シナリオ講座      一般社団法人シナリオ作家協会


     
    阿部桃子 (シナリオ作家)

  東京都出身。
  大学卒業後、システムエンジニア、銀行事務等を経て
  脚本家に。第17回大伴昌司賞受賞。

  テレビ:「巷説百物語 飛縁魔」(共同脚本)
  教育映画:「真夏のE♭」(共同脚本)、「ビタミン・愛」
  舞台:「最後の道艸」(朗読劇)
  CD:「俊寛」(ラジオドラマ)


                            


2010年4月20日(月曜日)

ドンドンドン。
二世帯住宅の我が家は二階にあるのだが、外からは判らぬ内部のドアがあり、両家の合意を以て両方から鍵を開けると通れる“理性の通路”がある。
今朝10時を15分も過ぎた頃だろうか――その通路のドアを叩く激しい音。いつもの事である。
用件の大方は「話がある」という言葉から始まるお小言や愚痴の類、残りは「(何もしていないのに)携帯が変だから直して」というようなルーチン・依頼とモノの受け渡し。
この環境に住んで12年になるが、未だにその音が前者か後者か察することができず、叩く音がしたり、階段をおりた所で「ちょっと」とドア越しに声を掛けられると、胃や心臓がギュッとなる思いがする。
私が急死するようなことがあるとするならば、それはもうすぐ一階に着くという階段の下から三段目辺りかしらとまで思える。

この道を志したばかりの時、先輩から教えられたシナリオライターに必須の資質とは“胃袋が丈夫な事”。
なるほど言い得て妙というもので、実際に生業としてからはそれは確かな事と実感している。
物理的にも、精神的にも、胃が丈夫でないと務まらない。
幸いな事に、私は家に居ながらにして胃を鍛えられる環境にいる。
それと妄想力。想像力以上のモノが必要と私は思う。

そんな偉そうな事を言っておきながら、今朝のニュースには驚いた。
私の想像、いや、妄想すら及ばないブラボーな出来事!
イギリスのオーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」に出演したスーザン・ボイルさんのニュースだ。
その容貌もスタイルも、歌手を目指しているというには余りにもあか抜けない。
全く期待していない素振りの審査員が彼女に訊ねる。
「お幾つですか?」
「47歳……だけど、そんなの、私のほんの一面にしかすぎないわ」
そう笑った彼女を、審査員も観客も“痛いオバサン”としか見ていない様子。
それが彼女がひと度歌いだすと表情が一変。
奇跡の歌声に、観客からは歓声が上がり、立って拍手を送る審査員まで出る事態に。
なんとも小気味よいニュースではないか。
歳をくってデビューした私としては、そのくらい意表をついてみたいものだと思った。


……等と脱線している場合ではない。
しまった、一階から呼ばれていたのだった。
獅子座の母は女王様体質、早く応じないとヘソを曲げる。
慌ててドアを開けると、待ちかねた母が顔を出す。
「今日は××(近所のスーパー)で立派な苺が1パック150円よ!」
ホッ。お小言ではなかった……
数に限りがあるとせき立てられて、数分後には自転車を駆ってかのスーパーへ。
苺2パックと、自転車の前かご一杯の野菜を買っても千円という戦利品の山にホクホクの私。
階段の下三段の事など、もうすっかり頭から消えていた。

シナリオライターを目指す方に必須の資質がもう一つある事を付け加えておく。
それは“忘却力”。
どんなに嫌な事があったとしても、それを忘れる才能さえあれば、次にイケると私は思う。
それをボケと言う人には言わせておけばイイ。
明日は明日の風が吹く……はず。



2010年4月21日(火曜日)

「皆……死んでくれ!」
と叫ぶ大男。手には武器! アナタは逃げ出す? それとも?


十代に教室で学んだ事の多くは、既に忘却の彼方である。
とは言え、唯一の例外は中学の古文の授業。
国語の先生達の手作りの教科書は、色々な古文書のオイシイところばかりを集めたまるでグラビア雑誌のような豪華さだったからだ。
中でも“義家・貞任連歌のこと”(古今著聞集・巻九より)は印象深い。

時は平安、前九年の役の終り頃。場所は東北の“衣川の柵(たて)”。
劣勢で城の後ろから逃れようとした敵・安倍貞任を見つけた源義家(八幡太郎)が、
卑怯な、何か言えと声をかけ、
「衣のたてはホコロビにけり」
とダメ押しをすると、貞任が機転で、
「年を経し糸の乱れの苦しさに」
とそれに先立つ上の句を返したという。
図らずも敵味方で連歌を詠んだ形になり、その場は義家も攻撃をしなかったとか。
なんとも風流で大らかなエピソードに感動したものだ。

