シナリオ講座      一般社団法人シナリオ作家協会


     
    井上正子 (シナリオ作家)

  立教大学文学部を卒業し、鰹ャ学館入社。
  85年、シナリオ講座研修科修了。
  シナリオ作家協会主催テレビドラマ・シナリオコンクール佳作入選。
  新人映画シナリオコンクール入選を経て、脚本家に。
  50期研修科昼間部専任講師。

  ■映画   「TOMORROW/明日」「柘榴館」他
  ■TV    「老いたる父と」「温泉に行きたい」「東芝日曜劇場」
         「義父のいる風景」(芸術祭優秀賞)


                            


2008年6月16日(月曜日)

ワープロもパソコンもやらず、ついこの間まで携帯電話さえ持たなかった旧式人間の私に、とうとう、リレー日記の順番が回ってきて、ちょっとユーウツ。この間だって、総会の帰り道、二次会に向かうタクシーの中で、「ぶーぶーぶー」と、買ったばかりの携帯が鳴って、即電話に出ないとあとの録音再生のできない私は焦った。
「どこ押すの? どこ?」ととなりの向井康介さんに聞く。
「そこです。その光ってるところ!」と向井さんは赤く光っている「通話」のところを押すように教えてくれた。
そして、次の日、また電話が鳴って、今度は「メールが届きました」と画面表示。(ちなみに、私の携帯は、文字の大きい老人用。) 仕方なく『かんたんマニュアル』を探してきて、読み、操作してみる。娘からだ。
なんとかメッセージを呼び出し、ついでに超短い文章(6文字)の返事を書いてみて送った。
こう書くと、とっても簡単だったように思えるが、その返事を書くまで20分もかかっている。何度も間違えながら、やっと返事を書いたところで、しばらくすると、また、メールが入ってきた。ちょうど大伴賞の選評を書いていたときだったので、時間がもったいない。そう、娘に電話で話したが、「覚える気がないんでしょう」と、機嫌がわるい。
しかし、何回かの娘からの容赦ないメール攻撃を受けているうちに、やっと、平仮名だけの長文の返事が打てるようにはなった。まだ漢字の変換ができない。簡単な老人用の携帯のはずが、ちっとも簡単ではない。やっぱり人の声が好き。

今日月曜は、月に一度の理事会。早く終わって、5時。
「どこ行く?」まだ部屋に残っていた数人。荒井晴彦さん、加藤正人さん、白鳥あかねさん、井上淳一さん、安井国穂さん、私の6人の足は、自然と、お酒のあるところへ向かう。
「夕飯には帰る」と夫に言った私も、「今日はゼッタイに飲まない」と言っていた白鳥さんの決意も、もろくも崩れた。
荒井さんが見つけた、シナリオ会館のすぐ近くのスペインバルに行ってみることにする。でも、まだ5時過ぎなので開いていない。1時間ほど立ち飲み屋さんで時間をつぶした。膝の手術をした白鳥さんと、足のリンパ浮腫のある私は、キリンビールの空き箱を一つ貸してもらって、二人で分け合って腰掛けた。なにやら浮浪者風。でも、焼き鳥はおいしくて、6人分のサービス券ももらった。

それからスペインバルに行ってみると、ちょうど『BARに灯ともる頃』(マストロヤンニの出た映画、エットーレ・スコラ監督)となっていて、地下の細長い穴倉みたいなお店は、なかなか感じよかった。料理もおいしい。
他愛ない話で盛り上がり、爆笑また爆笑。



9時になって、私は急に今日からのブログのことを考えて気が重くなる。
地上に出て、みんなまた赤坂の路地に消えていったが、私は独り帰ってきた。
今、午前0時を回ったところ。これから一週間もたいへんだ。



2008年6月17日(火曜日)

