・授業が終わったら迎えに行くよ」   電話を切る咲。 ○予備校前   授業が終わって出てくるたくさんの予備   校生。   ロビーで待っている咲。   咲が階段から降りてきた渉に気がつく。   手を振る咲。   嬉しそうに向ってくる渉。 ○新宿御苑   大きなプラタナスの樹が何本か生えてい   る公園の歩道。   咲と渉が歩いている。 渉「大阪?」 咲「そうよ。今日でよかった。明日電話くれ  ても、もう移動中だったわね」 渉「転職先は決まったんですか?」 咲「まだだけど。うちみたいな技術職だと求  人は割とあるから向こうへ行ってゆっくり  探すつもり」   淋しそうな渉。 咲「こんなにゆっくりした夏休み久しぶり・  ・」   渉が咲を見つめる。 咲「去年はお盆に3日しか休めなかった」   咲が笑う。 ○大型書店   文芸コーナーで、咲と渉が本を物色して   いる。 咲「何が好き?」 渉「・・今、正直言ってあんまり読んでない」 咲「高校のときは?」 渉「教科書に出てるような小説とか・・笑わ  れるかもしれないけど、三国志とか・・」 咲「・・地方の進学校の生徒だねえ。ま、私  もそうだったけど(笑う)」   咲と渉が無言で辺りを見渡す。 渉「あんまりいっぱいありすぎて、何だかわ  からなくなっちゃう・・」 咲「ずっとこんなだと、それが当たり前みた  いなところがあるけど・・そうだよねえ」 ○デパートのレストラン   咲が渉に天麩羅定食をご馳走している。   お盆のせいか客もまばら。   よく食べる渉。   あまり箸の進まない咲。   渉が食べるのを微笑ましく見ている。 ○走る地下鉄車中   ドアの入口に立つ咲と渉。   真っ暗なガラス窓に二人の姿が映ってい   る。   それを嬉しそうに見つめる渉。   照れくさそうにしている咲。 ○東京タワー前(夕方)   咲が渉と歩いて来る。 咲「ここ来るの、15年ぶりくらいかな・・  東京に住んでいても、みんな意外と行かな  いんだよ(笑う)」   入っていく二人。 ○同・展望台(夕方)   日が沈んだ後で、空が薄暗い。   雲に地上の光が照り返している。   咲と渉が展望台のガラスにはりつくよう   に外を見ている。   二人の他に人がほとんどいない。 咲「あそこら辺が、私のいた会社」   渉が咲の指差す方を見る。 咲「あっちが多分渋谷。あの焼却場の煙突の  あるあたりが目黒で、あそこに温水プール  があって、よく友達と泳ぎに行った・・」   咲が懐かしそうに喋る。   咲の横顔をみる渉。   ×  ×  ×   日が落ちて、空が黒くなり始めている。   まだ外を見ている二人。   街の明りの小さな点が目立ち始めた。 咲「もう、ここから離れちゃうんだな」   渉が咲の手を取る。   そんなに大きくないけど、優しくて、し   っかりした指の渉の手。 ○東京プリンスホテル沿いの道路(夜)   並木がある、広い歩道。   脇の大きな車道にはあまり車は走ってい   ない。   手をつないだまま咲と渉が歩いている。   咲はうつむき加減で、風が吹いてくると   髪をかきあげたりしている。   二人とも、何も言わずに歩いている。   渉が突然、立ち止まる。 渉「また、会ってくれますか?」   咲が唇を震わせている。   涙をこらえている。 咲「・・私は、あなたに何もしてあげられな  い・・」 渉「(咲を見つめる)・・」 咲「(泣きそうに)・・一緒にデートしたり、  彼女らしくしてあげることは何も・・」 渉「そんな・・」 咲「ずっとつきあっている人がいて、その人  は、その人がいけないんだけど、遠い所へ  行かなくちゃいけなくなって──」   咲の目から涙があふれる。 咲「私、病気したの。大きい子宮筋腫ができ  て、子宮全部取って・・大きな傷があって  ・・あなたを・・抱いてあげられない」   渉が咲を見つめる。 咲「もっと、若かったらよかった。私がもっ  と若くて、何も人の嫌らしさとか見ること  がなくて・・身体も丈夫で・・」   渉が咲の肩を抱く。 咲「ごめんなさい・・」   渉の唇が咲の前髪に触れた。   咲にそおっと口づけをする。   咲が渉の胸で涙を流す。   咲を受け止める華奢な渉の身体。 ○高速バス・発車口(夜)   咲がバスに乗る渉を見送る。   バスの窓から、咲に手を振る渉。   咲が手を振り返しながら 咲「気をつけてね。ちゃんと勉強するんだよ」   と言う。   エンジンの音で咲の声が聞き取りにくく   て、窓を開ける渉。   