今更ながら、NHK大河ドラマ『炎たつ』(1993年、中島丈博脚本)に夢中になっている。

DVDボックスを持つ友人から借りたのだ。
第一部の主役は藤原経清だが、貞任と経清が義家らに攻め落とされるのがラスト。
上のクダリこそ出てはこないものの、“男心に男が惚れて”というようなキャラクター設定で、互いの器量を認め合う敵同士、敵味方の板挟みでどちらにつくか苦しい胸の内など、随所で私が男泣き。

そういえば、後に貞任と同じく衣川で命を落とした源義経は、義家の子孫でもあったはず。
皮肉なものだ。
時代劇はイイ。
史実そのものがドラマティックだし、枷もいっぱい。
その時代に生きていた人など今は一人もいないのだから、妄想をふくらます隙間もある。

創作のしがいがあるジャンルだと思う。

『炎たつ』の中で、戦況厳しい中、親族や家臣達にアジ演説をする貞任のセリフ、
「(自分の為に)皆……死んでくれ!」
その武者振りに、死んでもイイと、ほんの一瞬思った。
同じ言葉でも、状況次第で感動のセリフになる。

……冒頭のセリフ、血迷った男の乱行で“逃げ出す”と考えたアナタ、残念!



2010年4月22日(水曜日)

朝起きると、抜けるような青空、真夏のような日差し。
屋根なしの車庫では、最早年配となった愛車がピカピカになっている。
昨夜、東京地方はひどい土砂降りだった。

雨は余り好きではない
……時間をかけて整えた髪が、家を出て数分で元の木阿弥になるから。
天然パーマの同士はきっと分かると思う。
でも、映像の中では別。
時にドラマティクな小道具となり、登場人物の心情を強調したり、劇的な印象に仕上げてくれる。

劇中で天候を指定するとお金や手間暇が掛かる。
ひと雨、ん百万とも聞く。
ある映画のラストシーンで、
“顔をあげる主人公。そこには雲ひとつない青空が。”
と書いたら、監督に「こんな事気軽に書くな」と言われた事がある。
心のつかえがとれた主人公が見上げた空に雲ひとつないというのは、心情を表すト書きのつもりだったが、ただの青空ならすぐに撮れる画でも、“雲ひとつない”状況を待つ事になると、ソレは手間だというのだ。

同業者には、学生時代から映画を作っていた人や、映画学校で一から勉強してきた人も多い。
彼らにしてみれば、若い脳細胞や身体で覚えた映画の知識や現場のアレコレは常識である。
三十路を過ぎて原稿用紙の書き方から習い始めた私は、その常識がない。
天候の事も、そんな事のひとつ。
監督になりたいという野望も無いから、想像が及ばないというのもある。
この際、私は恥と思わず開き直ることにしている。
知らない事は後から学べばイイ。
その代わり、私は彼らが知らない何か――例えば、過酷な現場で壊れていくシステムエンジニアや、才色兼備で評判の奥さんのダークサイドをこの目で見たり、世間から取り残された感一杯で家事や子育てをする主婦のドロドロとか、アラフォーの女性の関心事が何かとか――を知っていると思えば、別な場所で貢献できるかもしれないからだ。

映画の現場に行く機会を頂くと、私には一つ一つが新鮮。
銃撃される人物のスーツが3つも要ること――順撮りでないと先に銃撃シーンが撮影されるかもしれず、また撃たれるシーンがNGで撮り直しもあるかもしれないから。
同じ部屋が瞬時で朝にも夕方にも変わること――照明さんの業!
助監督のグーを見つめて涙を浮かべる女優さんとか、健康な身体に痛々しい銃創を作るメイクさんとか……もうワクワクしてしまう。
ライターが紙の上に書いた妄想が映像として立体化していく工程は、職人技の集大成で感激の嵐である。
そして頭が下がる。
書き手としては、やはり意味の無い描写やト書きなど書くべきではないと実感する。
言うのとヤルのじゃ大違いなのだ。
と言いつつ、機会があれば、自分で書いた豪雨のシーンを是非この目で見てみたい。

ただ、一つ気になるのは――
多くの場合、現場にシナリオライターの居場所は無いということ。
役立たずの邪魔者でしかなく、ただただ申し訳ない感じ。

誰か、“透明になれるマント”を発明して、こっそり私に売って下さい。m(__)m



2010年4月23日(木曜日)