目が覚めたら11時半。なんだかウツっぽく、やる気が全然起こらない。昔からいつもそうだ。夜はとても元気で前向きだが、朝はいろんな事が全部いやになる。「私たちは泣きながら生まれ、不満を言いながら生きて、落胆のうちに死ぬ」──そう書いていたのは誰だったかしらと、ぼんやりした頭で思い出そうとする。厭世的な気分。固有名詞が全然出てこない。
昨夜明け方まで眠れなかったので、入眠剤をのんだのがいけなかったかもしれない。目が覚めるまで、なにやらアクションの多いドラマチックな夢を見ていた。まるで「レ・ミゼラブル」のような───あれ? 原作者は誰だった? まずい!思い出さないと脳の神経細胞シナプスが死んでしまう。そうだ、ユーゴーだ。ビクトール・ユーゴーだ。ジャン・バルジャン、かわいそうだったなあ。そう言えば子供の頃、少女漫画や劇画がなかった頃、「ロミオとジュリエット」も「ハムレット」も「リア王」も、「マクべス」、「オセロ」も、みんな講談社の『少年少女世界名作全集』で読んだ。もちろん子供向けにアレンジした翻訳ものだが、それでも、骨格も構成もしっかりしていて、ドキドキしながら読んだ。何よりも人物造形がすばらしい。
ついでに「モンテ・クリスト伯」の著者も思い出す。デュマだ。アレクサンドル・デュマ。「三銃士」が大好きだった。デュマの子供は小デュマ。「椿姫」を書いた。「もし神が、人間に与えた人生を自分も生きよ、と突然言われたら、自殺することだろう」と言ったのも小デュマ。
何世紀もへだてて生きながらえる古典───いろいろ思い出してきた。大丈夫そう。これで脳の神経細胞シナプスは安泰かも・・・・・・。とりとめなくぼんやりと考えて、それから起きた。
食事して、ふとん干して、洗濯して、主婦の仕事をのろのろやって、モーツァルトを聴いて、夕方、マッサージに行く。
脚本家らしいことは、今日は何一つしなかった。



2008年6月18日(水曜日)



昼過ぎ、庭先の「ユリの花を取らないでください」と書いた小さな立て札を外した。
すでに花を切り取られた株のそばに、こんな立て札を見たご近所のNさんが、不思議そうに聞く。
「これ、何? どうしたの?」
よくわからないらしい。当然だ。
5日ほど前の夕方のことだ。夫と散歩に出ようとして外に出たら、道路がわに面した庭先のユリの花が、ごっそり切り取られていた。しかもはさみできれいに切り取ったあとが歴然。昨年も咲く直前に切っていかれた。今年こそは切られる前に私が切るのだと思っていたのに。
怒りのあまり声も出ない。はらわたが煮えくりかえった。
5株のユリの花は、覆い茂った金木犀の陰で、太陽の光をあびようとして、懸命に身を乗り出していた。今年はたくさん咲くな、とうれしくて、でもまだとても蕾が堅いので、も少し蕾がふくらんだらと、毎日待っていたのだ。
その前の晩も見たら、堅くとじていた蕾が少し膨らみ始めていた。
「そろそろ咲くな、明日、切ろう」と、不覚にも一日のばしたそのすきに、みごとにやられてしまった。どういう人物が切っていったんだろう。人の家の庭の花をはさみで切り取っていくなんて。いつもこの道を通る人に違いない。毎日見ていて、蕾の具合を見計らって、取っていったのだ。金木犀の陰でかわいそう、とかなんとか思って・・・・・・・花泥棒は泥棒じゃない、許されるんだなんて思って・・・・・・泥棒です! すごくたちが悪い!
あまりの口惜しさに、おそまきながら上記の立て札を立てた。すでに遅くて、少々マヌケだが、切り取って行った人がこれを見て、「あら、取ってはいけなかったの?」と反省してくれれば──しないか。反省しないな、そういう人は。
来年は切られる前に、立て札を立てようと決心。
このユリは「親不孝のユリ」と私がひそかに名づけているユリである。ちょうど20年前、昭和の終わる年に亡くなった私の母が、その1年前に、庭に植えていってくれたユリである。
当時は20株咲いていた。その年、博多にいた夫の父が亡くなった。その法事から帰った日に、実家の渋谷から母が泊まりに来てくれていて、少し蒸し暑い夕方、きれいに掃除をした部屋の窓辺に、ユリの花が大きな茶色のつぼにいっぱい活けて飾ってあった。
私は疲れると妙に嗅覚が動物的に敏感になる。ユリの花のにおいは強すぎた。 「あ、きもち悪い、吐きそう」と私は不機嫌に言った。「そう?」とあわてた母は、そのユリの花をどうしたのだったか・・・・・・自分の寝る部屋に持っていったのか、おばあちゃん子の娘が助け舟を出して、自分の部屋に飾ったのだったか、呵責に耐えかねる脳が記憶を消したらしく、忘れてしまった。
あくる年、母は亡くなり、翌々年には夫の母が亡くなって、三、四年の間に、夫と私は親なし子になってしまった。
庭のこのユリの花だけは、花の形は小さくなり、花数は少なくなったが、20年間、毎年、律儀に咲いてきたのに──。



