シナリオ講座      一般社団法人シナリオ作家協会


     
    吉本昌弘 (シナリオ作家)

  77年、東北学院大学経済学部中退。
  80年、中村幻児監督「女子大生・危険な遊戯」
  でデビュー。テレビドラマを中心に多くのシナリオを手掛ける
  側ら、自主映画の分野でも、積極的に活動中。

  ■TV
  「シリウスの道」「法律事務所2」「夢の見つけ方教えたる」
  「相棒」「菊次郎とさき」「法律事務所〜自白の風景〜」
  「聞かせてよ 愛の言葉を」「にんげんだもの-相田みつを物語-」
  「新宿鮫・氷舞」「水戸黄門」「高原へいらっしゃい」
  「逮捕しちゃうぞ」「20歳の結婚」「青い鳥症候群」
  「黄昏流星群」「毎度ゴメンなさぁい」「もう誰も愛さない」他
  ■映画
  「女帝」「ALICE」「パ★テ★オ(劇場版)」「電影少女」
  「山田ババアに花束を」他


                            


2008年12月8日(月曜日)

ある手紙が届いた。
実家に届いた手紙なのだけれど、実家の主であったお袋が4年前に他界しているので、隣に住む姉が僕に転送してくれたものだ。

差出人は「K倉」とあった。
姉が電話でその名前を口にした時、僕の記憶のどこを探しても思い当たらず、たぶん選挙絡みか何かのダイレクトメールだろうと思った。
そして、転送されて来た封書を実際に手にしても、「K倉」が誰なのか思い出せない。

僕の名が記された宛先は、字を書くのが苦手な子供が書いたように均整が取れておらず下手クソだった。
一方、「K倉××」の差出人名はプリントされたもので、見るからに怪しい。

と、もったいぶったものの、封を開けてそれが何の目的で送られたものかが、すぐにわかった。
なんてことはない。中学のクラス会の「お知らせ」。「K倉」は僕が通っていたM中学のクラスメイトだったのだ。

K倉君、ごめん。
中学を卒業して以来だから、かれこれ35年ぶりに届いたキミからの手紙に対し、僕は失礼極まりない疑いをかけてしまった。
でも、人様のことは言えないけれど、キミの字はお世辞にも上手とは言えず、怪しすぎた…ああ、ごめん、悪気があって言ってるわけじゃなく…だけど、もう少し上手に書いた方が…いや、ごめん、もう言いません…けど、同封された案内状はパソコンで綺麗に作られたものなのに、宴会場所の地図がこれまた下手クソな手書きってのはどうよ…あ、ごめん、もうホントに何も言いません。

で、同封された案内状にプリントされた写真が↓コレ。



中学を卒業する前の「お別れ会」だったかの時、僕が台本を書いた『仁義なき戦い』だったかのパロディ劇をやった後の記念撮影。
左から2番目、白いセーターのあほガキ、いえ、お子様が「K倉」(笑)、一番右端で麦わら帽のようなウエスタン帽をかぶり、フィクサー然(どこが)としているのが僕…。
それにしても、この写真を眺めていると、今も趣味で自主映画を創っている自分はこの頃と何も変わってないんじゃないか、と思ってしまう。

この秋、撮影した自主映画のスナップが↓コレ(真ン中の赤いのが自分)。



まぁ、いいか。
でも、同級生の名前ぐらい憶えとけよ。写真を見て、顔を思い出しても名前が出て来ない人間が何人かいる…(すみません)。
クラス会は来年の正月、行われる。仕事の都合がつけば駆けつけたいけれど、まだ予定が立てられない。行けたとしたら、全員の名前が言えるようにしておかないと。

で、ここまで書いて日記になっていないことに気づく。
朝6時すぎに起床。
終日、家での作業。(途中、明日打ち合わせ予定のP氏より電話。待ち合わせ時間の変更を承諾)
夜11時すぎ、録り溜めている『刑事コロンボ』のうちの1本を観る。で、コロンボが酒を飲むシーンがないことを確認。グラスを持つけれど、彼は飲まない。
何故か。考えていたら眠くなったので就寝。