折しも春爛漫。
目にはハナミズキの赤や白、ツツジのショッキングピンク、ところによっては蜜のような匂いに包まれながら、期待に胸をふくらませて……とある劇場へ。
演出家、演目、劇場、出演者、いずれも有名どころの舞台を観に行ったのだ。
平日の昼間というのに、席は9割埋まっている。
開演のブザーだ。さぁ、いよいよ始まる!
  ×   ×   ×
出演者のカーテンコール、華やかな舞台上は神々しいばかり。
拍手は鳴りやまないが、私はあまり積極的に拍手できなかった。。。
皆、お作法で拍手をしているの? ……本気で楽しめたのだろうか。

演者の皆さまは実に熱演だった。
しかしどうしたことか、歌うシーンになると言葉が聞き取れない。
演出上の理由からか、歌うシーンで役者の身体につけたピンマイクだけの場合と、ハンドマイクを手に歌手のように歌う場合があるのだが、ハンドマイクを手にして歌うシーンに限っては、ほとんどの場合言葉がはっきりせず外国語の歌をきいているかのよう。
折角の朗々と歌い上げる長い曲も……実に勿体ない。
集団で歌い上げるシーンでは声が揃っていないので、歌詞を聴きとるのは至難の業。
音響の関係? 
ハンドマイク向きの発声ではない? 
私の耳のせい?
ミュージカルを含め舞台はちょくちょく鑑賞するので、まさか最後の理由ではないと思うが。
言葉を使うエンターテイメントで、言葉が伝わらないのは致命傷だ。

そもそも言葉は大事である。

「いってらっしゃい。気をつけてね」
朝出かける子供に何気なくかける言葉だが、その言葉が家に帰ってくるまで子供を守るとママ友に聞いたことがある。
陰陽師の呪(しゅ)のようだが、なるほどと思った。
私は元々言霊を信じている。
だから、そうなって欲しくない事はなるべく口に出さない。
子供を叱る時も、可能な限り気をつけている。
難関中学の入試会場で知り合いに会った時も、例え相手が謙遜して自分の子は「受かりっこないワ」と言っても、私は「ご縁があるとイイのだけれど」と言葉を選んだ。
子供が反抗期で玄関から飛び出した時も、「二度と帰ってくるな!」と言いたいのをグッとこらえて、「頭、冷やしてらっしゃい」と怒鳴るのにとどめた。

言霊を信じるも信じないも、それは人の勝手だけれど、人を生かすも殺すも言葉次第というのは事実。
プラス思考とか自己暗示とかも、つきつめれば言葉の呪(しゅ)の力かもしれない。

何年も何年もシナリオやプロットを書いては玉砕という日々で自棄を起こしそうになった時、ラジオから流れてきた曲にハッとしたことがある。
その曲は、ドリカムの「何度でも」。
今では私を元気づけるテーマソングになっている。
《10000回だめで へとへとになっても 10001回目は 何か 変わるかもしれない》

やはり、言葉は大事である。



2010年4月24日(金曜日)

“大人の味”というモノがある。
若い時には少しも美味しいと感じなかったり口にしたことが無かった物が、大人になって美味しく感じ、むしろ好むようになる。
薬味の類やビールなど、誰しも一つや二つあると思う。

私にも、最近“大人の味”に参入した品がある。
クスクスである。
その前は1、2年アボカドがマイブームで、次の1、2年は無花果…
料理の仕方も覚えて、今や家族も巻き込んで我が家の定番にもなった。
で、今はクスクスをその域に引き上げようと企んでいるトコロ。

最初に出会ったのは昨年の初夏。
友人ご自慢の薔薇を愛でつつランチを御馳走になるという素敵な企画で、彼女の得意料理の一つ・クスクスを初めて口にした。
彼女は在仏経験もあり、向こうのお惣菜屋で定番のクスクスサラダを得意としている。

あまりに美味しかったので、そこでレシピも頂戴した。

ライスサラダと同じ感覚で、実際、クスクスの下ごしらえのやり方は、バターライスを作るのと同じ。
パラパラの乾燥したクスクスに少量のオリーブオイルをまぶし、水でふやかして加熱すれば出来上がり。
電子レンジを使えば1、2分で完成する気安さ!
ソコさえ押さえれば、米やパスタのように気軽に使える。
その後は、フランス風に料理してもよし、本来のチュニジアやモロッコ風にシチュー(タジン)と共に食べてもよし。
汁物にクスクスを入れて猫マンマ風に食べるのも本来のお作法らしいので、堂々とタジンにクスクスを投入したりして……
 いやぁ〜、実に美味しいのだ。
カンズリに似た辛み調味料・ハリサを入れると、さらに大人の味。
お店では、タジンが円錐形のフタ付きの食器で出てきたりして、目でも楽しい。

ここしばらくは、クスクスのマイブームが続きそうである。



2010年4月25日(土曜日)