2008年6月19日(木曜日)


朝8時半に起きて、10時半に予約した慶応病院に行く。今日は、昨年手術した肺ガンと、2003年に手術、治療した婦人科ガンの経過観察のためのCT検査の日だ。慶応病院はいつもたくさんの患者さんでごった返している。CT検査そのものは、造影剤の注射だけで、後は寝ていればよく、痛くも怖くもない。15分ほどで、あっさり、終わった。結果を聞くのは来週で、そこで再発、転移の心配がなければ、また、しばらく、半年は安心していられる。

昼前に終わったので、最上階のレストランに行く。店長さんやウエイターさんたちとはもう顔見知りなので、「今日は、お早いですね」などと挨拶された。
レストランからは神宮の森や競技場や、東京タワーが見える。いつか冬の夕暮れに来たときは、紅色の空のかなたに墨絵のような富士山が見えた。
食事を終えて、2005年の再発のときに入院していた病棟に行ってみる。「井上さん、元気そう!」と看護師さんたちが喜んでくれる。入院している患者さん達は、また、顔ぶれが新しくなっていた。
この婦人科病棟はものすごく古くて、大正時代の結核病棟みたいに、鉄の防火扉が閉まると、目の前に、細く長い廊下がずっと続く。
両側にそれぞれ、個室や二人部屋や大部屋がある。ここの二人部屋で、私は真理子さんと出会った。背の高い色白の美人で、若い頃のミア・ファーローにそっくりだった。目を細めて、いつもにこにこ笑っていた。まだ独身で、1人娘さんで、バリアフリーの建築の設計士だった。

真理子さんと私はすごく仲良しになって、治療が終わったら青山で食事しましょう、と約束した。そして、なにか新しい治療法が見つかると、お互いに情報を交換しあった。
しかし、真理子さんは半年で再発してまた入院し、今度は抗がん剤治療を試みた。そして、また退院すると、他の治療法を見つけてきては受けに行った。死ぬなどとは思ってもいなかっただろう。
免疫力をつけて、一日でも長く生きていれば、医学は日進月歩だから、かならず、直す方法が見つかると、真理子さんは信じていた。実際、ガン患者は皆、そう思って頑張っている。だから、心の奥底深くはともかく、表面上は、皆、とても明るい。
真理子さんは1年後に、ケア病棟のある別の病院で亡くなった。
最後まで新しい治療法を試す真理子さんに、もう終わりだからホスピスに入るようにとは言えなかった、とお母様から電話をいただいた。「井上さんはお孫さんもいらっしゃるけれど、真理子はまだ結婚もしていなくて・・・・・・」と言われるお母様の涙声に、返す言葉もない。
 