2008年12月9日(火曜日)

またヤツがいた。
うねうねとした湾曲の、髪の毛でも眉毛でもない縮れたアイツ。
トイレか浴室にいれば違和感はない。
でも、ファミレスのテーブルの上に、今回もまた堂々と鎮座していた。

「また」とか「今回も」と書いたのには理由がある。
『菊次郎とさき』のPART2を書いた時、打ち合わせに向かった製作会社の会議テーブルの上でヤツとは遭遇していた。
当然、誰のものかわからない。席について少ししてから存在に気づいた記憶がある。
確か五月か、初夏の頃。窓から入る風か、あるいは空調からの風にそよそよとあおられ、黒々とした縮れた体を気持ち良さげにしならせていた。
気がついているのは僕だけだったように思う。とても気になって気になって、打ち合わせに気持ちが入らなかった。
そのヤツが、また目の前にいる。

来年の某番組のための打ち合わせ。
僕の家の近所のファミレスに、P氏がわざわざ出向いて来てくれることになった。
その気づかいに感謝し、待ち合わせ時間より早めにファミレスへ向かった。
で、ヤツに出会った。
「季節のおすすめ品」と銘打たれた新メニューが置かれたすぐ横。
手を抜かず、ピカピカに磨きあげられたテーブルだから余計に目立つ。
払いのけてしまえば済むものを、僕は再会の感慨にふける。

何故お前はここにいる。
床に落ちていたものが舞い上がったのか。よしんばそうだとしても、それはかなりの浮力を要するわけで、相当な勢いで(例えば全力疾走で走り抜けるとかして)このテーブルの横を通過しない限りありえないんじゃないか。
では、テーブルを拭く布巾に付いていたものが取り残されてしまったのか。
ということは、厨房からお前は来たのか。テーブルを拭くために当然布巾は水切りされるだろうから、そこで?
でも、それは厨房にお前の主がいる可能性を示唆してはいないか。マズイだろう、それって。

ヤツは答える代わりに、微かにテーブルの上を滑った。
僕が火を点け、吐き出した煙草の紫煙のせいだ。
この日記用に写真に撮ろうかと思い、携帯電話を取り出した。見る人が見れば性別や年齢までわかるかもしれない。わかったところで何になるって話だ。だが、誰のものとも知れない縮れっ○を記録に残す日記があったっていいじゃないか。

メール・チェックをするふりをして、携帯を構えた。
堂々と撮ってもよさそうなものだが、どういうわけか後ろめたさがあった。
またヤツがテーブルを横滑りした。
隣のテーブルに客が来たせいだった。
新メニューの底にヤツが入り込む前に撮らないと。
アングルを考えてる暇はなかったが、縦に構えた携帯を横に持ちかえた。
ワイド画面の方はいい。何故かそう思えた。

「いや、遅れてすみません」
シャッターを切ろうとした瞬間、聞き慣れた声がした。事情を知らないP氏がニコやかに登場。
咄嗟に僕は携帯をしまい、ヤツを反射的に床に払い落として答えた。
「僕も今来たところなんですよ」

…嗚呼(ああ、と読みます)。

本日、午前5時に起床。
午後2時より、ヤツがいたファミレスにてP氏と打ち合わせ。
帰宅後、シナリオ講座事務局の久松さんへ昨日分の日記を送信。
その後、打ち合わせた原作を読み返し、おさらい。
午後9時、夕食後、テレビ「誰も知らない泣ける歌」を眺めたのち、入浴(カラスの行水)。
その後、午前零時まで机にへばりつき、煙草臭くなって入浴の意味をなくしたまま就寝。
明けて10日の午前4時起床。現在、午前5時。眠くはないが、寒い。



2008年12月10日(水曜日)

6年ほど前になるだろうか。
私的なシナリオ勉強会のメンバー全員からノートパソコンをプレゼントされた。
今でもそれはホテルなどに缶詰めになる時に使っている。
これを機にホームページを作ってみては、と言われ、あらかじめインストールされたソフトを使い、電話で教えを請いながら、なんとか作ってみた。