初夏になると、決まって姑が送ってくれる荷物がある。山菜だ。
中でも、舅自ら山に入り、リュック一杯摘んでくる “こごめ”は絶品。
今年は、いつもより早く、今日届いた。
多くの地方では“こごみ”と言うシダ科の植物の幼芽で、アクはなく、アスパラやインゲンのように食す。

毎年、陽射しが強くなった頃に送られるので、うだるような宅配便屋さんの車の中でヘタっとなって届く事もままあるのだが、今日は幸い寒いくらいの陽気……活きの良い状態で届いた。

まだ新婚の頃、初めて見るこの山菜にビビったものである。
見たことも食べたこともなく、ましてや料理なんて……
電話で聞いた通りに簡単な下処理をするにも、水を張ったボールに浸したこごめは一瞬、青虫の集団に見えて手が凍る。。。
目をつぶり、エイッと手を入れて洗い、沸騰した湯で軽くゆでればお終い。
ソコさえクリアすれば、後は何の不安もなく調理できる。
お浸しで良し、胡麻和えで良し、マヨネーズをつけても良し。
料理店では天ぷらやカツオの刺身のツマとしても供される。

雨に濡れて身体は冷えたが、お陰さまで心は初夏。
舅姑に感謝の夕べである。



2010年4月26日(日曜日)

ココでだけの話だが……女王様はドMである。

外見はゴージャスで優雅、その色香で周囲の者を惑わしておきながら、
いざそのやわ肌に触れようものなら
痛い思いをさせられる。
気品ゆえの強さが、彼女をSに見せてはいるが、それは本質でないことを私は知っている。
私は彼女の執事なのだから。

彼女の名前はエブリン。
由緒正しき英国の生まれ。
薄紅色……ではなく、アプリコット色の頬と優雅な香りが素敵。
去年、友人に切り花で頂いた一輪を、花瓶の底にカスカスの水しか入れず、
枯渇しそうな状況のまま放置すること三週間余り……
それでも健気に生き続け、ついには小さな根を生やす兆候が見られた所で
土に植えると、見事根をはって秋には1輪の小さな花を咲かせた。
この春には葉も茂り、7輪もつぼみをつけている。
女王様は薔薇であらせられる。

薔薇の挿し木を成功させるコツは、
切った枝が水を吸えるか吸えないか位の状況下に放置することだという。
根づいてからは、最初の小さな花などは木で咲かせず、
2節位下からあっさり切り、苗を厳しく育て上げるのだ。

苗が大きくなっても油断はできない。
うどん粉病や各種の害虫に襲われたり、
葉が茂ると台風時の風でなぎ倒されたり……
その人生は一時の猶予も無く、波乱万丈。
それでも、折れたり駄目になったりした場所から、
また健気に新芽を再生させる姿は……紛うことなき“ドM”である。

我が家の小さな苗は、不思議と害虫には強い様子だったが、
昨秋頂いた大きな苗(ナエマという別の種類)は早速害虫の洗礼を受け、
11個もついたつぼみの内、8個までもダメになってしまった。
小さな緑色のアブラムシなら手で払う位平気で、充分退治できる。
しかし、バラゾウムシという顔(?)の長い黒ゴマ位の奴は不気味で触れず、
吹き落とすのがセイゼイだったが、
出たばかりの小さなつぼみや新芽の根元に奴らが穴を開けて産卵すると
そこから枯れてダメになるらしいと分かってからは、
そんな悠長なことはせず、見つけては指でつまんで潰す日々となった。
数週間前まで「ゲッ」と思っていた動作でも、女王様の為なら致し方あるまい。

《執事たるもの、このくらい出来ないでどうします?》

少し前から読んでいる『黒執事』の名台詞をつぶやきながら、
今日もバラゾウムシから女王様を守るパトロールに出た。
こんな強風の中、エブリンのつぼみがほころんでいる。
「女王様、よりによって今日のような日に……おいたわしゅう」
咲ききる前に2節下からバッサリと、切ってさしあげた。
だって、女王様は……ねぇ?



今日までの一週間、お付き合い下さり有難うございました。
機会があれば、次はオフラインでお目にかかりましょう。

私には、シナリオ倶楽部のお世話係という顔もあります。
折しも明日・4月27日(月)は、定例のシナリオ倶楽部の開催日。
17時より、赤坂・シナリオ会館3階で、作品鑑賞&ライターのトークがあります。
その上飲み物付きで、会費は500円。
こんな美味しい企画はありません。
シナリオ講座生をはじめとしたこの道を志す皆さんには
得難いチャンスでもあるはず。是非、いらして下さいませ。
詳しくは月刊シナリオ誌をご覧あれ。
赤坂でお待ちしております。


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