ガン患者には、よほどの初期のガンでないかぎり、「完治」という言葉はないのだ。治療でうまくいけば「寛解」しましたと言われる。一筋縄ではいかない厳しい病気。全ての患者に絶対的に効果のある抗ガン剤など、まだない。それだけに、安易なTV情報番組や、正面からむきあうならともかく、ガンの特効薬をモチーフにしたドラマ作りなどは、ほんとに勘弁してほしいと思う。

帰りがけにパンを買って、私の住む街の本屋さんに寄る。漫画のコーナーばかり多くなって、私がさがしたい本は見つからない。



2008年6月20日(金曜日)

ブログを書いただけで、なんだか仕事をした気になるこのごろが、怖い。月曜から、シナリオを1行も書いていない。明日は書こう。が、今日はとりあえず、3週間前から約束していたピアニストの上原麗子さんと食事をするために、新宿に行く。

上原さんとは、昨年、ウィーンの空港で出会った。
7月の初め、初期の肺ガン手術をすることになった私は、とりあえず、予定していたウィーン旅行だけはやめたくなくて、夫と二人で出かけた。
ウィーンの国際空港で、出口が分からなくなった私たちは、後ろから来た女性の二人連れに声をかけた。それが上原さんと、お嬢さんの美喜子さんだった。

上原さんは、私たちをタクシー乗り場まで案内してくださると、流暢なドイツ語で、私たちが泊まる予定のインターコンチネンタル・ホテルまでの料金を運転手に掛け合ってくれた。

お住まいの電話を伺っていたので、夜、お礼の電話を入れたら、ウィーンの街を案内してくださることになった。上原さんは、チェロとバイオリンを勉強している二人の娘さんと一緒に、ウィーンに住んでいらっしゃるのだった。ご主人もピアニストで、ドイツ古典派ロマン派のピアノ音楽の研究家で、大学教授。

あくる日、上原さんと上のお嬢さんの優美子さんに、私と夫だけでは回れなかった、ベートーベンゆかりの地などへ案内してもらった。地下鉄にバスを乗り継いで行ったところはウィーンの北のはずれのハイリゲンシュタット。ウィーンの森に続くぶどう畑がすぐ背後から始まっている郊外だった。
耳が聞こえなくなったベートーベンが、絶望して、弟にあてた遺書を書いた家がある。小さな中庭に立ったら、ちょうど夕べの教会の鐘の音が、静かに聞こえてきた。しかし、この鐘の音も、すでにその時、ベートーベンの耳には聞こえなくなっていたそうだ。
作曲家が耳が聞こえないということの絶望を、あらためて思った。

上原さんはこの3月に、娘さん二人を向こうに残して、日本へ帰ってこられたが、ご自宅は市川市の水木洋子の家の近くなのだそうだ。縁がある!
 
5時に別れて、本を探しに行く。上原さんがとても面白いと言っていた本。武満徹と小沢征爾の対談集。やはり例によって置いてない。今度、紀伊国屋に行ってみよう。
7時、夫と待ち合わせて、食事して帰る。



2008年6月21日(土曜日)


昨夜12時すぎから、ちょっとテンションが上がっていたので、直しのシナリオを20枚書いて寝た。お陰で、また今日は昼過ぎまで寝てしまって、なんのことはない、ぼーっとした頭で読み返してみたが、どうもぴたっとこない。狙いが違っている気がする。

疲れたので、ソファに横になって、ヘルマン・ヘッセの詩文集『庭仕事の愉しみ』を読む。
本の案内を見て、ずっと読みたかったのだが、出版元の草思社がつぶれて手に入らなくなった。その話を、この間、元シナリオ講座生の数人で集まってお茶をしたときに話したら、インターネットで探して手に入ったと、Sさんが送ってきてくださった。
晩年のヘッセの文章もさることながら、しわの刻まれたハンサムなヘッセの写真や、ヘッセが描いた美しい水彩画がふんだんにはいっている本なのだ。とても楽しい。何度みても飽きない。淡々とした文章は、読むたびに深い味わいを感じる。
 