当初はシナリオ勉強会の連絡網としての機能を果たし、メンバー一人一人を紹介するページも作ったりしたけれど、時が経ち、HPよりもブログやSNSなどが主流になって、今では開店休業のような状態になっている。

それでも、好きで観ている自主映画の上映会の情報や、僕自身が友人たちと作った自主映画の宣伝など、間隔はまちまちだが、ブログは時おり更新している(ここで書かせていただいている日記もブログの方に載せている)。

そのブログに僕の高校時代、実家の二階に間借りをしていた「まさみちゃんのこと」を書いた。
(参照)http://yossy21.way-nifty.com/coffeetime/2008/10/post-d8b6.html

そして、お会いしたこともない「まさみちゃん」のご子息からブログにコメントが付いた。
パソコンは正直あまり好きではないけれど、こうした時、なんだか嬉しくなる。
つい最近も高校の頃の友人から10年ぶりの連絡があり、5年前には20数年ぶりに親交を新たにした友もいた。

「まさみちゃん」のブログに息子さんと娘さんからのコメントが届いたことを知った僕の姉から、「まさみちゃん」が家族に宛てた一文が届けられた。
迷った末、「まさみちゃんのこと」をもっと知って欲しくて、書くことにした。



おい、癌よ、
俺はまだ、お前に負ける訳にはいかないんだ
まだまだやりたい事も有るし
仕事も、もっと頑張って皆を少しでも楽にしてやりたいし
それと、孫達の成長する姿をもう少し見ていたいと思うし
おい、癌よ、
だから、もう少し生きさせてもらうぞ

なあ、癌よ、
俺は今、お前につかまってしまったけど
まだお前から逃げる力も有ると思う
親父の死んだ「六十九才」迄は死ねないんだ
「俺より長生きしろよ」と、親父は言っていた
だから、癌よ、
それ迄は生きさせてもらうぞ

おい、癌よ、
俺はお前に感謝しているんだ
家族や、廻りの人、皆に心配かけたけど
皆にやさしくされ、大事にされ、うれしかったよ
お前に教えられた様な気がする、やさしさとは何か
なあ、癌よ、
もうしばらく、俺と一緒に生活しようじゃないか
俺が、最後迄、お前に付合ってやるよ

亡くなる11ヶ月ほど前に書かれたものだ。
僕は今も朝を迎え、生活を背負いながら生きている。
午前4時起床。
午前5時、シナリオ講座事務局・久松さんへ日記を送信。
終日、自宅にて作業。
夜、睡魔に負け、あえなく午後11時就寝。



2008年12月11日(木曜日)


ストーリーラインを考えたり、構成(ハコ)を考える時、喫茶店をまわる。
一軒の店に約1時間から2時間粘らせてもらって、次の店に移る。
移るタイミングはキリの良いところだったり、詰まってどうしようもなくなったり、または店が混み合って来た時と、まちまちだ。

ハコ(構成)作りのために小さなノートパソコンを買おうか、と考えたこともあったけれど、いまだに手帳を使っている。
てのひらサイズのもので、一時間のドラマを考えた場合、大バコ(粗い構成)なら5ページ、小ハコ(詳細な構成)だと20ページぐらいを目安にしている。
二時間のものの場合はその倍だ。

西武新宿線の住民であるにもかかわらず、まわる喫茶店は中央線沿線が多い。
バス一本で荻窪、西荻窪、吉祥寺といった中央線沿線の街に行ける場所に住んでいるからだけれど、(中央線の)高円寺と阿佐ヶ谷に長く住んでいたという理由が一番大きい。
時おり気分転換に新宿や原宿に向かうこともあるが、やはり勝手が違う。
ただ面白いのは、まったく場違いな場所に出向くと、思わぬ思考の変化に出会う時がある。