もう一度 咲「気をつけてね」   にっこり微笑む咲。   バスが動き出す。   咲の方を、ずっと見ている渉。   バスが見えなくなるまで、その場に立っ   ている咲。 ○咲のマンション・エントランス(翌日)   引っ越し屋の制服を着た若い人達が、ト   ラックに咲の荷物を載せている。   様子を見ている咲。 ○走る新幹線の車中   窓際に座っている咲。   咲が窓の外の景色を見ている。   風に波打つ青い稲穂。 ○拘置所・独房(夕方)   拘留中の吉田が、職員から手紙を受け取   っている。   急いで窓の近くで封を開け、手紙を読み   始める吉田。 咲の声「お元気ですか?」 ○大阪の風景(夕方)   夕暮れの通天閣、グリコの看板や道頓堀   などの風景。 咲の声「私は、会社を辞めて、東京を出て」 ○咲の新しい職場   小さなオフィス。   咲がパソコンでプログラムを打ち込んで   いる。電話が鳴る。   近くの机の上司(男性50代)が電話に   出ている。そして 上司「咲ちゃん、お客さんから電話や」   そばの電話を取る咲。 咲の声「すぐに、転職できました。新しい職  場にも慣れ、周りもいい人達です。あなた  の下で働いていたのがたった三ヵ月ちょっ  と前のことなのに、随分、昔のことのよう  に思えます」 ○お好み焼き屋(夜)   一人で定食を食べる咲。 咲の声「いろんなことがあったけど、世の中  そんなに悪いものじゃないと思いました。  今はあなたも辛くて、いつか外に戻ったと  しても、仕事に就いたり、生活していくの  は私には想像できないほど困難なのかもし  れません」 ○道路(夜)   商店街の裏沿いの道路。   店からの明かりが道に漏れている。   自転車に乗って家に帰る咲。 咲の声「あなたには家族がいます。こじれて  しまったみたいだけど、多分、あなたを必  要としているんだと思います」 ○吉田の家・キッチン(夜)   テーブルで恭子と翼が向かい合って座っ   て夕飯をとっている。   無表情な恭子。   テーブルには豚肉の生姜焼き味噌汁とご   飯、もやしサラダがのっている。   翼が恭子にいろいろ喋りかけている。   言葉の少ない恭子。 咲の声「一度こじれて傷ついたものを取り返  すのは仕事に就くことよりもっと困難かも  しれません。簡単に元には戻らないでしょ  う。あなたは逃げたくても、答えを出さな  ければいけない責任があると思います。私  も申し訳なかったと思います」   タロウが窓の側で寝そべっている。 ○拘置所・独房(夜)   咲の手紙を読んでいる吉田。   手紙に指で強く握った皺がよっている。   目に涙を浮かべている。 咲の声「私は、元気でやってます。あなたの  幸運をお祈りいたします。お元気で。さよ  うなら」 ○咲のアパート・居間(夜)   1LDKのアパート。   テレビでは阪神戦の消化試合が中継され   ている。   窓を開け、外に向って煙草を吸っている   咲。煙の行方をぼおっと見ている。 咲「(つぶやく)帰りたいな・・」 ○咲の実家・トタン屋根からの風景   秋の空   葉が全部落ちてしまった果樹園の桃の樹   が広がっている。   咲にもらったスカーフを、ふんわり肩に   かけ、赤いワンピースを着た瑞穂がハー   モニカを吹いている。   ドレミファソラシド、ゆっくりだけど確   かに吹けるようになっている。   みのりが部屋でかけているラジカセから   ユーミンの『魔法の鏡』がかかっている。 ♪「あれが最初で最後の本当の恋だからあれ  が最初で最後の本当の恋だから」   ハーモニカを吹き終わった瑞穂が立ち上   がる。   果樹園の向こうから、回覧版を届けにや   ってくる渉。トタン屋根を見上げる渉。   瑞穂が渉に気が付く。手を振る瑞穂。   強い風が吹いた。   空に飛ばされるスカーフ。   果樹園の方へ飛んでいく。 ○果樹園・冬〜春   桃の樹を整枝するみのりと健二。   ×  ×  ×   果樹園の桃の樹が、だんだん芽吹いてい   き、つぼみをつけ花を咲かせていく。   やがて、桃の花でいっぱいになった果樹   園。 咲の声「いつか、私は、母や妹に、手術した  ことを話さなければいけないだろう。お腹  の傷の色が薄くなっていく頃には、できれ  ばいいなと思う。多分、できるだろう」 ○トタン屋根からの風景   果樹園は一面のピンク色になっている。   空が霞んでいて、陽射しが柔らかい。 咲の声「私は、また誰かを好きになれるだろ  うか・・」                おわり