夕方、小雨の中を夫と散歩にでかける。夕食の買い物をして、花屋で、濃い紫色をしたトルコキキョウを買った。紺色に近い紫。
3年前。師匠の鈴木尚之先生がガンを告知されたのが6月。ちょうど、亡くなる半年前のことだが、私はこの色のトルコキキョウを持って、先生のうちに伺った。先生は本当に花の好きな方だったが、このときも、はっとするような濃紺のトルコキキョウを見て、「ほおっ、きれい!」とおっしゃった。そして、話の合間に、ふと花に目が行くと、その度ごとに「ほおっ! きれいだ」と言われるのだった。その声が今でも耳に残っている。やはり、細い雨の降る日だった。

8時。外食続きのこのごろだったが、久し振りに家で食事を作った。



2008年6月22日(日曜日)

今日も雨。梅雨だから仕方ないか。
新聞の切抜きのファイルを見ていたら、この間、「何なの、これ!」と怒って切りぬいた紙片をみつける。
朝日新聞の社会面「ことば談話室」にのっていた話。「雰囲気」という言葉をこのごろ「フインキ」と発音する人が少なくないというのだ。
ここまでならまだいい。「読みを勘違いした人は、パソコンで正しく漢字に変換できず、「不陰気」などという珍語を生み出す。そこで、ある大手の漢字変換ソフトは、3年前から「ふいんき」の入力でも「雰囲気」が出るようにしている」というのだ。なんですか、これは!「不陰気」なんてことばがあるはずがない。どんな意味ですか。ソフト会社も、そんな珍語の入力で「雰囲気」という素敵な日本語がでるようになんてしないでくださいよ。
何、考えてるんですか! と怒っていたら、お腹がすいてきたので、雨の中を夫と15分歩いて、喫茶店『ポテリ』に行く。『ポテリ』は、小川のそばの小さな喫茶店で、店主のおっとりした陽子さんは、いつも野のはなをいっぱい、お手製の花瓶に差して、窓辺にかざってある。今日は雨なので、犬のクルミは落ち着かないでいることだろう。
生まれたばかりのクルミは、川原に捨てられて死にそうになっていたところを、陽子さんたちにたすけられたので、イマでもそのトラウマがあるのか、風が吹いたり、雨が降ったり、大きな音や人の大声などに、とても敏感に反応する。ぶるぶる震えたりもする。バスケットの中で、ぬいぐるみより小さかったクルミを、陽子さんは育てた。
静かな人が好きなクルミは、私の夫や娘や、6歳になる孫を気に入っている。孫の綾はとても人見知りの子なので、初めての人に会ったときは、なかなかなじめない。1時間はじっと黙って観察している。おまけに犬が怖くて触れなかった。でも、クルミちゃんと会ったときは、1分ほどみつめあっていたが、たちまち仲良しになった。きっと同類なのに違いない。


見つめあうクルミと綾

さて、今日で私のリレー日記も終わりです。
お付き合い、ありがとうございます。なにか、普通の主婦みたいな毎日で、脚本家らしく(?)なかったですね。すみません。でも、普通に「生きる」ことがやっぱり大切と思います。
明日からは若き脚本家真辺克彦さんの登場です。真辺さんは、その外見とは似つかぬとてもナイーブな人です。私は彼がデビューする前からのお友だちですが、息子ほども年の離れた彼とともだちになったキッカケは、『ショーン・ペン』の映画です。
そのことは、いつかみなさんが「シナリオ講座」の門をたたいてこられたときに、お話しますね。
真辺さん、自分のことは棚に上げて、いつもすごく辛口映画評でごめんなさい。でも、真辺さんは、間違いなくこれからの日本映画を背負う脚本家の1人ですから、とても期待して、応援しています。皆さんもご期待ください。


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