最たるものは豊島園の中の飲茶の店。
遊園地の平日。閑散とした広い店内のカウンターに陣取って、ある仕事のハコを組んだ時は展開が面白いほど広がった。創っている話のテイストにもよると思うけれど、頭の中も遊園地になったみたいだった。(怪しまれたかもしれないが、乗り放題のフリーパスではなく入場料だけを支払って入った。フリーパスで入ったとしても、おそらく独りでアトラクションを楽しむ勇気はなかった…)

ここで、よく行く喫茶店の店名を挙げてもいいけれど、同業の方や同業になろうとしている人が出食わすのは嫌なので、あえて伏せておく。
以前、高円寺のある喫茶店で同じように構成(ハコ)を組んでいた人がいて、お互いにチラ見した経験があるから。あれは、本当に気まずい。

本日は阿佐ヶ谷A店から始まり、阿佐ヶ谷B店、西荻窪、吉祥寺と四軒のハシゴ。
阿佐ヶ谷A店は特にお気に入りで、面白いことに飲み物の持ち込みOK。
真空管を使ったステレオから耳ざわりの良い音量でクラシックが流れている。
来年春頃放送予定の、実在した刑事・平塚八兵衛さんの半生を描いた拙作『刑事一代』のハコを考えている時、ここでスメタナの「モルダウ」を流して貰い、涙がこみあげた。

↓ 喫茶店をまわる前に立ち寄った石神井公園の湧き水。
三宝池の水はここから生まれているらしい。不定期極まりないウォーキングのコースにある。



午前6時起床。
朝食後、午前8時から9時までウォーキング。
午前10時頃、ネットで頼んでおいた資料本が届く。
その後、シナリオ講座事務局・久松さんへ日記を送信し、夜7時まで喫茶店めぐり&印刷あがりの年賀状の受け取り(師走を感じる)。
伴一彦さんの『七瀬ふたたび』の最終回を見逃すが、録画予約してあったので後日拝見させて貰うことにして、入浴後、資料本やらを読んでから午前2時就寝。



2008年12月12日(金曜日)

「儲かりますか?」
「何故、プロなのに自主映画を」

よく尋ねられる。
というのもここ5年ほど、毎年一本は友人たちと自主映画を創っているからだ。
HPやブログでそのことに触れているので、いつの間にか耳に入っているんだろうと思う。
(信頼性は置いといて)ネット上の百科事典(?)「ウィキペディア」でも誰が書いてくれたのかわからないが、僕の経歴の欄に「自主映画で活動」なんて文字が並んでいる。そんな大袈裟なことなどしちゃいないので訂正しようと思ったが、面倒なので止めた(本当は訂正の仕方がわからない)。

自主映画は儲かるわけはないし、儲けようとも思っていない。
映画は観せるのを前提に創られるけれど、僕(僕ら)の場合、創る行為が楽しくてやっている。
スタッフは友人の三人。キャメラなどの役割は決まっているけれど、DVカメラのホワイトバランスすら無視し(知らないのが実情か)、照明の当て方すら知らない素人ばかり。
キャストも同様でプロの人間は一人もおらず、演技初体験の人たちばかりで始めた。
5年経った今、若干の人間を省けば、いまだに初体験ゾーンから抜け出せないでいる現状だけれど、こうした仲間と一年に一度、ワイワイやるのが愉しい。
ただ一人、曲りなりにもプロである僕が「お山の大将」気取りで遊んでるんだろう、と思う人がいるかもしれない。だが、とんでもない。確かに遊んではいるけれど、お山になど登れない。中野区の施設ホールで行う年に一度の上映会で誰よりも蒼ざめ、あたふたと逃げ出そうとしている大将などいるわけがない。

と、長々と説明するのは面倒なので、尋ねられたら「趣味で」と答えることにしている。
自主映画といっても多肢にわたり、堂々たるドキュメント映画もあれば、プロをめざす人たちの血が滲むような力作も数多くあるので、趣味と一言で片付けるのは失礼とは思うけれど、他に端的な言葉がないのでご勘弁を。

小学6年の頃、同級生の土建屋の娘が持っていた8ミリ・キャメラを借り、テレビで人気だった『スパイ大作戦』をモチーフに初めて創った自主映画。
あの時は8ミリ映写機にフィルムが絡むよくある事故が起き、クラスでの上映会は中止になったけれど、デジタルキャメラの普及とパソコンで簡単に編集ができる時代になって、再び遊び道具を手に入れた。しばらくは遊ぼうと思う。

午前6時起床。
終日、家での作業(合間を見て、シナリオ講座事務局・久松さんへ日記を送信)。
夕食は近所の蕎麦屋へ絶品のカレー南蛮を食べに出向く(だし汁とカレーの幸せな出会いに感謝。ただし、うどんをすすりあげる時、どうしても汁が胸元にはねてしまうのは何故か?)。
パーカーに付いたカレーの染み抜き後、入浴(染み抜きは成功)。
その後、零時過ぎまで仕事。煙草臭くなってまた入浴の意味をなくす。



2008年12月13日(土曜日)


似合う似合わないはおいといて、帽子をよくかぶる。
中身に反してそれなりに歳を重ねた結果、髪が薄くなったので坊主頭にしたのが何年か前の冬。大好きだった田村孟さんも坊主頭だったことを思い出し、刈ってみた。
だが、寒くて仕方がない。ニット帽をかぶった。以来、冬はニット、夏は野球帽(ベースボールキャップなどとは絶対に言わない)、ハンチングを愛用するようになった。

シナリオ講座の48期を受け持ち、その修了式だったかの時、ニット帽をかぶった僕のそばに久しぶりに会ったHさんが近づいて来られて、「ご病気ですか?」と心配そうに尋ねられた時は笑った。
Hさん、ストレートすぎ(笑)。でも、心遣いに感謝。
だが、知らない人が見たらそう思うんだろうな(ということは、やはり似合ってないのか?)。

夏の終わりに刈ったっきり、伸び放題だったので床屋に行った。
だが、ハサミに命をかけているような熟練おやじ三人組がいる店は外装工事中で入れず、黒いワンピースを身にまとい、見るからに達人然としたばあちゃんがやっている店も休みだった。
通いなれた床屋以外に入るのは、なんだか気が重い。
坊主頭なのだからどこでやって貰っても同じだけれど、何故だろう。

さっぱりしたかったので、最近できたばかりの店に入った。
行きつけの店に比べ、何もかもが新しい。椅子を倒した時、自動的に髪を洗う受け皿(?)と首をささえるY型・棒状の物が現れた時には驚いた。ああ、でも、髪を洗って貰うのは前かがみになってジャブジャブっていうのが好みだ。
なんだか物足りない。

髪の毛はさっぱりしたけれど、頭の中というと、どんよりとしたままだ。
準備がまだ足りない。旅の支度と同じように、シナリオを書く前にしておく準備。
目的地(ラストシーン)に辿り着くまでに何が必要か。何を揃えておくべきか。
寒い場所へ行くならそれなりの装備が必要だし、暑い国に行くにもふさわしい仕度がいる。
整わないまま見切り発車をすれば、途中下車して舞い戻るはめに陥る。
「えんや」と力技で乗り切った時、思わぬ収穫を得ることもあるけれど、それは賭けでしかない。

一方、踏み切りに勢いがなくなったと思う自分もいる。
以前は日帰りの軽装で日本一周の旅に出ていた。足りないものはその場で現地調達した。
単なるパワー不足か。勢いがなくなった分を、なんだかんだと理屈をこねまわし、補おうとしているようにも思える。

と書きながら、余計なことは考えずに書いちまえよ、という心の声が。まさに三重人格(笑)。

午前6時起床。
資料本に目を通した後、シナリオ講座事務局・久松さんへ日記を送信。
「(日記が)息切れしそうです」とメールしたら、「みなさん木曜日ぐらいが一番しんどいそうです」という返事をいただき、少し勇気を貰う(笑)。
お昼前に床屋へ出かけた後、家での作業。
あれこれ思い悩む(悩んでお金をいただいているのだから、悩まないと)。
しかし、午前零時すぎ、机から逃避。あえなく就寝。



2008年12月14日(日曜日)

僕の脚本家としてのスタートは新宿歌舞伎町の映画館から始まった。
ピンク映画の封切館でバイトをしながら、メモ用紙代わりに裁断されたポスターにシナリオを下書きし、家に持ち帰っては原稿用紙に書き写していた。
昭和53年から55年にかけての話だ。時給は確か450円ほどだった。

にっかつロマンポルノは観ていたが、ピンク映画は観たことがなかった。
早番のバイトを終えてから何本か観た。正直つまらなかった。これぐらいなら自分にだって書けると鼻息を荒くし、時おりバイト先の映画館に顔を出していた助監督氏に自作のシナリオを押しつけた。
助監督氏から監督にシナリオが渡り、21歳の若造が書いたシナリオの原型は跡形もなく叩き潰されて、根底から自信が揺らいだ。それでも負けたくないので食いさがり、直しに直しを重ね、結果、それがデビュー作になった。

いただいたギャラは4万円。バイト代の月額の半分だったけれど、得たものは大きかった。
ピンク映画は蔑まれた存在で、当時付き合っていた彼女にふられた。所詮はピンク映画、と逆差別した時期もあったが、書いているうちに面白くなった。
達観にはほど遠く、ピンク映画の何が悪い、という開き直りだったかもしれないが、10本、20本と書いていく間に自分が何を書きたいのかが見えてきた。

僕は恵まれていた。
それまでに習作を何本か書いてはいたが、お金を貰いながらシナリオのイロハを教わったのだ。そんな自分が偉そうにシナリオの講座を受け持つことに少なからず後ろめたさを感じつつ、しぼり込めば、教えていることは二点だけのような気がする。

一、 とにかく書くこと。
二、 書いたものを徹底的に直すこと。

一に関しては、どの講師の方もおっしゃっていると思うので耳にタコができていると思うけれど、もの書きである以上、書かないことには始まらない。「こういう話を考えてるんですよ」だけじゃ、「あ、そう」で終わりだ。
書く意志、やる気など教えられるものじゃない。今、映画館やテレビでやっている映画やドラマで満足しているなら、創る側などにまわらず観客として楽しんでいればいい。その方がずっと楽だ。でも、俺はこうしたい、私は表現したいものがある、というのなら、つべこべ言わずに書いて具現化するしかない。
二は、持論だけれど、シナリオの直しができない人はプロにはなれないと思っている。
批評家はああでもない、こうでもないと言っていればいい。でも、現場に携わる人間は違う。直しのない現場などない。
直しの要求は多肢多様に渡り、受け入れがたいものも含まれるし、理不尽な直しに付き合うことはないけれど、もっと作品を面白くしようとするものなら要求に応えるのが「仕事」だ。
一度書いたものを直す苦労は百も承知で、講座を受けている人たちには直しをさせる。
ニット帽のクソ野郎と思って貰っていい。それをバネに、直しを重ねていくうちに自分の欠点が見えてきてくれればいいだけの話だ。

午前6時起床。
終日、家での作業(途中、シナリオ講座事務局・久松さんへ日記を送信、もう一日ですよ!と励ましのメールをいただく)。
午前零時過ぎ、横になっても眠れず、アキ・カリスマキ監督『過去のない男』のDVDを観る。
何度も観た好きな映画。だが、クレイジーケンバンドの「ハワイの夜」が流れるシーン直前で記憶が途切れ、就寝。

本日でようやく僕の日記は終了。
リレーのバトンを高田宏治さんにお渡しします。
この秋、初めて高田さんにお会いした折にもお話させていただきましたが、どうにもこうにも書けずにいた昨年の夏、高田さんの『鬼龍院花子の生涯』をCS放送でたまたま再見し、骨太な構成、人物配置やそのさばき方にガツンと頭を叩かれた感じで活力をいただきました。
まだまだ映画に教わること、しきり。偶然にも、51期研修科昼間部講師の末席に座らせていただいたのも何かのご縁かもしれません。拙い文章でバトンを汚してしまいましたが、よろしくお願いします。


リレー日記TOP